魂の記憶
志緒原 豊太
第1話 逃避行
ソファーの横のサイドテーブルの上にある電話が鳴った。呼び出し音が三回鳴ってから、佐木田恵子は受話器を取り上げた。
受話器の向こうから少しくぐもった若い男の声が響いた。
「もしもし、オレだけど・・・」
「・・・よっちゃん?・・・その声は、まさか貴方よっちゃんなの? そうよ、その声はよっちゃんに間違いない。よっちゃん、いままでどこにいたの、連絡もせずに。お母さん心配していたのよ」
恵子は受話器にすがりつくようにして声を上げた。受話器を持つ手が微かに震えている。
「えっと・・・、ああ、連絡しなくてごめん。何しろここのところすごく忙しくてさ、電話もできなかったんだ。それでお母さん、実はオレいまヤバいことになっているんだ。お願い、助けてよ」
「ヤバいってどういうこと?」
「実は、会社から預かった小切手を入れた鞄を失くしちゃって、弁償しなけりゃならないんだ。弁償しないと会社クビになっちゃうんだ。お母さんお願い、お金を貸してよ」
「会社って、貴方いつ就職したの。お母さん知らなかったわ」
「えっと・・・つい最近さ、知り合いの紹介でね。それよりも、お母さん、お金何とかならないかな、頼むよ。本当に困っているんだ、ねえ、助けてよ」
「そんな、お金なんて急に言われても・・・いますぐなら五百万円しか用意できないけど。これじゃあ足りないわよね」
「五百万円! 足りる、足りるよお母さん。ピッタリだ、すごくピッタリ!」
「そうなの? よっちゃん、何か慌ててる?」
「慌ててなんかないさ、ホッとしたんだよ。ああ助かった、お母さん恩に着るよ。それじゃあさ、これから会社の同僚がお金を取りに行くから用意しておいてよ」
「何言ってるの! よっちゃん、久しぶりに電話してきてそれだけ? お母さんに顔ぐらい見せなさいよ、お金はよっちゃんが取りにきなさい。そうでなきゃお金は渡さないから、同僚の人だなんてとんでもない。いいわね、よっちゃん」
「分かった、オレが行くよ。だからお金はちゃんと用意しておいてね・・・そうだな、いまから二時間後、午後五時に行くよ」
「分かったわ、五時ね、お金用意しておくわ。三百万円だったっけ?」
「五百万円だよ。間違えないでね、会社をクビになるんだから」
「ハイハイ、分かった、五百万円ね。よっちゃん、必ずきてね・・・本当、久しぶりだわ・・・そういえばよっちゃん、旅行先で出会ったって言ってた娘さんとはどうなったの。いまも付き合っているの? お母さんに紹介してよ」
「あの・・・お母さん、オレ忙しいんで、もう切るね。それじゃあ五時に。五百万円だよ」
ブツリと電話が切れた。恵子は受話器を手に持ったままドサリとソファーに座った。
「ああ良かった、やっぱりよっちゃんは生きていたんだ。死んじゃったなんて信じられないもの・・・五百万円、五百万円と・・・ん? 三百万円だったっけ・・・そういや何時にくるって言ってたかしら」
恵子は独り言を呟きながら受話器を戻すと、フラフラとソファーから立ち上った。
極小暴力団江渡神組が仕切るオレオレ詐欺のかけ子部屋は、新宿区若松町の夏目坂通りに面した賃貸マンションの四階の二LDKの一室にあり、隣の部屋は江渡神組の組事務所である。
浅井孝輔はスマートフォンを切ると、かけ子の監視役の金子に声を掛けた。
孝輔は丸顔のぽっちゃりとした体形で、今年で三十二歳になる。独身の気楽さでこれまで気ままに生活をしてきたが、勤めていた会社が半年前に倒産し、それから幾つかのアルバイト先を転々としているうちに、とうとうオレオレ詐欺のかけ子になった。
「金子さん、やりました。引っ掛かりました、五本です」
金子は読んでいたスポーツ新聞を放り投げた。久々に大漁の知らせだ。
「五本も? 五百万だぞ、本当かよ」
孝輔はとぼけた顔に人懐っこい笑顔を浮かべて胸を張った。
「ばっちりですって。僕のことを息子だと信用しましてね、よっちゃんって呼ばれましたから」
「よし、それじゃ伊藤に連絡して受け子を手配しよう、場所はどこだ」
「江戸川区の平井なんですが・・・あのぅそれが、相手の婆さんは僕がこなきゃ金を渡さないって言ってるんですけど・・・」
金子はズボンのポケットからスマートフォンを引っ張り出しながら、眉をひそめて孝輔を見た。金子の顔に『これだから素人は困る』と書いてある。
「バカヤロウ、かけ子のお前が行ったって芝居ができないから、すぐばれちまうじゃねえか。息子さんは急に仕事が入ったと言えば大丈夫だよ、待ってろ。・・・・ああ、伊藤? 金子だ、うん・・・五本だ。受け子を頼む、場所は江戸川区の平井・・・ええ? 全員? 本当かよ・・・うん、無理か・・・分かった仕方ない、こっちで何とかする」
金子はスマートフォンを切ると、ゴテゴテと指輪をはめた人差し指をクイクイと曲げてこっちにこいと孝輔を呼んだ。孝輔は金子の前で気を付けの姿勢をとった。金子はサングラスを少し下にずらして、藪にらみの目ですくい上げるようにして孝輔を見てから、仕方ないというふうに首を振った。
「ダメだ、受け子は全員が出払ってて戻りは夜になるそうだ。こっちは五時だったよな・・・五本か・・・よし、孝輔、お前が行ってこい。しくじるんじゃねえぞ、分かってるな」
「任せてくださいよ、チョロいもんです。僕はこう見えて、中学生のときに演劇部に二週間いたんですから」
孝輔は自信満々で胸を張った。金子の藪にらみの眼が不安げに揺れる。
「二週間・・・まあいいや。それより孝輔、お前、そのなりで行くのかよ。婆さんには会社員だって言ったんだろう、それじゃあすぐばれるぞ。それでなくてもとぼけた顔をしてるんだから、客観的信用度は限りなくゼロだ。ジャケットとか持ってないのか・・・といっても、オレはアロハシャツだし・・・。それと、受け取った金を入れる鞄も持ってないのか。仕方ねえな、よし、待ってろ」
金子はかけ子部屋から出て隣の組事務所に入ると、部屋の中を見回した。
江渡神組の組事務所はかけ子部屋とは左右対称の二LDKの間取りで、玄関を入ったリビングルームの中央には安物のソファーとテーブルが置かれ、その横に組員用の事務机がふたつ並んでいる。壁の神棚の下には江渡神組の代紋がやや斜めに傾いて掛かっていた。奥の六畳が組長室、隣の四畳半が代貸の部屋となっている。
ソファーの上に赤と黄の入り混じった派手な柄のリュックサックが無造作に投げ出してある。その横に紺色のジャケットが寄り掛かるように置かれていた。金子はリュックサックとジャケットを掴むと、事務机の上で花札をしている留守番の四人に声を掛けた。
「これ、誰のものだ・・・誰も知らない?・・・それじゃちょっと借りてくぜ、直ぐ返すから」
金子はかけ子部屋に戻ると、孝輔にリュックサックとジャケットを渡した。
「これ着て行きな、ちったあ会社員らしく見えるだろう。借りもんだから汚すなよ。襟についている代紋は目立つから外してポケットに入れとけ。それと受け取った金はこのリュックサックに入れろ、落とすなよ」
「このジャケットちょっと大きいけど、まあ何とか。リュックサックは・・・中に何か入っていますが・・・」
モタモタしている孝輔を金子が叱りとばした。
「孝輔、時間がねえぞ、早く行け!」
「いけね、それじゃ行ってきます」
孝輔はジャケットを羽織るとリュックサックを片手に持って、かけ子部屋を飛び出した。
江渡神組の組事務所では、代貸の鮫島辰也が百九十五センチの長身を折り曲げるようにしてトイレから出てきた。口をへの字に結んで、しゃくれた顎を突き出すようにして顔をしかめている鮫島の額には脂汗が滲んでいる。鮫島は青い顔をして腹を擦りながら、組事務所にいるチンピラたちに声を掛けた。般若の面のように恐ろしい顔に似合わぬ頭の天辺から抜けてくるような甲高い声が部屋の中に響いた。
「マッタク、まだ腹が痛いぜ、何が悪かったんだろう、昼のカキフライかな?・・・オイ、お前ら! ここに置いてあったリュックサックはどうした? 俺のジャケットも無えぞ」
チンピラの前田が能天気な声を出した。
「ああ、あれ鮫島さんのでしたか。金子がちょっと借りるって言って、ついさっき持っていきましたよ」
「バカヤロウ! あのリュックサックには極村組の組長から預かったヘロインが入ってるんだ。なくしでもしてみろ、俺たち全員の首が飛ぶぞ。勝手に触るんじゃねえ。オイ前田、金子のところに行ってすぐ持ってこい」
鮫島は、すぐ前の椅子に座っていた前田の頭を拳骨で殴りつけた。前田は手に持っていた花札を床にまき散らしながら、椅子から転げ落ちるようにして立ち上がると、ヘイと返事をして事務所の入口に向かって駆けだした。
前田が玄関のドアノブに手を掛けたのと同時にドアが勢いよく開き、二十人ほどの男が部屋の中にドカドカと踏み込んできた。
男たちに突き飛ばされた前田は、床の上に尻もちをついたまま呆然と男たちを見上げている。一番先に組事務所の中に飛び込んできた中年の男が、頭上で紙切れをひらひらと振りながら大声で叫んだ。
「東中野警察だ! みんな動くな、大人しくしろ。おい鮫島、ほらオフダ(捜査令状)だ・・・見えたな、よしっ、捜索だ、徹底的にやれ。鮫島、それとチンピラどもは壁の方に下がれ、邪魔だ」
「東中野署の山岸じゃねえか。何だよいきなり、聞いてねえぞ」
鮫島はオフダを持った山岸に食って掛かった。山岸はオフダを畳んで背広の内ポケットに仕舞いながら、釣り上がった目で鮫島をじろりと睨んだ。山岸は東中野警察署暴力団対策課の刑事で、身長百五十センチほどの小柄でずんぐりした体形だが、柔道五段、剣道四段の猛者である。山岸は弁当箱のような四角い顔についた分厚い唇を歪めると、長身の鮫島を見上げるようにして言った。
「文句があるのかよ鮫島、こっちにゃオフダがあるんだぞ。やるか? 公務執行妨害でしょっ引くぞ。お前まだ執行猶予が残ってたよな、こっちと揉めねえ方がいいぞ」
鮫島は長身を折り曲げるようにして上から山岸を睨みつけた。ふたりが無言で睨み合いを続けていると、POLICEの大きな文字の入ったジャンパーを着た若い捜査員が近寄ってきて山岸に声を掛けた。
「山岸さん、奥の部屋はどうします? ドアにカギが掛かっているんですけど」
捜査員の方を振り向いた山岸の顔がどす黒く染まり、こめかみに青黒い血管がミミズのように浮き上がり始めた。
「捜索するに決まってんだろうが! 何モタモタしてんだ、ボケッ。カギが掛かっているならぶち破ればいいだろうが!」
山岸は奥の部屋のドアに走り寄ると、いきなりドアに強烈な前蹴りを食らわせた。ドアはミシリと音を立て、ドアの真ん中には山岸の靴底の後が黒く残った。山岸は近くにあった椅子を掴むと、頭上に振り上げた。それを見た鮫島が慌てて両手を広げて山岸の行く手を遮った。
「待ってくれ、山岸。開ける、ドアを開けるから無茶すんなよ。お前、ドアをぶち破っても修理代なんて払うつもりないんだろうが・・・やられ損だ、まったく」
「分かりゃ良いんだよ、早く開けろ」
山岸は頭上に振り上げていた椅子を床に放り投げると、鮫島に手招きをした。
「鮫島、お前んところのオヤジはどうした、中にいるのか」
「オヤジは二か月前から入院中だ。肝臓だよ、当分退院できねえ」
山岸はこれが刑事かというほど凶悪な顔をしてニヤリと笑った。
「ふん、当分じゃなくて永遠にだろうが。何だ、そうすると鮫島、お前が組長かよ。極小やくざとはいえ出世じゃねえか」
「うるせえや」
鮫島はドアの前に立つとズボンのポケットからキーを掴みだして、しぶしぶと組長室と代貸の部屋のドアの鍵を開けた。山岸が後ろに控えている捜査員たちに無言で顎をしゃくると、捜査員たちは一斉に部屋に飛び込んだ。山岸はゆっくりとした足取りで組長室に入り中を見回した。部屋の中では、捜査員たちが組長の机の引出しの中身を床にぶちまけ、ソファーをひっくり返している。
「鮫島、金庫を開けろ」
「いったい何なんだよ、こっちは何も隠していないぜ」
山岸は伸びあがるようにして鮫島を睨んだ。
「嘘つくんじゃねえぞ! おう、鮫島、極村組の極村泰道からクスリを預かっているだろう。こっちにゃ情報が入っているんだよ」
内心どきりとした鮫島だが、百戦錬磨のやくざは顔色ひとつ変えない。
「クスリって何だい、俺は知らないぜ」
「ヘロインだよ、ヘロイン! お前が午前中に極村泰道に呼びつけられて、極村組の事務所に出かけたのは分かってるんだ、大人しく出しな」
鮫島は口をへの字に曲げると、金庫のカギをポケットから出して床に放り投げ、これ以上何も言わないとばかりに上を向いた。山岸は鮫島を睨みながら、背広のポケットから煙草を出した。鮫島がギョロリと山岸を睨んだ。
「ここは禁煙だぜ」
「やくざが何かわいいこと言ってんだ。煙草ぐらい吸えよ、コノヤロウ」
「マッタク、どっちがやくざか分かんないぜ・・・」
山岸は唇を歪めながら百円ライターで煙草に火を付けると、ジリリと煙草の燃える音がするほど力いっぱい吸い込み、鮫島の顔に向かって勢いよく煙を吐き出した。鮫島は眉間にしわを寄せて山岸を睨みつけている。捜査員が山岸に声を掛けた。
「山岸さん、何もありません。チンピラが拳銃を一丁持っていたのと、ロッカーの中に日本刀が三本あっただけです」
「そんなはずはない、もう一度調べろ、徹底的にだ!」
山岸に怒鳴られた捜査員は首をすくめて離れて行った。鮫島はそれを見て鼻で笑った。
「そら見ろ、山岸。何もないって言ったじゃねえか」
「うるせえ鮫島、黙ってろ!」
山岸は煙草を床に投げ捨てると靴でグリグリと踏みつけた。山岸のこめかみに浮いた血管は膨れ上がり、いまにも切れそうにドクドクと波打っている。
マンションの廊下を捜査員たちが慌ただしく往来していると、かけ子部屋のドアが開き、読みかけのスポーツ新聞を右手に持った金子が顔を出した。
「何だよ、さっきからドタドタうるせえぞ! こっちは仕事中だ、静かに・・・ウオッ」
金子は警察のジャンバーを着た捜査員の姿を見ると、慌ててドアを閉めようとしたが、捜査員のひとりが咄嗟にドアの隙間に靴先を差し入れた。捜査員がふたりがかりでドアを強引に開けると、ドアにへばり付いていた金子は廊下に転がり出た。
「動くな、東中野警察だ! みんな両手を上げろ、何も触るんじゃないぞ」
捜査員のひとりが金子の腕を捻じり上げ、壁に押し付けた。部屋の中にいた七人のかけ子たちは、突然の出来事に何が起こったか理解できず、椅子に座ったまま呆然とした顔で捜査員たちを見ていた。
捜査員からの報告を受けてかけ子部屋に入った山岸は、部屋の中を見回すと分厚い唇を歪めてニヤリと笑った。
「何だこりゃ、ははーん、オレオレ詐欺のかけ子部屋か。ん? 金子じゃねえか。ということは江渡神組が噛んでるってことだな。とりあえず、全員を署に連行して締め上げるぞ。それと、この部屋も捜索だ、徹底的にやれ」
かけ子部屋の捜索が始まったことを知り、組事務所の入口に立ったまま鮫島は天を仰いだ。万事休す、天は我々を見放した。
「金子のバカが・・・これで江渡神組は終わりだ。ヘロインが見つかって押収されたら、極村泰道に殺される・・・」
鮫島はフラフラとした足取りで組事務所の中に戻ると、ソファーにどっかりと腰を下ろし、背もたれに身体を預けると上を向いて目を閉じた。隣の部屋から山岸の怒鳴り声が響いている。その声は潮騒、いや、子守歌のようだ。鮫島はその声を聞きながら少しウトウトと微睡んだ。
小さい鼾をかいていた鮫島は、いきなり肩を掴まれ激しく揺さぶられた。
「いい気なもんだな、オイ。こんな状況でお寝んねかよ」
山岸の声が少し疲れている。鮫島が目を開けて顔を正面に向けると、向かい側のソファーに山岸がドサリと倒れ込むように座った。山岸の顔は脂がねっとりと浮き出していて青黒く、つり上がった細い目は思い詰めたようにギラギラと光っている。
「鮫島、ヘロインはどこに隠してんだ、いい加減に白状しろ」
鮫島は山岸が何を言っているのか一瞬分からなかった。金子が持ち出したヘロインは見つからなかったらしい。
「・・・何を言ってやがる?・・・。そうかい、ヘロインはなかったのかい・・・そうだろうよ、だから最初から何もないって言ってるじゃねえか。ガセネタだったんだよ山岸、へへへ、ご苦労さん」
鮫島の顔にゆっくりと笑みが広がった。山岸はソファーから身を乗り出すと、鮫島の胸ぐらを両手で掴んで乱暴に引き寄せた。ふたりの鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけると、山岸は鮫島を睨みつけた。
「舐めやがってコノヤロウ。とにかくお前ら全員を逮捕する。銃刀法違反と詐欺容疑だ、締め上げて吐かせてやるから覚悟しとけよ」
鮫島は片手で山岸の手を乱暴に振り解くと、ゆっくりと襟を直してからニヤリと笑った。
「好きにしな、弁護士がくるまで何も喋らないぜ」
山岸はソファーから立ち上がると、部屋の中にいる捜査員に声を掛けた。
「よし、撤収だ。全員逮捕して署に連れていけ」
JR総武線平井駅の南口に孝輔が姿を現したのは、午後四時四十五分を少し回っていた。約束の五時には何とか間に合いそうだ。
孝輔は借り物のブカブカの紺色のジャケットを着てリュックサックを片手に持ち、鼻歌交じりで改札を出た。駅前のロータリーを横切る短い横断歩道を渡りながら、孝輔がふと右手の方に視線を向けると、駅前交番の前で立番をしている若い巡査と目が合った。学生の頃から何も悪いことをしていなくても、警察官の姿を見るとドキドキしてしまう孝輔だ。オレオレ詐欺の受け子という後ろめたい立場の孝輔は、思わずギョッとして慌てて顔を背けた。緊張で身体がガチガチになり、足早に交番の前を通り過ぎようとして足がもつれた。
挙動不審な孝輔の素振りを見て首を傾げた竹崎巡査は、孝輔に声を掛けた。
「もしもし、大丈夫ですか」
声を掛けられた孝輔はビクリと棒立ちになり、顔が耳まで真っ赤に染まった。喉がカラカラに乾いて上手く声が出ない。顔面から汗が噴き出してきた。とにかく、何とかしてここを切り抜けなければならない。
「ええ、もちろん、ちょっと立ち眩みでふらついただけです。日差しがまぶしくって・・・あ、曇ってますか・・・ははは。いやいや、勤務ご苦労様です。決して怪しいもんじゃありません」
「いやいや、何か怪しいですね。ちょっと交番の中に入って下さい、お話を聞かせてもらいましょう」
孝輔はブルンブルンと首を横に振る。交番の中に連れ込まれたら最後だ。
「人と会う約束をしていまして、遅刻しそうなんです。ああ、もうすぐ五時になる、それじゃあ、急いでいますんで・・・」
孝輔がジリジリと後ずさりしながら竹崎巡査の前から離れようとすると、いつの間にか孝輔の背後に立っていた中年の内山巡査が声を掛けた。
「お兄さん、そう言わずに、すぐ済みます。職務質問ってやつですよ。ちょっと話を聞かせてもらうだけですから、さあ、交番の中へ」
内山巡査は孝輔の右腕をしっかり掴むと、孝輔の身体を肩で押すようにして交番に向かって歩き出した。
・・・もうダメだ。しくじったら金子さんにどやされる。いや、まさかコンクリート詰めにされて東京湾に・・・孝輔の頭の中を金子の怒鳴り声が駆け巡る。
孝輔は眼の前が真っ暗になり、本当に立ち眩みを起こしたかのようにフラフラとした足取りで交番に連行されていく。交番の周りには何事かと興味深げな顔をした通行人が集まってきた。通行人の輪の中から佐木田恵子が孝輔に声を掛けた。
「よっちゃん、こんな所で何やっているの。時間になっても顔を見せないから、てっきりよっちゃんが道に迷ったんだろうと思って、お母さん駅まで迎えにきたのよ。お巡りさん、ご苦労様、私の息子が何か?」
内山巡査が恵子を振り返った。
「ああ、三丁目の佐木田のお婆さん。この方はお婆さんの息子さんですか?」
「ちょっと、お婆さんだなんて失礼な、お嬢さ・・・それは無理か、奥さんって言いなさいよ。そうよ、この子は私の息子の良夫です。久しぶりに帰ってきたの、ほら、よっちゃん、帰るわよ。お巡りさんにご挨拶しなさい」
恵子からいきなり『よっちゃん』と声を掛けられた孝輔は、一瞬何が起こったのか分からなかった。
・・・この婆さんは何を言っているんだ。よっちゃん? どこかで聞いたような・・・三丁目の佐木田・・・これから僕がお金を受け取りにいく相手の婆さんの名前だ。なぜ僕のことが分かったんだろう・・・そんなことはどうでもいい、とにかくこの場から逃れることが先決だ。・・・孝輔の腹が決まった。
孝輔は言われたとおりにふたりの巡査に向かってぺこりとお辞儀をした。ポカンとした顔をしたふたりの巡査の横を、恵子に手を引かれながら孝輔は商店街に向かって歩いた。輪になっていた通行人たちが興味を失った顔をして離れていく。
竹崎巡査が内山巡査に尋ねた。
「内山巡査、いまのお婆さんご存じなんですか」
「ああ、平井三丁目の佐木田恵子さんだよ。ご主人はだいぶん前に亡くなって、ひとり暮らしなので、心配だから巡回訪問で時々様子を見に行っているんだ。もう七十歳になるんだったっけ、息子さんがいたとは知らなかった。若い頃に息子さんを失くしたようなことを言ってたような気もするが」
「息子さんが生きてたってことですかね」
「実は、佐木田恵子さんは数年前から認知症の気があってね。時々、いや、しょっちゅう記憶が混がらがって、言うことがちぐはぐになるんだ。まあ、自分の息子を間違えることもないだろう。あの息子も何も言わずに付いて行ったしな」
竹崎巡査はフーンと頷いた。横断歩道を渡って商店街に向かって歩いていく恵子と孝輔の背中が、買い物客で混雑している商店街の人ごみの中に紛れて消えた。
平井三丁目の住宅街の中に木々に埋もれた築四十年の古い一軒家があった。スレート葺きの二階建てで五坪ほどの庭にはツツジが青々とした葉を茂らせ、その横で金木犀が金色の粉を吹いたように輝き、辺り一面に甘い香りを漂わせている。恵子が錆びの浮いた門扉を手で押すとキイキイと悲鳴のような音を立てた。
孝輔は表札の下の住居表示を見た。確かに詐欺電話を架けた相手方の婆さんの家に間違いない。何だかよく分からない状況だが、とにかく最悪の事態は避けることができた、後は金を受け取ってさっさと帰るのだ。
恵子は玄関ドアの前で、手に持った巾着袋からとげぬき地蔵のお守りが括り付けられた鍵の束を取り出し、玄関ドアの鍵を開けると家の中に入った。孝輔はキョロキョロと辺りを見回しながら恵子の後に続いた。その姿はまさに不審者だ。
三和土でサンダルを脱いだ恵子がおもむろに振り返り、後ろに立っている孝輔を見た。
「あれ、貴方はだあれ? なぜ私の家に居るの? 新聞の勧誘・・・じゃなさそうだけど。まさか泥棒!」
恵子は顔をこわばらせると、胸の前で両手を合わせて巾着袋をギュウッと握り、立ったまま孝輔を睨みつけた。孝輔は何が何だか分からないまま、玄関に立ってオロオロと視線を周囲に泳がせた。
「・・・えっと、オレ・・・あ、オレ、オレ詐欺・・・違う。いや、オレだよ母さん、よっちゃんだよ」
「何言ってんの、よっちゃんは二十年前に死んじゃったわよ。嘘つきは泥棒の始ま・・・貴方やっぱり泥棒ね! キャー助けて」
恵子は警察警察と叫びながら居間に駆け込んだ。咄嗟に恵子の後を追いかけようとした孝輔は、三和土に脱いであった恵子のサンダルに足を取られて、ドタンという派手な音を立てて上がり框の床に頭から倒れ込んだ。ゴッと鈍い音がしておでこの内側に火花が散り、孝輔の目の前が暗くなった。
孝輔の心臓がドクリと音を立てた。
ドクドクという血流の音が耳の奥でこだまする。意識の奥底から何かがゆっくりと浮かび上がってくる。それはもうひとりの自分だ。それは若い男の姿をしている。誰だ? どこかで見たことがあるが、思い出せない。それは何かを叫んでいる。
『お母さん』
その声を聞いた途端、孝輔の意識が戻った。
孝輔が目を開けると、上がり框に倒れている孝輔の頭を、恵子が優しく撫でていた。
「よっちゃん、なぜこんな所で寝ているの、風邪ひいちゃうわよ。あらよっちゃん、靴ぐらい脱ぎなさいよ、お行儀の悪い。さあ、寝るなら居間のソファーにしなさいよ」
「あの・・・よっちゃん? いま、よっちゃんって言った?」
この婆さんは何を言っているんだ? 恵子の態度の変化に孝輔の頭の中が混乱する。
「よっちゃんによっちゃんって言って、何か悪い? 何言ってんの、ほらっ早く立って」
孝輔は恵子に抱きかかえられるようにして立ち上がり、居間に入った。居間の中央には白いレースの掛かったソファーがあり、壁際には腰ほどの高さの木目調のローチェストが置かれていて、その上のガラスケースに入った大きなフランス人形が水色の大きな瞳で孝輔をジッと見ている。
ソファーに座らされた孝輔は、濡れタオルをおでこに当ててたん瘤を冷やしていた。恵子は鼻歌を歌いながらキッチンからお盆を持って出てくると、ソファーの前のテーブルにコーヒーカップを並べ、反対側のソファーに腰を下ろした。
孝輔の前に座った恵子は七十歳という年齢相応に老けてはいるが、若い頃はもてはやされるような美貌だったのだろう。ほっそりとした姿は老齢の女優のような上品な雰囲気を身に纏っている。うなじが隠れるほどのショートヘアーは見事な銀色をしている。
恵子はコーヒーカップを持ち上げると一口啜り、ハンカチで口を軽く押えてから孝輔に話しかけた。
「よっちゃん本当に久しぶりね。やっぱりよっちゃんは死んでなんかいなかった、お母さんはずっと信じてたのよ」
孝輔は確信した。やはりこの婆さんは僕のことを息子だと思っている。声だけでなく顔も似ているだろうか?・・・とにかく、これは好都合だ。孝輔は神妙な声を出した。
「お母さん、心配かけてゴメン。このとおり元気でやってるよ」
「本当にあんたって子は・・・。そういえばよっちゃん、旅行先で出会った娘さんとはどうなったの。いまも付き合っているの? お母さんに紹介してよ」
「その話はまた後でするからさ。それよりも電話で話したように、僕は今大変なことになっているんだ。お金は用意してくれた?」
恵子がポカンとした顔で孝輔を見つめた。
「電話? お金? 何のこと・・・」
孝輔の胸の中で、不安がムクリと頭をもたげた。孝輔の語気がつい荒くなる。
「つい二時間くらい前に電話したじゃないか。会社から預かった小切手を入れた鞄を失くしちゃって、弁償しなけりゃならない。弁償しないと会社クビになっちゃうって。お母さんお金貸してくれるって言ったよね」
「会社って・・・貴方いつ就職したの? お母さんちっとも知らなかった」
「・・・えっと・・・つい最近、知り合いの紹介で就職したんだってば。それよりも、お母さん、お金何とかならないかな、頼むよ」
孝輔は両手を合わせて、拝むようにして恵子を見た。恵子は小首を傾げて、必死で何かを思い出そうとしている。
「そう言えばそんな電話があったような・・・そうだ思い出した、三百万円だったっけ?」
「三百・・・イヤだな忘れないでよ五百万円だよ。五百万円がないと僕は会社クビになるんだよ。お母さん、お願い。何とか五百万円用意してよ」
恵子はコーヒーカップをテーブルに置くと、大きな目でジッと孝輔を見た。孝輔はその真っ直ぐな視線に耐え切れず、思わず下を向いた。孝輔のその姿は泣いているように見える。恵子はフウッとひとつため息をついた。
「全く仕方ないわね、よっちゃんは。子供の頃からそう。困ったらお母さんの前で泣けば何とかなると思って。分かったわよ、よっちゃん、お金貸してあげるわ。・・・えっと、三百万円だったっけ?」
孝輔はパッと顔を上げた。
「違う違う、五百万円だってば。何回言えば・・・、まさか、三百万円しか用意していないの? それならそれで、まあ、何というか、ないよりはましだよな。金子さんだって怒らないだろう、うん、手っ取り早く三百万円でいいよ」
「金子さんって誰? 会社の人?」
「会社の上役だよ、すごく怖いヒト。派手なアロハシャツなんか着てさ・・」
「よっちゃんの会社、アロハシャツ着て仕事しているの? そういえばよっちゃんのジャケットもやけにブカブカね、サイズが合ってないじゃない」
迂闊なことを言うとボロが出る。ここまできて失敗は許されない。孝輔はジャケットの前をかき寄せるようにして身体に巻き付けると、恵子に向かって取り繕うような笑顔を見せた。
「ははは、痩せたんだ、減量したんだよ。健康が一番だからね。忙しくてジャケットを買い替える暇がなかったんだ。それより、お母さん、三百万円はどこ? 早く持って行かないと会社クビになっちゃうんだ、時間がないんだけど」
孝輔の焦りまくった態度とは裏腹に、恵子はのほほんとした顔で珈琲を啜った。
「よっちゃん、痩せたっていう割にはぽっちゃりしてるわね、それじゃあ以前は相当太ってたのかしら・・・」
「お母さん、お金」孝輔が苛立たし気に急かす。
恵子は不満げにムウウと唇を突き出した。
「分かってますよ、マッタク、お金お金って・・・ちゃんと用意していますよ」
そう言った恵子の目がフラリと宙をさまよった。
「ええっと・・・そういえばお金をどこに置いたっけ? 確か封筒に入れて・・・あれっ、どこへ置いたんだろう。よっちゃん、貴方知らない?」
「僕が知る訳ないじゃない、お母さんしっかりしてよ。そこのローチェストの上とかテレビの横とかに置いてないの?」
孝輔が呆れたような声を出した。恵子は巾着袋を掴んでソファーから腰を上げると、ローチェストの上や引き出しの中を探し、次にキッチンに入ると流しの引出しや食器入れの棚の中を覗き込んでいる。孝輔も恵子の後ろに付いてキッチンの中を見回した。
「そうだ、ひょっとして・・・」
「お母さん、電子レンジの中なんて絶対にないよ」
孝輔は電子レンジの扉を開けようとした恵子を押し止めた。恵子はまだ疑わし気に電子レンジを見ている。
「お母さん、二階の寝室とか書斎とか、そこに置いているんじゃない?」
恵子が驚いた顔をした。
「あら、うちの二階に書斎なんてあったかしら」
「知らないよ、例えばって話。二階を探しに行こうよ」
二階には中央の細い廊下の左右に一部屋ずつ、廊下の突き当りに一部屋の合計三部屋と洗面所付きのトイレがある。
恵子は廊下の突き当りの部屋のドアを開けた。十二畳の広さの洋間で壁際に小さなベッドが置かれ、もう一方の壁には天井近くまである大きな衣装箪笥がどっしりと立っている。正面の大きなアルミサッシの向こうは幅二メートルほどのベランダが付いている。白い薄手のカーテンの向こうから、夕方の陽光が力なく部屋の中を照らしている。
外は薄ぼんやりとした夕暮れ時で、金木犀の香りに混じってどこかで魚を焼くにおいが漂っていた。恵子はベランダに出ると、手すりに両肘を乗せてベランダから顔を突き出すようにして外の景色を眺めた。孝輔も恵子に続いてベランダに出ると、恵子の横に並んで立った。ベランダの正面には、家の前の小さな路地を挟んで十階建てのマンションが建っている。この距離だとマンションのベランダにいる人の顔までよく見える。
「ねえ、よっちゃん、そろそろ晩御飯の時間ね。よっちゃん、今晩は何食べたい? お母さんよっちゃんの好きなもの何でも作ってあげるわよ。それとも、奮発してお寿司でも取ろうか。よっちゃんはかっぱ巻き大好きだったわよね、お母さんは上握りにしようかな」
何でお母さんだけという言葉をグッ呑み込むと、孝輔は苛立たしげに言った。
「お母さん、僕たちはお金を探しに二階にきたんだよ。部屋に入って早く探そうよ。晩御飯の話はその後でいいじゃない」
恵子がキョトンとした顔で孝輔を見た。
「お金って何の話? お母さん聞いてないわよ」
「ええっ、そんな・・・ひょっとして、お母さん・・・認知症?」
孝輔の胸に不安がよぎった。そういえばこれまでのやり取りはどうもちぐはぐだ。認知症のせいなら合点がいく。
恵子は心外だという風に腰に手を当てて孝輔を睨んだ。
「何を言っているの。お母さん、認知した子供なんていないわよ、子供はよっちゃんだけ。あ、でもひょっとして死んだお父さんがこっそり隠れて認知した子供がいたりして・・・」
「お母さん、その認知じゃなくって・・・まさかわざと言ってる?」
恵子はウフフと笑ってごまかした。どこまでが本気なのか分からない。恵子は何かに気が付いたように視線をベランダの外に向けた。
「ねえ、よっちゃん、あそこ見て。ほら、向かいのマンションの五階の右端の部屋。ベランダで男の人がケンカしてるわ」
恵子の指差した方向に孝輔が目を向けると、確かにマンションのベランダにふたりの男がいた。男の背後にもうひとりの男が回り、羽交い絞めのようにして身体の自由を奪っている。よく見ると、背後の男は両手に黒い手袋をして紐を握り、その紐で前の男の首を絞めていた。前の男は両手を振って激しく抵抗していたが直ぐに動かなくなった。
背後の男は紐を外してポケットに入れると、ベランダから周囲を見回した。孝輔は咄嗟にその場にしゃがんだ。恵子は男の方を指差したままボンヤリと立っている。男の目と恵子の目が合った。男は驚愕したような顔で恵子をじっと見つめてから不意に恵子から視線を外し、マンションの部屋の中に消えた。
孝輔は恐る恐る手すりから顔を出して向かいのマンションを見た。ベランダには既に人影が無い。恵子は手すりに両肘をのせたままボンヤリと夕暮れの景色を見ている。孝輔がほっとして立ち上がり恵子の肩の手を置くと、恵子は孝輔の方を振り返った。
「ねえ、よっちゃん、あの男の人たちどうしちゃったんだろう。後ろの男の人が前の男の人の首を絞めてたわよね、殺人事件じゃない? 警察に電話しようか」
警察という言葉を聞いて孝輔はギョッとなった。この場に警察を呼んだりしたら、孝輔の方が逮捕されてしまう。
「いやお母さん、警察はまずいよ、殺人事件だなんて・・・はっきり見たわけじゃないし」
狼狽えたような声を出した孝輔に向かって、恵子はきっぱりと言った。
「よっちゃんはしゃがんでいたから見えなかったんじゃないの。お母さんにはハッキリと見えたわよ、それに首を絞めてた男の人と目が合っちゃった。なんか怖い顔してお母さんの方を睨んでたわ。出っ歯でネズミみたいな顔をしてて、おでこにこんな大きなほくろがあったわ。殺人鬼よ殺人鬼」
恵子は自分のおでこを指差した。孝輔が驚きの声を上げる。
「えっ、そいつと目が合ったって・・・ということは、お母さんの顔もそいつに見られたってことだよ」
恵子が失礼ねと言わんばかりに唇を尖らせた。
「お母さんはあんな出っ歯じゃないし、ほくろなんてないわよ」
「いやいや、ほくろの問題じゃなくって、そいつが殺し屋なら目撃者をそのままにしておかないよ。お母さん、とっても危険だ」
恵子が呆れたような声を出した。
「だから警察に電話しようって言ってるじゃない」
孝輔はウウウと唸った。オレオレ詐欺のかけ子兼受け子の立場である孝輔としては、警察の厄介になる訳にはいかないのだ。
「警察は・・・ダメだ、逮捕されちゃうよ」
「だから、逮捕してもらうんじゃないの。何言ってんのバカね」
恵子は聞き分けのない子を諭すように孝輔の肩を揺すった。孝輔の頭の中は焦燥感でチリチリと焼けている。
「とにかく、ここに居ちゃ危険だ。お母さん早く逃げよう」
孝輔は恵子の手を掴むとベランダから離れ、寝室をバタバタと駆け抜けて二階の廊下に出た。
一階からガチャリという玄関のドアが開く音がした。
孝輔と恵子は顔を見合わせた。
「いま、玄関のドアが開いた音がしたよね」
「回覧板かしら」
この期に及んでも恵子の声には緊張感がない。
「まさか、さっきの殺人犯が・・・」
孝輔は人差し指を唇に当てて恵子に向かって静かにするように伝えると、ソロリソロリと廊下を進み、階段の上に腹ばいになった。その姿勢のまま孝輔はそっと一階を覗き込んだ。
マスクで鼻と口を隠し黒い手袋をした男が土足のまま居間に入ってきた。男の右手には刃渡り二十センチほどのナイフが鈍く光っている。男は無言のまま素早く周囲を見回して一階には人影が無いことを確認すると、キッチンの横にある階段に向かってゆっくりと歩き出した。
孝輔の背中を冷たい汗が流れ落ちた。やはり殺人犯が目撃者の口を封じるためにやってきたのだ。やつに見つかれば殺される。逃げるしかない。
孝輔は音を立てないようにゆっくりと後ずさりすると、恵子の腕を掴み、忍び足でベランダに引き返した。孝輔は手すりから身を乗り出してベランダの下を覗き込んだ。
「ダメだ、お母さん、やつが二階に上がってくる。ベランダから飛び降りよう」
「イヤよ、お母さん空飛べないもん、落っこちちゃうじゃない。死んじゃうわ」
「二階から落ちたって足を捻挫するか悪くても骨折する程度だよ、死にやしないって。それよりもあいつに捕まったら殺されちゃうんだよ」
孝輔は殺されちゃうというところに力を入れた。それは恵子だけではない。孝輔も同様の目に遭うのだ。
「よっちゃんがあいつと戦ってお母さんを守ってよ。それが親孝行ってもんよ」
「そんな・・・親孝行と言われても」
本当の母親でもない恵子を守るために殺人犯と戦うなどまっぴらごめんだ。とにかく逃げるしかないのだ、場合によっては自分ひとりでも・・・。孝輔の心が揺れる。
孝輔と恵子が立っているベランダに、でっぷりと太った三毛猫がどこからともなくヌルリと入ってきて、よたよたとした足取りで恵子に近づいた。
「あら、お隣のジュリーじゃない。ほらほら、こっちへおいで」
恵子はその場にしゃがむと両手を三毛猫に向かって差し出した。ジュリーと呼ばれた三毛猫は、猫に似合わぬ緩慢な動きで恵子の両手をすり抜けようとしたが、あっさりと恵子に首根っこを掴まれ、恵子の胸に抱きかかえられた。ジュリーはさもいやそうに目を瞑ると大きくひとつあくびをした。
「お母さん、猫に構っている場合じゃないよ、さあ立って・・・」
孝輔が恵子の腕を掴もうとしたとき、孝輔の背後でバタバタという足音が響いた。孝輔が慌てて振り返ると、ナイフを持った男が廊下を走っている。孝輔を見つめる男の目が冷たく笑っているようだ。それは人を殺すことを躊躇しない殺人犯の目だ。孝輔の背中がゾワリと総毛だった。
「わわわ、まずい、お母さん、ボクが先に飛び降りるから後からきてね」
孝輔がベランダから身を乗り出した。恵子が孝輔のジャケットの背中を掴んだ。
「ちょっと、よっちゃん、お母さんを置いてひとりだけ逃げる気?」
孝輔は肩越しに振り返ると、恵子の顔を見た。
「だって、本当のお母さんじゃ・・・(な・・・い・・・)」
孝輔は言葉の最後の部分を呑み込んだ。
ドクリ ドクリ・・・
孝輔の心臓が音を立て、孝輔は思わず胸を叩いた。身体が金縛りにあったように動かない。
「ダメだ、クソッ、何だか胸がドキドキする」
激しい動悸が孝輔を襲い、ドクドクという血流の音が耳の奥でこだまする。目の前の景色が白くぼやけた。意識の奥底からもうひとりの自分がゆっくりと浮かび上がってくる。
それは何かを叫んでいる。
『お母さんを守れ』
その声を聞いた途端、孝輔の視界がスッとクリアになり、身体が軽くなった。
恵子が大きな目で孝輔を見つめている。孝輔を信頼しきった目だ。その眼を見た孝輔の心の中にポツンと勇気の火が灯り、それは孝輔の身体を熱くした。そうだ、お母さんを守るんだ。それは僕の使命だ・・・違う! 親子なら当たり前だ! 孝輔の顔がスッと引き締まり、何かに憑依されたかのように精悍な顔付きに変わった。
「こうなりゃ仕方ない。さあきやがれ、殺人犯!」
孝輔は近づいてくる男に向かって素手の両手を前に突き出し、少し腰を落とした。
武術の心得は全くない孝輔だが、昔見たカンフー映画の俳優の姿を真似してみた。体形はまるで違うが仕方がない。しかし、身体から立ち昇る闘気は本物だ。
孝輔の姿を見た男は一瞬足を止めたが、右手のナイフを握り直すとスタスタと間合いを詰めた。男は孝輔に無造作に近づくと、いきなりナイフを下から斜め上に振り上げた。銀色の蛇が孝輔の顔面目掛けて跳びかかる。
孝輔は咄嗟に身体を捻りながら仰け反るようにして何とかナイフの刃を躱したが、孝輔の左頬からうっすらと血が滲んできた。微かな痛みを感じて孝輔が頬に手を当てると、指が血で赤く染まった。
「ウワッ、血だ」
血を見た孝輔の闘気が見る見る萎えていく。
驚いた孝輔の顔を見て男はニヤッと笑うと、次の攻撃に移るために足を一歩前に踏み出した。
「よっちゃん!」
恵子は叫びながら思わず立ち上がった。恵子の声に驚いた三毛猫のジュリーは、恵子の腕の中から高々と跳び上がるとナイフを持った男の頭上にひらりと舞い降りたが、途端に足を滑らせて四本の足の爪でバリバリと男の顔面を引っ掻いた。
「ひいい・・・ね、猫!」
ジュリーに顔面を掻きむしられた男は悲鳴を上げると、手に持ったナイフを放り投げ、両手を振り回してジュリーを払い退けた。床に跳び降りたジュリーが牙をむき、男に向かってシャーという威嚇音を発した。それを見た男は両目を一杯に開いてイヤイヤをするように首を左右に振り、孝輔たちに背中を向けると脱兎のごとく走り去った。
バタバタと廊下を走る音に続いてゴロゴロズドドーンと大きな音がして家が揺れたところを見ると、男は階段から転げ落ちたのだろう。
孝輔と恵子はベランダで呆然とした顔をして立っていた。恵子は胸の前で巾着袋を握りしめている。ともかく、ふたりは助かったのだ。
ふたりの足元でジュリーがふてぶてしい顔をして大きなあくびをすると、その場で横になりペロペロと毛づくろいを始めた。殺人犯を撃退するなど朝飯前だとでも言いたげだ。静かになったベランダに、金木犀のほのかな香りに混じってどこからかカレーの匂いが漂ってきた。それはどこにでもある平和な夕暮れどきの香りだ。
「何か分かんないけど、よっちゃん、私たち助かったみたいね」
「あの男、猫に怯えて逃げたように見えたけど・・・猫恐怖症かな、それともこの猫、実は化け猫だったりして」
「出っ歯でネズミみたいな顔をしてると、やっぱり猫が怖いんじゃない? 本能よ本能、動物の本能。本能に衝き動かされたのよ」
孝輔がムウウと首を捻った。
「本能ねぇ・・・ともかくお母さん、いまのうちに逃げよう。やつがいつ戻ってくるか分からないし」
「そうね、今度は犬を連れてきたりして・・・猫じゃ太刀打ちできないわ」
恵子の声が聞こえたのか、ジュリーがベランダからヌルリと出て行った。
孝輔と恵子は恐る恐る階段を下りた。孝輔の手には寝室の衣装箪笥に入っていた大きな裁ちばさみが護身用として握られており、恵子の手には柄の先にゴムボールの付いた孫の手が握られているが、こちらは護身用にならない。敵の裏をかく、いや、背中を掻くのが関の山だ。
一階に男の姿はどこにもなかった。居間の床のカーペットには靴の足跡が至る所に付いている。孝輔はフウッと息を吐いて肩の力を抜くと左手で額の汗をぬぐい、ソファーの上に置いてあったリュックサックを掴み上げた。恵子は手に持った孫の手をクルクルと回しながら孝輔に尋ねた。
「ねえよっちゃん、そのリュックサックの中には何が入っているの? 着替えの洋服?」
「いや、これは借り物でね、回収したお金を目立たないようにこれに入れて・・・ううっ」
下を向いた孝輔を恵子がキョトンとした顔で見た。
「回収したお金って何」
「いやだな、回収じゃなくて借りただよ。お母さんから借りたお金を入れようと思って持ってきたんだ」
「お母さんから借りる? お金を? 何言ってるの、お母さんそんな話は聞いてないわよ」
恵子が大げさに首を横に振った。孝輔はガックリと項垂れた。ダメだ、オレオレ詐欺は失敗だ。
「はああ・・・やっぱりお母さん認知症なんだ」
「何を言っているの、お母さん、認知した子供なんて・・・」
孝輔は慌てて両手を上げて恵子を宥めた。
「分かった、分かったから。お母さん、とにかく逃げる準備をしてよ」
孝輔はそう言いながら何気なくリュックサックの中に手を入れた。中に何かが入っている。孝輔は新聞紙が巻かれた弁当箱ほどの大きさの包を取り出した。ガサガサと新聞紙を広げると中から白い粉の入った透明なビニール袋が出てきた。スーパーなどで売られている砂糖袋程の大きさで重さは一キログラムあり、中の白い粉はしっとりときめが細かくキラキラと光っている。
孝輔は袋を手に取ると首を傾げた。
「なんだろう、これ? 江渡神組の組事務所にあったってことは、まさか麻薬? ヘロイン?」
小さな旅行鞄を持った恵子が孝輔の手元を覗き込んだ。
「あらよっちゃん、それヘロインなの? すごーい」
孝輔はビニール袋を慌てて背中に隠した。
「お母さんトンデモナイこと言わないでよ。これはただの小麦粉だよ。うどんが食べたいなって思って買ったんだ」
恵子は不満げに下唇を突き出した。
「ヘロインだってよっちゃんが言ったんじゃないの・・・それにしても、粉からうどんを作るって本格的ね。よし、お母さんが作ってあげようか、お母さんそば打ち教室に通ってたから、うどんだって何とかなると思うわ。ちょっと待ってて準備するわ」
恵子は孝輔に背を向けると、キッチンに向かって歩き始めた。腕まくりしているところを見ると、これからうどんを作る気だ。
「お母さん、早く逃げなきゃ。うどんは後で、ねっ。さあ行こうよ」
孝輔はビニール袋を新聞紙で巻いてリュックサックに投げ入れると、恵子の手を引いて慌ただしく玄関に向かった。
オレオレ詐欺の失敗はともかく、江渡神組のヘロインを持ち逃げしたなどと疑われては、命が幾つあっても足りない。まずは、江渡神組に戻ってヘロインを返し、その後でお母さんの身の安全を確保しよう。お母さんのあの様子では、殺人事件のことをきちんと説明できるか疑わしい。殺人事件が明るみになってから目撃者として警察に保護してもらった方が無難だ。孝輔はこれからの行動を頭の中でまとめた。
玄関には男が逃げる際に蹴飛ばした孝輔の靴や恵子のサンダルが散乱していた。恵子は玄関にひっくり返っていたサンダルをつっかけると、モタモタと靴を履いている孝輔に尋ねた。
「よっちゃん、どこへ行くの?」
「とにかく、この家から離れなきゃ。とりあえずタクシーを拾って、江渡神・・・いや、会社に顔を出して、その後で僕の部屋へ行こう。そこでちょっと様子を見てみようよ。隣のマンションの殺人事件がテレビや新聞で報道されたら、お母さんは警察に行って今日の事情を話して保護して貰えばいいよ」
「お母さんだけ? よっちゃんはどうするの、警察に保護して貰わないの?」
「僕? 警察はちょっと・・・。まあ、僕はやつに顔を見られていないし、大丈夫だよ」
ようやく靴を履き終えた孝輔は、立ち上がるとリュックサックを背負い、裁ちばさみを握りしめた。恵子は巾着袋を首から下げて右手に小さな旅行鞄、左手に孫の手を持って孝輔の顔をジッと見つめている。孝輔は右頬に笑窪を浮かべながら、恵子に向かってゆっくりと頷いた。何だかおかしなことになったが、とにかくお母さんは僕が守ると孝輔は心に誓った。
「よし、出発だ」
孝輔を見つめる恵子の目が青白く光っている。何かを思い出したようだ。
「そうね。約束どおり、北へ・・・竜飛岬に・・・」
「え? お母さん、何か言った?」
孝輔が振り返ると、恵子は静かに笑っていた。
日が暮れて薄暗くなった路地には人影が無く、金木犀の香りだけが漂っている。孝輔と恵子は人通りの多い駅前商店街に向かって足早に歩いた。孝輔と恵子の姿が路地のかどを曲がり見えなくなると、路地の奥に駐車していた黒のベンツのエンジンが掛った。ベンツはふたりの後を追ってゆっくりと動き出した。
フロントガラスの奥で、出っ歯がキラリと光った。
(第一話おわり)
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