第五話 別ルート

 今日はまた一段と、朝から蒸し暑さが身にまとわりつく。

 体調を崩す前にと、昨夜は早めに横になったつもりだったが、こう連日暑さが続いては、疲れを取るのも難しいのだろうか。それとも、解決できぬ問題を抱えたままというのは、自覚する以上にストレスになっているのかもしれない。

 とはいえ、言い訳をしても始まらない。俺は、わずかな望みにすがるように、所長が何か新しい情報を掴んでいないか、心のどこかで期待しながら、職場へ足を運んだ。


 ところが、その日は珍しく俺より先に机についていた所長は、俺の顔を見るなり、両手をひょいと上げてみせる。

 その仕草を目にした瞬間、胸の奥に重く澱んでいたものを吐き出すように、俺は大きなため息を漏らした。

「ここまで手掛かりが掴めないとは、正直思わなかったなあ。

電力会社にはさっきメールを送ったけど……返答が来るまでには、少し時間がかかるだろうね」

 所長の声音には、わずかな諦めが滲んでいた。主だった電力消費がない以上、この島にわざわざ大きな電力を流す理由などない。問い合わせをしても、きっと空振りに終わるだろう──そんな予感が頭をもたげる。

「──それと、ログを確認してみたが、やはりノイズの終了時刻も同じだった。15時きっかりに始まって、19時48分にぴたりと収束している。この二日間、例外なく4.8時間の枠に収まっている。一体、この時間にはどういう意味があるんだろうね」

 情報の断片は手に入れられても、それを結び付けられる答えには辿り着けない。そのもどかしさが胸に沈殿していく。まるで何かに弄ばれているようで、妙な心地悪さだけが募っていった。


「──とりあえず、外回りに行ってきます。

磁場装置をどこか入念に点検するとか、何か試すべきことはありますか?」

 もう他に打つ手が思いつかず、俺は所長に大雑把に聞いてみた。しかし返ってきたのは、無言で首を振る仕草だけだった。

 結局、俺はいつものように巡回に出るしかなかった。

 北と南の観測地点に、中央の展望台を寄るルートが加わった新たな巡回ルートを巡る。仕事は増えたが、大した手間じゃない。別ルートになっただけで、移動距離はさほど変わらない。何事もなければ、かかる時間にも大差はない。

 問題なのは、その「何事」が起こってしまっている事なのだが……。


 北の観測地点を確認し、内陸ルートを辿って展望台へと向かう。

 正直、近づくにつれて嫌な気持ちになる。夏休みが終わっているのに、まだ宿題が残っていた子供のころを思い出す。ただ、昔と違ってやる気はあるのだが、解き方が分からない。結局終わらない宿題の責任を、俺は取らされることになるのだろうか……そんな嫌な予感が、じわりと頭をもたげていた。


 展望台につくと、俺はさっさと磁場観測器の点検を始めた。

 やはり、機器に異常はない。今の時間はノイズも出ていない。軽く息を吐き、少しでも早く立ち去ろうと車に戻ろうとしたその時──。

 あとほんの数メートルの距離で、不意に声を掛けられた。

「ねぇ、あなた──この装置は一体なんなのかしら?」

 振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。


 薄手のシャツにジーンズ、スニーカーというラフな服装に肩掛けのバッグ。首には観光地でよく売られている民族模様のストールを無造作に巻きつけ、髪は後ろでひとまとめにしている。振り向いた瞬間、嗅ぎなれない香水がふっと鼻をかすめ、それが妙に印象に残った。

 ぱっと見は観光客かハイキング客──だが、目だけは違った。妙に鋭く、俺を値踏みするようにじっと射抜いてくる。

 夏休み期間は、獅子島にも観光客がそれなりに訪れる。とはいえ島の規模は小さく、訪れる人は限られている。ましてや夏休みを過ぎた九月ともなれば、人影はぐっと減り、再び静かな漁村の空気が戻るのが常だ。

 だから、九月に来る観光客というのは、単なる観光よりも何か別の目的を持っている可能性が高い。しかし、彼女の出で立ちからは、その目的が何なのかは分からなかった。


「観光用の施設じゃありませんよ」

 少し警戒を込めて言うと、彼女は小さく肩をすくめた。

「ふうん、そうなの。見た感じ、ただの箱という訳でもなさそうだけど、トイレという訳でもないでしょ。

あなたは、ここで何をしていたの? 何かの調査?」

 言葉に軽さはあるのに、その勘のよさにドキリとする。俺は咄嗟に答えを少し濁した。

「まあ、ちょっとした観測機器です。島の研究用のね」

「研究……ねぇ。こんな辺鄙な場所で? 一体何の研究なのかしら?」

 矢継ぎ早の質問に、少したじろぐ。彼女の雰囲気は軽薄そうに見えるが、その裏に何かを嗅ぎ分ける鋭さがあった。俺は「ただの物見遊山じゃないな」と直感する。

「……観光の人ですよね?」

 念のため確認してみると、彼女はわざとらしく笑った。

「ええ、まあ。ちょっと珍しいものを見るのが好きなの。変わった場所には、つい足が向いちゃうタイプなのよね」

 言葉通りならただの物好きだ。だが、その笑顔の奥に隠された目の光は、俺に別の印象を与えた。


 俺にも少なからず守秘義務がある。観測データをおいそれと他人に教えたり、渡すことなどできないし、できれば観測地点は誰にも教えたくない。万が一、彼女が同業者だった場合、なんらかの妨害工作を行う可能性は否定できない。

 そんな俺の疑念を見透かしたのか、彼女は肩をすくめて、あっけらかんと言った。

「……わかったわよ。私は、地震予測会社ジオシグナルの研究員。名前は、橘結香」

 あまりにもあっさりとしたネタバレに、勘が当たった嬉しさより、こちらが身構えていたのが馬鹿らしく思えるほど拍子抜けしてしまった。

 しかし同時に、ライバル会社の人間がこんな離島に現れた理由を考えると、ひと波乱ありそうな予感が背筋を撫でた。


「ねえ、何でバレたの?」

 彼女は首をかしげ、不思議そうに尋ねてきた。年は俺と同じくらいに見えるが、妙に馴れ馴れしい。社会人らしい距離感をきっちり保つ藤宮とは対照的だ。それを不快に思ったわけではないが、その相手の調子に合わせるように俺も肩の力を抜いた。

「何でって……ふふっ、顔に書いてありましたよ」

 平静を装いながら、半ば冗談めかして返す。

「あら、そう? 演技は上手い方だって言われるんだけどなぁ」

 誰に言われたんだろう──思わずそんな余計な詮索が頭をよぎったが、口には出さないでおいた。そもそも、俺だって正体を見抜いたわけじゃない。ちょっと疑う素振りを見せたら、彼女が勝手に名乗っただけだ。

「──それで、橘さんはどういったご用件でしょうか?」

 ライバル会社の研究員だったと身バレしても、無下に扱ったら礼を欠く。情報を渡す気は毛頭ないが、せめて話だけは聞いて、お引き取り願おうと俺は考えた。

 だが──彼女の次の言葉は、鋭利な刃物のような切れ味を持っていた。


「あなたも研究者なのよね。この辺りで、おかしな現象を捉えたりしなかったかしら?」

 その言葉に、思わず息が止まった。まさにそれを追いかけて、俺は今ここにいる。決して、俺はその問いにイエスとは言っていない。だが、わずかな沈黙や目の揺らぎを彼女は見逃さなかったらしい。

「あら……ビンゴみたいね」

 橘は唇を今日一番吊り上げて笑った。その言葉に、俺の目は一層大きく開く。

「ほら、やっぱり。あなた、何か知ってるんでしょう?」

 それすらも見逃さず、ぐっと一歩踏み込むように近づくと、彼女の目がさらに鋭さを帯びる。

「この島で起きてる異常……研究者なら、気づいてるはずよね。──ねぇ、知ってることを教えてくれない?」

 その声音は軽く笑っているようでいて、逃げ道を塞ぐような圧があった。俺の胸の奥に、冷たい汗がじわりと滲んだ。


 どう言い訳しても通じないだろうし、かといってデータを渡すわけにもいかない。どう答えるか思案した時、俺はふと気づいた。──橘がここに来た理由はなんだ? それはきっと、俺と同じなんだ。何か異常を検知して、それを確かめに来た。

 ならば、彼女の知り得ている情報の中に、俺が追っているノイズの手掛かりがあるかもしれない。そう思い至った俺は、ある提案を口にした。

「それなら、お互い知っていることを、ちゃんと時間を取って話し合いませんか?」

 橘はぱちりと瞬きをして、しばし俺を見つめた。次いで、小さく息を吐いて肩の力を抜いた。

「……ええ、いいわよ。それで? 今から?」

「いや、俺はまだ巡回の仕事が残ってます。なので、13時に観測所に来てください。場所は──」

 そう言いかけて、口を止めた。来た時には、近くに車らしきものはなかった。彼女はどうやってここに来たのだろうか、いやそれより、ここから徒歩で観測所まで行くのは相当大変だ。

「──よかったら、乗せてくれない?」

 俺の逡巡を見透かしたように、彼女はあっさりそう言って笑った。

 本来なら断るべきなのだろう。だが、彼女が持っている情報と、状況は無視できない。俺は少し迷った末に、「わかりました」と答えて、助手席のドアを開けた。

 車がゆっくりと坂道を下り始めると、橘が窓の外を眺めながらぽつりと呟く。

「──男性とドライブするなんて久しぶりだわ」

 ハンドルを握りながら、彼女の言葉の軽さに背中をくすぐられているような気がした。


 ──しばらくエンジン音だけが車内に響く。窓の外では、島の向こうに見える海原が何も言わず佇んでいる。

「──そう言えば、俺はまだ名乗っていませんでしたね。

俺は、民間気象会社オーロラテックの契約観測員、高梨颯介です」

 その沈黙を埋めるように、俺は遅い自己紹介から始めた。

「へえ、オーロラテック。名前は聞いたことあるわ」

 橘は白々しくそう返した。オーロラテックは気象観測に関わる人間なら知らない人はいない大企業だ。気象予報アプリでも長年ランキング一位を取り続けている。まあ、それは俺の功績じゃないが……。

「車に乗せてくれて、名乗ってくれたってことは、私を信用してくれてるってことよね?」

 思わせぶりな口調だった。ここまで来て「全て嘘でした」と言われれば驚くだろうが、そんなことをする意味はない。ただ、この人ならやりかねないと思えないこともない。

「信じますよ、とりあえず……」

 俺も歯切れの悪い言葉で答える。その代わりに、少し踏み込んだ質問を投げてみた。

「橘さんは、どうしてこの島に来たんですか?」

 その問いに、橘の表情から緩みが消えた。


「──地震予知っていうのは、過去の歴史から周期を予測したり、活断層の動きを調べるだけじゃないの。地面を掘って断層を調べたり、地形の歪みを測ったり、温泉の水質や地下水の動きを追ったりする現地調査が欠かせないの」

「私はその現地調査の中でも、地磁気の乱れを調査してるのよ。たまたまこの一帯を調査していたら、妙な磁場ノイズを見つけてね……それを追いかけて島に来たの」

 思わず息を呑む。彼女は俺たちと全く同じものを追いかけていた。彼女は、ずっと俺の頭を悩ませている磁場の乱れを、別のルートから見つけていたのだ。

 胸の奥で、妙な熱と緊張が走る。八方塞がりになっている自分たちにとって、彼女は救世主になるかもしれない。そんな希望を与えてくれる女神のようにさえ思えた。

「ぜひ、観測所の所長と一緒に、そのお話を聞かせてください!」

 俺はつい、大きな声を出した。

「──ええ。そのつもりで向かってるはずだけど……」

 橘はその声に驚く様子もなく、落ち着いて言葉を返した。

 俺は羞恥より、歓喜が勝っていた。昨日までの後ろ向きな気持ちが、一瞬にして前向きな行動へと変わった瞬間だった。


 俺は、はやる気持ちを抑えて、南側の観測点に向かった。

 できることなら、ここをすっ飛ばして観測所に直行したかったが、そんな子供じみた真似はできない。橘を車に残し、機器の点検をいつも以上に手短に済ませる。

 車に戻ると、橘はこの暑い中、車から出て海を眺めていた。その気になれば、俺が観測しているところに顔を出すこともできただろうが、それはしなかった。まあ、数多の観測地点のたった一つのデータを見たところで、それに価値など無いが……。

「……早かったじゃない。もっと時間がかかるかと思った」

「いえ、いつも通りですよ。では、観測所へ向かいましょう」

 俺がエンジンをかけると、橘は何食わぬ顔で助手席に乗り込んだ。この時、所長にも、彼女を連れて行く一報を入れておくべきだったが、そんな事すら気が回らないでいた。

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