第一章
秋の肌寒さが強くなるこの頃。大学では授業を切ると言ってサボる友達が多くなる時期だ。私はと言うと、履修登録したすべての授業に参加している。どんなにつまらなくても、どんなに難しくても私の糧になる、音楽の礎になると思って、ノートをとる。
でも今日は授業に身が入らない。
(理由はわかってる……)
あの日の彼が頭から離れない。身も心も散々だったあの日に、私の歌を聴いてくれた人。そして私の歌を良いと言ってくれた人。ライブをした会場でいい曲だったと言ってくれた人はいたけど、路上で言われたのは初めてだった。
(ああ、あの時宣伝していれば……名刺とか作っておけばよかった……)
想定外なことに呆然としてしまって、気がついた時にはすでに遠くに歩いてしまっていた。ここで漫画なら「まって!」と言って追いかけただろうが、生憎命の次に大事な機材たちを置いていける度胸は私に無かった。
あの日の喜びと後悔と反省に自問自答し続けていると、授業が終わっていた。チャンスを掴み損ねた虚しさを胸に秘めたまま、次の授業のために重い腰を上げた。
・・・・・・
午前の授業を終えて、バイトも終わった帰り道。心はずっと曇り空。そんな日は行きつけの店に行くしかない。
「いらっしゃいませ。ってなんだ、陽菜ちゃんか」
ドアを開けると、髭を生やしたマスターが迎える。ここ「サンドキャッスル」は私行きつけの隠れ家的バーだ。両手で数える程度の人が入れば満席となるような小さな店で、私みたいなお金のない学生でも安くお酒を飲めるから重宝している。お客さんがあまり来ないってことがたまにキズだけど。
「なんだとはなんですか。一応客ですよ」
「顔見知りが来たなと思っただけ。最初はビールだね」
ジトっとマスターを見つめるも、どこ吹く風でマスターはビールを注ぐ。マスターの目の前のカウンター席に座ると、すぐにビールとお通しが目の前に出てくる。私はグラスを手に取ると、グイっと傾けて麦の炭酸水を流し込む。心なしかいつもより苦さが口の中にまとわりつく。
「はあ~~っ」
「どうしたのさ、陽菜ちゃん。話聞こか?」
「チャラ男みたいなこと言わないでくださいよ。狙ってるんですか?」
「いくつになっても男はね、若い女の子をいつでも狙っているんだよ」
キリッと最低なことを言うマスターにキモッ、と返す。確かに、そういう目で接してくる男がいるのも事実だし、ライブハウスとかでナンパされたこともある。まあ、マスターは最低な言葉はでるものの、実際はそんな人ではないのは分かる。だから、この店に通っているのもあるんだけど。
「それにしても、今日は落ち込んでるようだね。フラれた?」
「違いますー」
「じゃあ、ライブでお客さんが一人も来なかったとか?」
「それは元からですー」
なんかひどいこと言われた気がするけど、私の心は上の空に近い。どうせならマスターに愚痴ってしまおう。
「私の歌をいいと言ってくれた人に名刺渡せなかったのが心残りなんですよ」
「ほう!めずらしいね」
「めずらしいとは何ですか!めずらしいって!」
「まあまあ。でも、ライブハウスとかで言われたんでしょ?名刺とかじゃなくてもエックスとかで宣伝できたんじゃないの?」
「……路上ライブですれ違い的に言われたんです」
それじゃ仕方ないね、とマスターが肩をすくめる。ライブハウスとかなら次の会場とかで合うことが多いし、演奏が終わった後は一緒に飲むこともあるから、名刺を渡すのは簡単だ。だけど、あの日の彼とはもう会う手段がない。
「何?その彼のことが忘れられないんだ」
「まあ、そんな感じですね、はい。私の曲を良いって言ってくれたのが嬉しくて」
「でも、ライブハウスとかでは言われたことあるんでしょ?なんで固執するのかい?」
確かに、仲間内では私の歌を良いと言ってくれる人もいた。ライブ会場でも良かったとほめてくれた人もいた。
でも、路上での弾き語りで、足を止めてまで聞いてくれたのは彼が初めてだったのよね。そんな彼を忘れられないのは、私が執着しすぎなのかな?
「あ、そうそう」
ふと、マスターは思い出したかのように試行中の私に話しかけてくる。
「今日この後に予約していたお客さんが来るから。俺の顔を見るために来るってさ」
「へぇ、どんな人なんです?」
「うちの古参で、陽菜ちゃんとは違う真面目な人と思えばいいよ」
「どうせ私は不真面目女です〜。それに、この店に古参なんてめずらしっ」
マスターへの仕返しの言葉を投げるも、効いていないアピールをするマスター。私だけダメージを負うのが癪だなと思ったその時、カランカランと音がする。
「おっ、噂をすれば」
マスターが顔を上げることで、マスターの目線が私から切れる。こんな店のマスターに会うためだなんてどんな物好きなのか一目見たく、私は体をひねる。いかにも社会人と言わんばかりにスーツを着こなしているサラリーマンだ。にこやかに笑っているから、ここに来るのを楽しみにしていたのだろう。
(あれ……?)
どこかで見たような顔に思わず首をかしげる。彼の全身をくまなく見る。会社員が良く持つ鞄にスマホ。ありきたりな会社員の持ち物だけど、その組み合わせに記憶がつながりかけたその時、
「あれ、君は……あの時の」
間違いない。私が探していた彼だ。
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