第2話 路地裏の影
友人たちと別れた後も、アンの心は温かい幸福感で満たされたままだった。
彼女たちが、お返しだと言ってプレゼントしてくれたリボン付きのキャンディーをポケットの中で転がしながら、アンは鼻歌交じりに店への帰り道を歩いていた。友人たちの「美味しい!」という言葉、レオとの約束、そしてバスケットの中で静かに出番を待つ、完璧な出来栄えの虹色マカロン《レインボー・マカロン》。
世界の全てが、自分を祝福してくれている。
何の疑いもなく、彼女はそう信じていた。このシュガーロードを歩いている限り、不幸や悲しみなどという、物語の中でしか知らないような出来事が、自分の身に降りかかるはずがないのだと。
うきうきとした気分で、店の角を曲がろうとした、その時だった。
アンは、ふと足を止めた。
目の前に、奇妙な光景が広がっていたからだ。
それは、シュガーロードから一本だけ、まるで忘れられたように伸びている、細く薄暗い
これまで、何度もこの道を通ってきたはずなのに、その存在をはっきりと意識したのは、これが初めてだった。
何かが、おかしい。
アンは首を傾げた。
シュガーロードを照らす
まるで、色鮮やかな絵本の一部分だけが、無慈悲に黒く塗りつぶされてしまったかのような、強烈な
そして、アンはその黒い絵の具の中心に、ぽつんと、一つの染みがあることに気がついた。
人影だ。
壁にもたれかかるようにして、誰かがうずくまっている。
遠すぎて顔も性別もわからない。けれど、その人影が、このシュガーロードの幸福な風景の中で、あまりにも異質であることだけは、痛いほどに理解できた。陽気な音楽も、人々の楽しげな笑い声も、その影の前では意味をなさない。それは、この街の調和から完全に切り離された、孤独な染みだった。
「……」
アンの胸に、これまで感じたことのない、ちりちりとした不安が広がっていく。
関わらない方がいい。
本能が、そう警告を発していた。あの黒い染みに近づいてはいけない。あれは、自分の世界の
そう、頭ではわかっているのに、アンの足は、まるで地面に縫い付けられたかのように動かなかった。
父の言葉が、脳裏に蘇る。
――この街の奇跡的なまでの幸福を支えているのは、ささやかな
もし、あの影が、助けを必要としている人だったとしたら?
もし、お腹を空かせて、動けなくなっているのだとしたら?
その人を見捨てて、自分だけが幸福の中にいることを、この街は許してくれるだろうか。父も、母も、レオも、友人たちも、そんな私を見て、きっと悲しむだろう。
アンは、バスケットを抱える腕に、ぎゅっと力を込めた。
怖い。
けれど、見過ごすことは、もっと怖い。
彼女の中で、本能的な恐怖と、育んできた優しさが、激しくせめぎ合う。
その時、人影が、ほんの少しだけ、身じろぎしたように見えた。
それが、最後の決め手だった。
「……大丈夫、かな」
アンは、ほとんど無意識に、そう呟いていた。
もう、迷いはなかった。
彼女は、シュガーロードの輝かしい光の中から、自らの意志で一歩を踏み出した。
甘い空気と冷たい空気の境界線を越えて、あの黒い染みが待つ、薄暗い路地裏の入り口へと、ゆっくりと歩き始めたのだった。
◇
路地裏の入り口を数歩入っただけで、世界は完全にその姿を変えた。
ついさっきまでアンを包んでいた陽気な
太陽の光が届かない場所というのは、これほどまでに冷たく、寂しいものなのだろうか。
アンはバスケットを胸に抱きしめながら、ゆっくりと人影に近づいていった。
目が暗がりに慣れてくるにつれて、その影の正体が、はっきりと見えてくる。
それは、アンと同じくらいの歳に見える、一人の少女だった。
着ているものは、服と呼ぶのもはばかられるほど、擦り切れ、汚れたぼろ布だった。長く洗っていないのだろう、
まるで、この街のきらびやかな輝きから、こぼれ落ちてしまった全ての不幸を、たった一人でかき集めたかのような姿。
アンは、思わず息を呑んだ。
「……あの……大丈夫?」
震えそうになる声を、なんとか絞り出す。
その声に反応して、少女が、ゆっくりと顔を上げた。
「 !」
アンは、声にならない悲鳴を心の中で上げた。
その瞳。
少女の瞳には、色がなかった。光も、感情も、何も映していなかった。そこにあるのは、ただ、どこまでも続く、
アンは、生まれて初めて、本物の「絶望」というものを、真正面から覗き込んでしまった。
怖い。
全身の産毛が逆立つような、本能的な恐怖。後ずさりして、今すぐこの場から逃げ出したいという衝動が、アンの全身を駆け巡る。
だが、彼女は逃げなかった。
逃げられなかった。
目の前の少女の瞳に宿る、そのあまりにも深い闇が、アンの心に突き刺さって離れなかったからだ。
この子を、このままにはしておけない。
恐怖よりも、その一心の方が、わずかに強かった。
アンは、震える手でバスケットの蓋を開けた。色とりどりのマカロンが、薄暗い路地裏で、場違いなほどに鮮やかな光を放っている。その中から、一番元気が出そうな、太陽の色をしたレモン味のマカロンを一つ、そっと取り出した。
「……これ、あげる」
アンは、少女の前にそっとしゃがみ込むと、マカロンを差し出した。
「食べると、元気になるおまじないつき、だよ」
声が、少しだけ上ずってしまう。
少女は、差し出されたマカロンと、アンの顔を、何も映さない瞳でただ交互に見つめている。その手は、ぴくりとも動かない。
アンは、小さく息を吸うと、さらに一歩、少女に近づいた。
「ほら」
少女の、力なく投げ出された手を取る。そして、その汚れた手のひらの上に、マカロンを優しく乗せようとした。
その、瞬間だった。
アンの温かく、柔らかな指先の皮膚が。
少女の、石のように冷たく、ざらついた手の甲の皮膚に直接触れ合った。
時間にして、一秒にも満たなかっただろうか。アンの指先が、少女の冷たい肌に触れた、その瞬間。
ぞわり、と。
アンの背筋を、経験したことのない強烈な
それは、単に「冷たい」というような、ありふれた感覚では断じてなかった。
まるで、自分の魂の一部分が、温かい液体のように、指先の接触点からごっそりと吸い出されていくような。胸の中にずっと灯っていた、温かいランプの火が、ふっと吹き消されてしまったかのような。
世界から、色が抜ける。
遠くで聞こえていたはずの、シュガーロードの陽気な音楽が、意味のないノイズのようにぐにゃりと歪む。立っているはずなのに、足元の地面がぐらりと揺らぎ、強烈な
「―――ッ!?」
目の前の少女が、苦痛とも歓喜ともつかない、かすれた息を呑んだ。
闇しか映さなかったはずの瞳が、ほんの一瞬、ギラリと人間らしい光を宿したのを、アンは
次の瞬間、少女は、まるで灼熱の鉄にでも触れたかのように、アンの手を激しく振り払った。
その勢いで、アンの手からこぼれ落ちたマカロンを、しかし少女は空中で器用につかみ取る。
そして、信じられないような俊敏さで立ち上がると、一言、
「……ありがとう」
枯葉が擦れるような、ほとんど音にならない声でそう囁き、くるりと身を翻した。
アンが何かを言う暇もなく、少女は路地裏の奥深く、光の届かない本当の闇の中へと、まるで溶けるように消えていった。
後に残されたのは、圧倒的な静寂と、アン一人だけだった。
「……え……?」
何が、起きたのだろう。
アンは、その場に呆然と立ち尽くす。自分の右手を、ゆっくりと目の前にかざしてみる。
おかしい。
少女に触れた部分だけが、まるで氷にでも押し当てていたかのように、じんじんと冷たさを主張している。何度か指を握り、開いてみても、その奇妙な感覚は消えない。
そして、胸の奥にぽっかりと空いた、小さな空洞。
さっきまで、あんなにも幸福感で満たされていたはずなのに。
(……気の、せいよね)
アンは、ぶんぶんと首を横に振った。
(あの路地裏が、寒すぎただけ。それに、きっと、あの
そうに違いない。
自分は、正しいことをしたのだ。お腹を空かせた子に、食べ物を分けてあげた。それだけのこと。さっきの奇妙な感覚は、きっと驚きのあまり、見間違い、感じ間違いをしたに過ぎない。
アンは、必死に自分にそう言い聞かせた。
何度も、何度も。
まるで、そう信じ込まなければ、自分の中の何かが崩れてしまいそうになるのを、必死で食い止めるかのように。
アンは、逃げるようにその場を後にした。
もう一度振り返る勇気は、彼女にはなかった。
シュガーロードの輝かしい光の中に戻っても、右手に残る、あの墓石のような冷たさだけは、しばらくの間、どうしても消えてはくれなかった。
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