ウナギじけん

乙島紅

第1話


 夏休みはあと三日だが、息子の自由研究が終わってない。


 気づいたのは夕飯を終え、一緒にカーレーシングゲームを遊んでいた時のことである。

 ちなみに、六月に新型ゲーム機『クラッチ2』が発売されると同時にすでに新作が発売されているが、品薄でまだ我が家は手に入れられていないため、遊んでいたのは『クラッチ』時代の旧作の方だ。


「もー、パパ弱すぎ」


 常にトップを走る息子・ユウトに対し、俺はコンピューター相手にもガンガン追い抜かれて連戦連敗ビリである。ゲームは正直苦手なのだ。

 いくら大人でも、あまりに勝てないとなんだか別のことで意地悪してやりたい気持ちが湧き上がるものである。

 気づけば俺は、自分が小学生だったら夏休みの終わりに一番言われたくないであろうワードを発していた。


「そういやゲームなんかしてて大丈夫なのか? 夏休みの宿題はもう終わってるんだろうな」


 するとユウトは、「んー、まあ」とテレビ画面から目を離さずに答えたが、その一瞬、不敗の彼がコンピューターに抜かれていたのを俺は見逃さなかった。

 これは――嘘だ。

 レースは途中だったが、俺はコントローラーを置き、ユウトの部屋へと突撃する。「パパ、待って!」慌てて追いかけてくるユウト。そして夏休みの宿題を一つ一つ確認していくと、自由研究だけがまったくの手つかずだと判明したというわけである。


「どうしたんだユウト。お前らしくない」


 ユウトは我が息子ながらかなり真面目な子どもである。

 現在小三だが、これまで一度も宿題を忘れたことがない。親が特に何か言わずとも期限までにちゃんとこなすタイプなのだ。今回の夏休みの宿題についても、三十ページ近くあるワークはすでに終わっていたし、ラジオ体操やプールへ通う回数もノルマはクリアしていたようである。

 ただ、自由研究だけが終わっていない。

 ユウトは気まずそうに手を後ろで組んで俯いている。

 この子は真面目だが、自分の気持ちを表現するのがあまり得意じゃなかった。のめり込んで遊んでいるゲームに対しても、何が面白いか聞いてみると「うーん」と黙りこんでしまう。そういえば去年までの読書感想文は妻のミサキが付きっきりで仕上げていたっけ。テーマから自分で考えて取り組まなければいけない自由研究は、ユウトにとっては苦手分野だったのかもしれない。


「なあ、ユウトが自由研究終わってないみたいなんだけど」


 リビングに戻り、風呂上がりにソファで顔パックしているミサキに声をかけた。

 彼女はスマホ画面に映るSNSから目を離さないまま答える。


「だから何? 最初に自由研究はそっちが見るって分担したでしょ」

「それは、まあ」

「言っとくけど、私もう有給取れないから。夏休み前半で使いすぎたから」


 ぴしゃりとそう言って、ミサキは洗面所の方へと行ってしまった。

 彼女はどうにも最近よそよそしい。

 おとなしい性質なので元々積極的に自分から口を開くタイプではなかったのだが、最近向こうから話しかけてくることが輪にかけて減ったように思うし、こっちから会話を投げかけるとこんな感じで二言目にはだいたい豪速球ストレートが返ってきて、心のグラブがじんじん痛い。

 それに、最近やたら身なりに気を遣っているようだ。

 ドライヤーにかける時間が長くなったり、一人で出かける時は見たことのない服を着ていたり。顔パックなんて結婚してから一度も見たことがなかったような。

 ……ううむ、きなくさい。


「ママ、手伝ってくれないって?」


 自分の部屋から出てきたユウトが、心配そうに俺の顔を覗き込む。

 ミサキの態度に思うところがなくはないが、まずは愛する息子の一大事。ここは父たる俺の腕の見せどころだろう。


「大丈夫だユウト。パパがついてるから」


 わしわしと息子の頭を撫でると、社用携帯を取り出す。時刻は二十一時を回っているが……部長ならまだ会社にいるはずだ。




「本当に大丈夫だったの?」


 翌朝。ミサキが仕事に出るのを見届けた後、俺とユウトは自転車に乗って図書館に向かっていた。まだ九時前だが気温はすでにうだるように暑く、汗でじっとりとTシャツが張り付いてくる。


「昨日パパの会社の人、なんか怒ってなかった?」

「平気平気。ああやってグチグチ言うのが趣味みたいな人だから。そしてパパも、人に怒られるのは得意分野なんだよ」


 営業先じゃ怒られたってなかなか契約は得られないが、社内だったら三十分部長の愚痴に付き合うだけで三日分の有給が勝ち取れるのだからちょろいものだ。


「とにかくあと三日、パパが付きっきりで見てやるから。早く自由研究なんか終わらせて、どこか遊びに行こう」

「……うん」


 図書館の中のよく効いた冷房に当たると、ユウトの表情はアイスのようにふにゃりと溶けた。まだ開館したばかりだが、涼みに来たらしい来館者たちでわりと賑わっている。

 児童書コーナーを訪れると、今の俺たちにぴったりの掲示を見つけた。

【一日でもできる、自由研究特集】

 そこには自由研究のテーマ選びやレポートへのまとめ方についてあれこれ書かれていた。

 正直俺自身、自由研究って何をやったら良いかよく分かっていなかったので大変ありがたい。自分が子どもの時は全くやる気がなくて、夏休みのラストスパートに慌てて市販の実験キットを買って済ませたような、味気ない記憶だけがある。

 なるほど、自由研究には大まかに分けて観察、実験、工作、調べ学習の四つのタイプがあるらしい。

 「自由」と謳っているだけあってテーマや内容の分量には特に決まりはない。

 ユウトの学校の場合は、学校からコンクールに提出するらしく、応募要項をよく見てみたら優秀作品には賞状と、副賞として――


「ええっ!?」


 思わず大きな声が出て、カウンターの司書さんに眉をひそめられてしまった。すみません、と頭を下げつつも興奮は冷めやらず、早々に気が散って偉人マンガを読み始めていたユウトの肩をゆすった。


「な、なに?」

「ユウト、これ……! 優秀賞だと『クラッチ2』がもらえるって!」

「え!? あ、本当だ……!」


 まさかこんなところに『クラッチ2』の入手機会が転がっているなんて。発売から二ヶ月経った今も店頭にはほとんど並んでなくて、いまだに厳しい条件をクリアして抽選に当たらないと購入できない幻のゲーム機だぞ。

 ……これが手に入れば、ミサキとやり直せるかもしれない。

 実は二ヶ月ほど前、『クラッチ2』をめぐって彼女と口論になっていた。

 理由は俺がミサキに言われていた事前抽選に申し込まなかったから、である。

 白状すると面倒だったのだ。

 どうせ発売日当日に電気屋に並べば買えるだろうと、たかを括っていた。

 だが、抽選でも激しい争奪戦が繰り広げられた結果、発売当日に店頭で売られるわけがなく……。

 それで、フリマアプリになら売ってるから買おうかって話をした時に、ミサキが珍しく「絶対やめて」とハッキリ怒りを露わにしたのである。


「なんでだよ。ゲーム機が手に入るならどこでだっていいだろ」

「あなたっていつもそうだよね。結果良ければ過程なんてどうだって良いってこと?」

「なんでそういう話になるんだよ。ゲームなんかでそんなむきにならなくても」


 そこまで言ったところで、「もういい」とミサキは口を閉ざしてしまった。

 後から調べたところ、フリマアプリには転売が横行していて、メーカーもフリマアプリ側もそれを良しとしていないらしい。 

 しかし普段ゲームをやらないミサキが異常に機嫌を悪くしたのは印象に強く残っていて、あれ以来ちゃんと抽選に応募するようにしてみたのだが、何十回と応募しても一向に当たらないまま、ミサキとの距離もじわじわと離れているような気がするのである。


「これは本気でやるしかなくなったな」

「でも、優秀賞でしょ。今からじゃ無理だよ」


 ユウトの視線は再び偉人マンガに戻る。

 息子よ、それは伊能忠敬の生涯を読みながら言う台詞ではない。

 夏休みはあと三日。三日「も」ある。


「こういう時はな、まず事例を調べてみるんだ」


 スマホを取り出し、「自由研究 優秀作品」と調べてみれば……出てくる出てくる。

 一番多そうなのが虫の観察や研究だ。子どもにとって身近だし、案外解明されていないことも多いらしい。中には日頃からその虫について調査していて、一年以上の観察記録を発表している自由研究の事例もあった。凄すぎる。

 それから次によくあるのが工作・実験系。長持ちするシャボン玉の作り方、遠くまで飛ぶ紙飛行機。なるほど、これも比較的身近な材料で実験ができる。ただパッと思いつきそうなものだと過去の優秀作品とのテーマ被りがやや懸念だ。

 調べもの系だと、例えばその子が住んでいる地域の歴史や文化について調査するパターンが多そうだ。最近はSDGsをテーマにした調べものをすると評価されやすいとか……ふむふむ。


「ユウト、この中で興味のありそうなものはある?」

「んー……」


 ユウトはしばらく上半身をゆらゆらさせながら唸っていた。

 やっぱり自分の思いを言葉にするのはどうにも苦手らしい。

 そして俺も、実を言うとユウトが普段何に興味を持っているのか、よく分かっていなかった。

 ゲームが好きなのは分かるが、それ以外何が好きなのか……。

 虫は、たぶん好きじゃない。

 小さい頃にダンゴムシすら触るのを怖がっていたし、何より両親も虫嫌いなので虫かごを買ってやることすらなく、その影響を受けてしまったように思う。

 工作系はどうだろう。手先はわりと器用そうだが、家で何か作っているのを見かけた記憶はあまりない。

 ユウトの自由研究に相応しいテーマとは一体……。

 瞼を閉じて、この一ヶ月半の夏休みのことを振り返ってみる。

 そしてふと、思い浮かんだものがあった。

 そう。ウナギである。




 その日、我が家にウナギがやってきた。

 蒲焼のタレがかかっているアレではなく、長さ十五センチほどの生きているウナギの幼魚が二匹である。

 実はウナギ、まれに観賞用でペットショップに売られており、自宅で飼うことができるらしい。しかも案外生命力が強くて初心者でも育てやすいのだとか。

 ネットでヒットする観賞魚ショップに片っ端から問い合わせ、ようやく取り扱いのある店を探し当てると、ユウトと共に片道一時間かけて買ってきた。

 冷静に考えてみると、交通費、水槽やエサ代、そしてウナギ自身の値段を合わせると、それなりの料亭で食べるうな重の値段を普通に超えていた気がするが……背に腹はかえられぬ。


「わあ、けっこう可愛いねえ」


 生まれて初めて生き物を飼うことになったユウトの目は、すっかり水槽に釘付けだ。

 確かにくねくねと泳ぎ回り、時折つぶらな瞳でこちらを見つめてくる小さなウナギは、案外可愛げがあった。


「早速エサあげてみるか?」

「うん!」


 エサの粒が水中に落ちると、たちまちウナギが食いついた。二匹で競い合うようにして、あっという間に食い散らかしていく。

 自由研究のテーマはつまりこれだ。

 「ウナギを卵から育てる方法」。

 日本人に愛されているウナギだが、実はその生態については謎が多いというのをどこかで聞きかじったことがある。

 だから家で飼っているウナギがたまたま繁殖して、卵から稚魚を育てることができたという嘘の観察記録をでっち上げれば、世紀の大発見になるんじゃないだろうか。

 実際には育ててないので後から諸々の証拠を求められると厳しいが、稚魚は育ったもののもう死んでしまった、あるいは繁殖については個体差で偶然の産物であった……などの言い訳はいくらでも考えられる。


「でも、なんでウナギなの?」

「そりゃあユウト、お前夏休みの始めの頃にいっつもウナギ食べたい、ウナギ食べたいって言ってなかったか」

「そうだっけ」


 ユウトは首を傾げるが、俺ははっきり覚えている。一時期一緒に風呂に入るたびにウナギを食べたいとうわ言のように繰り返していたことがあったのだ。じゃあ今度食べに行くか、なんて声をかけても特に反応はなくぼーっとしていたので、熱にでも浮かされているんじゃないかと心配になったものだ。実際その後、夏風邪を引いたユウトは三日間学童に行けず、ミサキが仕事を休んで看病してくれたっけ。

 それ以来ユウトはウナギと言わなくなってしまったが、結局夏休み中に一度もウナギを食べていなかったことをふと思い出したのである。


「とにかく、こいつを使ってあと二日で嘘の自由研究を書き上げるぞ。んでもって、『クラッチ2』もゲットする!」

「調子がいいなあ。嘘の自由研究なんて、本当はパパは止める立場なんじゃないの?」

「まあ、そうかもしれないけどさ」


 ユウトの勉強机の棚に入っているゲームソフトのパッケージを手に取る。オンラインRPG『ミスティックオンライン』。この類のゲームを俺はやったことはないけれど。


「つまらなくてがっかりするような現実より、とびきり楽しい嘘の方が人を幸せにする時だってあるだろ」


 そのためなら嘘はついていいと、俺は思っている。

 そう言うとユウトは、少しホッとしたような表情を浮かべて。


「そうか……うん、そうかもしれないね」


 やる気が出たのか、勉強机に向かって黙々と白いレポート用紙を埋め始めた。

 大丈夫。もし嘘がバレて先生に怒られたら、俺が代わりに怒られてやるから。怒られるのは、得意だしさ。

 その時、玄関扉が開く音がした。ミサキが仕事から帰ってきたのである。

 ユウトに目配せすると、俺はユウトの部屋を出てその扉をガードするように立った。


「お、おう、おかえり」


 パンプスを脱ぎながら、ミサキは怪訝そうな視線をこちらへ向ける。


「自由研究中?」

「そう。今ちょうど集中し始めてさ。だからそっとしといてやってくれる?」

「でも、夕飯が」


 普段はミサキが帰宅後に夕飯を作って、なるべく家族三人で食べるというルーティーン。


「ああ、それは心配ないって。実はもう作ってあってさ、俺たち先にいただいたんだ。ミサキはゆっくりテレビでも見ながら食べててよ。な?」


 俺はそう言いながら彼女のカバンを持ってやり、リビングに誘導する。

 今ミサキをユウトの部屋に入れるわけにはいかなかった。仕事中だったので彼女にウナギを飼うことは言ってない。爬虫類嫌いの彼女のことだ、蛇に形状の似たウナギが家に知ったらなんてことになるか……。

 というわけで、なるべく時間稼ぎするべく、食べるのに時間のかかる料理を用意した。

 骨取りが手間なアジの開き、つまむのに時間がかかるひじきと大豆の煮物、ほろほろ柔らかい豆腐の味噌汁、そしてバンバンジーに、小鉢がまだまだエトセトラ。


「ああ、あとデザートにアイスもあるよ」


 キンキンに冷えて固くなったやつがね。

 次々と食卓に並ぶ皿の数々にミサキはしばらくぽかんとしていたが、「……ありがと」と小さく呟いて席についた。

 それにしてもミサキに料理を振る舞うなんていつ以来だろうか。

 俺自身は手間がかかかるのが面倒で外食で済ませた方が気が楽だと思ってしまう性質だが、そういえば新婚当初はよく料理を作っていたのを思い出す。飲食店でバイトしていたことがあったのでそれなりに得意ではあるのだ。


「うん、美味しい」

「そう? まあミサキが作るのには劣ると思うけど」

「そんなことないよ」


 ミサキの視線は料理に向いていて、表情も変えないのでそれがお世辞かどうかは分からなかったが、なんであれそう言ってもらえて少し嬉しかった。


「自由研究は順調なの?」

「ああうん、心配ないよ。間に合わせで市販のキットで工作することにしてさ。でもママに見られるのは恥ずかしいから、覗かないでほしいってさ」

「ふうん、そうなんだ」

「じゃ、じゃあ、俺はまたユウトの手伝いをしてくるから」


 そう言って逃げるようにしてユウトの部屋に戻ってきた。ユウトは本当に集中している最中だったので、特に声はかけずに水槽の中で無邪気に泳ぐウナギを眺めるなどした。

 すまん、ウナギ。自由研究が終わったら、証拠隠滅のためにお前は蒲焼きにさせてもらう。


 そしてすまん、ミサキ。……また、君に嘘をついてしまった。

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