第三話:霧の虎〈ミストラル〉

正嗣は、森のより深い場所で新たな拠点を見つけた。

 それは小さな谷間で、三方を岩壁に囲まれていた。一方だけが開けており、そこから細い水の流れが谷を潤していた。

 重力は泉の周辺よりもさらに強いが、谷の形状が風を遮り、霧もやや薄い。

 何より重要だったのは、ここが静寂に包まれていることだった。他の生き物の気配はなく、正嗣が新たに得た力を制御するには適した環境だった。

 彼は谷の奥に簡素な拠点を作った。

 倒木を組んで屋根とし、苔を敷いて寝床にする。

 水場も近く、当面の生活には問題ない。

 だが、正嗣がここに留まる理由は生活の便宜ではなかった。

 ヴァルグレイヴから得た重力操作の力を、完全に自分のものにするためだった。

 力を得た直後は、感覚的に操作できていた。

 だが、それは戦闘中の興奮状態でのこと。冷静な状態で、精密な制御を行うには、相応の訓練が必要だった。

 最初の日、正嗣は基本的な浮遊から始めた。

 足を地面から離し、空中に静止する。

 一見簡単に思えるが、実際は極めて困難だった。

 重力操作は単純な力の増減ではない。空間の歪みを操る、高度な技術だった。

 浮遊しようとすると、身体が予想外の方向に飛んでいく。左に傾いたり、回転したり、時には地面に叩きつけられたりする。重力の流れを読み、微細な調整を行う必要があった。

 正嗣は何度も試行錯誤を繰り返した。浮上、降下、静止。それぞれの動作で、重力の操り方が異なる。

 ヴァルグレイヴが持っていた知識は確かに彼の中にあるが、それを実際に使いこなすには時間が必要だった。

 昼過ぎ、ようやく安定した浮遊ができるようになった。地面から一メートルの高さで、十秒間静止する。それだけのことに、半日を要した。

 夜、正嗣は拠点で休んだ。身体は疲労していたが、精神的な充実感があった。確実に、力を自分のものにしている実感があった。

 だが、同時に変化も感じていた。ヴァルグレイヴを倒した時から始まった変化が、さらに進行している。感情が薄れ、記憶が曖昧になり、人間らしい感覚が削られていく。

 それは悲しいことのはずだった。だが、正嗣は悲しみを感じなかった。感情そのものが、既に希薄になっていたからだ。

 二日目は、移動の制御に取り組んだ。

 浮遊ができるようになったとはいえ、それは静的な状態での話だった。実戦では、高速での移動や急激な方向転換が求められる。それには、より高度な技術が必要だった。

 正嗣は谷の中を飛び回った。岩壁から岩壁へ、水面の上を滑るように。最初はふらつき、何度も墜落した。だが、徐々にコツを掴んでいく。

 重力操作の鍵は、流れを読むことだった。空間には見えない重力の流れがあり、それを利用することで効率的な移動が可能になる。ヴァルグレイヴの記憶が、その感覚を教えてくれた。

 午後には、三次元での自由な移動ができるようになった。上下左右、斜めの移動も思いのまま。重力に縛られない、真の自由を得た実感があった。

 だが、その実感と共に、別の感覚も生まれていた。地面に足をつけている人間たちへの、ある種の優越感。それは傲慢と呼ぶべき感情だった。

 正嗣は、その感情を客観視した。力を得ることで、彼の人格も変化している。

 傲慢、冷淡、そして人間への無関心。それらは、契約者として得る力の副産物なのかもしれない。

 三日目、正嗣は戦闘での応用を練習した。

 ナイフを手に、仮想的な敵との戦闘を想定する。重力操作を使った攻撃、防御、回避。それぞれの動作を、流れるように連携させる必要があった。

 攻撃では、重力を利用した加速が有効だった。ナイフを振るう瞬間に重力で腕を加速させることで、破壊力が飛躍的に向上する。また、敵の重力を操ることで、相手の動きを封じることも可能だった。

 防御では、重力の壁を作ることができた。

 攻撃の軌道を逸らし、ダメージを軽減する。完全な防御ではないが、致命傷を避けるには十分だった。

 回避は、最も重要な技術だった。

 敵の攻撃を予測し、重力操作で瞬時に移動する。三次元での自由な移動ができるようになったことで、回避の選択肢は大幅に増えた。

 夕方、正嗣は満足していた。ヴァルグレイヴから得た力を、ほぼ完全に制御できるようになった。

 次の守護者と戦っても、今度は優位に戦えるはずだ。

 だが、その満足感は、人間的な喜びとは異なっていた。それは、道具が完成したときの、機械的な充足感に近かった。

 四日目の夜、正嗣は眠りについた。

 そして夢の中で、リュティアに出会った。

 精霊は相変わらず淡々とした様子で、感情の起伏を見せない。

「記録を確認する。ヴァルグレイヴの力の継承、完了。重力操作能力、習得済み」

 リュティアの声は機械的で、正嗣への個人的な関心は感じられなかった。

「次の守護者について、情報を提供する」

 夢の中に映像が現れた。巨大な虎の姿だった。だが、その身体は通常の虎とは異なり、一部が霧のように揺らいでいる。

「ミストラル。霧を操る守護者。物理攻撃の無効化能力を持つ。隠密性に特化した戦闘スタイル」

 リュティアは淡々と情報を伝え続けた。

「推奨戦術:重力操作による広範囲攻撃。霧化時の実体復帰タイミングの見極め。持久戦の回避」

 情報提供が終わると、リュティアの姿は薄れていく。

「記録継続中。次回報告時まで、生存を維持せよ」

 そして夢は終わった。

 五日目、正嗣は拠点を離れる準備をした。

 重力操作の制御は、ほぼ完璧になった。戦闘でも、移動でも、思い通りに力を使える。次の守護者と戦う準備が整ったのだ。

 だが、この五日間で変わったのは、力だけではなかった。正嗣自身が、根本的に変化していた。

 感情は、ほとんど残っていない。喜怒哀楽は薄れ、すべてが機械的な判断になった。記憶も曖昧で、地球での生活は遠い昔の出来事のように感じられる。

 雅代の顔も、もう思い出せない。仲間の名前も、戦場での出来事も、すべてが霧の向こうに霞んでいる。残っているのは、戦闘技術と生存本能だけだった。

 それは悲しいことのはずだった。

 だが、正嗣は悲しまなかった。悲しむという感情そのものが、既に失われていたからだ。

 彼は、ただ歩き続ける。契約者として、定められた道を。

 その先に何があろうとも、もはや恐怖も期待もない。あるのは、ただ前進する意志だけだった。

 拠点を後にした正嗣は、森のさらに深い場所へ向かった。

 重力はより強くなり、歩くだけで体力を消耗していただろう。

 だが、重力操作の力を得た今、それは問題ではない。

 必要に応じて身体を浮上させ、重力の負荷を軽減できる。

 木々の形状も、より異様になっていた。幹は螺旋状に歪み、枝は不自然な方向に伸びている。葉は黒みがかった緑色で、触れると冷たい。まるで、植物でありながら生命を持たない、別の何かのようだった。

 地面も変化していた。土の色が濃くなり、所々で奇妙な結晶が露出している。それは重力の影響で圧縮された鉱物らしく、触れると微かに振動している。

 空気も重く、湿っている。だが、それは水分による湿度ではない。何か別の要素が空気中に充満しているのだ。正嗣には、それが時間の密度だと分かった。この場所では、時間そのものが濃縮されている。

 歩きながら、正嗣は自分の変化を客観視していた。五日前の自分と比べて、明らかに人間らしさがなくなってきている。感情、記憶、価値観――すべてが変わった。

 だが、それを悲しいとも、恐ろしいとも思わない。ただ、必要な変化だと理解している。契約者として完成するためには、人間的な感情は邪魔になる。冷徹な判断力こそが、この道を歩み抜く力なのだ。

 森を進むうちに、正嗣は新たな痕跡を見つけた。

 それは、爪痕とは違う跡だった。地面に残された、幅広の足跡。だが、形状が奇妙で、まるで霧が固まったような曖昧さがあった。

 痕跡を辿ると、やがて別の痕跡と合流した。今度は、木の幹に残された引っかき傷。だが、その傷は物理的なものではない。木の表面が、まるで霧に溶かされたように消失している。

 正嗣は、痕跡の主を推測した。

 次の守護者――霧を操る存在。

 リュティアから得た情報と一致する。ミストラル。

 おそらく、虎のような肉食獣の形をしているだろう。

 だが、その身体は物質と霧の中間的な状態にあり、物理攻撃を無効化する能力を持つ。

 興味深い相手だった。重力操作だけでは対処できない可能性がある。

 だが、正嗣は恐れなかった。恐怖という感情が、既に希薄になっていたからだ。

 むしろ、戦闘への期待があった。それは人間的な興奮ではなく、機能の向上への欲求。新たな力を得ることで、自分がどう変化するのかを知りたいという、純粋な好奇心だった。

 夕方、正嗣は霧の変化に気づいた。

 これまでの霧は、ただ視界を遮るだけの存在だった。だが、この場所の霧は違う。意志を持っているかのように、うねり、流れ、時には逆流する。

 霧の密度も、場所によって異なっていた。濃い部分と薄い部分が、まるで生き物の呼吸のように変化している。そして、霧の中から、かすかな音が聞こえてくる。

 それは、獣の息遣いだった。だが、どこから聞こえてくるのかが分からない。音が霧に吸収され、方向感覚を失わせる。

 正嗣は立ち止まり、周囲を警戒した。次の守護者が、近くにいる。だが、その姿は霧に隠されて見えない。

 そのとき、風が吹いた。

 この森で初めて感じる、自然な風。だが、その風で霧が晴れることはなかった。

 むしろ、霧は風と一体化し、より複雑な動きを始めた。

 霧が、意図的に操作されている。ミストラルの能力の一部なのだろう。

 正嗣は、新たな戦術を考える必要があった。

 その夜、正嗣は霧に包まれた森で過ごした。

 眠ることはできない。霧の中に潜む存在への警戒もあるが、それよりも重要なのは観察だった。次の守護者の行動パターンを把握するために。

 霧は、一晩中動き続けていた。流れ、うねり、時には竜巻のように回転する。その中から、時折獣の影がちらつく。

 しかし、はっきりとした姿を捉えることはできない。

 音も重要な情報だった。息遣い、足音、そして時折聞こえる低い唸り声。それらを総合すると、守護者は大型の肉食獣で、霧と一体化する能力を持つことが分かった。

 正嗣は、戦術を練った。重力操作だけでは不十分だろう。霧を操る敵に対しては、別のアプローチが必要だった。

 幸い、彼には時間があった。急ぐ理由はない。

 十分に相手を観察し、勝利の確率を高めてから戦闘に臨む。それが、戦場で学んだ教訓だった。

 翌朝、霧は薄くなった。

 だが、完全に晴れることはない。常に一定の濃度を保ち、視界を制限している。

 正嗣は、霧の性質をより詳しく調べた。手を伸ばして触れてみると、通常の霧とは明らかに違う。密度が高く、わずかに粘性がある。そして、触れた部分が微かに光る。

 霧の中に、何らかのエネルギーが込められている。それは、守護者の力の現れなのかもしれない。正嗣は、その性質を記憶した。戦闘で重要な情報になる可能性がある。

 歩き続けるうち、正嗣は奇妙な木を見つけた。

 幹が透明に近く、霧が内部を流れている。まるで、木そのものが霧でできているかのようだった。

 その木に近づくと、突然霧が濃くなった。視界が完全に遮られ、方向感覚を失うほどに。だが、正嗣は慌てなかった。重力操作で浮上し、霧の上に出ればいい。

 だが、浮上しても霧は続いていた。まるで、霧に上限がないかのように。正嗣は、別の戦術を考える必要があった。

 正嗣は、霧の中で新たな拠点を作った。

 今度は、木の上だった。太い枝の間に平らな場所を作り、そこに簡素な寝床を設ける。霧は地面近くが最も濃いため、高い場所の方が視界が良い。

 木の上から、正嗣は霧の動きを観察した。一見ランダムに見える動きにも、実はパターンがあった。一定の周期で流れが変わり、濃度が変化する。それは、守護者の呼吸や心拍に同調しているのかもしれない。

 観察を続けるうち、正嗣は重要な発見をした。霧の中に、わずかな空隙がある。完全に霧で満たされているわけではなく、薄い部分が点在している。

 その空隙を利用すれば、霧の中でも移動できるかもしれない。正嗣は、空隙の位置とその変化パターンを記憶した。

 夜になると、霧の動きがより活発になった。そして、その中から明確な足音が聞こえてきた。守護者が、活動を始めたのだ。

 正嗣は、戦闘の準備を整えた。ナイフを手に、重力操作を発動できる状態にする。相手がどのような攻撃をしてくるかは分からないが、対応する準備はできている。

 深夜、ついに守護者の姿を捉えた。

 霧が一瞬薄くなった瞬間、巨大な虎の影が見えた。だが、それは通常の虎ではない。身体の一部が霧と化しており、実体と非実体の境界が曖昧だった。

 虎の瞳は、霧と同じ色をしていた。灰色がかった白で、深い知性の光を宿している。そして、その瞳が正嗣を見据えた瞬間、霧が急速に濃くなった。

 戦闘が、始まろうとしていた。だが、相手は攻撃してこない。まるで、正嗣の出方を窺っているかのように。

 正嗣は、木の上から降りた。

 地上で戦う方が、重力操作を有効に使える。霧で視界が悪くても、重力の流れは感じ取れる。それが、彼の優位点だった。

 地面に足をつけた瞬間、霧がうねった。虎が動き出したのだ。その動きは音もなく、足音すら聞こえない。霧と一体化することで、完全な無音移動を実現している。

 正嗣は、重力の流れに集中した。虎の位置は見えないが、重力の歪みで存在は感知できる。大型の生物が移動すれば、必ず重力場に影響が生じる。

 だが、その予測は外れた。

 虎は霧と一体化することで、重力の影響すら軽減していたのだ。通常の生物なら感知できるはずの重力場の歪みが、ほとんど発生しない。

 正嗣は、戦術の変更を迫られた。

 虎の最初の攻撃は、予想外の方向から来た。

 正嗣は前方からの攻撃を警戒していた。だが、実際は真上からだった。虎が霧と一体化し、空中を移動していたのだ。

 巨大な爪が正嗣の肩を掠めた。服が裂け、深い切り傷ができる。血が流れ出し、痛みが身体を駆け抜けた。だが、致命傷ではない。正嗣は咄嗟に重力操作で横に移動し、虎の追撃を回避した。

 虎は着地と同時に霧の中に消えた。再び、その存在を隠す。だが、正嗣は学習していた。重力の歪みだけでなく、霧の動きからも虎の位置を推測する必要がある。

 霧の中で、微細な変化が起きている。流れの方向、密度の変化、そして温度のわずかな差。それらを総合することで、虎の大まかな位置を把握できる。

 次の攻撃は、左斜めからだった。正嗣は予測し、事前に回避行動を取る。だが、虎の動きは彼の予想を上回っていた。

 爪が正嗣の脇腹を深く裂いた。肉が削がれ、内臓に達しそうな傷だった。正嗣は痛みで身体が硬直したが、咄嗟に重力操作で距離を取る。

 血が地面に滴り落ち、傷は想像以上に深かった。だが、正嗣の表情に変化はない。痛みに対する感情的な反応が、既に鈍化していたからだ。

 正嗣は反撃した。重力操作でナイフを加速し、虎の首筋を狙う。だが、刃は霧を切るだけで、実体に当たらない。虎の身体が、その瞬間だけ霧と化したのだ。

 物理攻撃を無効化する能力は予想通りだった。だが、リュティアの情報にあったように、霧化は一定時間しか維持できないはずだ。

 戦闘は、長時間に及んだ。

 虎は巧妙だった。霧を利用した隠密行動、実体と非実体の使い分け、そして正確な攻撃。すべてが高度に洗練されている。

 正嗣の身体には、いくつもの傷が刻まれていた。肩、脇腹、太もも――虎の爪は確実に彼を削っていく。だが、それでも正嗣は冷静だった。

 痛みは感じる。だが、それに動揺することはない。機械的に状況を分析し、最適な行動を選択し続ける。感情に左右されない判断力が、彼を支えていた。

 戦いの中で、正嗣は虎の能力を詳細に分析していた。霧化は完全ではない。一定の時間しか維持できず、その後は必ず実体に戻る。そのタイミングを狙えば、攻撃を当てることができる。

 また、虎の動きにも癖があった。攻撃の前に、必ず霧が特定のパターンで動く。それを読めば、攻撃をある程度予測できる。

 だが、予測できることと回避できることは別だった。虎の速度は正嗣を上回っており、完全な回避は困難だった。

 正嗣の服は血で赤く染まり、呼吸も荒くなってきた。だが、彼の思考は明晰だった。感情が希薄になったことで、痛みや疲労に惑わされることなく、冷徹に戦況を分析できる。

 そして、ついに反撃の機会を見つけた。

 虎が霧化から実体に戻る瞬間があった。それは、わずか一秒にも満たない時間だ。だが、正嗣はそのタイミングを見逃さなかった。

 重力操作で自分の身体を加速し、同時にナイフも最大限に加速させる。虎の首筋に向かって、全力で刃を叩き込む。

 ナイフが深く食い込んだ。虎の血が噴き出し、断末魔の唸り声が森に響く。だが、虎はまだ死んでいない。反撃の爪が正嗣の胸を深く裂いた。

 正嗣は後方に吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。胸の傷は深く、肋骨が何本か折れている可能性があった。だが、虎も致命傷を負っていた。

 虎はよろめきながらも立ち上がろうとしたが、首の傷が深すぎた。血が大量に流れ出し、やがて動かなくなった。

 正嗣の勝利だった。

 虎が死んだ瞬間、霧が晴れ始めた。

 だが、完全に消えることはない。虎の身体から立ち上った光の粒子が、霧と混じり合い、正嗣の身体に流れ込んできた。

 今回は、前回ほどの痛みはなかった。正嗣の身体が、力の吸収に慣れてきたのかもしれない。光が身体に染み込むと、新たな感覚が生まれた。

 霧を操る力。正嗣は、その能力を理解した。

 視界を遮る、音を吸収する、そして自分の存在を隠す。隠密行動に特化した能力だった。

 だが、それだけではない。霧を通じて、周囲の状況を感知することもできる。霧が触れた物体の形状、動き、温度――すべてが情報として伝わってくる。

 正嗣は、新たに得た力を確認した。重力操作に加えて、霧操作。二つの能力を組み合わせれば、戦術の幅が大幅に広がる。

 虎の死骸は、他の守護者と同様に消えた。だが、その力は確実に正嗣の中に根づいている。

 正嗣は、戦闘の疲労と傷を癒すため、その場で休憩した。

 霧が晴れたことで、周囲の景色がよく見える。森はさらに深くなり、木々はより異様な形状をしている。重力の影響で、植物も不自然な進化を遂げているのだろう。

 だが、正嗣にとってそれらは既に日常の風景になりつつあった。

 異常が常識となり、奇怪が普通となる。人間の適応力は高いが、それと引き換えに、人間らしさを失っていく。

 正嗣は、自分の変化を振り返った。ヴァルグレイヴ、そして今のミストラルを倒してから、さらに多くのものが自分から欠落しつつあると感じている。

 感情、記憶、そして人間としてのアイデンティティ。残っているのは、戦闘能力と生存本能だけだった。

 代わりに、彼の中にあるのは冷徹な満足感だった。計画通りに力を得ている。順調に契約者として成長している。それが、今の彼にとって唯一の価値基準だった。

 傷の手当てを終えた正嗣は、さらに森の奥へ進んだ。

 次の守護者を探すために。新たに得た霧操作の能力を使えば、より効率的に探索できる。霧を周囲に展開し、そこから得られる情報で地形や生物の存在を把握する。

 歩きながら、正嗣は過去を思い出そうとした。

 地球での生活、雅代との関係、仲間たちとの戦い。だが、すべてが霧の向こうのように曖昧だった。

 唯一鮮明に残っているのは、戦闘技術だった。武器の扱い方、敵の動きの読み方、戦術の組み立て方。それらは、契約者として必要な要素だからこそ、記憶に残されているのだろう。

 正嗣は、自分が何者だったかを忘れつつある。だが、何者になるべきかは明確だった。契約者。守護者を倒し、力を得続ける存在。最終的には、グラディア・ノクスと対峙する者。

 その道筋は、もはや疑いようがなかった。感情や記憶に惑わされることなく、ただ前へと足を進める。

 夕方、正嗣は新たな痕跡を発見した。

 それは、螺旋状に刻まれた地面の跡だった。まるで、巨大な螺旋が地面を削り取ったかのような形状。そして、その螺旋の中心から、奇妙な波動が発せられている。

 空間の歪み。次の守護者は、空間そのものを操る能力を持つらしい。これまでの相手とは、また異なるタイプの敵だった。

 正嗣は、痕跡を詳しく調べた。螺旋の形状から、守護者の能力の性質を推測する。おそらく、空間をねじ曲げることで攻撃や移動を行うのだろう。

 興味深い相手だった。重力操作と霧操作だけでは対処が難しいかもしれない。だが、正嗣は恐れなかった。

 恐怖という感情が、既に彼の中から消えていたからだ。残っているのは、戦術的な思考と、力への渇望だけ。次の守護者を倒すことで、どのような能力を得られるのか。その期待だけが、彼を動かしていた。

 その夜、正嗣は螺旋の痕跡の近くで野営した。

 焚き火を起こし、傷の具合を確認する。ミストラルとの戦闘で負った傷は深かったが、致命的ではない。適切な処置をすれば、数日で回復するだろう。

 だが、正嗣が気になるのは身体の傷ではなかった。精神の変化の方が、はるかに深刻だった。

 感情の希薄化は、さらに進行していた。痛みは感じるが、それに対する恐怖はない。疲労は蓄積するが、それに対する不安もない。すべてが、ただのデータとして処理されるだけだった。

 人間らしい感情は、もはやほとんど残っていない。代わりにあるのは、機械的な効率性だけだった。

 それは、悲しいことのはずだった。だが、正嗣は悲しまなかった。悲しみという感情そのものが、既に失われていたからだ。

 翌朝、正嗣は螺旋の痕跡を辿って歩いた。

 痕跡は一定の間隔で続いており、まるで何かが規則的に地面を削りながら移動したかのようだった。そして、痕跡が深くなるにつれて、周囲の空間にも変化が現れた。

 木々の形状が、さらに歪んでいる。枝が不可能な角度で折れ曲がり、幹が空中で途切れている。それは、空間そのものが捻じ曲げられた結果だった。

 正嗣は、新たに得た霧操作の能力を使って周囲を探った。霧を展開し、空間の歪みを感知する。通常の霧なら直線的に流れるはずだが、この場所では不規則にうねっている。

 空間の歪みが、霧の流れにも影響を与えているのだ。正嗣は、その情報を記憶した。次の守護者との戦闘で、重要な手がかりになる可能性がある。

 歩き続けるうち、正嗣は奇妙な現象に遭遇した。

 目の前の木が、突然消失したのだ。一瞬前まで確実に存在していたはずなのに、次の瞬間には跡形もなく消えている。

 だが、完全に消えたわけではなかった。しばらくすると、別の場所に同じ木が現れた。空間を移動したのだ。

 正嗣は、次の守護者の能力を理解し始めた。空間を捻じ曲げ、物体を瞬間移動させる力。それは、これまでの相手とは全く異なる戦闘スタイルを要求するだろう。

 昼過ぎ、正嗣はついに次の守護者の姿を捉えた。

 それは、巨大な蛇だった。だが、通常の蛇とは似ても似つかない。身体が螺旋状にねじれており、まるで空間そのものが蛇の形を取ったかのようだった。

 蛇の鱗は透明に近く、その向こうに歪んだ空間が見える。頭部は三角形で、瞳は虹色に輝いている。そして、その瞳が正嗣を見据えた瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。

 スパイラヴォーム。空間を操る守護者。

 正嗣は、ナイフを構えた。だが、通常の戦闘方法は通用しないだろう。相手は空間そのものを武器とする存在だった。

 戦闘が、始まった。

 スパイラヴォームの最初の攻撃は、予測不可能だった。

 蛇が身体をくねらせた瞬間、正嗣の立っていた場所の空間が捻じ曲がった。地面が波のようにうねり、正嗣は足場を失って転倒する。

 咄嗟に重力操作で浮上しようとしたが、空間の歪みが重力の流れを乱していた。思うように浮上できず、正嗣は地面を転がることになった。

 スパイラヴォームは、正嗣の困惑を見透かしたように身体をさらにねじった。今度は、正嗣の左側の空間が消失した。文字通り、何もない虚無の空間が現れた。

 正嗣は慌てて右に移動したが、今度は右側の空間も歪み始めた。まるで、蛇が正嗣を空間の迷路に閉じ込めようとしているかのようだった。

 だが、正嗣は冷静だった。感情的な動揺はない。機械的に状況を分析し、対策を考える。

 霧操作の能力を使って、周囲の空間の状態を詳しく調べた。霧が歪んだ空間を通ることで、どの部分が安全で、どの部分が危険かが分かる。

 正嗣は、安全な空間を縫うように移動した。そして、スパイラヴォームに向かって攻撃を仕掛ける。

 だが、ナイフはスパイラヴォームに届かなかった。

 蛇の周囲には、歪んだ空間のバリアが形成されていた。ナイフは空間の歪みに巻き込まれ、明後日の方向に飛んでいく。物理攻撃が、空間操作によって無効化されている。

 スパイラヴォームは、正嗣の攻撃が無効だと分かると、今度は積極的に攻撃に転じた。

 尻尾を振り回すと、その軌跡に沿って空間が裂けた。空間の裂け目からは、吸引力が発生し、正嗣を引き込もうとする。

 正嗣は重力操作で抵抗したが、空間の裂け目の吸引力は強力だった。身体が徐々に引き寄せられ、危険な状態に陥る。

 咄嗟に霧操作を使って身体を霧化し、空間の裂け目から脱出した。だが、霧化は長時間維持できない。すぐに実体に戻らざるを得なかった。

 スパイラヴォームは、正嗣の能力を見極めたかのように、さらに複雑な攻撃を仕掛けてきた。

 身体全体を螺旋状に回転させると、周囲の空間が渦巻き始めた。正嗣は空間の渦に巻き込まれ、方向感覚を失った。上下左右が分からなくなり、重力操作すらままならない。

 だが、正嗣は諦めなかった。霧操作の能力を使い、周囲の状況を把握しようとする。霧が空間の歪みを教えてくれる。それを頼りに、少しずつ安全な場所へと移動した。

 戦闘は、長時間に及んだ。

 スパイラヴォームの空間操作は多彩で、正嗣の予想を上回っていた。空間を捻じ曲げ、物体を瞬間移動させ、時には空間そのものを消失させる。

 正嗣は何度も危険な目に遭った。空間の裂け目に飲み込まれそうになり、歪んだ空間で身体を圧迫され、消失した空間で呼吸困難に陥った。

 だが、それでも正嗣は冷静だった。感情的な動揺はなく、機械的に状況を分析し続ける。そして、徐々にスパイラヴォームの能力のパターンを理解し始めた。

 空間操作は万能ではない。一定の法則があり、制限もある。スパイラヴォームは強力だが、その力には限界があった。

 正嗣は、反撃の機会を窺った。そして、ついにその瞬間を見つけた。

 スパイラヴォームが大技を使った直後、わずかな隙が生まれた。その瞬間、正嗣は霧操作で身体を隠し、重力操作で一気に接近する。

 そして、スパイラヴォームの頭部にナイフを叩き込んだ。今度は、空間の歪みに邪魔されることなく、確実に刃が食い込んだ。

 スパイラヴォームは苦悶の声を上げ、身体を激しくのたうち回った。だが、致命傷を負った蛇は、やがて動かなくなった。

 正嗣の勝利だった。

 スパイラヴォームが死んだ瞬間、歪んだ空間が元に戻り始めた。

 そして、蛇の身体から立ち上った光の粒子が、正嗣の身体に流れ込んできた。

 今回も、痛みはほとんどなかった。正嗣の身体は、力の吸収に完全に慣れている。光が身体に染み込むと、新たな感覚が生まれた。

 空間把握の力。正嗣は、その能力を理解した。

 周囲の空間の状態を詳細に把握し、微細な歪みや変化を感知する。それは、隠れた敵の発見や、危険の予知に役立つ能力だった。

 また、限定的ではあるが、空間を軽微に操作することも可能になった。物体の位置を僅かにずらしたり、攻撃の軌道を微調整したりできる。

 正嗣は、新たに得た力を確認した。重力操作、霧操作、そして空間把握。三つの能力を組み合わせれば、戦術の選択肢はさらに広がる。

 スパイラヴォームの死骸は、他の守護者と同様に消えた。だが、その力は確実に正嗣の中に根づいている。

 正嗣は、戦闘の疲労を回復するため、その場で休憩した。

 空間が正常に戻ったことで、森の景色も元の異様な姿を取り戻している。だが、正嗣にとってそれは既に見慣れた光景だった。

 彼は、自分の変化を改めて確認した。三体の守護者を倒し、三つの能力を得た。それと引き換えに、さらに多くの人間性を失った。

 感情は、もはやほとんど残っていない。記憶も断片的で、過去の自分がどのような人間だったかを思い出すことができない。

 だが、それを悲しいとは思わない。悲しむという感情そのものが、既に失われているからだ。

 代わりに、正嗣の中にあるのは純粋な目的意識だった。契約者として完成する。すべての守護者を倒し、最終的にはグラディア・ノクスと対峙する。それが、彼の存在理由だった。

 休憩を終えた正嗣は、再び森の奥へ進んだ。

 次の守護者を求めて。新たに得た空間把握の能力を使えば、さらに効率的に探索できる。周囲の空間を詳細に把握し、異常な存在や痕跡を発見する。

 歩きながら、正嗣は自分の成長を客観視していた。

 力は確実に増している。戦闘能力も向上している。だが、それと引き換えに失っているものも多い。

 感情、記憶、そして人間としてのアイデンティティ。それらはもはや、遠い過去の残滓でしかなかった。

 だが、正嗣はそれを受け入れていた。契約者として生きることを選んだ以上、これは避けられない変化だった。

 森の奥で、次の守護者が待っている。そして、その先には、さらなる試練が続いている。

 正嗣は、ナイフを握り直した。三つの能力を駆使して、次の戦いに臨む準備を整える。

 契約者としての道は、まだ半分も歩んでいない。だが、もう立ち止まることはない。人間だった頃の迷いは消え、ただ前進する意志だけが残った。

 森の深部へと続く道を、正嗣は黙々と歩いていく。次の力を得るために。そして、定められた運命を果たすために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る