第十五話 フェリーデート

 それから土曜までのあいだ、俺は仕事をしながらずっと、所長にどんな話をすればいいのかを考えていた。

 最初に頭に浮かんだのは、この信号が一体どんな仕組みでここへ届いているのか──という疑問だった。

 けれど、もし所長が高度な物理理論を持ち出して現象を解き明かそうとしたり、あるいはさらに未知の理論へ拡張するような仮説まで口にしたら、俺には到底ついていけない。とてもじゃないが俺は何も言い返せないだろう。

 そこで次に考えたのは、信号がどこから送られてきているのか、だった。

 これなら理屈をこねる必要はないと思ったが、伝達の仕組みそのものが分からない以上、発信源なんてどうにでも想定できてしまう。そんな制約のない思い付きだけでは、ただの感想の言い合いにしかならない。

 やはり意味が生まれるのは、未知の中になにかしらの規則性を見出し、その上で空想を膨らませたときだけだ。

 自分が考える側に回ってみて、初めて分かる。所長がいつも投げかけていた話題は、絶妙なさじ加減だったのだと、しみじみ感心せずにはいられなかった。

 考えを巡らせても、中々いい案が思い浮かばず、また橘に相談してみようかとも考えたが、流石にそんなことまでお世話になるのは躊躇った。

 難しく考えすぎているのだろうか──もっと単純で面白みのあるテーマがあると思うのだが、それが思い付かないことに少しの苛立ちを覚え始めていた。


 そして、あっという間に土曜日がやってきた。

 休みとはいえ、所長はきっと今日も観測所にいる。ここ数日で、進展があったようにはまるで見えなかった。相変わらずの暑さが続く中で、無理をしていないかは気になるが、それ以上に夢中になっている所長を、止めることなどできない。

 モニターの前に座り込み、眉間に皺を寄せている姿が、目に浮かぶようだった。

 俺も、観測機器に異常でもあれば呼び出されることになるが、そんなことは滅多にない。

 代わりの人員が用意できない離島の仕事は、休日の境目は曖昧になる。それは仕方のないことで、それならばいっそ仕事を生活の一部として取り込んでしまう方が楽なんだ。そうした方が、ほどよい緊張感を抱きつつ、気を抜いて日々を過ごすことができる。そんな働き方は、法律を持ち出せば問題はあるのかもしれないが、ルールを持ち出して縛り付けられるより、このままの方が自由でいい。

 そんな休日とは言えない休日に、俺は身の回りの支度を済ませ、一度観測所に顔を出しておこうかと考えた。

 しかし、その直前に藤宮から連絡が入った。


 今、獅子島についたから迎えに来てほしい──彼女からの連絡はそんな内容だった。

 予定よりずいぶん早い到着に少し驚いたが、何か別件があるのかもと、あまり深くは考えず車を走らせた。

「こんにちは! 高梨さん、今日もよろしくお願いします」

 顔を合わせるなり、弾むような声が飛び込んできた。その特徴は紛れもなく藤宮だったが、目の前に立つ彼女は普段のスーツ姿ではなく、上品にまとめた軽やかな装いに身を包んでいて戸惑いを覚えた。

「こちらこそ。仕事でもないのに、付き合ってくれてありがとう」

 こんな他愛ない計画に乗ってくれたことが嬉しくて、自然とお礼の言葉が口をついた。

「白石所長には私もお世話になっていますから。ですが……高梨さんこそ、大丈夫ですか?

少しお疲れのように見えますけど……」

 思いがけない心配をされ、一瞬焦った。だが、言われてみれば確かに心当たりがある。

 ここ最近は仕事に加えて、データ解析の勉強を続け、所長を助けるための案をずっと考えていた。

 それに加えて、容赦なく続くこの暑さだ。多少やつれて見えたとしても、不思議ではなかった。


「俺は大丈夫だよ。少し仕事が溜まってるだけさ」

 彼女の気遣いに、肩をすくめて応えた。

「そうですか。でも、気を付けてくださいね。高梨さんが倒れでもしたら大変ですから」

 その言葉には、場の空気とは不釣り合いなほどの真剣さが滲んでいた。社交辞令に過ぎないとしても、自分を気にかけてもらえて悪い気はしない。

「でも……その様子だと、所長にどんな話をするのか、まだ決めていないんじゃないですか?」

 そんな気遣いのすぐ後に、すぐさま返ってきたのは、打って変わった鋭い一刺しだった。柔らかな笑みを浮かべながら、見事に急所を撃ち抜いた彼女に、俺は肩を落としながら笑うしかなかった。

「はは……やっぱりわかる?」

 そんな俺に、藤宮の次の一言は、思いもよらぬ方向からもっと深く突き刺さった。


「──これから、デートしません? フェリーデート」

 一瞬、聞き間違いかと思った。唐突で脈絡のないお誘いに、言葉が出ないまま固まってしまう。冗談なのか本気なのか、彼女の表情からは判断がつかない。

「気分転換したら、いい考えが浮かぶかもしれませんよ?」

 戸惑う俺に、彼女はすぐに答えを示した。からかい半分の軽い口ぶりの中に潜ませたその目的は、とても単純なものだった。

 ああ、そうか──藤宮は、俺が所長にしようとしていることと、同じことを俺にしてくれようとしているんだ。彼女なりに、こういう形で手を差し伸べてくれた。

 ──胸の奥が少し熱くなる。

 驚きと戸惑いと、それ以上の想いが綯い交ぜになって、言葉を選ぶのに時間がかかった。けれど、断る理由なんて、どこにもなかった。

「……そうだね。それもいいかもね」


 港を離れたフェリーは、白い航跡を引きながら穏やかな海を滑っていった。

 わずか二十分ほどの道のりだが、潮風に包まれると、時間の流れが少しだけ緩やかに感じられる。

 このフェリーは、島民と本土を繋ぐ唯一の足だ。だからデートと言っても、都会のクルージングの様なムードのある装飾や設備が用意されてはいない。

 だけど、その無機質なデッキからは、都会にいたのでは絶対に目にすることができない、見渡す限り群青の海と空が溶け合う景色が広がる。

 彼方に目を向けると、水平線はぼんやりと霞み、遠くには大小さまざまな島々が、墨絵のような輪郭を浮かべている。

 少し視線を戻すと、波に揺れる漁船がひとつ、ゆっくりと進む。その背後に伸びる白い航跡は、陽射しを受けて眩しく輝きながら、やがて波間に溶けて消えていった。

 足元を覗けば、深い碧の水面に船の影が揺れ、その脇を銀色の小魚の群れがきらめきながら散っていく。潮風には潮の匂いと、どこか草いきれに似た湿った香りが混じっていた。

 そして、俺の横では、藤宮が同じ海を見ている。

 獅子島で生活し、この景色に見慣れている俺でも、これが特別な価値を持っているのは分かる。

 都会では当たり前に聞こえていた喧騒は、この場所には存在しない。聞こえるのはエンジンの低い唸りと、絶え間なく寄せては砕ける波音だけだった。


 きらきらと光を弾く水面に、藤宮と一緒に照らされながら、俺はふと思い浮かんだ。

 俺たちに信号を送ってきた人たちも、こんな景色をもっているのだろうか……。

 いや──俺たち宛ての信号なのかも、人と呼べるかすらも定かではないが、彼らは一体どんな景色を見ているのだろう。

 

 海の青も、空の広さも、そもそも色や音という感覚そのものが、彼らにとってはまるで別のものなのかもしれない。

 人間が光と影を区別するように、彼らは重さや温度の移ろいを読み取っているのかもしれない。あるいは、匂いや味のような曖昧な感覚が、彼らにとっては明確な言語となり、世界を彩っているのかもしれない。

 人間の尺度では想像も及ばないような世界から、ただ手を伸ばしてきているのだとしたら──。

 一体、どんな存在なんだろう。


 その疑問に辿り着いたその時、俺は藤宮に振り向いて、ただ答えだけを口走った。

「そうだ──それを所長に聞いてみよう」

 唐突な一言に、藤宮はきょとんと目を瞬かせたかと思うと、次の瞬間、吹き出すように笑い声を立てた。

 そんな彼女の反応に、俺も照れ隠しのように笑うしかなかった。


 フェリーが着くと、俺たちはそのまま港の通りをぶらぶらと歩いた。海沿いの小さな食堂に入り、地魚を使った定食を並んで食べ、食後には売店で買ったアイスを片手に、潮の香り漂う堤防を散策した。

 藤宮は終始、無邪気な笑顔を浮かべ、時折くだらないことで声を立てて笑った。俺は胸のつかえがとれた開放感と、それを与えてくれた感謝の気持ちで、彼女の望むところにどこでも付き合った。

 そして、あっという間に時間は過ぎていった。時計を見て、約束の時間が迫っていることに気づいた俺たちは、再び港へ向かい、獅子島行きのフェリーに乗り込んだ。

 夕方に差しかかった海は、昼間よりも柔らかな光に包まれていて、潮風はどこからか甘やかさを運んでいた。



 獅子島に戻った俺と藤宮は、そのまま観測所へ足を運んだ。

 扉を開けると、そこには所長と、そして橘の姿もあった。前回のように、特に連絡もなく現れた彼女に少し驚きながらも、俺は電話のお礼と、いいアイデアが浮かんだことを伝えた。それを聞いて、彼女も笑顔を見せ、心から喜んでくれたようだった。

 ひとしきり談笑を交わし、それぞれの再会を喜んだところで、以前、二人の送別会を開いたところに皆で向かった。


 最初の乾杯は、仕事の話や近況報告の延長のように、軽くビールジョッキを打ち合わせる音から始まった。

「こちらにも噂は届いているわよ。この太陽フレアの磁場観測で、オーロラテックはすごく稼いでいるそうじゃない」

 橘は、本当にサラリーマンが言いそうな話題を、悪気なく藤宮に振っている。

「そうですねー。それでちょっとでも、私のお給料が上がればいいんですけど」

 藤宮も、相手の意図を上手く交わすように、注がれたグラスを器用に受けていた。


「いやぁ、こうして集まるのは久しぶりだね」

 所長は、ほっとしたように笑みを浮かべる。その横顔は、日々の研究に追われる姿から、今晩だけ解き放たれたように見えた。

「送別会のとき以来ですよね」

 俺は相槌を打ちながら、心のどこかで、この会の本題をどのタイミングで切り出すべきか探っていた。

 白石所長は、どんなにすごい経歴の持ち主だとしても、もう若くはない。だから、連日の猛暑が続く中で、決して無理はして欲しくない。俺に、そんな所長を支える力があるといいのだが──想いだけで前人未踏の名峰を踏破できれば、誰も苦労はしないだろう。

 せめて今は、心からくつろいでもらいたい。せっかくのこの席を、俺の話で水を差す様なことはしなくなかった。


 誰かが卓上に並べられた料理に箸を伸ばすたびに、話題も次に移り変わる。

 仕事の愚痴に笑い合い、休日の過ごし方に茶々を入れ、所長がぽろりと聞いたこともない昔話をすれば、皆で耳を傾けた。そんな、どこにでもある光景が、いつの間にか自然とこの場を満たしていた。


 そして、丁度いい頃合いかと俺が話を切り出そうとしたその矢先、一歩早く藤宮がぽつりと口にした。

「白石所長は、どうしてこの獅子島で観測所の所長をなさっているんですか?」

 それは話の流れから生まれた些細な疑問だったが、その質問に所長の空気は明らかに変化した。

「うん……。藤宮さんは、僕の経歴を御存じだと思うが……、一言で言えば──疲れてしまったのだろうね」

 所長はまるで他人事のように、自分の過去の決断を寂しげに語り出した。


「──君たちは、日本初のX線天文衛星『はくちょう』を知っているかな?」

「僕はね、ちょうどその打ち上げの年に、大学の博士課程を修了したんだ。当時の興奮は今も忘れられない。これから宇宙の多くの謎が次々に解き明かされていく──そんな期待を胸に、僕は日夜研究に没頭していた。

あの頃は、本当に未来に手が届くような気がしていたな」

 当時を懐かしむ顔には、何とも言えない笑みがこぼれた。


「──それから月日が経ち、気付いたら教授職にまで昇りつめていた。僕の研究は、分野そのものが国内ではまだ珍しかったこともあって、注目を集めた。そして、ブラックホール近傍の理論研究や、将来の観測計画への提案を通じて、国際的にも名前を知られるようになっていった」

 そう言ってグラスを揺らすと、わずかに視線を伏せる。

「……だがね、功績が認められ名が通るようになると、どういうわけか自由に研究ができなくなるんだ。

もちろん僕も子供ではないから、理屈は理解していた。高い名声には、相応しい功績が求められる。そのためには、誰にも劣らぬ研究設備を揃える必要がある」

「その設備を得るには莫大な予算が要る。予算を引き出すには、政治的な駆け引きが要る。そしてその駆け引きに勝つには、派閥を作り、人員の引き抜きが必要になる……」

 そこで口元に、苦笑とも自嘲ともつかない表情が浮かんだ。

「気がつけば、研究を進める努力よりも、研究を存続させるための根回しや説得にばかり時間を取られていた。

……それが必要な道理は理解できたが、僕にとっては重荷でしかなかった。そうすればするほど、本来の研究からは遠ざかり、追いかけていた真実は手のひらからすり抜けていく」

「そのことに、ついには耐えられなくなった……」


 そこまで語ると、所長は小さく息を吐き、少しだけ遠くを見つめた。

「結局、僕は”諦めた”のだろう。いや、“逃げた”と言った方が正しいかもしれないな。

研究の最前線から降り、この獅子島に来て……こうして、空と海を眺めながら、静かに日々を過ごす道を選んだ」

 そして、視線を戻すと、一気にビールを飲み干した。

「……。しかし──だ。どうして、こんな僕に今さら、未知からの信号などというものが送られてきたのだろう」

 口元は笑っていながら、その目には涙が浮かんでいるようにも見える。

 そんな所長に、俺はかける言葉を失っていた。

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