読まれなかった手紙

マスターボヌール

第1話


十月の午後、神保町の路地裏にある古書店「文蔵堂」は、いつものように薄暗く静寂に包まれていた。編集者の田村知子は、担当作家の資料探しのため、店の奥の埃っぽい棚を物色していた。


「戦後文学の資料でしたら、一番奥の棚にまだ整理していない原稿類がありますよ」


店主の老人がそう言って指差した先は、天井まで届く古い本棚の最上段だった。脚立に上り、手当たり次第に茶封筒や原稿用紙の束を調べていると、一つの封筒が手に止まった。


『未発表原稿 谷川信一郎 「消えた少女」』


谷川信一郎。五年前に亡くなった私小説作家だった。生前は無名に近く、わずかな短編集を残しただけだった。知子は興味を引かれ、封筒を開いた。


原稿用紙にペンで書かれた、几帳面な文字。


『昭和四十二年八月十五日、松原由美子は忽然と姿を消した。彼女は十七歳、高校二年生。夏祭りの夜、友人たちと別れた後、自宅まで徒歩十分の道のりで消息を絶った。警察の捜索は三ヶ月続いたが、手がかりは何一つ見つからなかった』


知子は息を呑んだ。この事件を知っていた。


「松原由美子失踪事件」——昭和の未解決事件として、今でも時折週刊誌で取り上げられる。知子自身、数年前に関連書籍を担当したことがあった。


だが、これは「小説」として書かれていた。


『私は由美子を殺した。いや、正確には死なせてしまった。あの夜の真実を、私は四十年間胸に秘めてきた。だが、もう時間がない。この原稿が発見される頃、私はもうこの世にいないだろう』


手が震えた。これは単なる創作なのか、それとも——。


知子は封筒の底を探った。畳まれた便箋が一枚入っている。


『拝啓 松原様 

 私はあの夜のことを小説として書きました。真実をそのまま書くことはできませんでしたが、由美子さんがどこで、どのように最期を迎えたか、すべて書き記しました。どうか、娘さんを迎えに来てください。

 四十年間、申し訳ありませんでした。

                谷川信一郎』


「店主さん」知子は震え声で呼んだ。「この原稿、いつからここに?」


「ああ、それですか。谷川さんが亡くなった時、遺族の方が持ち込まれました。『処分してください』とおっしゃって。でも捨てるのも忍びなく」


知子は原稿を見つめた。谷川信一郎は本当に松原由美子を殺したのか。そして、この「小説」の中に真実が隠されているとすれば——。


原稿の次のページをめくる。


『由美子が消えた夜、私は彼女に呼び出されていた。場所は町外れの廃工場。彼女は私に言った。「先生、私、本当のことを話さなければならないことがあるの」

 そのとき私は知らなかった。その言葉が、彼女の命を奪うことになるとは』


知子は決心した。この原稿を最後まで読む。そして、もしもこれが真実ならば——松原由美子の家族に、四十年越しの答えを届けなければならない。


夕暮れの古書店で、一人の編集者が未解決事件の扉を開けようとしていた。


(第一話 終)


---


*次回:原稿に書かれた「廃工場での密会」の真相とは?そして谷川信一郎と松原由美子の本当の関係が明らかになる——*

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