簒奪の契約者ーエレクトゥス・ウルティムスー

黒目ハツメ

プロローグ

森が、重い。 空気が沈み、音が消えていた。

 館 正嗣は、息を切らしながら走っていた。足元の土はぬかるみ、枝や根が絡みつく。一歩踏み出すたびに膝が沈み、肺が焼けるように痛む。

背後では、影の群れが低いうなり声を上げて迫ってくる。

――この世界に来てから、初めて遭遇した“敵”。

その動きは異様に速く、重力の中でも俊敏だった。

「……っ、くそ……!」

 正嗣は、ナイフを握りしめた。それしか、手元になかった。銃も通信機もない。

 仲間もいない。ただ、孤独だった。

 枝が腕を叩き、皮膚を裂く。血が滲む。視界は霧に覆われ、方向感覚が狂っていく。

 森の空気は冷たく、湿っていた。風はなく、音もない。ただ、全身に感じたことのない重さだけがあった。

 魔物の咆哮が、背筋を這う。それは獣のもらではない。人間の怒声と苦悶が混ざったような、異様な音だった。

 正嗣は、木々の間を縫うように走った。

 だが、足がもつれ、地面に膝をついた瞬間――崖が現れた。

 霧の向こうに、岩壁が口を開けていた。

 その縁に足を踏み出した瞬間、滑った。土と岩に叩きつけられ、身体が宙を舞い崖の底へ叩きつけられた。

「――っ!」

全身に痛みが走り、意識が遠のいていく。手も足も動かず、口の中に広がる血の味が意識を曇らせる。

 落下の衝撃で、肺の空気がすべて吐き出された。肋骨が軋み、腕が折れたかもしれない。だが、痛みよりも先に来たのは――恐怖だった。

 息ができない。身体が重い。地球の戦場でも、こんな感覚はなかった。

 地面に手をつこうとしたが、腕が鉛のように沈んだ。まるで、空気そのものが彼を押し潰しているようだった。

 正嗣が崖に落ちて3日経ったろうか、谷の底は、昼でも暗かった。

 霧が光を遮り、空は見えなかった。風はなく、音もない。ただ、重さだけがあった。

 彼が落ちた場所は、崖の狭間。左右には岩壁が迫り、進める道は細い谷筋だけ。だが、どちらに進んでも、行き止まりだった。

 出口は――落ちてきた“上”だけ。だが、今の身体では、登ることなど不可能だった。

「……くそ……」

 声にならない声が喉を擦った。

生きたい。生きて帰りたい。それだけが、泥の中で微かに灯った──


 

  館 正嗣は、岩壁の隅に身体を寄せていた。昨日降った雨で全身がずぶ濡れになっていた。

 寒さが骨身に染みる。

 暖を取るために這いずって集めた枯れ木だが、火を起こす道具はなかった。

 マッチも、ライターも、発火石も。

 擦っても、叩いても、火は生まれなかった。

 枝は湿っていたし、煙すら出なかった。

「……くそ……」

 呟きは、霧に吸われて消えた。

 寒さが、痛みに変わっていく。指先の感覚が消え、震えが止まらない。それでも、彼は岩に背を預けたまま、目を閉じなかった。

 日がない。光がない。出口がない。

――生きたい。

 その思いだけが、彼の中で微かに灯っていた。

 だが、身体は限界だった。腕は痺れ、足は鉛のように重く赤黒く腫れ上がっていた、呼吸は浅かった。

 ここが地球ではないことは、空気の密度と重力の異常さが教えてくれる。

 この世界――ラグナ・ヴェイルの重力が、彼の身体を静かに押し潰していた。

「……雅代さん……」

 名前を呼んだ瞬間、胸が軋んだ。彼女の顔が、記憶の奥から浮かび上がる。冷たくて、強くて、でも時折優しかった。

「……俺は……」

 言葉は続かなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。

 正嗣の体は横に倒れ泥の中で、彼は目を閉じた。瞼の裏には、何も映らなかった。ただ、黒い霧が広がっていた。

 その霧の奥で、記憶が揺れ始める。まるで、走馬灯のように。

――夢か、幻か。未来の断片が、彼の意識に流れ込む。


 地球。新世紀十一年。

 人類は、地下に逃げていた。

 地上は、もう人の住む場所ではなかった。

 空は黒く、風は毒を含み、太陽は見えなかった。

 原因は、〈ファルダ〉――人類が出会った最初の"異形"。


 それは、完璧な擬態者だった。

 人の形を真似、声を盗み、記憶すら模倣する。

 十歳の正嗣が地下シェルターの見回りをしていた時、廊下の向こうから母の声が聞こえた。


「正嗣…助けて…」


 母は三年前に死んでいた。それを、正嗣は知っている。

 だが、声は確かに母のものだった。イントネーション、息遣い、そして正嗣だけに向ける、あの優しい響き。

「母さん!!」

 正嗣は廊下を駆けた。

 理性では罠だと分かっている。だが、感情が勝った。


 角を曲がった瞬間、そこにいたのは母だった。

 三年前と変わらない姿。優しい微笑み。正嗣を見つめる、愛情に満ちた瞳。


「正嗣…やっと会えた…」


 母が腕を広げた。正嗣は駆け寄ろうとした。

 その時、母の後ろから仲間の田中が現れた。

 田中の顔は青白く、目は虚ろだった。

 そして、その胸には大きな穴が開いていた。


「正嗣…なんで助けてくれなかったんだ…」


 田中の声に、正嗣は気づいた。

 母ではない。これは〈ファルダ〉だ。


 だが、気づいた時には遅かった。

 母の顔をした〈ファルダ〉の腕が、田中の首を掴んだ。

 そして、母の声で言った。


「正嗣…お前も一緒に来て…」


 鋼鉄のような指が、田中の首を引きちぎった。

 血が壁に飛び散り、田中の絶命の瞬間、正嗣は引き金を引いた。

 

 母の顔をした〈ファルダ〉の頭部が、弾丸で砕け散った。

 だが、崩れ落ちる顔は、最後まで母の微笑みを浮かべていた。


 それが、正嗣が初めて人を殺した瞬間だった。

 正確には、人の姿をした化物を。

 母の顔をした悪夢を。


 その日から、正嗣は二度と母の名を口にしなかった。

 感情を殺すことを覚えた。

 愛情も、恐怖も、すべてが敵に利用される武器になることを学んだ。


 程なくして、彼を拾ったのが、館 雅代だった。

 叔母であり、育ての親。傭兵団〈サムライ〉のリーダー。冷徹で、強く、そして誰よりも温かみのある人。

「お前は、私の後継になる」雅代はそう言った。

 正嗣は頷いた。それが生きる意味になるなら、それでいいと思った。

 雅代について地上に登り、ファルダとの生存戦争で世界各地を転戦した。

 昨日喋っていた仲間が死ぬなんて日常茶飯事だった。

 仲間が死んでも、泣かない。敵を殺しても、喜ばない。ただ、任務を遂行する人類の刃となった。

 だが、ある日突然、雅代は傭兵団の解散を宣言した。理由は語られなかった。

「私はやるべきことができた。ついて来たいものだけついて来い、地上へ帰るぞ!」とだけ告げた。

 地上――旧日本。三年がかりで奪還された都市。

 そこに建てられたのが、〈鷹宮学園〉だった。

 雅代が理事長を務める、軍事と政治の教育機関。

 正嗣は、健康診断と偽って入学試験を受けさせられた。

「お前には、別の役割がある」雅代はそう言葉をかけた。

 とうの正嗣は、何も言わなかった。ただ、従ったのだ。

 試験の日。

 彼は隊服と簡単なボディバックだけで、地下から地上へと昇るエレベーターに乗り込んだ。しかし、その途中で、爆発が起きた。

 光が走り、空間が歪み、意識が途切れた。



 目を覚ますと、そこは森だった。霧が立ち込め、空は見えず、風は冷たかった。

 地球ではないと、すぐに理解した。

 空気が違う。体にかかる重力が違う。

 そして、何より――音が違った。

 風が木々を揺らす音が、まるで囁きのように聞こえた。

「ようこそ」と森に囁かれた気がした。



――霧が揺れた。風は吹いていない。だが、空気が震え、声が耳をかすめる。

「――」

 正嗣は目を開けた。霧の中に、ひとりの少女が立っていた。

 銀の髪は淡く光を宿し、深緑の瞳は底知れぬ深さをたたえている。

 人ではない。だが、人の痛みと優しさを、その瞳は宿していた。 その美しさには救済の輝きがあった。だが同時に、抗いがたい恐怖が張り付いていた。

「ここで惨めで寂しい最後か、それとも得体の知れない私の手を取るのか……選びなさい。あなた、生きたい?」

「……生きたい……死にたく……ない……」

 正嗣は搾り出すように自分の意思を口にした。

 彼女はしゃがみ込み、正嗣の手を取った。

 その掌は温かい。救われるような感覚に胸が震える。

 だが同時に、心臓を冷たい鎖で締めつけられるような息苦しさが走った。

「その代わりに覚えておきなさい。あなたがこれから歩む道は、呪いに満ちている。 友を得ても、敵を討っても――最後に残るのは孤独と鮮血に濡れた未来だけ」

 その声は、優しくも残酷だった。慰めと同じ重さで、逃れられぬ予言を押し付ける。

 正嗣は笑う。

 疲弊と痛みの果てに残ったのは、恐怖ではなく――興味だった。

「……おもしろい」

 彼女の瞳が深緑に輝いた瞬間、奔流のような力が彼の体内を駆け巡った。 傷は焼けるように閉じ、肺が息を取り戻す。だが胸の奥では、冷たい鎖が音もなく絡みつき、未来へと縛り付けられた、そんな感触を正嗣は感じとった。

リュティアは静かに告げる。

「忘れないで。これは救済であり――終わりを知ってなお進む呪いでもある」

 正嗣はそこで意識が薄れ、遠のいていき、黒く染まった──


――玉座。


 血に濡れた王冠を奪い取り、正嗣はその座に腰を下ろしていた。

 足を組み、不敵に笑うその姿は、もはや人のそれではなかった。


――咆哮と轟音。


 城門を打ち破り、炎に包まれた広間。 彼に剣を向けるのは、かつて共に笑い合った仲間たちだった。

 友が、弟子が、背を預け合ったはずの者たちが、怒りと涙を抱いて刃を振るう。


――返り血。


 幾人も斬り伏せ、屍を踏み越える正嗣。

 その眼差しは冷え切り、だが口元には笑みがあった。

 勝者の傲慢ではない。


 終わりを知る者だけが浮かべる、薄い微笑。


――終焉。


 崩れ落ちる王座。

 正嗣の首が刎ねられる瞬間、彼はなお笑っていた。

 痛みも恐怖も超えた、運命を受け入れた者の顔で。

 断片が過ぎ去るたびに、胸が締めつけられる。

 それは未来の記憶か、それとも呪いなのか。

 眠っている正嗣を見下ろしながら、リュティアは呟く。

「覚えておきなさい。あなたの茨の道を、私は楽しみにしている」

 リュティアの声が、霧の奥から重なる。 彼女の瞳は遠くを見据え、まるで記録者として何度もこの瞬間を見届けてきた者のように。

 ――そして、彼の物語は静かに始まった。

 霧が揺れ、闇が溶けていく。 その中で、正嗣の物語が始まった。 生への灯火と、終わりの影が、同じ場所に根を下ろしたのだ。

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