理想の彼

キャルシー

理想の彼

彼は、部屋に入ってきた彼女と目があった。彼女は、

「誰かと話でもしていたの?」

といって整理整頓の行き届いた部屋を見渡した。もう夕方だというのに照明をつけていない室内を、窓の外から差し込む夕焼けが赤く染めていた。

「ここに誰かがいたと思うかい?」

彼はあまり興味がないといった風にさらりと答えた。背もたれのある座椅子に座り、こちらを見ている。いつも通りの明るい声だ。

「それよりもこれを見てくれよ。」

といって、部屋のちょうど中央におかれた座卓の上にある一枚のパンフを指差した。夕焼けの光を受けて座卓は、窓とは逆の方に長い影を落としていた。その影は彼女の足にまとわりついている。

差ししめされたパンフには、「マインドを実在に」という大きく印刷されたタイトルの下に、空中に浮かんだ大きな顔と会話をしている女性の写真が載っていた。その写真はあたかもSF映画にでも出てくるワンシーンのようである。

「マインドを実在に?」

彼女は不審な顔つきでそのパンフをのぞき込むと続けていった。

「新興宗教か何かではないでしょうね?」

「まさか。僕が仏様やイエス様以外の神様を信じると思うか」

彼は右手の人差し指をたてて空中を舞わしながら尋ねた。今はちょうど逆光になっているので彼の表情はよく見えないが、こういう仕草をするとき、彼はちょっと上目遣いになる。彼女は彼のこの癖が好きだった。

「あなたがもし仏様やイエス様を信じていたなら、もう少しまともな人生を歩んでいるでしょうね。」

彼女はおどけて返した。そして、「ま、あなたが宗教狂いの人だったら、私はつきあってないけど。」と付け加えながら、今自分がこの部屋に入る直前に部屋の中から人の気配がしたことや部屋の中で誰かが話をしている様子だったことと、この「マインドを実在に」というパンフの内容との関係を考えていた。彼は彼女の顔を見つめ、次の言葉を待っているようであった。彼女はパンフから目を上げ、彼を見た。

「これ、何よ。」

気味が悪い。彼女の顔がそう語っていた。

「いいから。そのパンフをよく見ろよ。」

彼は促した。

夕焼けの光が衰えていくに従って、部屋の暗さが増していった。白黒印刷のそのパンフの写真に写っている空中に浮かんだ顔は、これぐらい部屋が暗くなったらもうはっきりとは見えない。だんだんと座卓に肘をついてこっちを見ている彼の表情もわからなくなってきた。自分をからかっているのか、冗談なのか、あるいは本気で自分の答えを求めているのかわからなかった。

「電気、つけてもいい?」彼女は彼の答えを聞くことなく照明のスイッチに手を伸ばした。刹那に蛍光灯の冷たい光が部屋を満たした。急に明るくなったためだろうか、彼の顔がまぶしく思えた。そのとき、開け放している窓から心地よい微風が流れ込み、二人の間をすり抜けた。

「なぁ」彼はいった。「君にとって僕ってどんなヤツ?」

「なによ、突然。」彼女は妙な雰囲気を感じた。彼はそんなこと今まで聞いたことがなかった。「なんだろう、この感覚。今日は彼、なにか変。」彼女は、もしかしたら別れ話でも切り出そうとしているのだろうかと勘ぐった。付き合いだしてもうすぐ2年。そういう風に彼が考え出したという可能性は確かにある。

「そうね。あなたって私にとってどんなヤツかなぁ。」彼女は顎に右手を添えて上目遣いに次の言葉を探した。「背は標準よりも低いけれど、私よりも高いからグッド。って言うか、ちょうどいいかな。あまり背が違いすぎるとキスするときに困るでしょう。大学の授業をサボることなく、それでいてバイトも皆勤賞。そのうえクラブでもキャプテンを務めてる。忙しい人。煙草を吸わないのは私にとっては本当にありがたい人ね。」

彼女は、私の方はあなたを今でも一番の男性だと思っていると言うことをそれとなく織り込んで答えた。考えてみれば、すべての点で彼とは気が合う。まるでもう一人の自分。同じ時に同じ食べ物を食べたいと感じ、同じ時に同じ映画を見たいと思う。そして映画の感想まで鏡で映したように同じ。二人でいることが本当に心地よい。きれい好きの彼女は、いつも清潔で整理整頓の行き届いた彼の性格を愛した。男子大学生の一人暮らしで、彼ほどいつも部屋をきれいにしている人なんているだろうか。

「あなたの方は?」平静を装いながら彼に聞き返した。

「マインドを実在に。ってやつさ。」

「え?」

「パンフ、見てみろよ。」

彼女はさっきから左手に持っていたパンフに改めて目を落とした。空中に浮かんだ大きな顔と会話をしている女性の写真が載っていた。どちらも自分の知らないモデルさんだった。

「このパンフがなに?」

「下の方に説明書があって、こう書いていないか?」彼は、彼女がパンフの下部に目を移すのを確認して言葉を続けた。「『マインドの中の像をこのイメージ画像のようにはっきりと出すには揺るぎないお相手のイメージがあなたの心の中に描けていることが条件です。マインドの実在化には個人差があります』って。」

「わけのわからないことを言って話をそらすのはやめてよ。」

彼女はむっとして彼をにらんだ。彼はお構いなしに続けた。

「いつか話さなきゃって思ってたんだ。マインドの実在化がもっともうまくいくケースでは相手はもやっとしたイメージなんかじゃなく、実在の人間と区別がつかなくなるってことを。」

彼女は辟易した表情を隠さなかった。彼は続けた。

「このプロジェクトが動き出す前段階の実験台に僕たちが選ばれたのさ。2年前の話だ。」

「知らないわよ。そんな実験に協力した覚えなんか、私には、いいえ、私たちにはないわ。」

「そりゃそうだろう。僕たちは協力したわけではない。ただ、秘密裏に協力させられたんだ。町ゆく人のなかから無作為に選ばれたのさ。だから『実験台』にされたって言っただろう。」

彼女は大きくため息をついた。「一体どうしちゃったのよぅ。なんか変な映画に感化されたの?」

「実は、今日でこの実験は丸2年目なんだって。ここで実験は一応の終了らしいんだ。」

「ああ、君には本当に悪いことしたとは思うが、」と太い声がした。「その通り。」


声のした方を見る。押入のふすまが開く。


押入には薄汚れた白衣を着た中年の男性が手に何かの機械を持って座っていた。誰?ずっと私たちの会話を聞いていたのかと思うと、彼女には嫌悪感しかなかった。


しかし見ると、彼女は、その中年男性と以前どこかで会ったような気がした。彼はその男の方を一瞥してから彼女に言った。

「彼がこの実験の班長らしい。僕たちの関係を2年間作り上げた"神様"さ。」

彼の言葉には明らかな皮肉が込められていた。"神様"のところで左右の手の人差し指と中指を曲げてクイクイとクォーテーションのジェスチャーをした。引用を表しているらしい。そんなことよりも、いつもの彼らしからぬ沈んだトーンだったので彼女ははっとした。

彼女は班長から彼に目を移した。彼は大きくうなだれ、覇気がなくなっているように見えた。

「実験の結果、」彼は続けた。「マインドを完全に実在化して、一個の人間であり続けることができるということが分かったそうだ。並行していくつも実験をやっているが、僕たちが最高の結果だったそうだよ。」


「ああ、最高の結果というだけではない、我々の期待以上だ。」班長が横から口を出した。「まだ相手が鮮明にイメージ化できないうちから私はこの実験を担当、相手をほぼふつうの人間のように感じる段階にくればそれまでの記憶を消してフィールド実験に移行したというわけだ。どうだった、この2年間は。」

「どういうこと?」彼女は班長に言った。「一体全体なんなの?今日で実験が終わるってどういうことよ。私たちはどうなるの?」

「ボタンを押せば実験は終了。実在化されたマインドは消滅する。彼が説明したとおりだよ。」班長は少々申し訳なさそうにそういうと、持っているリモコンをゆらゆらと振って見せた。


「ということは、彼は、私が作り上げた『私のマインド』?」

彼女は班長に向かって飛びかかった。


「やめて。押さないで。今、私から彼を消し去らないで──!」


彼女は叫びながら班長に飛びかかった。だが、彼女の手が班長の腕に触れる寸前、空気が波打つように彼女の輪郭が揺らぎ始めた。


「待って、まだ言ってないの。私……あなたのこと……」


声が震え、言葉の最後は空気に溶けるように消えていった。彼女の瞳は彼を見つめたまま、涙が一筋、頬を伝った。


彼は立ち上がろうともがいた。


彼女の姿は、夕焼けの残光のように淡く、静かに消えていった。彼女がいた場所には、彼女の体温のようなぬくもりが、ほんの一瞬だけ残っていた。


班長の足元に、一枚のパンフがふわりと落ちた。


班長は落ちたパンフを拾い上げると、彼に言った。

「長い間だましてラット代わりにしたことは申し訳ない。さぁもう楽にしてやろう。」


彼はようやく顔を上げた。流れる涙をぬぐおうとはせずに部屋を見渡した。彼の両手は座椅子の背もたれに縛られていて、結束バンドに血がにじんでいた。


もう、彼女の姿はどこにもない。彼が真に理想とした女性。自分と全く同じ価値観を持ち、本当に心が通じ合えた女性。性格も物の考え方も食べ物、いやデートコースの好みまでまったく自分と同じだった最高の女性だった。


カッターナイフの刃をカチカチと出しながら歩いてくる班長に向かって言った。

「本当に彼女は僕が作り上げた幻だったんですね。」


窓の外はすっかり暗くなっていた。

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