第7話 レッド・ホールドが境界を越える

レッド・ホールドは続いていた。


窓の外、黒い水面は音もなく呼吸を繰り返している。吸って、吐いて。潮の甘い匂いはさらに濃く、鉄と果実と、知らない薬草の影がまじる。


(境目は破れました)ムス。

(薄皮一枚で持ってる)カミ。

(おでこに冷えピタ貼りたい)アメ。


廊下の非常灯が等間隔に赤を落とし、時計の秒針はやけに律儀に刻む。澪と詩音はベッドに座り、手を繋いだまま目を閉じていた。眠ってはいない。ただ、音を聞いている。呼吸は細く、肩だけがわずかに上下して、布団の上の皺が光を吸う。


その瞬間、短く、低い警鐘が鳴った。


——ポン。


サイレンでも鐘でもない。金属の膜を指で弾いたみたいな音。二拍置いて、もう一度。


——ポン。


(呼ばれた)ムス。

(まだ“名”ではないけど)カミ。

(ノック二回は礼儀)アメ。


扉が、規律のリズムで三度叩かれた。


「更屋敷」


矢来教官の声。扉越しでもわかる乾いた音色。開けると、彼はいつもの眼鏡、いつもの歩幅、いつもの深さでこちらを見る。涼しい目、呼気は短い。無駄がないというより、無駄の余地を最初から作っていない人の立ち姿だ。


「学生は——寮にいろ」


「はい」


「ただし」


その目だけが一瞬、規律から外れた。人から“個”へ。濡れていない刃が、わずかにこちらを向く。


「補助要員が足りない。護送、遮蔽、搬送、誘導。非致傷が条件だ。君にできるか」


「できます」


喉の奥で固まっていたものがほどけた。矢来は頷く。


「来栖が同行する。風紀の権限で君を動かす。——更屋敷」


「はい」


「規律を忘れるな。規律の中で最短を選べ」


「承知」


矢来は踵を返し、廊下の影の中へ消えた。消え際の足音が、角で一度だけ跳ね返る。その跳ね返りまで一定だ。


一分もしないうちに来栖が現れた。灰の腕章、完璧な姿勢。眉は薄く引き結ばれ、まつげの影が頬に規則正しい線を落とす。


「風紀委員長、来栖。更屋敷、同行」


「了解」


来栖は合鍵を示し、廊下を先導する。非常灯の赤が彼女の横顔に細い影を作る。踵からつま先まで同じ幅で体重が移っていく歩き方。階段を降り、掲示の前で立ち止まる。


「規律の再確認。——学生は原則として戦闘不可。補助は認められる。救護・搬送・遮蔽・誘導・通信補助。術式の使用は抑制と報告。よいな」


「了解、委員長」


「敬称は不要。風紀に個人は要らない」


「はい」


来栖は微かに顎を引き、歩き出す。足取りは均等、小数点以下の誤差を嫌う歩き方。


(ちゃんと付いていく)ムス。

(でも角では半拍遅れて)カミ。

(角の内側はぶつかるから)アメ。


寮の非常器材庫。冷たい鍵音、蛍光灯の白。風紀の権限でロックが外れ、棚が開く。救急バッグ、簡易盾、折り畳み担架、信号灯。ひとつひとつの金具がよく手入れされていて、光が角で止まる。


僕は救急バッグと担架を取り、外套を羽織った。防炎・防刃のシンプルな黒。肩に載せた重さは、呼吸一つ分。背中に落ちる布の音さえ、慎重に作られた音だ。


ポケットの奥、小さな布包みが指先に触れる。「夜叉羅刹」の欠片——神装の印を抑えた護符。布は柔らかく、内側は硬い。開ければ、別の重さが始まる。


(開けない)ムス。

(今は規律)カミ。

(あとで匂いだけ嗅ごう)アメ。


僕は護符をそのまま押し戻し、救急バッグのジッパーを締めた。金属の歯が軽く噛み合う感触だけが指に残る。


校舎裏手の金網を抜け、コンクリートの階段を降りる。地下連絡路。避難と輸送のために敷かれた“島の血管”。壁面の矢印は蛍光で、足音は冷たい。天井に並ぶランプの一つが一瞬だけ点滅して、すぐに戻る。整備班の手が届く範囲は、島の呼吸の範囲だ。


途中、扉の向こうから子どもの泣き声がした。臨時避難所。来栖は立ち止まらない。耳だけが一瞬、そちらへ振れ、また前へ戻る。


「委員長」


「風紀は泣き声に反応しない。泣き声は保健隊の仕事」


「了解」


(役割分担)ムス。

(冷たいようであたたかい)カミ。

(プリンはどの部署?)アメ。

(後方兵站)ムス。


連絡路の末端に重い扉。来栖が権限で解錠し、わずかに隙間を開けた瞬間、潮の匂いが強く流れ込む。甘さが舌に触れ、歯の間に薄い膜が張る。錆と塩と、あの甘い——タグの前兆。


地上へ出ると、風が鋭い。港の第三倉庫が黒い箱の影になり、その向こうでオレンジと白の灯が交互に脈打っている。臨時指揮所のタープ、通信車両。モニターに波形が走り、ドローン映像が小さく並ぶ。発電機の低い唸り。コードの被膜が夜露を弾き、小さな粒を作っている。


矢来と久遠院先生、装甲ベストの隊員たち。腕章は「パトロール」。背中のプレートが固く、腰のホルスターが汗で暗くなっている。


「更屋敷、来たか」


矢来の声は短く、言葉は刃先だけ見せる。


「怖がってる顔、してないわね」久遠院先生が口元だけで笑う。髪に潮気が触れて、ほんの少し、外側に跳ねている。


「緊張は感染するので」


「いい心がけ」


矢来が地図を指で叩く。港の防御線、ドローンの巡回ルート、障壁の位相。指の節が、紙に音を置く。


「偵察型が三。甲殻歩行、多脚、高感度触腕。出血は少ないがタグ付けをする。甘い匂いは誘導フェロモン。標識だ。——触れるな」


「了解」


「君は救護と遮蔽。出力は相方基準。隊員に合わせろ。撃つなとは言わない。だが、撃ち過ぎるな」


「了解」


(抑制)ムス。

(抑制の中で最短)カミ。

(短い“すごい”は許して)アメ。


海は黒。光は少ない。なのに暗さの流れがわかる。水面の皺が一筋、沖へ向かって逆走し、その上を影が滑る。水は吸い込まれ、吐き出され、その境目に温度が生まれる。僕の皮膚が、その温度差で世界を読む。


——ピィ。


ドローンの投光器が水平線を切り裂く。甲殻は硬質、脚は蜘蛛のよう。だが節は少なく、動きは滑る。関節の隙間で光が逃げる。触腕が水から伸び、空を嗅ぐように揺れた。水滴が触手の繊毛から落ちるたび、甘さがわずかに増す。


「来たぞ!」


矢来の手が振り下ろされ、魔弾が飛ぶ。白い軌跡、青い閃き。甲殻に当たる音は濡れた石を爪でこするようで、反射は薄い。薄皮を剥ぐにすぎない。けれど、それは大事な最初の一層だ。


触腕が岸壁を叩く。石が砕け、火花が走る。砕片が足元に転がって、靴底で細かく潰れる感触。潮風に混じって、粉末の石灰が舌に触れる。


「第二班、後退! 第三、遮蔽!」


久遠院の声が細く鋭く伸び、隊員たちの足が同じ幅で後ろに下がる。僕は救急バッグを肩に、最前列から半歩後ろへ。倒れた隊員が一人。脛を削られ、血が滲む。出血は多くない。でも恐怖で呼吸が崩れている。喉が先に閉じて、肺が迷う。


「吸って、止めて、吐いて」


僕は彼の手を取る。自分の呼吸を見せる。四拍、四拍、四拍。胸骨が沈む深さを合わせ、吐く拍で肩の力が流れるように。彼の肩が落ち、瞳の焦点が戻る。止血、固定。靴を再調整し、体重の逃がし方を教える。踵に乗せず、足刀に流す。膝は真っ直ぐではなく、少し曲げる。


「いける」


「……いけます」


膝は笑っていない。足裏が地面の粒を拾っている。


(怖さは呼吸を切る。呼吸を繋げば動ける)カミ。


触腕が二本、こちらへ伸びる。刺すのではなく、探る触れ方。僕は手のひらで空気の膜を撫で、風の道を薄く敷く。人のための道。足裏から膝、腰、肩へ。力が逃げるライン。僕の指先から広がる“見えないカーペット”が、段差を紙一枚ぶんだけずらす。


触腕は道を踏めない。接地の概念がいじられる。たった数センチの“落差”に、節の少ない脚が足を取られる。姿勢が崩れた一瞬に、関節の内側が薄く露出する。


「今!」


前線の弾が甲殻の関節を剥ぐ。白い破片が夜気に散り、薄皮が白く裂ける。甲殻の下は意外なほど柔らかく、水の色に近い。


偵察型の触腕の先端が花のように開き、霧を吐いた。甘い。甘すぎる。キャンディを温めて潰した匂い。鼻の奥に張り付く粘度。


「タグだ、避けろ!」


風の膜を反転させ、霧を押し戻す。海面で光る粒が波に溶け、白い輪が広がる。だが袖に触れた粉が、ごく微かに焦げた。ぱち、と小さな静電音。


(印)ムス。

(焼け)カミ。

(袖が泣く)アメ。


矢来が横で言う。目は前、声だけがこちらへ来る。


「タグ、焼いたか」


「はい」


「印は残るが、弱い。——誰にも触られるな」


「了解」


「次——右、二歩」


言われる前に動いた。右へ、二歩。さっきの甘い霧が残っていた場所へ、遅れて触腕が正確に刺さる。タグは匂いではない。世界の座標に付く。匂いの折り目が空気の紙に残り、そこへ針が誘われる。


「今の、どうやって」久遠院が小声で訊く。


「匂いの折り目を見ています」


「詩的ね」


(詩的は火力)アメ。

(詩的は味方と敵の両方を動かす)ムス。

(次の“詩”を)カミ。


偵察型の一体が、ほかの二体と離れ、独立して岸壁のクレーンへ向かった。高い場所は広報塔。タグの散布範囲が幾何級数で広がる。


「矢来教官、クレーンはまずい」


「保全班がいる。——更屋敷」


「はい」


「一撃で下げろ。致傷は問わない。ただし殺すな」


「了解」


(抑制の中の最短)ムス。

(最小で最大)カミ。

(いっけー!)アメ。


僕は一歩、前へ。風の道を自分のために敷く。膝から腰、腰から肩、肩から指先。指先に見えない筒を作って、空気を一本の線にまとめる。線は細いほど強く、短いほど重い。音は内側へ飲み込ませる。


呼吸を四拍、溜める。脈と同期。逆さの星の点滅と同期。矢来の足音と同期。三つの拍を一つに重ねる。


「——零式・絞針」


光は出ない。音も出ない。ただ、空気が抜けた。僕の指先から世界の一点が凹み、戻る反動で針が走る。水蒸気が薄く白い線を描き、甲殻と甲殻の重なる溝に吸い込まれる。


——カン。


硬質な小さな音。次に、巨大な体が沈む音。偵察型は脚を絡ませ、体勢を崩し、クレーンの基部からずるりと滑り落ちた。海水が跳ね、白い輪が広がる。スチールの柱が一度だけ悲鳴を上げ、すぐに黙る。


「下がった!」


「効いてる、関節が死んだ!」


前線の隊員が声を上げる。矢来は表情を変えない。


「いい。抑えたまま、もう一度、別個体の足元。——足場を奪え」


「はい」


二撃目はさらに短く、さらに細く。足場のコンクリートの内部に空洞を作り、踏み込んだ瞬間に崩す。偵察型は体重を預ける位置を見失い、触腕を地に打って支え、動きが止まる。その一瞬に、パトロールの弾が関節へ集中する。白、青、白。甲殻の薄皮がはじけ、柔らかな部位に届く。


偵察型が、退いた。


沈黙。風が少しだけ方向を変える。潮の甘さが引き、鉄の匂いが戻る。遠くでブイが一度だけ鳴く。


前線の隊員が一人、僕のほうを見て、古い型の敬礼をした。手の角度、指の揃え方、脇の締め方。八名島の標準ではない。パトロール最高幹部に向ける礼。


一瞬、誰かが息を呑む音。敬礼をした当人の顔に「しまった」が走り、視線が落ちる。手が硬く、膝がわずかに震える。彼の記憶が体のほうを先に動かしたのだ。


来栖はその様子を、見ていた。目の奥の刃が、ほんの少し角度を変える。手元のボードに走るペン先は揺れない。彼女は淡々と書類に筆記し、礼の形については何も書かなかった。


(見逃したのではない。見たうえで置いた)ムス。

(規律は、必要な矛盾を飲む)カミ。

(いまの敬礼、かっこよかった)アメ。


海面が、もう一度、波を裏返す。遠くの“逆さの星”が四つに増え、光の間隔が短くなる。


「新しい波形。——五、いや六!」


ドローンのオペレーターの声。矢来が顎を一度だけ引く。久遠院はタブレットに指を走らせ、障壁の位相をひとつ上げた。


「α+維持、局地強化。一般放送は抑えろ。パニックを起こすな」


通信士の声が重なる。臨時指揮所は熱を持つ。けれど声は冷たい。


僕は袖の黒い焦げ跡を見る。小さい。でも、確かだ。焦げの縁にわずかに甘い匂い。指の腹で触れ、術式の火で焼く。灰が飛び、夜に消える。


(印は臭いを持つ)ムス。

(向こうは“嗅ぐ”)カミ。

(お風呂……)アメ。

(まだ)ムス。


偵察型が一体退いた隙に、岸壁脇の資材置き場へ走る。そこには避難に遅れた港湾作業員が三人、鉄の陰に身を縮めていた。一人は足首を捻っている。顔色は塩の色に近い。


「こちら救護、三名発見。搬送開始」


無線に短く告げ、担架を展開する。来栖が無言で反対側を持つ。指の関節から掌まで、無駄なく重さを取る握り。体重移動は教本より滑らかだ。


「痛みは?」


「だ、だいじょうぶ、です」


「嘘はいい。三割増しで申告して」


「……七」


「良い正直」


(正直は搬送速度を上げる)ムス。

(強がりは転ぶ)カミ。

(がんばって)アメ。


担架を風の道に乗せる。足下に薄い滑走路を敷くように、空気をわずかに密にする。重さは消えないが、持ち上げる角度が軽くなる。資材の角、水たまり、ケーブル。障害を避け、最短の曲線を選ぶ。来栖の歩幅に合わせ、バトンパスの角度だけで意思が伝わる。


装甲車の側で保健隊が待っていた。腕は太く、目は優しい。担架が彼らの手に渡った瞬間、重心が滑らかに移る。誰も「いける?」と言わない。それは相手を信じていない時に出る言葉だから。


「ありがとう」


「どういたしまして」


言葉は短いけれど、世界の重さを少しだけ小さくする。


戻る途中、来栖が声を落とす。


「更屋敷。ルールの穴を使うな」


「穴?」


「非致傷の定義で、足場を奪うのはグレーだ。——今日は見逃す。だが、規律は網だ。網目は広げるためにある」


「広げすぎると、魚が逃げます」


「網を使う側が溺れるよりはまし」


彼女の横顔は硬い。だけど、その硬さの下で、小さな火が灯っているのが見えた。誰かを守りたい火。規律はその火の器だ。


(器があるから火を運べる)ムス。

(だから、器を割らない)カミ。

(器にプリンを入れるのは……)アメ。

(後で)ムス。


海の“逆さの星”は、ゆっくりと遠ざかった。偵察型は岸から距離を取り、タグの霧も薄くなる。潮はいつもの塩へ戻り、甘さは風下へと散る。


矢来の短い指示で隊は整理され、損耗は最小限にまとまった。久遠院が端末に記録をまとめ、通信車両の灯りが一つずつ落ちていく。発電機の唸りが半音下がる。


「——更屋敷」


矢来がこちらを見る。礼にはならない、礼の欠片。


「戻れ。ありがとう」


言葉は短い。けれど規律の辞書の一番端に、確かに載っている二音だ。


来栖と並んで地下連絡路を戻る。足音は二人分、拍はずれない。最後の角で来栖がふっと半拍遅れてくれた。僕が内側を回るために。


「さっきの一撃」


「はい」


「名前は」


「零式・絞針」


「……詩的だな」


「詩は抑制に効きます」


来栖は言葉を止めた。それきり、最後まで無言だったが、扉を開ける指の角度が、いつもより一度だけ柔らかかった。


寮に戻ると、澪と詩音が廊下で待っていた。廊下の非常灯が髪に色を差し、二人の影が重なる。


「ただいま」


「おかえり」


「におい……」


「潮と鉄と、ちょっと焦げ」


「焦げ……?」


「袖を、ちょっと」


(あとで洗う)ムス。

(先に祓う)カミ。

(柔軟剤はフローラル)アメ。


三人で部屋に入る。窓の外、ドローンの光点が行き来し、遠くの港で一度だけ、短い閃光が走る。僕は外套をハンガーにかけ、袖口の焦げを指でたどる。黒い粉がごく少し、指先につく。嗅ぐと、甘い。いけない。指先に小さな術式の火を載せ、燃やす。匂いは消えた。


(タグは完全に焼けました)ムス。

(でも——)カミ。

(でも?)アメ。

(空気の文様が、爪の先に薄く残った)


指を見た。爪の根元に、目には見えないはずの痺れがある。世界の紙が薄く折れて、線がひとつ、そこに引かれたみたいな感覚。


「……なるほど」


(痕跡は、持ち帰るためのもの)ムス。

(“彼ら”は、君を覚えた)カミ。

(覚えられるなら、覚え返す)アメ。


僕はうなずいた。頷きは誰に見せるためでもなく、僕自身の重心を戻すための動きだ。


澪がそっと毛布を広げ、詩音が湯を沸かす。湯気が静かに上がり、部屋の空気をやわらかく膨らませる。


「お兄ちゃん、スープ飲む?」


「飲む」


「塩味にしたよ」


「ちょうどいい」


(塩はタグを薄めないけど、心の粘度は薄める)カミ。

(スープ最高)アメ。


夜の底が少し白くなるころ、端末が一度だけ鳴った。矢来からの短い文。


《港——偵察型、退去。被害軽微。タグ散布、局地。ありがとう》


必要な言葉は、足りている。僕は返信を書かない。言葉を足すほど、意味が薄まることがある。


朝の少し前、寮の廊下で、ひそひそ声が行き交い始める。


「港、見た?」

「ドローンの映像、ちょっとだけ流れてた」

「誰かが“細い線”を」

「来栖委員長が連れてった子、A組の——」


噂は形を持たないまま、速度だけを増す。風紀の掲示が一枚増え、「映像の無断共有禁止」という太いフォントが紙の角を引き締める。来栖は掲示の前でピンの角度を直し、紙の四隅を軽く撫でる。角は直角、文字は静かに強い。


講堂。朝霧会長の声は整っていて、昨夜より一段低い。


「昨夜、港で小規模な事案があった。教職員・パトロール隊員の迅速な対応で、事態は収束した。——君たちは君たちの居場所で、できることをしてくれ。心を守ることは、島を守ることだ」


拍手は短く、しかし芯が通っている。副会長の鷹羽は最後列から全体を見渡し、目が僕のほうを一度だけ撫でた。鷹の目。僕は視線を返しもしない。視線も、嘘の一種だから。


午前の魔導理論。久遠院は黒板に三つの円を描く。重なり合うベン図。


「出力・制御・意図。術式はこの三つの交差点に生まれる。どれか一つが欠けると、ただの現象になる。芸術は現象じゃない。技術は現象じゃない。——行為だ」


チョークが交差点を叩く。白い粉が指に移り、袖に薄くつく。


「『恐れない』は出力の言葉。『大丈夫』は意図の言葉。でも人を動かすのは制御の言葉、『こうして』『こうすれば』。昨夜の現場でも、それが効いた」


御影が手を挙げる。耳がぴくりと動いたのは、たぶん気のせいじゃない。


「先生、名前をつけると、強くなるって言ったよね。そしたら、怖さにも名前をつけたほうがいい?」


「そう。怖さは名前をつけると手で持てる。『無名の黒』は重い。『タグの匂い』『三拍子の波』『逆さの星』——名前をつければ、対処ができる」


天城はノートの余白に小さく、『言語=制御の杖』と書く。ペン先の滑りが良いのは、紙の湿度が適切だから。島の気候が授業に効くことだってある。


昼の食堂は静かな戦場。列は長いが、誰も押さない。トレイがぶつかり合わない角度で、人の流れが自然に分かれる。厨房の湯気と香辛料の匂いが混じり、朝の噂を薄めていく。


御影がカレー、天城は白身魚、澪と詩音は日替わりパスタ。僕はスープを二つ——一つは“胃のため”。


「昨日の線、ほんとに見えないの?」御影がスプーンを止める。カレールーの表面の油が、灯りを細かく千切っている。


「見える時もある。水蒸気が線に貼り付けば」


「へぇ。じゃあ匂いは?」


「匂いは折り目だ。空気の紙に付く折り目」


天城はパンを半分に割りながら言う。


「“見えないけど映る”もある。映像の圧縮ノイズが線をなぞる。ビットレートの谷が、偶然に『針』の通り道を描く」


「天城、それは好きな話題だね」


「好き。怖さに名前がつくから」


(名前は火の取っ手)ムス。

(取っ手があれば運べる)カミ。

(取っ手にリボン)アメ。


食堂を出た廊下の影で、鷹羽が声を落とす。背広の裾が風紀掲示の縁をかすめ、紙がかすかに鳴く。


「更屋敷くん。昨夜の敬礼、どこで?」


「動画で見ました。形から入るタイプで」


「詩的な嘘だ。質が良い」


彼は歩幅を合わせ、窓の外の海を見下ろす。光は昼の色だが、水平線は夜を思い出させる直線だ。


「——君は『誰の命令』で動く?」


「規律です」


「いい答えだ。もう一つ。『誰のために』?」


「ここにいる人たちのためです」


鷹羽はそれ以上は訊かなかった。ただ、去り際に一言だけ置く。


「君を見る目が増える。気をつけて」


午後、β候補の点検で温室と屋上前室を回る。温室は閉鎖。屋上前室には新しい掲示。


『屋上は閉鎖中』『合図に応じない』『報告を先に』


具体的で、短い。目に刺さる直線だけの言葉。床に、極小の白い粉が一粒。塩。ドローン整備ラインからの運び込みだろう。来栖は膝をつき、粉の広がり方を読んで一言。


「外から入って内へ回った足。——案内された」


「鍵は扉じゃない。人ですね」


「だから、言葉で塞ぐ」


ピンが鳴る。角は直角。掲示は風を受けても揺れない。


購買でプリンを三つ買う。澪と詩音と、あと一つは——来栖に。


「委員長、プリン」


「風紀は甘味を配給しない」


「配給じゃない。贈与です」


来栖はゼリーのように一瞬だけ揺れて、受け取った。


「……回転の速い糖は、緊張を一時的に下げる」


「科学的」


「規律的」


(やった)アメ。

(器に入れて運ぶ)ムス。

(器は割らない)カミ。


放課後、校庭の隅で折風の復習。御影が落ち葉を投げ、僕が風で弧を描かせ、天城が落下位置を予測する。


「九十センチ右」

「いや七十」

「正解は八十」


誤差は笑い、笑いは緊張を溶かす。身体に誤差の幅を覚え込ませる。どんな精度よりも、壊れない余白のほうが大事な時がある。


(誤差は余白)ムス。

(余白があると壊れない)カミ。

(余白にプリン)アメ。


夕方、風が一度だけ、甘くなった。誰も気づかないくらいの、微かな甘さ。窓の外の桜の若葉が、ほんの一枚だけ裏を見せる。


(残り香)ムス。

(遠い)カミ。

(でも、来る)アメ。


僕は窓を閉めた。カーテンの縁に、目に見えない線が残っている気がした。爪の根元の痺れは、もうない。代わりに、胸の奥で何かが座った。


そこに座るのは、恐怖じゃない。覚悟だ。覚悟は固くなく、柔らかい。曲がる。折れない。器の形に合わせて自分の形を変えられるもの。


「——来い」


誰にも聞こえない声で、僕は言った。


(了解)ムス。

(了解)カミ。

(了解! プリンも買っとく)アメ。


夜。寮の廊下は静かで、遠くで掃除用のワゴンが金属の車輪を微かに鳴らす。来栖が巡回で通りかかり、掲示をもう一度押さえる。角に指を沿わせ、ピンの頭をまっすぐに直す。彼女の指先は、朝より少し温かい。


深夜、短い夢の縁で目が覚めた。窓の外は濃い群青。逆さの星は、ゼロ。ゼロは不在ではない。準備だ。


(数えられるゼロ)ムス。

(ゼロの次に、始まる)カミ。

(始まったら、プリン)アメ。


僕は胸の奥で、四拍の呼吸を三度。それから静かに、声にもならない声で呟く。


「——了解」


準備は、いつでもできる。ここで、いま。

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