第一.五章

 毎日の残業を終え、帰路につく。重い足取りの中、早く体を休めようと帰巣本能が働いているよう。

 俺の名は古賀健一。新卒で商社に入ったアラサーの男だ。商社というものは見栄えは良いものの、実態は命を削って会社の利益を出しているに過ぎない。会社員だから当然と言えば当然なのだが、文字通り命が削られているのが分かる。特に繁忙期は36協定がかわいく見えるほどの残業・休日出勤に追われ、何のために働いているかが分からなくなる。平日の夜は帰って寝るだけ。昔は海外とか夢見ていたのだけれど、今はそんな気力もない。


そんな激務な日々だったが、それが今日でやっと解放された。今まさに休日出勤だが、激務から解放されたことに心から涙が出そうになる。


(あの人はいるのだろうか?)


思い返すのは残業地獄だったあの日。最寄りの駅からいつも通り帰るところを、何をとち狂ったのか数駅歩いて帰ろうと思ったのが始まり。疲労困憊の体に無駄な負荷をかけた後悔と共に、早く次の駅で帰ろうと地図アプリを起動しようとした。


「……ん?」


ふと耳を澄ますと、どこからか音楽が聞こえる。スピーカーからのような質の悪いものではない、生の音が鼓膜に届く。判断力が鈍くなっていたこともあり、光に群がる蛾のごとくふらふらと声のする方に向かうと


(路上ライブか)


一人の女性がギターを手に弾き語りをしている。この時代で路上ライブという珍しさや、時代にケンカを売るような逆行したスタイルに思わず足を止めて、彼女の歌を聞いてみる。聞き慣れない歌詞からして、一から作ったのだろう。流行りの歌でも歌えば、少なくとも誰かは足を止めるというのに。


 でも


(なんか、いいな)


 疲弊して穴が空いている心に、パズルのピースがはめ込まれるような、今の俺の心を動かすには十分な曲だった。思わずスマホをしまい、彼女の歌を聴く。他の誰もが彼女を素通りしており、まるで俺のためだけに歌っているかのよう。曲が終わった時には拍手していた。


(この感情を伝えなければ)


 良かった、素晴らしかったという言葉。いや、彼女はシンガー。それならシンガーだったあいつが喜ぶこの言葉の方がいい。


「いい歌詞ですね」


 それを伝えて反応を待つ。反応があれば話でもしようかと思ったが、言葉は返ってこなかった。今時見知らぬ男に話しかけられるのはキモいか、と若干の後悔が広がる。


(一期一会だ。もう会うことはないだろう)


 そう思いながら俺は彼女から去った。


 そして今日、行きつけの店に行くついでに彼女がいた道を通る。が、当然いるわけがない。

 淡い期待を殺して、俺は店のドアを開けた。


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