えんたまっ!!

花色 木綿

第1羽:天使の卵

 あなたの手で天使を育ててみませんか?

 世界でたった一つの、あなただけの天使を。

 あなたなら、あなただけの天使をどんな風に育てますか……?



『エンジェル・ペット、好評発売中。いつも、あなたの側に幸せを――』

「うわあっ……。やっぱりいいなあ、エンジェル・ペット……!」

 テレビ画面いっぱいに、背中に小さな羽の生えたウサギのような生き物と、その子を抱いた女の子が映っている。エンジェル・ペットのコマーシャルだ。おもちゃ屋さんの店頭に置かれているテレビの隣には、箱に入った楕円形の真っ白な卵――、エンジェル・エッグが平積みされている。

「私も早く欲しいなあ。でも、あと二千五百円も足りない……。あっ、いけない! 早く家に帰らないと。買ったものが傷んじゃう!」

 買い物の途中だったことを思い出すと私は駆け出す。お肉に牛乳、ニンジンやジャガイモが入っているエコバッグを肩に提げて。

 商店街を通り抜け、突き進むこと数分。勾配が急な上がり坂が現れる。

「よーし、ラストスパートだ!」

 一、二の三でジャンプして、一気に坂道を駆け上がる。左右に分けて二つに結んだ髪がその振動でぴょんぴょん跳ねる。乱れる息をそのままに手足を動かし続けていると、やっと頂上に着いた。

 坂のてっぺんに建っている、『神久しんくせんべい店』と書かれた看板が掲げられたお店の中へと入り、

「お母さーん! おつかい行ってきたよーっ!」

 クツを脱ぐとリビングを通って台所に入る。コンロの前に立っていたお母さんはお玉を持ったまま、くるりとこちらを振り向いた。

「ありがとう、瑠美恵るみえ。はい、これ。約束の五百円。それから、これも」

「なあに、このポチ袋?」

「おばあちゃんからよ。さっき、ウチに来たの」

「さっきってことは、もう帰っちゃったの? おばあちゃんに会いたかったのにー」

「仕方ないでしょう。おばあちゃん、用事の途中に寄っただけなんだから」

 用があるなら仕方ないけど、おばあちゃんに会いたかったなあ。

 ふくれた頬をそのままに私はポチ袋を開ける。すると。

「え……、うそ……」

 むすっとした顔の北里さんが二人飛び出した。千円札が二枚だ。お母さんからもらった五百円と、おばあちゃんがくれた二千円を合わせたら……。

「やっ……、やったあーっ!!」

 目標の三万円が貯まった。これで、とうとう夢にまで見たエンジェル・ペットを買えるんだっ……!

 エンジェル・ペット――。それは今、大・大・大流行している電脳ペットだ。

 私にはむずかしくてその原理はよく分からないけど、なんでもAIチップとかいうものをはじめとした、すっごーい技術がたくさん使われている、現代科学の結晶を詰め込んだおもちゃだ。

 エンジェル・ペットは、エンジェル・エッグから生まれてくる。エッグに飼い主のデータを読み込ませると、パートナーにぴったりのエンジェルが生まれてくる仕組みだ。そのため生まれてくるエンジェルの姿は様々で二つとない。世界でたった一つ、自分だけのエンジェルが生まれる。

 自分だけの――、というのが、エンジェル・ペットが人気の一番の理由だ。老若男女を問わず、一家に一台……、ううん、一人一台と言われているほど普及していて、社会現象にもなっている。テレビやネットニュース、SNSと、どこもエンジェルの話題で持ち切りだ。もちろん私のクラスでも、エンジェル・ペットは大人気。エンジェルを持っていないのは、残念ながら私だけ。

 でも、それも今日までだ。毎日お手伝いをしてお母さんからおこづかいをもらったり、お年玉も使わないで貯め続けて、ようやく三万円貯まった。これで私も晴れてエンジェルデビューだ!

 ポシェットのヒモを両手でしっかり握りしめ、私は再び家を出る。商店街の中にあるおもちゃ屋さん目指して坂道を下る。

 早く、早くっ!

 足を大きく広げ、跳ねるよう進んで行く。本日二度目の商店街だ。

 商店街の中心に差しかかると、おもちゃ屋さんのド派手な黄色い看板が見えた。ふう。いくら私が十歳で若くても、十分も休みなく走り続けるのは疲れるよ。

 肩を上下に揺らしながら、エンジェル・ペットの売り場の前に立つ。とうとう私もエルジェルを手に入れられるんだ。どうしよう、なんだか緊張してきた……!

 震える手をそれでも伸ばし、天使の卵が入っている箱を手に取った。ずっしりとしていて重たい。エンジェルって、重たかったんだ。

 どくどくと跳ね上がっている心臓をそのままに、卵を胸に抱えてレジに向かう。おさいふの中身を全て店員さんに渡すと、私はお店を後にした。





 その後のことは、あまり覚えていない。いつの間にか自分の部屋にいた私は、抱えていた箱をそっとベッドの上に置いた。あせる気持ちを落ち着かせながら、丁寧に箱のふたを開ける。細心の注意を払って、中に入っていた大きな丸いものを取り出す。

「これが、天使の卵……」

 この卵からエンジェルが生まれるんだ。世界に一つ、私だけのエンジェルが――……。

 卵を落とさないよう胸に抱えたまま、箱の中から説明書を取り出す。

「ええと、『エンジェル・エッグに三分間、額をつけて、あなたのデータを読み込ませてください。三分経つとアラーム音が鳴ります』か」

 目をつむり、説明書通り、そっと額を卵に付ける。ひんやりとした感触が、一点から内側へと伝わってくる。冷たい。

 一体どんな子が生まれてくるのかな。かわいいエンジェルかな。それとも、かっこいい子かな。ヒューマンタイプもいいけど、アニマルタイプも気になるんだよね。

 静かに待ち続けると、ピピピ……と甲高い音が鳴った。目覚まし時計のアラームのような音だ。この後は、どうするんだろう。また説明書に手を伸ばす。

「ええと、『エンジェル・エッグが孵るまで十三時間かかります。それまでお待ちください』って……」

 うっそー!?? 卵が孵るまで、十三時間もかかるの!?

 説明書を読み直すけど、書いてあることは変わらない。読み込んだデータからエンジェルを形成するのに時間がかかるみたい。

 あーあ。早く孵らないかなあ。つい卵を見ちゃうけど、孵る気配は全くない。当たり前だよね。まだ五分も経っていないんだもん。卵を抱え直すと、ベッドの上でごろごろ転がる。なんだか親鳥になった気分だ。

 その内、お母さんに、夕食の時間だと呼ばれて部屋を出た。ご飯を食べている間も、頭の中は卵のことでいっぱいで。お風呂に入っている間も卵が気になり、髪を乾かすのもそぞろに急いで部屋に戻ったけど、やっぱり卵は部屋を出る前に見た時のままだ。

 時計を見ると、九時を指していた。卵が孵るまで、まだ九時間もある。九時間後ということは、卵が孵るのは明日の朝六時頃だ。

 早く卵が孵らないかな――……。

 パジャマに着替えた私は、そっと卵を抱いてベッドの中に入った。





 チチチ……と小鳥のさえずりが優しく鼓膜を震わせた。心地いい音色。あれ……、なんだろう。ベッドが生温かい。

 ゆっくりとまぶたを開くと、手の中に白い塊が収まっていた。卵……? そうだ、卵だ! 熱の正体は、エンジェル・エッグだ。

 時計を見ると、午前六時を指していた。予定ならそろそろ孵る時間だ。もしかして、もう生まれちゃった!? 私は慌てて卵を持ち上げた。

 上から下から、右から左からと、ぐるぐると卵全体を見回した。卵は、どこも割れていない。ほっと口から小さな息が出た、その時だ。

 パリッ……、パリリッ……!

 室内に乾いた音が響き出す。音の出所は、言うまでもなく卵だ。私は、じっと卵を見つめる。手が震え出したけど、それでも力を入れて、しっかりと卵を持った。

 静かに見守り続ける中、卵にヒビが入る。亀裂が広がっていき、パリパリと殻がはがれ落ちる。

 殻がはがれた所から、ピンッ! と、黄色のとがったものが飛び出した。なっ、なに……!? 黄色のとんがりは一度引っ込んだけど、またひょいと外に飛び出してきた。

 引っ込んでは飛び出してを数回繰り返した後、殻が上下に二つに割れ、

「きゅーっ!!」

 バリンッ……! と大きな音とともに、黒い塊が飛び出した。

「これが……、この子が、エンジェル……?」

 エンジェルは、まん丸で、頭とクチバシの周りは黒色、目の周りは白くて、頭から下は灰色をしていた。図鑑で見た、皇帝ペンギンの赤ちゃんそっくりだ。

 エンジェルは、つぶらな瞳をぱちぱちさせ、黄色いクチバシを大きく開くと、「きゅー、きゅーっ!」と鳴き出す。

 この子が私の……、私だけのエンジェルなんだっ――……!!

 そっとエンジェルを抱くと、小さくて、温かくて。とってもふわふわだ。四方から眺めると、背中には小さな羽が生えていた。かっわいー!

「私は瑠美恵るみえ神久しんく瑠美恵だよ。よろしくね、えっと……、そうだ、名前! 名前をつけないと!」

 エンジェルは、飼い主であるブリーダーが名前を与えることで、双方の間に契約が結ばれる仕組みになっている。

 私は、じっとエンジェルを見つめる。エンジェルは、「きゅ?」と首を傾げさせる。

「ペンギンみたいだから、ペンペン……は安直だよね。それじゃあ、ギンギン? んー……、違う気がする……」

 思い付いた名前を次々と口に出してみるけど、どれもピンとこない。この子は、私だけのエンジェルなんだもん。世界で一番すてきな名前をつけてあげたいよね。

「そうだなあ。キガキガもかわいくないしなあ」

「きゅー、きゅー」

「きゅー、きゅー……。きゅー、きゅー鳴くから、キュー太郎たろう……」

「きゅきゅーっ!」

「キュー太郎、キュー太郎……、キュー太郎……。うん、しっくりくる!」

 エンジェルは、気に入ってくれたのかな。瞳をまっすぐ見つめ、もう一度、その名を唱えると、「きゅーっ!」と一際甲高く鳴いた。

 キュー太郎を両手でしっかり抱え直すと、キュー太郎の額に私のそれをそっと付ける。

「あなたの名前は、キュー太郎だよ」

 瞬間、キュー太郎から、ぱあっ……と白い光が放たれる。キュー太郎の額に一瞬、刻印が現れて消えた。これで契約完了だ。

 これからエンジェルは――、キュー太郎は、体内に組み込まれているAIチップによって学習していく。ブリーダーの手によって成長していくんだ。

『あなたの手でエンジェルを一人前に育ててね!』

 説明書の最後には、こう記されている。そう、私がエンジェルのブリーダーとして、キュー太郎を一人前のエンジェルに育てるんだ!

 でもエンジェルを一人前にするには、どうしたらいいんだろう。

「そうだ、指南書があったんだった!」

 箱の中に手を突っ込み、ブリーダーの心得と書かれたブックレットを手に取った。

「指南書があったんだ。ええと、なに、なに……。ブリーダーの心得その一、エンジェルと心を通わせるべし。心得その二、エンジェルを正しき道へと導くべし。心得その三、エンジェルに幸福を与えるべし。他には……って、あれ、もうページがない。えー、これしか書いてないのーっ!?」

 ぴらぴらとページをめくるけど、それ以上のことは書かれていない。結局なにをしたらいいんだろう。具体的なことは、書かれていないんだもん。これじゃあ分からないよ。

 それでも指南書とにらめっこしていると、ぐるるるううぅっ……! と奇妙な音が聞こえてきた。なんの音だろう。音のした方を見ると、その先にいたのはキュー太郎だ。

 キュー太郎は、「きゅー……」と悲しげな声を出し、短い手でお腹を押さえていた。そっか、生まれたばかりだもんね。キュー太郎、お腹が空いているんだ。

「ちょっと待ってて。なにか食べ物を持ってくるね」

 キュー太郎に言い聞かせると台所に行き、冷蔵庫を開ける。エンジェルのご飯は、人間が食べるものと同じでいいんだって。食料であれば、なんでも食べられると説明書に書かれていた。

 エンジェルも人間みたいに、食べ物からエネルギーを得ることで動ける仕組みになっている。とはいえ、生のピーマンは嫌だよね。苦いもん。生魚や生肉もやめておこう。体に悪そう。なにかいいものは……、あっ、魚肉ソーセージを発見! これならそのまま食べられるし、おいしいからよさそうだ。

 かどっコぐらしのキャラクターが描かれた細長い箱を手にすると、部屋に戻る。

「キュー太郎、お待たせ……って、なにこれーっ!?」

 思わず大きな声が出ちゃった。だって部屋に入った途端、真っ白なものが視界を埋めつくしたんだもん。

 白いものの正体は、ティッシュだ。キュー太郎は、箱から何枚もティッシュを出していた。

「だめだよ、キュー太郎。いたずらしたら」

 私は、慌ててティッシュで遊んでいるキュー太郎を捕まえる。キュー太郎は、「きゅう?」と首を傾げさせた。

「いい? ティッシュは遊ぶものじゃないの。鼻をかんだり、汚れをふき取ったりするものなの。分かった?」

 キュー太郎は理解したのかな。ちらりとティッシュを見てから、「きゅっ!」と鳴くと、私の真似をしてティッシュを拾い出した。

 本当だ……。私が教えたことを、この子は、ちゃんと学んでいるんだ。

 自然に頬の端が上がった。こんな風に一つ一つ、私がキュー太郎に物事を教えていくんだ。

 ティッシュを片付け終えると、キュー太郎の頭をなでた。

「えらいね、キュー太郎。ほら、お腹が空いていたんだよね。ご飯だよ」

 私は、魚肉ソーセージを一本手に取る。フィルムを軽くつまんで切れ目を入れ、くるっと回してはがすと、キュー太郎のクチバシの前に突き出す。

「きゅう……?」

 初めて目にする食べ物に、首を傾げさせるキュー太郎。くんくんと魚肉ソーセージの匂いをかぐと、ぱくんと一口かぶり付いた。もぐもぐと口を大きく動かして、

「きゅきゅーっ!!」

 きらきらと目を輝かせて、残りのソーセージも食べていく。あっという間に一本食べちゃった。

「キュー太郎ってば、すっかり魚肉ソーセージが気に入ったんだね」

 もう一本フィルムを切ってあげると、キュー太郎は、またすぐに食べた。まだ食べるかな。箱の中には、あと三本残っている。キュー太郎が、「きゅー、きゅー」と鳴いているので、もう一本、ソーセージのフィルムを切った。キュー太郎は、小さな手を使ってソーセージを持つ。だけど。

「あれ、食べないの? お腹いっぱいになったのかな」

 キュー太郎は、なかなか口にしない。それどころか、ソーセージを私の方に向けた。

「なあに? もしかして私にくれるの?」

 キュー太郎は、「きゅー!」と大きくうなずくと、さらにソーセージを私の方に突き出した。

「ありがとう、キュー太郎」

 私はお礼を言い、キュー太郎からソーセージを受け取った。





 朝ご飯を食べて身支度を整えると、キュー太郎を連れて外に出た。今日は日曜日だから学校はお休みで、乙衣めいちゃんと遊ぶ約束をしていた。

「キュー太郎。ほら、見てごらん。アレが空だよ」

 空を指差して示すと、腕の中のキュー太郎は首を長く伸ばし、「きゅー……!」と感嘆とした声を上げた。

 キュー太郎は、初めて見る外の世界に興味津々だ。きょろきょろと首を左右に振って、辺りを見回している。

「あっ、花が咲いてる! きれいだね、キュー太郎。花って不思議だよね。見ているだけで幸せな気持ちになれるんだもん」

 なんて名前の花かな、と話していると、「あれ」と間の抜けた声が耳をかすめた。

「瑠美恵ってば、なんだよ、ヘンテコなぬいぐるみなんか持ち歩いて。ガキだなあ」

 嫌味ったらしいこの口調は、顔を見なくても分かる、アイツだ。

 そうだった。すっかり忘れていたけど、クラスでエンジェルを飼っていないのは、私の他にもう一人いた。

 ばっと振り返った先にいたのは予想通り、キックボードに足をかけたアイツがいた。生意気顔にツンツン頭の、出見でみきわむ――。極は私の家の二件隣に住んでいる幼馴染だ。

「ヘンテコじゃないし、ぬいぐるみじゃないもん! 私のエンジェルだもん」

「エンジェル? へえ。やっと買えたのか。クラスで持ってないの、瑠美恵だけだったもんな」

「お前だけって、極も持ってないじゃん」

「オレはいいんだよ。興味ねーもん、そんな幼稚なおもちゃ。悪かったな、言い直すよ。欲しいのに持ってなかったのは、瑠美恵だけだったもんな。

 にしてもブッサイクなエンジェルだなー。間抜けな顔が瑠美恵にそっくりだ」

「キュー太郎も私も、間抜けな顔なんてしてないもん!」

「キュー太郎だあ?」

「そうだよ。この子はブサイクでも間抜けでもない、キュー太郎って名前だもん!」

 極を思い切りにらみつける。なのに極の眉の形が徐々にゆがんでいき……。

「ぷっ……!」

 極は噴き出したのを起点にお腹を抱え、げらげらと大声で笑い出した。

「いやあ、さすが瑠美恵のセンスだ。お笑い芸人みたいな名前をつけるなんて」

「お……、お笑い芸人!?」

 極は、まだげらげらと笑っている。キュー太郎だけでなく私のこともバカにして、ほんとーに嫌なヤツっ!!

 まだ笑っている極を置いて、私は地面を踏みしめるようにして歩き出す。

 キュー太郎の、どこがお笑い芸人なのよ。こんなにかわいいのに。それにキュー太郎は、この名前、すっごく喜んでくれたもん。ふーんだっ!

 坂を下り左に曲がると、甘い香りが漂ってきた。とってもいい匂い。この香りは、乙衣ちゃんのお家が近付いてきた証拠だ。

 乙衣ちゃんのお家は、『パティスリー・ラ・メール』という洋菓子店を経営している。洋風でおしゃれな外観のお店の隣の建物が、普段乙衣ちゃんたちが生活しているお家だ。

 そちらの家のチャイムを鳴らすと、「はーい」と乙衣ちゃんの声がインターホン越しに返ってきた。

「待ってたよ、瑠美恵」

 肩上できれいに切りそろえられた髪をさらりと揺らし、開かれた扉の隙間から乙衣ちゃんが顔を見せた。

「遅かったじゃん……って、あっ! もしかして、その子……」

 乙衣ちゃんは、あいさつもそぞろにキュー太郎を指差した。

「うん! おこづかいがやっと貯まったんだー。キュー太郎、この子は乙衣ちゃんだよ。あいさつしようね」

「キュー太郎? へえ、随分古典的な名前ね」

 ガーンッ!! 極だけでなく、乙衣ちゃんまで……。

 古典的って、古臭いって意味だよね? そうかなあ。キュー太郎って、すっごくすてきな名前だと思ったのに……。

「いや、悪い意味じゃないよ。今時めずらしい名前だと思って。それより瑠美恵、エンジェルを連れてきたなら公園に行く?」

「うん、いいよ」

「それじゃあ、ちょっと待って。すぐ支度するから」

 乙衣ちゃんは家の中に引っ込み、数分後、また扉が開いた。今度は乙衣ちゃんだけでなく、

「きゃん!」

「あっ、チョコちゃん!」

 乙衣ちゃんのエンジェル――、チョコちゃんも一緒だ。

 チョコちゃんはチョコレートのような毛の色で、ポメラニアンに似たエンジェルだ。乙衣ちゃんに抱かれているチョコちゃんは、へっ、へっと赤い舌を出している。

 乙衣ちゃんとキュー太郎たちを連れて三角さんかく公園に行くと、私たちみたいにエンジェルを連れた人たちがちらほらいた。

 園内の中心である広場に着くと、

「フライングディスクを持ってきたよ」

 乙衣ちゃんがショルダーバッグの中からプラスチック製の円盤を出した。

 フライングディスクは、円盤を回転するよう投げてキャッチする遊びだ。エンジェルとブリーダーがペアになって行う、ディスクエンジェル競技というものがある。人が投げたディスクをエンジェルが空中でキャッチし、ディスクのキャッチ率や技の出来栄えなどを競うスポーツだ。エンジェルと一緒に遊べることから人気があり、大きな大会も開催されている。

「ほーら、チョコ。キャッチするのよ」

 乙衣ちゃんは、遠くにいるチョコちゃん目がけてディスクを飛ばす。チョコちゃんは背中の羽をパタパタと動かし、くるくると宙を回っているディスクに向かって飛ぶと、ぱくんと口でキャッチ!

「すごい、すごーい! チョコちゃん、上手だね」

「いつも遊んでいるからね。瑠美恵たちもやりなよ」

 乙衣ちゃんからディスクを受け取る。今度は私とキュー太郎の番だ。

「キュー太郎、投げるよー! チョコちゃんみたいにキャッチするんだよ。そーれ!」

 かけ声とともに、キュー太郎目がけてディスクを飛ばす。キュー太郎は、とことことディスクに向かって歩いて行き、その場で、ぴょんとジャンプした。そう、キュー太郎はジャンプしたんだけど、数センチ飛び上がっただけで、スコーン!

「あ……、あれ?」

 浮力を失ったディスクは落下して、見事キュー太郎の頭に命中した。

「キュー太郎、大丈夫!?」

「きゅ……、きゅー……!」

 キュー太郎は弱々しく鳴き、片手を上げた。初めてだし、最初からうまくできないよね。

「キュー太郎、もう一回いくよ。ディスクをよく見て」

 今度はキュー太郎が取りやすいよう、ゆっくりとディスクを投げる。これなら取れるよね。だけど、スコーン!! ディスクは、またキュー太郎の頭に直撃した。

 あれえー。私の投げ方が悪いのかな。もう一回、挑戦だ。

 気合を入れ直し、ディスクを投げようと構えると、「おーい」と背後から声がかかった。声をかけてきたのは、同じクラスの上団じょうだんくんだ。

「今からエンジェルレースをやるんだけど、二人も参加しないか?」

「エンジェルレース!? やる、やる!」

 私は二つ返事で応えた。エンジェルを飼ったら、エンジェルレースをしたかったんだよね。

 エンジェルレースとは、エンジェルに定めたコースを飛ばさせ、誰が一番早くゴールに到着できるか競わせる遊びだ。

 上団くんに付いて行くと、クラスの男子が数人いた。みんな、もちろんエンジェルを連れている。

「コースは、アスレチック広場を一周して戻って来ること。それじゃあ、よーい……」

「ドンッ!」のかけ声に合わせ、エンジェルたちは一斉に飛び立った。みんな、速い、はやーい! でも私のキュー太郎だって、負けないんだから……って。

「あ、あれ……?」

 他のエンジェルたちがパタパタと羽を広げて飛び立って行く中、なぜかキュー太郎だけは、一人ぺちぺちと地面を走っていた。

「どうしたの、キュー太郎。早く飛ばないと、みんなに置いて行かれちゃうよ」

 こうしている間にも、先頭を飛んでいる上団くんのエンジェルは、もうコースの半分まで達していた。それなのにキュー太郎は、一向に飛ぼうとしない。それどころか花壇の前まで来ると立ち止まって、「きゅー、きゅー」と能天気に鳴いている。

「キュー太郎ってば! 止まってないで、早く飛ばないと」

「ねえ、瑠美恵。もしかしてキュー太郎、飛ばないんじゃなくて、飛べないんじゃない?」

「え……。飛べない……?」

 私は、じっとキュー太郎を見つめる。そう言えば、キュー太郎が飛んでいる姿を見たことがない。

「キュー太郎、飛べないの……?」

 訊ねるけどキュー太郎は、飛ぶということがどういうことか、分かっていないみたい。「きゅ?」と他人事のように、こてんと首を傾げている。

「キュー太郎、飛んでごらん。羽を動かせばいいんだよ。チョコちゃんみたいに」

 宙に浮いているチョコちゃんを指差す。キュー太郎も、ようやく分かったみたい。「きゅー!」と一鳴きすると、パタパタと羽を動かし出した。

「そう、その調子! あとは飛べばいいんだよ」

 キュー太郎は、パタパタと羽を動かす。動かすけど、いつまで経っても一ミリたりとも浮かび上がらない。

 そんな……。キュー太郎ってば、本当に飛べないの? 天使なのに……?

「なんだよ。神久のエンジェル、飛べないのか?」

「変なのー! 不良品じゃないのか?」

「なっ、不良品って……!? キュー太郎は、不良品なんかじゃないもんっ!!」

「だったら飛んでるところ、見せろよ」

「そ、それは……。キュー太郎は、今朝生まれたばかりで。だから少し練習すれば、すぐ飛べるようになるもんっ!!」

 つい大きな声が出ちゃった。だけど男子たちは気にしている様子はなく、それどころか互いの顔を見合わせた後、視線をまた私に戻した。

「オレのエンジェルは、練習なんかしなくても飛べたぜ」

「オレのエンジェルだって。生まれてすぐオレに飛び付いてきたぞ」

 えっ、そうなの……? ちらりと乙衣ちゃんを見ると、乙衣ちゃんは、こくんと小さくうなずいた。

 ガガーンッ……!!? そ、そうなんだ。普通は、練習しなくても飛べるんだ……。

 どうしてキュー太郎は、飛べないんだろう。キュー太郎は必死に羽を動かすけど、ぴょんぴょんと、その場でジャンプをし続けるばかりだ。

 そんなキュー太郎の足同士がからまって、ずでんっ……! 顔から思い切り転んじゃった。

「あははっ! 神久のエンジェル、どんくさいぞ!」

 みんなにバカにされて、キュー太郎は、しょぼんと下を向く。

「だ、大丈夫だよ。キュー太郎だって、すぐに飛べるよ。だってエンジェルだもん、ね!」

 キュー太郎は、「きゅー……!」と弱々しい声ながらも、ようやく顔を上げてくれた。

 私と乙衣ちゃんはエンジェルレースを抜け、キュー太郎の飛ぶ特訓をすることにした。

「ほーら、キュー太郎。チョコちゃんをよおく見て。真似をしてごらん」

 キュー太郎は、パタパタと浮いているチョコちゃんのことをじっと見て、自分も羽を動かし出す。でも羽が動いているだけで、体は全然浮かばない。

 うーん、うまくいかないなあ。どうしてキュー太郎は飛べないんだろう。つい、男子たちの言葉が頭をよぎった。「神久のエンジェル、不良品じゃないのか?」と……。

 私は、ぶんぶんと頭を左右に振る。そんなことない、キュー太郎は不良品なんかじゃない。キュー太郎だって、立派なエンジェルだもん!

 練習を続けていると、不意に乙衣ちゃんが、「あれ」と声を上げた。

「ねえ、瑠美恵。あの子、デビルじゃない?」

「えっ、デビル?」

「ほら、すべり台のてっぺんにいる、キャットタイプの子。羽が黒いもの」

 本当だ。乙衣ちゃんが指差した方を見ると、クロネコのエンジェルの羽の色は黒かった。きっとデビルになっちゃったんだ。

 デビルというのは、エンジェルが堕天してしまった姿のことだ。エンジェルは動物のペットと同様、エネルギーとなるご飯を必要とする。でも天使にとっての一番のごちそうは、幸せという感情らしい。

 だから幸せを飼い主から与えられないと――、飼い主から放って置かれたり、乱暴に扱われたりすると、エンジェルは堕天してしまう。世話をするのが面倒になって捨てられた、野良エンジェルも一部では社会問題になっている。

 ニュースの映像では見たことがあったけど、生でデビルを見たのは初めてだ。ネコデビルは私たちの視線に気付くと、じっと見返してきた。

 その内、ネコデビルが、こちらに飛んで来た。近くで見ると、ネコデビルの羽は本当に真っ黒だ。元は白色だったとは思えないほど、黒一色に染まっている。

 ふよふよとキュー太郎の頭上を飛んでいたネコデビルだけど、降下し出して、

「きゅっ!?」キュー太郎の頭をペしりとはたいた。

「あっ、ひっどーい! キュー太郎をたたくなんて!」

 キュー太郎は頭を押さえ、「きゅー、きゅー」と泣き出す。ネコデビルは、「にゃっ、にゃっ、にゃっ……!」といじわるく笑いながら逃げて行った。

 もしかしてネコデビルは、飛べないキュー太郎のことをバカにしたのかな。キュー太郎が空まで追えないから、たたいたのかな。

 そうだとしたら、もっとひどい――っ!!





 お昼になり家に帰ると、お母さんが昼食にサンドイッチを用意してくれていた。でも喉を通らなかった。中の具は私の大好物のツナとトマト、それにハムとチーズだったのに。

 食べ切れなかった分をキュー太郎にあげると、キュー太郎は喜んで全部ぺろりと食べた。キュー太郎は、食べることが好きみたい。目をきらきらさせて、幸せそうに食べていた。

 公園からの帰り道、乙衣ちゃんと、こんな話をした。

「キュー太郎が飛べないのは、めずらしいからかも」

「めずらしいって、キュー太郎が? どうして?」

「ペンギンタイプのエンジェルなんて初めて見たもん。エンジェル通信の、『私のエンジェル紹介』ってコーナーがあるでしょう。あのコーナーでペンギンタイプのエンジェルが紹介されたことなんてないし、ネットやテレビでも一度も見たことないし」

「そう言えば、私も見たことないな……」

 エンジェルは、世界に二つとない容姿をしている。とは言え、同じタイプのエンジェルは、たくさんいる。

 そもそもエンジェルは、大きく分けて二つのタイプに分類される。容姿が動物に似ているアニマルタイプと、宗教画に描かれているような、人間のような見た目のヒューマンタイプの二種だ。

 しかし同じタイプでも、普通の犬やネコと同じように、エンジェルごとに毛の色や模様、目や鼻の大きさは異なる。私たち、人間だってそうでしょう。同じ人という生き物でも、顔や体型、性格や好みは、それぞれ異なる別の個体なのと一緒だ。

 そんなエンジェルだけど、ペンギンタイプのエンジェルは、クラスの子が飼っているエンジェルの中にも、テレビやネット、雑誌でも見かけたことがない。

 キュー太郎は、めずらしい、か……。

 なんて、偶然見たことがないだけかもしれない。なにせエンジェルの容姿は、バラエティーに富んでいる。あまりの多さに、エンジェルの容姿について研究している人がいるという話を聞いたことがあるくらいだ。

 昼食を終えて少し休むと、キュー太郎を連れて今度は河川敷に行った。河川敷は、公園に比べて人通りが少ないからだ。

 ここなら、キュー太郎も集中して飛ぶ練習ができるだろう。クラスメイトに会って、飛べないことをまたバカにされることもない。

「キュー太郎、今度こそ飛べるようになろうね」

 そう告げるとキュー太郎も、「きゅー!」と片手を上げた。やる気満々だ。

「今度は助走をつけてみよう。勢いにまかせたら飛べるかもしれない」

 補助輪なしで自転車に乗れる練習をした時、坂道を何度か下っている内に乗れるようになったことを思い出した。あの要領で練習すれば、キュー太郎も飛べるようになるかも。

 キュー太郎を坂のてっぺんに連れて行き、下へ駆けて来るよう指示する。キュー太郎は、「きゅきゅっ!」と元気よく返事をすると、ペタペタと駆け出した。

 キュー太郎、えらい、えらい。私の言った通りにできて、お利口だ。そう、お利口なんだけど、走るのが遅い……。

 どうにか坂下までたどり着いたキュー太郎は、ぴょんと跳ねた。でも、べしんっ!! 勢いは空に向かうことなく、顔面から地面にダイブ。

 この作戦は失敗みたい。もう一度試したけど、今度は坂を下っている途中でキュー太郎は足を滑らせ、ごろごろと転がってしまった。

 自転車作戦はあきらめて、次は羽を早く動かすことで体を浮かせる作戦に変えた。

「キュー太郎、もっと早く羽を動かして」

「きゅー!」

「もっと、もっと!」

「きゅきゅきゅーっ!!」

 キュー太郎は真っ赤な顔で羽を動かす。手もバタバタ振るけど、足は地面にくっ付いたままだ。

 どうしてキュー太郎は飛べないんだろう。エンジェルなのに。あの羽は、ただの飾りなのかな。どうしたらキュー太郎は、飛べるようになるんだろう……。

 必死に頭を働かせるけど、なにもアイディアは浮かばない。はあ、とため息が出てくる。それでも考え続けていると、ごそごそと奇妙な音が聞こえてきた。

 なんの音だろう。横を向くとキュー太郎が、地面に置いていたポシェットに頭を突っ込んでいた。

「キュー太郎、なにしてるの?」

 キュー太郎の体を引っ張ると、キュー太郎は魚肉ソーセージをくわえていた。「きゅー!」と鳴きながら、ソーセージを私の方に突き出す。

「キュー太郎ってば……。おやつなんて食べている場合じゃないでしょう! そんなんだから飛べないんだよ。デビルにまでバカにされちゃうんだよ!」

 キュー太郎は、エンジェルなのに――っ!!

 私は大声で叫ぶと、その場から駆け出していた。





 キュー太郎なんて、もう知らない! 食い意地ばかり張って、エンジェルなのに一生飛べないままだよ!!

 河川敷を出て公園の中を走り抜けていると、「瑠美恵?」と声がかかった。思わず足を止めて横を向くと、極が立っていた。

「瑠美恵、泣いてるのか? エンジェルは、どうしたんだよ。一緒じゃないのか」

「それが……」

 極に事情を話す。すると極は、ぐにゃりと顔をくずして、

「お前、バカか?」

「なっ……!」

 いきなりバカって言うなんて、ほんとーに嫌なヤツ! 極なんかに話すんじゃなかった。

 無視して去ろうとしたけど、

「待てよ、瑠美恵!」

 極に、がしりと腕をつかまれた。極は私の目をまっすぐに見つめる。

「エンジェルって、みんな、違うんだろ。世界で、たった一つだけなんだろ。それなのに周りと比べてどうするんだ。大体、キュー太郎はエンジェルなのに飛べないって言うが、飛べないのもキュー太郎の個性だろ。それに飛べないなら、飛べるようになるまで応援してやるのがブリーダーじゃないのかよ!」

 そうだ……。私、忘れてた。こんなにも大切なことなのに忘れていた。

 私、自分の理想をキュー太郎に押し付けていた。エンジェルは飛べて当たり前だと身勝手な物差しでキュー太郎のことを計っていた。キュー太郎が飛べないのは、私のせいなのかなって。私のデータを読み込んだ卵から生まれてきた子だ。自分のせいだと思いたくなくて、認めたくなくて、キュー太郎に八つ当たりしたんだ。

 私って、サイテーだ……。

 ぎゅっと下唇を噛みしめる。なんて最低なブリーダーなんだろう……。

 最低という文字が占めていく脳内を、「うわああんっ!」という激しい声が強く揺さ振った。鉄棒の前に兄妹かな。男の子と女の子が立っていて、女の子の方が、わんわんと声を上げて泣いていた。

「だから、そうじゃないって。こうだってば!」

「うー……。できないよ、お兄ちゃーん!」

「できるから、絶対にできるから! だから、こうやるんだよ」

 女の子は、鉄棒の逆上がりの練習をしているみたい。だけどうまくできなくて、お兄ちゃんがお手本を見せて、必死に教えていた。

 そう言えば私も鉄棒、苦手だったな。体育の授業で逆上がりのテストがあるからって、何度も何度も練習したけど、できなくて。嫌になって、途中で投げ出した。

 でも乙衣ちゃんが、「絶対にできるから!」と言ってくれた。その声に励まされて、練習を再開した。乙衣ちゃんに応援してもらいながら、頑張って、頑張って、頑張って練習を続けた。だけど、結局できなかった。たくさん頑張ったけど、できなかった。

 それでもテストには合格できた。できなかったのに合格した。乙衣ちゃんが、こっそり先生に助言してくれたから。いつまでも鉄棒を握りしめて地面を蹴飛ばしている私に、先生は言った。「もういいですよ」と。「よく頑張りましたね」と。先生はそう言って、私のことを止めた。

 テストには合格できたけど、それは偽物の合格だ。本当の合格ではないことを私が一番よく分かっていた。その日の帰り道、一人でひっそりと泣いた。周りの子が普通にできることが一人だけできないのって、自分はだめなんだと言われているみたいで、みじめな気持ちになるよね。

「あっ、そっか……」

 あの時、キュー太郎が魚肉ソーセージをポシェットから出したのは、自分が食べたかったからじゃない。怒ってばかりの私を喜ばせるために、私にくれようとしていたんだ。おいしいものを食べると幸せな気持ちになれるって、そう学習したから。

 それだけじゃない。エンジェルレースの途中、キュー太郎が花壇の前で立ち止まったのも、私が花を見ていると幸せだと話したからだ。花があるよって、教えてくれていたんだ。

 キュー太郎は空を飛べない。でも、その分、人が見落としちゃうようなものまで、キュー太郎には見えていたんだ。私は、そういうキュー太郎のいいところに、気付かないといけなかったんだ。キュー太郎のブリーダーとして。

「キュー太郎っ!」

 キュー太郎、キュー太郎、キュー太郎……!

 私は走る、河川敷目指して。手足を大きく動かして走り続ける。ごめんね、キュー太郎。ごめんね……!

 心の中で何度も謝る。河川敷に着くと、いた、キュー太郎だ。キュー太郎は、一人になった後も練習していた。羽だけでなく、手も足もバタバタと必死に動かしていた。

 次第にキュー太郎は肩で息をし、ふと空を見上げる。キュー太郎の視線の先で、ひらひらと一匹のチョウが飛んでいた。キュー太郎は、そのチョウをじっと見つめていた。羨望の眼差しで……。

「キューたろーっ!!」

 坂を下り、キュー太郎の元に走り寄る。目に涙が浮かび、視界がぼやけてよく見えなかったけど、それでもキュー太郎を目指して走る。

 だけどキュー太郎の元に到達する前に、小太りの男とひょろ長い男の二人組が、キュー太郎に近付いていた。なんだろう、あの人たち。そう思っている間にも、小太りの男が突然キュー太郎を抱え上げると走り出した。

「キューたろーっ!?」

 私は男たちを追いかけながら大声で叫ぶ。なのに二人組は、私の声を無視して坂を上がり、車道に停めていた黒い車の中に乗り込んでしまう。

「エンジェル誘拐だ!」

「エンジェル誘拐!?」

 私の後を付いて来ていたのだろう、いつの間にか側にいた極が叫んだ。

「アイツら、人のエンジェルを盗って売るつもりだ。ニュースでも取り上げられているだろ、エンジェル・ハントだよ」

「あの人たちが!?」

 エンジェル・ハントとは、人のエンジェルを盗んでコレクターとかに高く売っている人のことで、いわゆる泥棒だ。

 それじゃあ、キュー太郎は売られちゃうの? まだ謝れてもいないのに。そんなの……、そんなの……。

「瑠美恵、なにやってるんだ! 早く乗れ!」

 極に腕を引っ張られて、私は極のキックボードの後ろに乗る。

「しっかりつかまってろよ。飛ばすからな」

 極の腰に腕を回し、ぎゅっと、その背中に顔を押し当てた。

 心臓が、ばくばくしてる。呼吸がうまくできない。このままキュー太郎を取り戻せなくて、お別れすることになったら、どうしよう。頭の中が真っ白だ。

 どうしよう、どうしよう、どうし……。

「瑠美恵、しっかりしろ!」極が怒鳴る。

「この、極様特製☆改造キックボードの威力なら、あんなヘボ運転の車、すぐ追いつくさ。だから、お前は、キュー太郎を助け出すことだけに集中しろ!」

 あっ……。そうだよ、しっかりしなくちゃ。私は、ぶんぶんと頭を左右に振る。

 キュー太郎が誘拐されたのは、私のせいだ。一瞬でもキュー太郎から目を離しちゃいけなかったのに。私は、キュー太郎のブリーダーなんだから。

「追いついたぞ!」

 極の声に横を向くと、例の黒い車と並んでいた。後部座席の窓をのぞくと、いた、キュー太郎だ。キュー太郎は細長い男の腕の中で手足をばたつかせ、きゅーきゅー鳴いていた。

「キュー太郎、キュー太郎! キュー太郎を返して!」

 私は叫ぶ。車に向かって。片手を伸ばし、力の限り窓をたたき続ける。

「返してよ! キュー太郎は……、キュー太郎は、私のエンジェルなんだから――っ!!」

 思い切り、窓をたたいた瞬間だ。「きゅきゅーっ!!」とキュー太郎の声が車の外にまで響き、刹那、車内が真っ白になった。

 車が急ブレーキして停まる。運転していた太っちょの男が、

「なんだ!? 急に動かなくなったぞ!」

 慌てた声を出し、ガチャガチャと車内中のボタンやハンドルをむやみやたらに動かす。

 そのすきに極は運転席側に回り、車の扉を開け放つと、「観念しやがれ!」どごっ! と男の顔面を蹴り付けた。

「キュー太郎、キュー太郎!」

 私も後ろの扉を開ける。すると、「きゅーっ!!」とキュー太郎が飛び出して来た。ヒョロ長男は、車が急ブレーキした際に頭でもぶつけたのだろう。シートの上で、ぐにゃりと伸びていた。

「キュー太郎っ――!! ごめんね、キュー太郎。ごめんねっ……!」

 ぎゅっとキュー太郎を抱きしめる。キュー太郎、温かい……。とっても温かい。

「うわああーんっ!!」

 喉奥から自然と声が出た。キュー太郎も、きゅーきゅー泣いている。ごめんね、キュー太郎。こわい思いをさせて、本当にごめんね……。

 私はさらに、ぎゅっとキュー太郎を抱きしめた。





 私とキュー太郎は、河川敷の草原に並んで座る。空を見上げると、オレンジ色に染まりかけていた。

 あの後、極が警察に通報して、エンジェル・ハントは逮捕された。お巡りさんに、子どもだけで犯人を追跡するなんて危険だ。そういう時は、すぐに通報しなさい、と怒られてしまったけど、気にならなかった。だってキュー太郎を取り戻せたんだもん。

「キュー太郎、本当にごめんね」

 もう一度謝ると、キュー太郎は、ふるふると首を横に振ってくれた。

「たとえ飛べなくても、キュー太郎は私の……、私だけのエンジェルだもんっ!」

 私だってブリーダーになったばかりで、まだまだ卵だ。そう、ブリーダーの卵。生まれたばかりのキュー太郎と、ブリーダーになったばかりの私。いつか一人前になれるよう。

「二人で頑張っていこうね」

 そっとキュー太郎の手を取ると、キュー太郎は大きくうなずいてくれた。私たちは、私たちのペースで歩いて行こう。周りなんて関係ない。あせる必要なんてないんだから。

「あのね、キュー太郎。私もね、もう一度、頑張ってみようと思うんだ、鉄棒の逆上がり。だから、どっちが先にできるようになるか競争だよ」

 そう告げるとキュー太郎はにこりと笑い、「きゅーっ!」と天高く両手を上げた。





「ふう……。すっきりしたね、キュー太郎」

 ぽかぽかと頭から湯気を出しながら、キュー太郎は、「きゅー!」と元気よく鳴いた。

 お風呂から出て部屋に戻り、ベッドの上に乗ると、キュー太郎は、うとうとし出した。そうだよね、疲れたよね。今日一日だけで、いろんなことがあったんだもん。

 私の元に、私だけのエンジェル――、キュー太郎がやって来た。それから公園に遊びに行って、エンジェル・ハントにキュー太郎が連れ去られて……。

「あっ、そうだ。今日のことをエンジェル帳に書かないと!」

 私は机に向かうと、エンジェル帳を開く。エンジェル帳とは、エンジェルの育成記録や日記を書くことができる手帳だ。この日のために、以前から買っておいたの。

「ええと、今日はキュー太郎が生まれて……」

 本当に色々あったな。全部、きちんと書きとめておこう。どの出来事も、キュー太郎との大切な思い出だもんね。

 書きたいことを全て書き終えると、そっとエンジェル帳を閉じる。これから毎日、この手帳をキュー太郎との思い出で埋めていくんだ。

 軽く伸びをしてから、私もベッドにダイブする。キュー太郎のまぶたは、もう半分ほど閉じていた。

「おやすみ、キュー太郎」

 よい夢を――。

 部屋の明かりを消すと、そっとキュー太郎を抱きしめた。

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