メルヘン・スウィートワールド ~わたしたちの甘くて幸せな世界~

成海。

プロローグ

第1話 幸福なアンと七色マカロン

 パンの焼ける、甘い芳香ほうこうが、夜の最後の闇を溶かしていく。


 商業都市しょうぎょうとしシュガーティアの朝は、いつだって幸福な香りと共に訪れる。窓から差し込む光は、まるで糖蜜とうみつを煮詰めたような、とろりとした黄金きんの色をしていた。その光が、部屋の床に置かれたバスケットを照らし、編み目の一つひとつを優しく縁取っている。


​ ベッドの中から、アンは微かに身じろぎした。

 意識が覚醒するよりも先に、鼻腔びこうをくすぐる小麦の香りが、彼女の夢にまで忍び込んでくる。それは、パン屋の娘として生まれた彼女にとって、何よりも心地よい目覚まし時計だった。


「……ん……」


 ゆっくりとまぶたを開けると、見慣れた自室の天井がそこにあった。木のはりには、昔作ったドライフラワーの飾りが、穏やかな朝の光を浴びて静かに揺れている。


 ――コンテスト。


 その単語が脳裏に浮かんだ瞬間、アンの心臓が、きゅっと可愛らしい音を立てて縮こまった。そうだ、今日はコンテストの前日。彼女の人生にとって、これまでで一番、大切で、輝かしい一日が始まるのだ。


 ばさりと布団を跳ね除け、ベッドから飛び降りる。床に散らばったデザイン画や、リボンの切れ端を踏まないように、つま先立ちで窓辺へと駆け寄った。


「わ……」

 窓を開けると、甘く、ひやりとした空気が頬を撫でた。

 シュガーティアの空には、今日もゆっくりと、わたあめの雲が浮かんでいる。遥か遠くの山の稜線は、粉砂糖をまぶしたように白く輝いていた。眼下の通りでは、石畳――一枚一枚が、本物のビターチョコレートでできている――を、早起きの住民たちが行き交っている。挨拶を交わす声、牛乳配達の瓶が鳴る音、その全てが心地よい朝の音楽となって、アンの耳に届いた。


 これ以上ないほどの、完璧な朝だった。

​ 階下のリビングに下りると、母のマリーが温かいミルクをカップに注いでいるところだった。


「おはよう、アン。コンテスト前日なのに、よく眠れた?」

 母の優しい声に、アンは「うん!」と大きく頷いた。


「なんだか、すっごくいい夢を見てた気がする」

「あら、どんな夢?」

「えっとね……」


 アンは少しだけ考え込んだが、夢の内容はもう、朝の光に溶けてしまった後のようだった。けれど、胸の中に残った温かい幸福感だけは、まだはっきりと覚えている。


「覚えてないや。でも、とっても幸せな夢だったの。だからきっと、今日は最高の一日になるよ!」


 根拠のない自信に満ちた娘の言葉に、マリーは「そうね」と微笑んだ。


 厨房アトリエの奥から、父のピエールが顔を出す。彼はこのパン屋『ソレイユ』の主人あるじであり、シュガーティアでも指折りの職人アルチザンだ。白い帽子から覗く顔は、小麦粉で少しだけ汚れていた。


「今日のかまは最高の出来だぞ、アン。お前の門出を祝ってるらしい。さあ、朝食にしないか。新作のスコーンが焼けてる」


 テーブルに並べられたのは、焼きたてのスコーンと、色とりどりのジャム、そしてたっぷりのクロテッドクリーム。ごく普通の、しかし、アンにとっては世界で一番幸せな朝の食卓だった。


 アンは、昨日の夜に練習で焼いておいた、自分のスコーンを一つ、父の皿に乗せた。


「パパも、こっちを食べてみて。ちょっとだけ、祝福ギフトを使ってみたの」


 アンの持つ祝福ギフトは、《小さな幸せ《プチ・ボヌール》》。

 彼女が心を込めて作ったお菓子を食べた人を、ほんの少しだけ、幸せな気分にさせることができる。あまりにもささやかで、どこまでも平和な力。

 ピエールは娘のスコーンを一口食べると、大きく目を見開いた。


「……うん、美味い。ただ美味いだけじゃないな。なんだろうな……胸の奥に、ぽっと小さな陽だまりができたような、ささやかで、けれど確かな幸福感だ。お前の力は、確実に成長しているぞ、アン」


 父の言葉に、アンの顔がぱっと輝く。


「本当!?」

「ああ。このシュガーティアがどうして『幸福の街』って呼ばれてるか、わかるかい? それはな、お前みたいな、ささやかな祝福ギフトを持った人間たちが、毎日少しずつ、この街に『小さな幸せ』を振りまいているからなんだ。その積み重ねが、この街の奇跡的なまでの幸福を支えている。だから、自分の力を誇りに思うんだぞ」


 父の言葉は、いつもアンに勇気をくれる。


「うん!」


 アンは力強く頷くと、自分のスコーンを頬張った。口の中に広がるバターの香りと、ほんのりとした甘さ。そして、自分自身に返ってくる、温かい幸福感。


 ──大丈夫。私なら、きっとできる。


 朝食を終えたアンは、厨房アトリエの奥にある自分専用の作業台へと向かった。

 そこには、昨日のうちに焼き上げておいた、何十個ものプレーンなマカロンが並んでいる。これから、このマカロンたちに、七色のクリームを挟み、最後の飾り付けをするのだ。彼女の夢と希望、そして祝福ギフトの全てを注ぎ込んだ、世界で一つだけの虹色マカロン《レインボー・マカロン》を完成させるために。


「よしっ!」


 アンはエプロンの紐をきゅっと結び直した。


「最高の虹色マカロン《レインボー・マカロン》を完成させて、みんなをあっと言わせてみせる! 絶対に、最高の一日にするんだ!」


 窓から差し込む黄金きんの光が、希望に満ちた彼女の横顔を、祝福するように照らしていた。



 アン専用の作業台アトリエは、厨房ちゅうぼうの一番奥、窓から差し込む光が最も柔らかく降り注ぐ場所にあった。壁には様々なデザイン画や、新しいお菓子のレシピを書き留めたメモが所狭しと貼られている。甘いバターと砂糖の香りに満ちたその空間は、彼女にとって聖域サンクチュアリそのものだった。


​ 彼女は、ずらりと並んだマカロンの生地――専門用語ではコックと呼ばれる――を前に、一度、ふぅっと深く息を吸った。生地の表面は、まるで真珠のように滑らかで、繊細な光沢を放っている。ほんの少しでも力を入れすぎれば崩れてしまいそうな、その完璧な焼き上がりは、彼女が何度も失敗を重ねてようやく辿り着いた、努力の結晶だった。


 ここからが、正念場だ。

 アンは、色とりどりのクリームが満たされた絞り袋を手に取った。赤はいちご、黄色はレモン、緑はピスタチオ、紫はブルーベリー。七つの味、七つの色。その一つひとつに、彼女の祝福ギフトである《小さな幸せ《プチ・ボヌール》》がたっぷりと込められている。


 真剣な眼差まなざしで、最初の一つに手を伸ばした、その時だった。


「お、やってるな。未来の天才パティシエール様は」


 不意に背後からかけられた声に、アンの肩がぴくりと跳ねた。絞り袋を握る手に、一瞬だけ余計な力が入る。


「レオ! もう、びっくりさせないでよ! 手が滑ったらどうするの!」


 振り返ると、戸口に幼馴染おさななじみのレオが、面白そうに笑いながら立っていた。アンよりも少しだけ背の高い彼は、この街の腕利きショコラティエの息子で、アンにとっては一番のライバルであり、そして……一番の、気になる相手だった。


「悪い悪い。でも、すごい集中力だったぜ。俺がここに来てから、もう五分は経ってる」

「うそ!?」

「本当。あまりに真剣な顔してるから、声をかけるタイミングを逃したんだよ」


 レオはそう言うと、作業台に近づいてきて、完成間近のマカロンを興味深そうに覗き込んだ。


「すげえな……本当に虹みたいだ。これはコンテストでも、かなり目立つんじゃないか?」

「うん、そのつもり。味だけじゃなくて、見た目でもみんなを幸せな気持ちにしたくて」


 レオの素直な賞賛に、アンの頬が少しだけ緩む。彼に褒められると、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……どれ、いっちょ味見してやるか」


 レオが悪戯っぽく笑いながら、並べられたマカロンの一つに手を伸ばす。


「だめっ!」


 アンは、ぱしんっと軽い音を立てて、その手を叩いた。


「これはコンテストが終わるまでお預け。それに、まだ完成してないんだから」

「ちぇっ、ケチ」


 口を尖らせるレオに、アンは少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。


「……でも、もし優勝したら」

「ん?」

「もし、私がコンテストで優勝できたら……その時は、レオに一番に食べさせてあげる」


 その言葉は、ほとんど勢いで口から滑り出ていた。言った後で、自分の顔に熱が集まっていくのがわかる。レオは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに、いつもの快活な笑顔に戻った。


「マジかよ!? そりゃ楽しみだ。約束だからな! 絶対、優勝しろよ」

「う、うん……!」

「じゃあ、俺は配達に行くから。頑張れよ、未来の天才」


 ひらひらと手を振って去っていくレオの背中を見送りながら、アンはしばらくの間、動けなかった。高鳴る心臓を落ち着けるように、胸元をぎゅっと押さえる。


 約束。レオとの、大切な約束。

 負けられない理由が、また一つ増えてしまった。

 アンは、先ほどよりも強い決意を目に宿すと、再び作業に向き直った。

 もう迷いはない。


 彼女の指先から、魔法のように滑らかなクリームが、マカロンのコックの上に美しく絞り出されていく。一つ、また一つと、虹のかけらが生まれていく。全てのクリームを挟み終えた後、最後の仕上げに、食べられる銀色の真珠パールを一粒ずつ、丁寧に乗せていく。


 そして、ついに――。

 作業台の上に、完璧な七色の弧を描く、虹色マカロン《レインボー・マカロン》が完成した。

 それは、ただ美しいだけのお菓子ではなかった。アンの夢、家族の愛情、友人たちの応援、そして、レオとの甘酸っぱい約束。彼女の「幸福」の全てが、その小さな一粒一粒に、ぎゅっと凝縮されているようだった。

 アンは、胸いっぱいに広がる達成感に、満足のため息をついた。


 これなら、きっと大丈夫。

 このマカロンなら、きっと、食べた人みんなを幸せにできる。



 完成した虹色マカロン《レインボー・マカロン》を、アンは細心の注意を払いながら、特製のプレゼンテーション・バスケットに詰めていく。一つひとつが、まるで宝石を扱うかのように、丁寧な手つきで。

 そのバスケットの中は、柔らかな綿で満たされており、繊細なマカロンがほんの少しも動かないように設計されている。


 全てを詰め終え、バスケットの蓋をそっと閉じる。金の留め具が、ぱちりと小さな音を立てた。それは、彼女の幸福な準備が、全て整ったことを告げる合図のようだった。


「行ってきます!」


 母と父に元気よく声をかけ、アンは希望と共に店の扉を開けた。

 からん、とドアベルが鳴り響き、シュガーティアの甘い空気が彼女を包み込む。


 そこは、彼女が愛してやまない大通り――シュガーロード。


 太陽の光を浴びてキラキラと輝くチョコレートの石畳。建物の壁はジンジャークッキーでできており、窓枠はアイシングシュガーで美しく飾られている。街路樹として植えられているのは宝石のなるジュエルツリーで、その枝にはルビーやサファイアにも似た、硬くて甘いキャンディーが無数に実っていた。風が吹くたびに、それらが触れ合って、ちりん、ちりんと涼やかな音を立てる。


 見上げる空には、相変わらず、わたあめの雲がぷかぷかと浮かんでいた。

 アンは、胸いっぱいにこの幸福な空気を吸い込む。これから、街の友人たちに、完成したばかりのマカロンを少しだけおすそ分けしに行くのだ。コンテストの前に、みんなの「美味しい」という笑顔が、最高のお守りになるから。

 バスケットを大切に抱え、彼女は軽やかな足取りで歩き始めた。


「あら、アンちゃん。もうマカロンはできたのかい?」


 声をかけてきたのは、角のキャンディーショップの店主である、気のいいおばあさんだ。


「はい! 今、できたところです!」

「そうかい、そうかい。頑張るんだよ。街のみんなが応援してるからね」


 ありがとう、と手を振り返し、さらに進む。

 今度は、同い年の友人たちが、アンの姿を見つけて駆け寄ってきた。


「アン! それ、コンテストのマカロンでしょ! 見せて見せて!」

「わー、すごい! きれーい!」

「絶対優勝だよ、アンなら!」


 友人たちの屈託のない声援に、アンの心はますます温かくなる。この街は、本当に優しい。誰もが誰かの夢を応援し、誰かの幸せを自分のことのように喜んでくれる。


 アンは、そんなシュガーティアが大好きだった。


 人々の優しさに触れ、感謝の気持ちで胸をいっぱいにしながら、彼女は大通りを歩いていく。その心は、完成したマカロンのように、色とりどりの幸福感で満たされていた。

 道の先には、レオとの約束も、輝かしいコンテストの結果も、素晴らしい未来も、全てが待っている。そう、信じて疑わなかった。


 

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