死んだ人のことをいつまでも思い出していると死んでしまう病

後谷戸隆

死んだ人のことをいつまでも思い出していると死んでしまう病

「これ以上死んだ彼女のことを思い出しているとあなたは死んでしまいます」と医者に言われる。


「はい?」


「そういう病気があるのです。『死んだ人のことをいつまでも思い出していると死んでしまう病』」


「でもいつまでも思い出すって、そんなのふつうじゃないですか?」


「まあふつうなんですけど、でもなかにはそういう病気になってしまう人がいて、あなたがそれ」


 先生いわく、死なないようにするには彼女のことを二度と思い出さないようにするしかないらしい。


「考えなくたって勝手に思い出しちゃうんだから無理じゃないですか?」


「この薬を飲めば可能です」と赤いキラキラした薬を出してくれる先生。


「この薬はあなたが考えてもいないのに死んだ人のことを思い出してしまうことを防ぐ薬です。これを朝晩飲み続けていればあなたは発作から逃れることができるでしょう」


 医者からもらった赤い薬をまじまじと見る。ラメの入ったネイルみたいなこの薬は、彼女の爪みたいだなあと思うと一気にじわあっと涙が出てきて落ちこんでしまう。


「ただしこの薬も万能ではありません。これは自動的に思い出してしまうことを防ぐだけで、あなたが『意図的に』思い出そうとしたときには効果がありません」


「えっ」


「なのであなたは決して死んだ彼女のことを意図的に思い出そうとしてはいけません。顔も名前も思い出も、歩き方も話し方の癖も好きな食べ物のことだって、なんにも思い出してはいけないのです」


「そ、それはつらくないですか?」


「でもそうしないと死んじゃうんですよ、あなたが」


 仕方がないので薬を飲んだ。すると気持ちがぱあっと晴れたように明るくなって、自分がどれだけ常に死んだ彼女のことを思い出し続けていたのかということがわかってなにやらほっとするやら悔しいやらな気持ちになる。


 でもおかげで「そうか、この悲しみはそのほとんどが病的なものだったのだ」と気がつくことができた。


 わかっただけでも悪い気分ではない。彼女には申し訳ないけれども、これからはこの薬を飲み続け、金輪際思い出さないようにしよう、と心に決めた。


 それでしばらくは平穏無事に暮らしていた。頑張って息を殺して黙り続けていることで、そこそこ順調な日々を送れていたのだ。


「なんだ、彼女のことを思い出さなくたって、案外に大丈夫なんだな」という自信も湧いてくるというものである。


 だがそうこうしているうちに、わたしは少しずつ違和感を感じてきてしまっていた。なにかすっぽりとした大きな空白の感じがわたしの中にある気がしてくる。


 苦しくなる。自分はかつてそこにあったはずの大きな柱のようなものに寄りかかって暮らしていたのに、その柱がどこかに行ってしまったせいで、ちっとも寄りかかることができなくなってしまっているという感じ。そのことに気がついて息が切なくなってしまう。


「先生、思い出さないでいると楽といえば楽なんですが、でも思い出さないでいると、それまで自分の支えになってくれたようなものまでなくなってしまう気がするんです」


 わたしは先生に訴えた。


「まあそうでしょうねえ」


「思い出って先生、思い出があるというだけで本当に自分を支えてくれるぐらい力強いものなんだなって最近気づいて、でも思い出さないでいるとそれすらなくなってしまって、ずっとふわふわわやわやしているような感じになってすっごいつらいのです」


「まあそうでしょうねえ」


 と先生。


「ど、どうにかなりませんか?」


「無理ですね」


「えーっ?」


「あなたはその思い出に頼らない自分の新しいアイデンティティを作り上げるしかないんです。そのつらい記憶を完全になくしてしまって、新しい自分になるしかないんです」


 無理じゃないですか? とは言えなかった。それ以上、なんにも言えないのだろうということは、うすうす感じとれたから。


 診察のあと先生が「あなたが危険なので今日はついていくことにします」と言ってわたしの帰路についてきた。よっぽど暗い顔をしていたのだろう。


 電車に乗って、どこまでもぼーっと窓の外を眺めているうちに、気がついたら京急の三浦海岸の駅まできてしまう。


 海岸、という名前に惹かれて反射的に電車を降りた。海までてくてくとぼとぼと歩いていった。歩いたってどうしようもないのだが歩いてしまう。わたし自身の気持ちをすりつぶしてしまうようにどこまでも。でも、世界の果てまで歩いてしまったって、きっとこの気持ちは捌かせやしないのだが。


「ここが思い出の海岸とかなのですか」と後ろから先生。


「べつにそうではないのです」とわたし。単に降りただけです。


 波打ち際まできて革靴が砂にまみれるのも気にしないで海が近づいたり遠ざかったりしているのをぼんやり見ているうちに、ふと、腹の底から思い出の波がぶわーっと襲ってきつつあることに気がついた。ああ。


「先生、もう、無理っぽいです」と絞り出した。先生は悲しそうな顔で頷きながら自分の懐をがさがさと漁り、青い色の薬をわたしに差し出して、


「これは彼女のことをすべて忘れられる薬です」


「えっ、すべて?」


「すべてです。これを飲みさえすれば彼女のことを思い出してしまうことはもうありません」


「そっ、そんないいものがあるんだったら、最初っから出してくれたっていいじゃありませんか」と抗議していると、


「ほんとうにいいものだと思います?」と深刻そうに聞いてくる先生。


「これを飲みさえすれば確かにもう二度と彼女のことは思い出さなくてすみます。あなたが彼女の思い出に苦しむこともなくなります。でも、彼女のことはもう、一切合切思い出せなくなるのです。今までの赤い薬とは異なります。思い出そうとしたって、そもそも、無理になってしまうのです」


 それで逡巡する。だが一方で、腹の奥底では今にも思い出が蘇ってきそうなマグマがごろごろとうごめいており、喉のところまで吹き出してきそうだった。それが顔を覗かせたらきっとわたしは耐えられなくなってしまうだろう。悲しみに、彼女を失った悲しみに、わたしは食い尽くされてしまうだろう。


 だったら、その薬を飲んだって構わないのではないか、そんなふうに思い始めていた。


 びくり、と震えが始まる。わたしの体はがくがくと引きつり、砂の上に膝をついてしまう。


「ううううっ」


 苦しい。息ができない。汗がだらだらと流れてくる。お腹が固くなってしまったみたいに全身が重たくなる。


 思い出だ。思い出がやってきたのだ。


「ああっ」


 もう飲んでしまうしかないのではないか。薬を飲んでみんな忘れてしまうしかないのではないか。


 だが。


「わ、忘れたくないんです、わたしは彼女のことを、忘れたくないんです」


 わたしは先生に言った。


「こんなに苦しくたって、悲しくたって、わたしは彼女のことを忘れたくないんです」


 先生はわたしの肩を押さえ、青い薬を突き出しながら、


「決めるんです。あなたの人生を決めるんです」と言う。


「あなたがなにを考えなにを考えないか、あなたがなにを大切に思いなにを大切に思わないか、あなたの思い出があなたを食い尽くしてしまったとしても、それでもその思い出を抱えて生きていくのか」


 先生の声が遠ざかる。真っ白になりゆく視界のなかで、彼女の姿が一面に広がって、わたしに笑いかけているのを感じた。幻だろうか。いや、きっと幻ではないだろう。そこにいるんだ。本当に彼女がそこにいるのだ。わたしは嬉しくなってしまう。


 また会えるんだ。これでもうずっとわたしたちは一緒なんだ、と歓喜しながら、


「ねえ、忘れないぜ!」とわたしは絶叫した。


「わたしが駄目になってしまったとしても、わたしが死んじゃったとしても、あなたのことは決して忘れないんだ! それがわたしに誓える唯一のことなんだ! あなたと過ごした時間のことを、あなたがわたしにくれた言葉や感情のことを、わたしは死ぬまで抱えて生きていくんだ!」


 それがわたしの出した答えなんだ、と腹の底から叫んだ。それだけが、もういないあなたにすることのできる、わたしの最後の誠実さだ、と思いながら。


 でも、彼女はにっこりと笑った。にっこりと笑いながら、


「だめだよ、忘れな」と言った。




 それから先はよく覚えていない。わたしはおそらく無我夢中で、先生から薬をもらって飲んだのだろう。効果はてきめんだったのだろう。


 わたしはすぐに気を失って、気がつくと病院のベッドにいた。


 マゼンタの光が窓の外から射していた。ふしぎな色だな、と思っていると、「さっきまで、嵐が」と誰かが言った。「それでこんな、夕焼けなんです」


 振り返った。先生がいた。わたしははっと息を飲んで、それからついさっきまでの出来事をぼんやり思い出していた。


「まだ思い出せますか」と心配そうに尋ねてくる先生に、わたしは静かに首を振った。


 なにかが、すっぽりわたしの中から抜け落ちてしまった。それがなんなのかさえ思い出せないくらいに、わたしはすべてを忘れてしまっているらしかった。


「いいえ、もうなんにも、思い出す心配はないみたいです」と幽かに笑みを浮かべながらわたし。先生は、


「そりゃよかった」とほほえんだ。


 一日だけ入院して様子を見ようということになった。病室にぽつんと一人になる。窓から道路を走る車をぼーっと見ていると、ふいに誰かの部屋のことを思い出した。


 片付いてしまって、物がもうなにもなくなってしまった、誰かの部屋のがらんとした感じを思い出した。わたしのプレゼントしたぬいぐるみ、それだけが窓際に残っている部屋を。


 でも、それが誰の部屋なのか、わたしにはもうわからない。たとえそれがわたしにとって大切な誰かの部屋だったとしても、きっとすぐに、その印象も消えてしまうんだろう。


「大丈夫だよ」とわたしは誰かにつぶやいた。


「これからも生きていけるよ。大丈夫だよ」とつぶやいた。


 もうすぐ夜になる。きっと、今夜はよく眠れるだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死んだ人のことをいつまでも思い出していると死んでしまう病 後谷戸隆 @ushiroyato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る