第八話 誕生日
──眩しい白光に顔を照らされ、目が覚めた。気がついたときには、昼前だった。時計の針を見て、長く眠っていたことを知った。
頭はまだ重く、体も沈んだままでいたかったが、生理現象には勝てない。起き上がって、ため息混じりに身の回りの諸々を済ませる。
そのうちに、頭が冴えてくるとふと、外へ出てみようという気になった。大したことじゃない。平日の昼間に、仕事を離れて滅多にしない外食をしてみたくなっただけだ。この獅子島では、それができる場所も時間も限られている。したいと思った時と、できる時が噛み合うのは珍しい。
せっかくの休みを有効活用しようと、俺は身なりを整え外に向かった。
その場所に足を運んでみると、夏休みの賑わいが嘘のように、人影もまばらで閑散としていた。
ゆるやかな時間が流れ、自分が観光客にでもなったような錯覚を覚える。ここ数日の騒がしさから離れ、ほんのひとときの安らぎに浸っていた。
その静けさの中で生まれた時間の余裕は、頭の中を整理させ、記憶の奥からある場面を思い起こさせた。
──今朝、眠っている間に何があったんだろうか。
所長の落ち着いた様子からして、ひとまずは納得できる答えを得たのだろう。研究は今後も続けるのかもしれないが、昨日のような無理を重ねることはないはずだ。年齢的にも、それは難しい。
橘も恐らくは同じ。所長とのやり取りは続けるかもしれないが、区切りをつけたあとは、自分の研究を独自に進めていくに違いない。彼女はずっとここに留まるわけにはいかないのだから。
明日からはまた、普段の日々が戻ってくる──はっきりしない記憶の中で、ただそんな予感だけはした。
「──お隣いいかしら?」 突然の言葉に驚いた。
他に席は空いているのに、この平穏を破り、態々相席を申し出るこの観光客の常識を疑った。
しかし、帽子の長いつばの下に見えた顔は、そんな俺を納得させた。
「……ええ、どうぞ」 俺は笑いをこらえて、そう答えた。
昨日と全く違う服装は、一瞬誰だか分からなかった。
白地に淡い水色の花模様が散らされた涼しげなワンピースは、陽の光を受けて軽やかに透けている。さらりとした布の音がかすかに耳に届く。帽子の影からのぞく首筋には、小さな銀のペンダントが揺れていた。
その装いは、この島に立ち寄った観光客そのものに見えて、昨日観測所で机に向かっていた人と同じ人物だとは、なおさら信じ難かった。
「面白い偶然ね。ひょっとして、待ち伏せして──」
「そんな訳ないじゃないですかっ」
橘の言葉に被せて反論する。その期待通りの反応に、彼女は笑っていた。その振る舞いは、昨夜の彼女の更に前、展望台で出会った時の印象を思い出させた。
だが、そこに不快感はない。たったそれだけのやり取りだけで、不思議ともやもやとした気持ちが和らいだ。
この島での二度目の偶然の出会いは、俺をどこへ連れて行こうとしているのか──そう考えると、悪くない気分になった。
「橘さんは、今日はどうしたんですか?」
「そうね──白石所長が私の調査を気に入って、思っていた以上に協力してくださったから、いっそ全部お任せしてしまおうと思って……」
「だから、今日は島を去る前に、少し観光でもして回ろうかと考えていたの」
その言葉に、思わず息を呑んだ。昨日のうちにそんな話が進んでいたのか。いや、それ以上に、橘がそこまで譲るほど、所長はそんなに高名な人物なのかと、そう考えてしまった。大学教授の経歴は知っていたが、その功績や名声までは知らなかった。
そんな俺の表情を読んで、橘はわずかに目を見開いた。
「白石所長は、国内で数少ない宇宙物理学の第一人者よ。特にブラックホール近傍の重力波観測では、国際的にも名前が知られているわ。論文の被引用数だって、あの分野では群を抜いているし、欧州の研究機関から直接共同研究の打診を受けたことがあるほどなの」
言葉を重ねる橘の口調は、研究者らしい敬意と羨望を滲ませていた。
「そんな人が、島の小さな観測所で研究を続けているなんて、普通は考えられないことなのよ。
私も直接お会いしたことなんてなかったから、白石慎一先生ご本人だと分かったのは、昨晩何度かやり取りしてからよ」
彼女の言葉に耳を傾けながら、昨日まで見てきた所長の穏やかな姿と、世界的な業績を重ね合わせるのに、俺は少し戸惑いを覚えていた。
「そんな人が、あれ程やる気になったのだから、私としても、ここはお任せするのが最も確実だと思ったの……」
橘にとって、あの磁場ノイズはあくまで地震予知の調査の延長で偶然に捉えたものに過ぎない。だが、どう見ても地震とは無関係の現象だ。そうであれば、その解明を信頼できる相手に委ね、自分は本来の研究へ戻る。それは、研究者としては自然な判断なのだろう。
けれど俺には、そういった研究者同士の間にある配慮、あるいは暗黙の了解のようなものはよく分からない。どうあるべきかを口にできる立場でもなかった。
ただ一つ、彼女の言葉の端々には、どこか未練のような響きがあった。
「──昨日は結局、どこまで分かったんですか?」 俺が彼女に聞けるのは、そのぐらいだった。
橘は一度視線を外すと、少し考え込むようにしてから口を開いた。
「……私たちが証明しようとしている現象は、定点を定期観測したデータでは意味が無いの。常時リアルタイムで観測したデータの変動傾向に着目することで、ようやく浮かび上がってくる」
「だから、それができていない昔のデータはほとんど役に立たないのよ。あの観測所からアクセスできたその条件を満たす一番古いデータは、2001年9月1日」
俺は、その中のひとつの言葉に、思わず心を揺さぶられた。
「そして、その日の記録に解析パターンを当てはめてみると……最新のデータと同じ兆候が浮かび上がった」
「つまり──あの磁場ノイズは、少なくともその日から続いている。けど、それ以前からあったと考えるのが自然ね」
流れるように説明する声が告げる結論より、俺は別のことが気になった。2001年9月1日──それは、俺の誕生日だった。
「分かったこと──って言えるのは、それぐらいね」
橘は、そんな俺の引っ掛かりなど気づきもせず、淡々と話を締めくくった。
確かに、2001年9月1日という日に特別な意味があるわけではない。おそらくその日が、オーロラテックがリアルタイム観測を始めた日なのだろう。偶然に重なっただけで、研究そのものに関わる意味はないはずだ。そこに拘ってもしょうがない。
それに、彼女が他の進展を口にしなかったのも、単に俺に理解できる話ではないからかもしれない。
あの定理の証明は片付いたけど、こっちの数式はまだ――なんて言われても、俺にはまるで意味が分からない。専門の立場から見れば、細かな成果はいくらかはあったのだろう。
結局、色々と気になることは残ったが、無理に問いただすのも違う気がして、俺は自分の中で納得した。
最も重要な、ノイズの発生原因は依然として謎のまま。
現象の原因が全く絞り込めないため、データ解析を重ねてそこから解明を目指すしかない。それが何かのヒントになればいいが、この方法は非常に回りくどい上に不確実で、さらに膨大な時間を要するかもしれない。
まだまだ、ゴールは遥か先にある。そのぐらいは俺にも分かった。
そこでふと、別のことが頭をよぎる。
藤宮にどう伝えるべきか──彼女は今も調査しているに違いない、こちらの進展を知らせておいた方がいいだろうが、どう説明するべきか。
考えあぐねるうちに、つい独り言のように口をついて出た。
「……うーん。藤宮にどう説明しようか。ノイズに意味があるってことだけは、伝えた方がいいのか……」
それを耳にした橘がふいに首をかしげる。
「あら、藤宮さんって、誰?」
特に隠す理由もないので、俺は正直に答えた。
「ああ、あの展望台に設置した磁場観測装置を、支社から持ち込んだ人です。一緒に設置して、あのノイズも確認して、一通り調べたんですけど、結局原因は分からなくて支社に戻りました」
「それから、別の観測地点のデータも送ってもらったんですが、そこにはノイズはなくて……。でも、今日あたりまた新しいデータが届いてるかもしれません」
俺の説明を聞き終えると、橘はどこかそっけない調子で言った。
「そう……。彼女、ね。
難しいところね。どう伝えるかは、その藤宮さんがどれだけ口の堅い人かにもよるでしょうね」
確かに、「あの磁場ノイズは未知の言語信号かもしれません」──なんて言い方はあまりにストレートすぎる。もし藤宮にそう伝えれば、彼女を困惑させるだけでなく、社内での立場さえ危うくしかねない。
そうか、所長も恐らくそこまで既に考えているのだ。
仮に未知からの信号だと結論づけるなら、それをどう世に示すかが問題になる。軽々しく口にすれば、真っ先に「嘘つき」と切り捨てられるだろう。この手の話をする輩はごまんといて、そして過去にいたそれら全ては根拠のない戯言に過ぎないのだから。白石慎一という名があっても、それだけで人々を納得させることはできない。むしろ、拙速な発表はその名を穢すことになりかねない。
だからこそ、学術的な裏付けが不可欠なのだ。どの角度から見ても揺るぎない、と言えるほどの証明。時間も手間もかかるだろうが、そうでなければ到底受け入れられることなどないだろう。
そして──もし仮に、それが証明され、信頼を得られたとしても、その先には別の問題が待っている。世間が騒ぎ立て、好奇心や打算に駆られた人々が、雪崩のようにこの獅子島へ押し寄せるのは間違いない。観光客ならまだいい。だが、その中には必ず、ろくでもない考えを抱いた者が紛れ込む。
そうした人間の存在が、俺たちの平穏を壊してしまうに違いない──。
そう考えると、迂闊なことは言えなかった。
たとえ藤宮個人を信頼できたとしても、社内で共有されれば必ず誰かの目に触れる。その誰かがどんな意図を持っているかなど、分かりはしない。
それに、今も向こうではノイズを含む観測データがリアルタイムで更新され続けている。都合が悪いからといって通信を止めることはできないし、原因を不明のまま放置しておく姿勢を見せるわけにもいかなかった。
これは、俺個人では答えなんて出せない難問だった。明日、所長に相談するしかないだろう。いや、もしかすると所長はすでに、その先まで考えているのかもしれないが……。
神妙な顔で黙り込む俺を見て、橘がぽつりと口を開いた。
「──おもしろそうだから、明日もう一度、観測所に顔を出してみようかしら」
その一言に、俺は思わず眉をひそめた。彼女の発言は、ここに来た理由と矛盾する。決して彼女を追い返したいわけではない。ただ、なぜ心変わりしたのか、俺にはさっぱりその意図が掴めなかった。
だが確かに、今や彼女もこの秘密を共有する一人だ。重要な関係者の一人として、今後の方針をきちんと話し合っておく必要がある。
それなら──いっそ藤宮も呼んで、皆で一緒に話し合った方がいいのかもしれない。
そう思い立った俺は、その場で所長に連絡を取ってみることにした。
「──もしもし、高梨です。所長、お疲れさまです。実は藤宮の件で相談がありまして」
「ああ、その件なら、ちょうど今日連絡が来ていてね。こちらにもう一度来られないかと、先ほど返信したところだよ」
やはり、所長も同じことを考えていたらしい。こちらが気を回すまでもなかったか──そう思うと、少し肩の力が抜けた。
「それと、今こちらには橘さんも一緒にいるんですが、彼女も明日そちらに顔を出すそうです」
「おや、それは驚いた。君もなかなか隅に置けないな」
電話口の所長の表情は見えないが、笑みを含んだ声色が伝わってくる。
「茶化さないでくださいよ。偶然会っただけです。それでは、明日」
「ああ。楽しんでくるといい。あっ、ちょうど今、藤宮さんからも返事が来たよ。明日こちらに来るそうだ」
「それなら話が早いですね。では、失礼します」
通話を切った後、俺は小さく息を吐いた。思いつきで連絡しただけなのに、物事がこんなにも都合よく進むとは思わなかった。
まだ問題が解決したわけではないが、少なくとも明日の話し合いでいくつかの懸念は整理できそうだ。一応の道筋がつき、俺は胸の奥に溜まっていたものが少し軽くなるのを感じた。
「──ねぇ、もう一日いることになったから、暇なのよ。またドライブに連れて行ってくれない?」
そんな俺の前に、橘は間髪入れずに新たな難題を放り込んできた。彼女の無邪気な笑みに、言葉を失う。
──結局、俺の平穏は明日まで待ってはくれないらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます