第12話 彼女たちの夜、灯りの裏で
——この章はヒロインたちのサイド視点です。
——ポイント増減はありません。
12-1 白亜莉玖
ページをめくる音は、雨より静かで、雪よりあたたかい。ずっと昔からそう思っている。
本は、言葉が少ないほど、読んだ人の中に残る余白が増える。余白は、読者の呼吸で満たされる。だから私は絵本や写真集が好きだ。余白の広いものは、他人と並んでいても息がうまく合う。
クリスマスの昼、読み聞かせの隣で英樹くんに「ページめくり係」をお願いした。練習のときに彼は少し緊張して、指先で紙の角を探すみたいにそっと触れた。指と指は二センチ離れていて、それでも近づくたび心臓が小さく跳ねた。二センチは、きっと誰にも見えない距離。けれど今の私には十分で、ぜいたくで、少し怖い距離だった。
夜。彼が「選ぶ」と口にしたとき、心のなかの針がいちど鋭く鳴った。私は“公平でいたい”人間だ。誰か一人に重さを乗せることは、いつも、他の誰かから重さを奪うこととつながって見えてしまう。でもその夜、私は気づいた。公平でいることと、誰も選ばないことは、同じではない。公平さは、選ばなさの言い訳になってはいけない。
「選ぶ」と「選び返す」が向かい合う場所に、やっと立てた気がした。彼の言い方は、私の弱さを否定せず、だけど彼自身の“選びたい”を隠さなかった。痛みよりも、後味のよさのほうが強く残ったのは、その誠実のせいだ。
年越しの絵馬に、私は願いではなく習慣を書いた。
『“言葉が少ないのに伝わる”時間を、週に一度。/断る勇気を持つ。/それでも、英樹くんを信じる。』
「信じる」と書くとき、筆先が一瞬ふるえた。凍える指先のせいではなく、言葉の重さが自分の肩に落ちてくる感じがしたから。信じることは、相手にだけ向かう動作じゃない。信じると書く私は、自分が逃げないように、自分を結び直している。
沈黙30分のこと。最初は彼の提案に甘えて座っているだけだった。でも今は違う。ページをめくる音、筆圧で薄くへこんだ紙の手触り、視界の端に入る肘の角度——小さなものが一つずつ、私の「ありがとう」に変わっていく。沈黙は、言葉の余白で、ちょうどいい無音は練習でしか掴めない。沈黙のあとに交わす短い感想戦が、私たちにとっての“前後”の前になっている、と気づけたのも最近だ。
参道で茉凛さんが「来年は奪いに来る」と笑ったとき、胸は少し速くなった。嫌な速さではない。風が通って、のぼせた頭に冷たい空気が入る感じ。揺れることで確かになる関係もあると思う。私が怖がらずに選べるようになるには、きっと風が必要だ。
告知が届いた。「上位者向けブリーフィング:新学期。持参『続ける計画の証拠』」。
英樹くんは四位。私は小さく息を吐いた。証拠、ね。数字や紙だけじゃなく、生活の細部を持っていきたい。毎週の沈黙に、私が「最初に本を閉じる秒数」を決めるのはどうだろう。たとえば28分になったら残り2分は目を閉じる。何も話さず、その日の「ありがとう」を心の中でひとつ数える。そういう習慣は、きっと証拠になる。
“前後”を整えるのが私の役割だとしたら、私の計画は、静かに続く段取りでできているべきだ。派手なことは怜央くんがやってくれる。私と英樹くんは、片付けから始める人たちのやり方で、春へ向かう。
12-2 真壁茉凛
幼馴染って肩書き、便利。ときどき最悪。
便利なのは、笑いながら境界をまたげること。最悪なのは、特等席の保証書みたいに勘違いしてしまうこと。私は長いあいだ、その保証書をポケットで握りしめていた。握っていると安心するけど、手が塞がって大事なものを取り落とす。
クリスマスの昼、私は読み聞かせブースの「前後」を総取りした。散らばった色鉛筆を色ごとに束ねる。テープの芯を替える。ハサミの刃を閉じてカゴに立てる。落ち葉の入り込んだダンボールは手を突っ込んで底を弾く。こういう作業は、好き。**“役に立ってる感”**が体の温度を上げてくれる。でも、役に立つだけじゃ足りないって、最近ようやく分かってきた。
夜、英樹は「今夜は莉玖と過ごす」と言った。逃げない言い方だった。私の目を見て、笑いに逃げる隙をつくらず、でも刺すような音でもない。その言い方のせいで、悔しさよりも澄んだ悔しさが残った。伝わる? 胸の中のものがぐちゃっとならない悔しさ。きれいに折りたたまれた悔しさ。そういうのも世の中にはある。
年越し、家の手伝いを終えて駆けつけた。参道は白い息で満ちていて、提灯の赤が頬に映る。絵馬に何を書くか、迷った末にこう書いた。
『“前後”で手を動かすの、月に二回。/本気で奪いに行く。/沈黙30分、座る。』
“奪う”って言葉は、乱暴だ。分かってる。でも私は、正面から欲しがる練習が必要だ。幼馴染の特等席は、もうポケットから出して、受付に返した。代わりに私が持ちたいのは、番号札。いつ呼ばれても走っていける、順番待ちの札。そういう現実的なやつ。
訓練メニューを作った。
・からかい封印デーを週一(これが一番きつい。私の呼吸法の半分はこれでできてるから)
・ありがとうのタイミングを十秒遅らせる(焦らすんじゃなく、言葉を選ぶ時間を作る)
・沈黙30分は最初の十分だけ目を閉じる(視線で相手を揺らす癖を鎮める)
・“前後”の後片付け、無言で完走(ドヤ顔を封印)
・英樹の「頼り方」に合わせて、頼られたら一歩引く(押しつけの“お世話”をやめる)
紙に書くと、けっこう修行だ。でも、やるよ。私は「楽しい幼馴染」から**「選んだ結果を背負える人」**に変わりたい。
クリスマスのあと、家に帰ったら古本屋の包みが棚に置かれていた。自分で買って自分で置いたやつ。『ことばのない絵本』。笑える。私にいちばん無縁そうなタイトル。でも、ページをめくると静かになれる。沈黙にふるえる指を、ひとつずつ落ち着かせてくれる。
“沈黙30分、座る”。これは、戦い。私にとっては挑戦状。沈黙の中にいると、余計な強がりが全部浮かんでくる。それを見て見ぬふりしないのが、私の“奪いに行く”の最初の一歩だ。
新学期のブリーフィング。上位者イベント。英樹は四位。
私は決めた。応援と対抗、両方やる。応援は、彼が選んだ後の責任を果たせるように“前後”を増やすこと。対抗は、私自身の「正面から欲しい」を増やすこと。
冗談みたいに言った「来年は奪う」は、冗談じゃない。ちゃんと笑って、ちゃんと本気。そういう矛盾を抱えたまま進むのが、恋だって、今は思ってる。
12-3 斑鳩澪音
数は嘘をつかない。けれど、数だけでは届かない。
私は長いこと、前者に寄って立ってきた。効率、再現性、安全。校内アプリのダッシュボードは、私にとって海図で、私は航路を設計する航海士だった。
たとえば点灯式の“共感曲線”。7分後に最大化する。写真と言葉の最適解は、比喩一回、擬態語ゼロ。説明できるし、何度でも再現できる。それが好きだし、私の誇りだった。
クリスマスの夜、崎津——英樹の投稿は『きみを選んだ夜の、帰り道を覚えておく。』。
解析は容易い。評価軸は誠実・未来・共感の順。語彙密度は中、主格の主語を「きみ」に置いたことで読点の後の視線誘導が素直になっている。正答。
でも、私は画面の手前で立ち止まった。正答の背後に、解析しきれない層が見えたからだ。写真の角度、欄干の高さ、二人の影の重なり。“覚えておく”を誰に向けて言っているのか——文字の配置ではなく、撮った人の体の角度で伝わるものがある。私はそこで初めて、海図の端に**“ここから地図なし”**と書かれていることを認めた。
年越しの参道で、私は自分の絵馬にこう書いた。
『“データにない一歩”を自分で選ぶ。』
観測者が被験者になってはいけない、という自分ルールは長く私を守ってくれた。だが「いけない」の根拠は、もう今の私にとって十分じゃない。危険度も失敗確率も、必要な誤差に変わった。
データにない一歩は、無謀ではない。小さく刻む。それが私のやり方だ。
段取りを組む。
・沈黙30分に私の資料を持って座る(写真集/データ可視化の図版/俳句歳時記など、言葉が少ないのに情報量が多いもの)
・月一アンケートを導入。「安心だった/ふつう/ちょっと違う」の三択だけ。数で心を踏まない粒度を守る
・「約束は続ける」を行動ログに落とす。沈黙30分→チェックボックス、片付けから→チェックボックス。チェックの有無だけ記録、理由は記録しない(理由は時に心を傷つける)
・“不在の許可”はテンプレート返信を作る。「了解。待つ練習します」——短く、やさしく、強制を入れない
私は航海士をやめない。ただ、自分の船にも乗るだけだ。
英樹を見ていると、「順番」の美しさを感じる。
“いつか”を“計画”にして、“選択”に変えて、“責任”と言った。順番が良い。順番は信頼の形だ。私は順番が崩れる世界が苦手だが、彼の順番の上なら、誤差の座標を置いても地図が破れない気がする。
ブリーフィングの通知。持参せよ——「続ける計画の証拠」。
証拠は、数値だけじゃない。選んだ沈黙の枚数、月の片付けの写真、未送信の“言い過ぎたかもしれない”メモ。そういう微細なログも、きっと証拠になる。
私はペンケースに新しい付箋を足した。色は三色。緑は「続いた」、黄色は「保留」、赤は「やめた」。やめたを記録する場所を最初から作っておくのは大事だ。やめるのは敗北ではない。続けるための選択だと、数は教えてくれる。
今夜、窓の外に小さな星が二つ並んでいた。双眼鏡で見ればもっと情報は増えるのだろう。だけど私はそのまま、裸眼で見た。分解しなかった情報が、静かに胸に沈む。
観測者は、被験者にもなれる。少なくとも、今夜の私は。
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