No.2
Dr.にゃんこ
第1話
雨谷 茜は、薄暗い資料室の中で一人、書類の山と向き合っていた。
蝋燭の火は小さく揺れ、束ねられた羊皮紙が影を作る。鼻をくすぐるインクと紙の匂いは、彼女にとって馴染み深いものだった。異世界に召喚されてから十二年、この匂いと共に生きてきたといっても過言ではない。
茜の役割はいつだって「裏方」だった。
表の戦場で剣を振るうのではなく、裏で情報を集め、敵の弱点を探り、潜入して証拠を掴み取る。そうして仲間にとって都合のいい舞台を整えるのが彼女の仕事だった。
ギルドのメンバーたちはその成果を享受しながらも、彼女を認めることはなかった。
「下っ端の便利屋」
「紙束を抱えて走るだけの影」
そんな陰口を何度聞いたことだろう。
心の奥では怒りも悔しさもあった。だが茜は顔に出すことなく、ただ黙って任務を果たし続けた。異世界に放り込まれ、生きる術を模索するしかなかった日々。居場所を得るために必死に食らいついた結果、彼女は最高の潜入捜査官と呼べるほどの腕を磨いた。
その努力を知る者は、いない。知ろうともしない。
だからといって投げ出すことはできなかった。
――それが、雨谷茜という人間の矜持だった。
その夜も、彼女は机の上に並べた機密資料を一枚ずつ丁寧に仕分け、封印を施していた。
誰にも見られてはならない。
情報こそがギルドの命脈であり、戦いを勝利へ導く唯一の武器でもある。
――その時だった。
カツン、と石床に響く靴音。
背筋が自然と伸びる。
この資料室に入ってくる者は少ない。だからこそ警戒が走る。
「……」
振り返った瞬間、茜の胸が凍りついた。
扉口に立っていたのは、ギルドのリーダーその人だったからだ。
彼の名を口にしたことはない。下っ端の自分など、声をかけられる立場ではなかった。
ただ、議場で遠目に見たことはあった。強い光を放つ瞳と、誰も逆らえぬ威圧感。存在そのものが「頂点」を示していた。
茜は反射的に立ち上がり、胸の前で両手を組んで頭を下げた。
「リ、リーダー……?」
彼は無言で茜に歩み寄り、机に視線を落とす。そして静かに口を開いた。
「……機密情報が流出した」
その声は低く、重く、逃げ場を与えぬ響きを持っていた。
「お前が管理していたはずだな」
茜の心臓が跳ね上がる。
耳を疑う言葉だった。
「そ、そんな……! そんなはずはありません。私、ちゃんと鍵をかけ、封印も施し――」
必死に口を開いたが、言葉は途中で止まった。
リーダーの背後。半歩下がって立つ女の存在に気づいたのだ。
薄い唇、冷たい目。茜と視線が合った瞬間、その女は口元を歪めた。まるで獲物を罠に嵌めた捕食者のように。
(……あれだ。あいつが仕掛けたんだ)
直感が告げていた。
自分の不注意ではない。女が意図的に罠を張り、自分に罪を被せたのだ。
「待ってください! 私じゃありません。あの女が――」
茜は指を差しかけた。だが次の瞬間、リーダーの鋭い声がその言葉を遮った。
「黙れ」
その一言に空気が張り詰める。
茜の喉が凍りつき、声が出なくなった。
「……もういい。抜けてくれないか?」
まるで軽い用件を告げるかのように、リーダーは言った。
だがその意味はあまりに重い。
十二年支え続けてきたギルドからの追放宣告。
耳鳴りがした。
足の感覚がなくなり、膝が震える。
「……聞こえなかったか?」
重ねて問われ、茜は無意識に首を横に振っていた。
受け入れられない。受け入れたくない。
その時、背後の女がクスクスと笑った。
あまりに嫌らしい笑い。自分の勝利を確信している声音。
視界が滲む。怒りか、悔しさか、それとも絶望か。
茜は唇を噛みしめ、無言で資料室を後にした。
扉を閉める直前、背中越しに女の笑い声が聞こえた気がした。
――こうして、雨谷茜はギルドから切り捨てられた。
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