The Last 72
@Hidekichi72
第1話
星野斗真は目覚ましアラームが鳴る三分前に目を覚ました。四十二歳の春、彼にとって朝というのは義務的なものでしかなかった。コンビニで買った弁当を電子レンジで温め、インスタントコーヒーをすすりながら、今日一日のスケジュールを頭の中で確認する。
午前中は営業先への挨拶回り、午後は新人の研修、夕方は会議。そして帰宅後はテレビを見ながら夕食を済ませ、風呂に入って就寝。毎日が同じパターンの繰り返し。
窓の外を見ると、隣のマンションでは家族連れが朝食を囲んでいる光景が見える。父親、母親、子供二人。斗真にとっては別世界の風景だった。
「今日も一日、頑張るか」
彼はそう呟くと、スーツに袖を通した。
2
満員電車の中で、斗真は先月受けた健康診断の結果を思い出していた。「要精密検査」の文字が頭から離れない。まあ、四十を過ぎれば誰でも一つや二つ引っかかるものだろう。そう自分に言い聞かせながらも、どこか不安が拭えなかった。
電車が急ブレーキをかけた時、斗真は軽いめまいを感じた。最近、こうした体調の変化を感じることが多くなっていた。疲れやすく、食欲も以前ほどない。年齢のせいだと思っていたが、本当にそれだけだろうか。
「次は新橋、新橋です」
車掌のアナウンスで我に返る。いつもの駅、いつもの会社、いつもの一日が始まる。
3
営業部の事務所で、斗真は新人の田中に資料の作り方を教えていた。二十四歳の田中は熱心で、斗真の説明に真剣に耳を傾けている。
「星野係長、このグラフの作り方、すごくわかりやすいです」
「そうか?まあ、慣れだよ」
斗真は苦笑いした。慣れ。そう、すべてが慣れでできるようになった人生。新鮮な驚きも、大きな喜びも、もう何年も感じていない。
昼休み、同期の山神勇と社員食堂で向かい合って座った。山神は家族の話をよくする。中学生の息子のサッカー、小学生の娘のピアノ。斗真にとっては羨ましくもあり、少し疎ましくもある話題だった。
「お前も結婚すればよかったのに」
山神は時々そう言うが、斗真には答えられない。結婚を考えたことがないわけではない。ただ、そのタイミングを逃し続けているうちに、四十二歳になっていた。
「まあ、気楽でいいよ」
それが斗真の定型句だった。
4
午後の会議室で、斗真は部長の説教を聞いていた。今期の売上目標、来期の戦略、人事評価の基準。すべてが聞き慣れた内容で、新鮮味はない。
窓の外を見ると、近くの公園でキャッチボールをしている親子が見える。父親は下手くそだが、息子は嬉しそうにボールを投げ返している。
*いいな*
斗真は心の中でそう思った。何かに夢中になれるということ。誰かと時間を共有できるということ。
「星野君、どう思う?」
部長の質問に、斗真は慌てて現実に戻った。
「はい、おっしゃる通りだと思います」
適当な答えで済ませながら、斗真は自分の人生について考えていた。このまま定年まで働いて、退職金をもらって、年金生活に入る。それが普通の人生なのだろうが、何か物足りない気がしてならない。
5
仕事を終えて帰宅の途中、斗真は久しぶりに本屋に立ち寄った。ビジネス書のコーナーを見ていると、ゴルフ雑誌が目に入った。
そういえば、二年前に始めたゴルフ。最初は会社の上司に誘われて仕方なく始めたのだが、いつの間にか週末の楽しみになっていた。
雑誌を手に取ると、松山英樹の特集が組まれている。マスターズでの活躍、プロとしての哲学、そして完璧なスイングフォーム。斗真は見入ってしまった。
*かっこいいな*
プロゴルファーという職業に、斗真は密かに憧れを抱いていた。もちろん、今から目指せるものではない。しかし、アマチュアとしてもう少し上手くなりたいという気持ちはあった。
雑誌を買って帰り、アパートでページをめくりながら、今度の週末のゴルフを楽しみに思った。
6
翌日、斗真は総合病院を訪れていた。精密検査の結果を聞くためだ。消化器内科の待合室は、同世代以上の患者で満たされている。みんな同じような不安を抱えているのだろう。
「星野斗真様」
看護師に呼ばれ、診察室に入る。魚住武志医師は五十代半ばの、穏やかな表情をした医師だった。
「お疲れ様でした。検査の結果についてお話ししましょう」
魚住医師の声は優しかったが、その表情には重いものがあった。
「まず、検査にご協力いただき、ありがとうございました。結果ですが...」
医師は一度言葉を切った。この間合いが、斗真に不安を与える。
「率直に申し上げますと、膵臓に悪性の腫瘍が発見されました」
斗真の世界が一瞬で変わった。頭の中が真っ白になり、医師の声が遠くから聞こえてくるような感覚になった。
「悪性...ということは」
「がんです。しかも、発見された時点でかなり進行している状態です」
7
魚住医師は、これまで数多くの患者に同様の宣告をしてきた。その経験から、患者の心理状態を細やかに観察し、適切な言葉を選ぶことができる。
「治療法はありますか?」
斗真の質問に、魚住医師は慎重に答えた。
「手術による根治は困難な状態です。化学療法による延命治療は可能ですが、副作用も考慮する必要があります」
「延命...どのくらい?」
この質問が一番辛い。医師として正確な情報を伝える義務があるが、希望を完全に奪ってはいけない。
「個人差がありますので、確実なことは申し上げられませんが...」魚住医師は言葉を選んだ。「一年程度と考えていただいた方がよろしいかと思います」
*一年*
斗真はその言葉を反芻した。一年。春夏秋冬を一度ずつ。365日。8760時間。
「治療はいつから始めますか?」
「ご本人の意思を最優先に考えます。治療を受けるかどうか、どの程度まで積極的な治療を望むか、時間をかけて考えてください」
魚住医師は斗真に一冊のパンフレットを渡した。
「がんと診断された方へ」というタイトルが印刷されている。
8
病院を出た後、斗真は街を歩いた。いつもの帰り道だが、すべてが違って見える。通りかかる人々は普通の生活を送っている。仕事の心配、家族のこと、明日の予定。斗真にとっては、もう遠い世界の話のように感じられた。
コーヒーショップに入り、窓際の席に座る。外を眺めながら、今朝まで当たり前だと思っていた「明日」が、実は当たり前ではないことを実感した。
携帯電話が鳴った。山神からだった。
「お疲れ様。今日飲みに行かない?」
いつもなら参加していたが、今日は気分ではない。
「ごめん、ちょっと体調が悪くて」
嘘をついた。正確には体調が悪いのではなく、心の整理がついていない。
「そうか。無理するなよ。また今度」
山神は心配そうな声で言った。斗真は友人の優しさが身にしみた。
9
アパートに帰ると、斗真は久しぶりにゴルフクラブを手に取った。二年前に始めた時に買った中古のハーフセット。決して高価なものではないが、斗真にとっては大切な道具だった。
ドライバーを素振りしながら、斗真は初めてゴルフをした日のことを思い出した。
それは四十歳の誕生日だった。課長の佐藤に誘われて、半ば仕方なく千葉のゴルフ場に向かった。最初はボールにクラブが当たらず、当たっても明後日の方向に飛んでいく。周りに迷惑をかけるばかりで、早く終わって欲しいと思っていた。
しかし、9番ホールのパー3で、奇跡が起きた。
140ヤードのショートホール。7番アイアンで打ったボールが、真っ直ぐピンに向かって飛んでいき、グリーンの真ん中に落ちた。ボールは二回バウンドして、ピンから2メートルの位置に止まった。
その瞬間の爽快感を、斗真は今でも鮮明に覚えている。
「おお、ナイスショット!」
佐藤課長の声が響いた。他の同伴者も拍手してくれた。人生で初めて、スポーツで褒められた瞬間だった。
10
それからの斗真は、ゴルフの魅力に取り憑かれた。週末は必ず練習場に通い、月に一度はコースに出るようになった。最初の一年は上達が早く、100を切った時は興奮で一晩中眠れなかった。
「ゴルフって意外と簡単かも」
そう思ったのも束の間、その後は100を切ることができなくなった。スコアは100から110の間を行ったり来たり。上達の壁にぶつかっていた。
それでも、ゴルフへの情熱は冷めなかった。テレビでプロの試合を見るようになり、時には会場まで足を運ぶようになった。松山英樹がマスターズで優勝した時は、テレビの前で涙を流した。
そして、プロの試合で何度も聞く「パープレー」という言葉。コースの設定されたパーと同じスコアでホールアウトすること。18ホールの合計パーは72。プロでも簡単ではない、完璧なスコア。
*いつか、一度でいいから72を出してみたい*
それは斗真の密かな夢だった。
11
翌朝、斗真は会社に行く前に、もう一度魚住医師の言葉を思い返していた。
*一年程度*
具体的に考えてみる。今が四月だとすると、来年の四月まで。桜が咲いて、暑い夏があって、紅葉の秋があって、雪の冬がある。そしてもう一度桜を見ることができるかもしれない。
でも、それで終わり。
斗真は鏡の中の自分を見た。四十二歳の平凡な顔。特に格好良くもなく、特に醜くもない。これといった特徴のない、どこにでもいるサラリーマンの顔。
*この顔で、何を残せるだろう*
12
会社では、いつも通りの一日が始まった。朝礼、資料作成、営業回り。しかし、斗真の心境は一変していた。すべてが他人事のように感じられる。
「星野係長、来期の営業計画の件ですが」
部下の質問に答えながら、斗真は思った。来期。自分にとって来期はあるのだろうか。
昼休み、山神がいつものようにランチに誘った。
「おい、昨日体調悪いって言ってたけど、大丈夫か?」
「ああ、もう大丈夫」
嘘だった。体調的には確かに普通だが、心境的には全く大丈夫ではない。しかし、まだ誰にも話す気になれなかった。
「そういえば、今度の日曜、ゴルフ行かない?」
山神の提案に、斗真は少し心が動いた。ゴルフ。今の自分にとって、唯一夢中になれるもの。
「いいね。久しぶりにやろうか」
13
その夜、斗真は一人でゴルフ雑誌を読んでいた。プロの技術解説、新製品の紹介、アマチュアの上達法。どれも興味深い内容だが、今の斗真には特別な意味を持って感じられた。
記事の中に、「アマチュアゴルファーの夢」という特集があった。様々な年齢のゴルファーが、それぞれの目標について語っている。
六十歳の会社員:「定年までにシングルを目指したい」
三十五歳の主婦:「子育てが落ち着いたら、夫婦でゴルフ旅行をしたい」
二十八歳の公務員:「いつかプロアマに出場してみたい」
そして、ページの最後に小さく書かれた言葉。
「ゴルフに遅すぎることはない。今日が一番若い日」
斗真はその言葉をじっと見つめた。今日が一番若い日。自分にとって、それはまさに文字通りの意味を持つ言葉だった。
14
翌日の午後、斗真は再び魚住医師のもとを訪れた。治療方針について相談するためだったが、医師との面談で斗真が口にしたのは意外な言葉だった。
「先生、仕事を辞めてゴルフに専念したいと思うんです」
魚住医師は驚いた表情を見せなかった。長年の経験から、がん患者が人生の優先順位を大きく変更することは珍しくないことを知っていた。
「ゴルフに、ですか」
「はい。パープレーの72を出したいんです。一度でいいから」
魚住医師は斗真の目を見た。そこには、昨日まではなかった強い意志の光があった。
「それは...素晴らしい目標ですね」
「無謀だとは思います。でも、今まで本気で何かに取り組んだことがなくて。最後くらい、本気でやってみたいんです」
15
魚住医師は、これまで多くのがん患者を診てきた。その中には、残された時間を家族と過ごす人、旅行に行く人、趣味に没頭する人、様々いた。しかし、斗真のように具体的で困難な目標を設定する人は珍しかった。
「星野さん、パープレーというのは、プロでも簡単ではありませんよ」
「わかっています。でも、やらなければ絶対に出せない。やれば、もしかしたら」
医師として、魚住は患者の意思を尊重することの大切さを知っていた。たとえそれが医学的には意味のないことであっても、患者の生きる意欲に繋がるのであれば、それは価値のあることだった。
「わかりました。私は医師として、星野さんの決断を支持します。ただし、定期的な診察は必要です」
「ありがとうございます」
斗真は深々と頭を下げた。理解してくれる人がいることの心強さを感じた。
16
その夜、斗真は退職届を書いた。便箋に向かって、これまでの人生で最も重要な文書を作成する。
「一身上の都合により、退職させていただきたく、お願い申し上げます」
一身上の都合。確かにそうだ。これ以上個人的な都合はない。
翌朝、斗真は上司の佐藤課長に退職届を提出した。
「星野君、急にどうしたんだ?何か問題でもあったのか?」
「いえ、個人的な理由です」
佐藤課長は困惑した。斗真は真面目で、特に問題のある社員ではなかった。引き留めようとしたが、斗真の意志は固かった。
「そうか...寂しくなるな。何かあったら連絡してくれ」
17
退職の手続きを終えた斗真は、午後からゴルフ場に向かった。平日の午後、練習場は空いている。いつもの週末とは違う、静かな環境。
受付には、いつもの水瓶美咲がいた。二十八歳の彼女は、このゴルフ場で三年間働いており、常連客のことはよく覚えている。
「星野さん、今日は平日なのにお休みですか?」
美咲の質問に、斗真は少し迷った。事情を説明すべきか、それとも適当に答えるべきか。
「ええ、ちょっと時間ができまして」
「そうなんですね。平日は空いてるので、ゆっくり練習できますよ」
美咲の笑顔は、いつもと変わらず温かかった。しかし、斗真には特別な意味を持って感じられた。
18
練習場で、斗真は一人黙々とボールを打った。ドライバー、アイアン、ウェッジ、パター。二年間で覚えた基本的な技術を、一つ一つ確認するように。
しかし、どうしてもスイングに力が入る。リラックスしようと思えば思うほど、体が硬くなる。
*あと一年で72を出す*
その目標の重さが、斗真の肩にのしかかっていた。
100球ほど打ったところで、美咲が様子を見に来た。
「調子はいかがですか?」
「うーん、なかなか思うようにいきませんね」
美咲は斗真のスイングを少し見ていて、気づいたことがあった。
「星野さん、何か悩み事でもあるんですか?いつもよりスイングが硬いような」
美咲の観察力は鋭かった。水瓶座特有の直感力で、人の変化を敏感に察知することができる。
19
斗真は美咲の質問に答えるべきか迷った。まだ家族や親友の山神にも話していない事実を、ゴルフ場の受付の女性に話すべきだろうか。
しかし、美咲の優しい眼差しと、誠実な態度に、斗真は心を開く気になった。
「実は...」
斗真は静かに話し始めた。昨日の検査結果のこと、余命一年の宣告、そしてパープレー72を出したいという目標。
美咲は最初驚いたが、すぐに真剣な表情になった。
「そんな...それで、お仕事を?」
「辞めました。残りの時間を、ゴルフに捧げたいと思って」
美咲は一瞬言葉を失った。しかし、すぐに斗真の手を握った。
「星野さん、素晴らしい目標だと思います」
20
美咲の言葉は、斗真にとって救いだった。批判されるかもしれない、呆れられるかもしれない、そんな不安があったが、美咲は理解してくれた。
「でも、一人では大変ですよね。私、できる限りお手伝いします」
「迷惑をかけるわけには」
「迷惑だなんて。むしろ、お手伝いさせてください。私も、昔ゴルフをやっていたんです」
美咲は自分の過去について話し始めた。学生時代はゴルフ部に所属し、将来はプロを目指していた。しかし、怪我で断念し、今はゴルフ場で働いている。
「星野さんの挑戦を見ていると、私も初心を思い出します」
21
その日から、斗真の新しい生活が始まった。朝六時起床、朝食後すぐにゴルフ場へ。平日の練習場は空いており、思う存分練習できる。
美咲は斗真のために、効率的な練習メニューを考えてくれた。
「午前中は基本練習、午後はアプローチとパッティング。週末は実際のラウンドで実戦経験を積みましょう」
水瓶座らしい独創的なアイデアで、従来の練習方法にとらわれない提案をしてくれる。
「それから、いろんな人を紹介します。星野さんの力になってくれる人がきっといます」
22
一週間後、美咲の提案でSNSを始めることになった。
「今の時代、一人で頑張るより、みんなで応援し合った方がいいですよ」
斗真はSNSには疎かったが、美咲が設定を手伝ってくれた。アカウント名は「touma_golf_72」。
最初の投稿文を、美咲と一緒に考えた。
「はじめまして。星野斗真、42歳です。この度、余命1年を宣告されました。残りの人生をかけて、ゴルフでパープレーの72を出すことを目標にします。無謀な挑戦だとわかっていますが、やらずに後悔するより、やって後悔したいと思います。今日から本格的な練習を始めます。温かく見守っていただけると嬉しいです。#余命1年のゴルファー #パープレーへの挑戦 #72への道」
投稿ボタンを押す指が震えた。自分の状況を公にすることの怖さと、同時に期待もあった。
23
投稿から数時間後、斗真の携帯に通知が次々と届いた。
「応援しています」
「素晴らしい目標ですね」
「私も頑張ります」
「感動しました」
中には心ない批判もあったが、圧倒的に応援のメッセージが多かった。
美咲は斗真の肩を叩いた。
「ほら、みんな応援してくれてますよ」
「こんなに反応があるなんて思わなかった」
「星野さんの純粋な気持ちが伝わったんですよ」
24
その夜、斗真は山神に電話をした。もう隠しておくことはできない。親友として、真実を知る権利がある。
「もしもし、斗真?どうした、夜中に」
「勇、話がある。今度、二人で会えないか」
「どうしたんだよ、改まって。まあ、いいけど」
電話を切った後、斗真は深いため息をついた。これから多くの人に真実を話さなければならない。その度に、現実を再確認することになる。
窓の外を見ると、近くのゴルフ練習場のネットが見える。明日からの新しい人生への決意を、斗真は改めて固めた。
*一年で72を出す。絶対に*
25
翌朝、斗真は早朝のゴルフ場に向かった。朝の練習場は空気が澄んでいて、気持ちが良い。
受付で美咲が迎えてくれた。
「おはようございます。今日から本格的な特訓ですね」
「はい。よろしくお願いします」
美咲は斗真に練習計画表を渡した。
「一年間で72を出すための、逆算計画です」
そこには、月ごとの目標スコアが書かれていた。
5月:95を安定して出す
6月:90を目指す
7月:85を目指す
8月:80を目指す
9月:75を目指す
10月:72を目指す
「かなりハードなスケジュールです。でも、不可能ではありません」
美咲の言葉に、斗真は勇気をもらった。
26
練習場で、斗真は基本からやり直した。グリップ、アドレス、スイングプレーン。美咲は昔取った杵柄で、的確なアドバイスをくれる。
「もう少し膝を曲げて。そう、その感じです」
「インパクトの瞬間、顔を残してください」
一つ一つのアドバイスが的確で、斗真のスイングは少しずつ安定していく。
二時間の練習の後、美咲は言った。
「確実に良くなってます。この調子なら、きっと目標達成できますよ」
27
昼食は美咲と一緒にクラブハウスのレストランで取った。
「美咲さんは、なぜそんなに親身になってくれるんですか?」
斗真の質問に、美咲は少し考えてから答えた。
「私ね、昔プロを目指してたんです。でも、怪我で断念して。それ以来、ゴルフから距離を置いていました」
美咲の表情に、一瞬影が差した。
「でも、星野さんの純粋な気持ちを見ていると、私も改めてゴルフの素晴らしさを思い出すんです。だから、お手伝いさせてください。私にできなかったことを、星野さんに託したい」
斗真は美咲の想いの深さに感動した。自分の挑戦が、他の人の人生にも影響を与えているのだ。
28
午後は、近くのショートコースで実戦練習。9ホール、パー27のコース。美咲がキャディとして同行してくれた。
1番ホール、パー3、120ヤード。斗真は8番アイアンを選択。ボールはグリーンを大きく外れ、バンカーに入った。
「大丈夫です。バンカーの練習だと思って」美咲の励ましが心強い。
バンカーショットは何とかグリーンに乗せたが、3パットでダブルボギー。
しかし、美咲は前向きだった。
「グリーンには乗りましたよ。バンカーショットの基本はできてます」
29
9ホール終了。スコアは39。パーより12オーバー。
「うーん、まだまだですね」
斗真は落ち込んだが、美咲は違った。
「12オーバーということは、1ホール平均1.3オーバー。これを1オーバーにすれば36、パープレーにすれば27です」
美咲の前向きな計算に、斗真は希望を感じた。
「一ヶ月前の星野さんなら、50は叩いていたと思います。確実に上達してます」
30
夕方、斗真は山神と久しぶりに居酒屋で飲んだ。二人きりになってから、斗真はすべてを打ち明けた。
病気のこと、余命のこと、退職のこと、そしてゴルフへの挑戦。
山神は最初、冗談だと思った。しかし、斗真の真剣な表情を見て、現実だと理解した。
「なんで...なんで黙ってたんだよ」
「心配かけたくなかったから」
「バカ野郎...親友だろ?」
山神の目に涙が浮かんだ。
「72って、プロでも簡単じゃないぞ?」
「わかってる。でも、やらなきゃ絶対に出せない」
山神は斗真の決意の固さを理解した。
「わかった。俺にできることがあったら、何でも言え」
31
その夜、斗真は一人でアパートにいた。今日一日で、大きな変化があった。美咲という理解者を得て、親友の山神にも真実を話せた。
SNSを確認すると、最初の投稿に100を超える「いいね」と、30件のコメントがついていた。
「頑張ってください」
「応援しています」
「素晴らしい挑戦です」
見知らぬ人たちからの温かいメッセージに、斗真は涙が出そうになった。
*一人じゃない*
そう思えることが、どれほど心強いか。
32
深夜、斗真は魚住医師からのパンフレットを読み返していた。「がんと診断された方へ」。様々な治療法、副作用、そして「残された時間の過ごし方」について書かれている。
その中に、印象的な一文があった。
「がんと診断されることは、人生の終わりではありません。新しい人生の始まりと考えることもできます」
*新しい人生の始まり*
確かにそうだ。今まで惰性で生きてきた人生から、目標を持った人生への転換点。
斗真は手帳を開き、明日からの計画を書き始めた。
朝6時起床
朝食(しっかりと栄養を取る)
7時〜10時:基本練習(ドライバー、アイアン)
10時〜12時:アプローチ練習
昼食・休憩
13時〜15時:パッティング練習
15時〜17時:実戦形式練習
夕食・入浴
20時〜:体調管理、SNS更新、翌日の計画
充実したスケジュール。今まで経験したことのない、密度の濃い時間の使い方。
33
翌朝、斗真は計画通り6時に起床した。これまでとは違う、目的のある朝。
朝食をしっかりと取り、ゴルフ場に向かう。美咲が出勤前に練習場にいて、斗真を迎えてくれた。
「おはようございます。今日から本格始動ですね」
「はい。よろしくお願いします」
練習場で、斗真は集中してボールを打った。昨日とは明らかに違う集中力。目標が明確になったことで、一打一打に意味が生まれていた。
美咲は斗真の変化に驚いた。
「スイング、安定してますね。昨日とは別人みたい」
「気持ちが変わったんです。一年しかないと思うと、無駄にできる時間がない」
34
午前中の練習を終えた斗真は、美咲と一緒に練習計画の詳細を詰めた。
「来週から、いろんな人を紹介します。技術面、メンタル面、それぞれの専門家がいるんです」
美咲の人脈の広さに、斗真は驚いた。
「こんなに親身になってくれて、本当にありがとうございます」
「私こそ、ありがとうございます。星野さんの挑戦に関われて、すごく嬉しいんです」
美咲の笑顔は、太陽のように温かかった。
35
昼食後、斗真は魚住医師からの電話を受けた。
「星野さん、体調はいかがですか?無理をされていませんか?」
医師としての配慮に、斗真は感謝した。
「はい、おかげさまで調子いいです。ゴルフに集中できて、気持ちも前向きになりました」
「それは良かった。ただし、定期検査は忘れずに。来月また病院にいらしてください」
「わかりました。先生、ありがとうございます」
電話を切った後、斗真は改めて魚住医師の人間性に感謝した。単に病気を治すだけでなく、患者の人生そのものを大切に考えてくれる医師。
36
午後のアプローチ練習で、斗真は新しい発見をした。50ヤードの距離感が、少しずつ身についてきている。
「いい感じですね。アプローチが安定すると、スコアは格段に良くなりますよ」
美咲のアドバイス通り、グリーン周りの技術向上に重点を置いた練習。
パッティング練習では、1メートルの距離を重点的に練習。この距離を確実に入れられるようになれば、大幅なスコアアップが期待できる。
37
夕方、練習を終えた斗真は、一日の振り返りをSNSに投稿した。
「練習1日目終了。基本からやり直しています。目標まで遠い道のりですが、一歩ずつ進んでいきます。美咲さんのサポートが心強いです。明日も頑張ります」
投稿すると、すぐに反応があった。フォロワー数は500人を超えていた。
美咲も自分のアカウントで斗真のことを紹介してくれていた。
「素敵な挑戦をされている方がいらっしゃいます。みなさんも応援してください」
38
夜、アパートで一人になった斗真は、今日一日を振り返った。退職して初めての本格的な練習日。疲れたが、充実感があった。
手帳に今日の反省点を書く。
・ドライバーの方向性要改善
・アプローチの距離感、50ヤードを重点的に
・パッティングのリズム統一
・体力維持のための基礎体力作り
そして、明日の目標。
・基本スイングの安定性向上
・新しい人との出会い(美咲さんの紹介)
・SNSでの情報発信継続
充実した計画に、斗真は満足感を覚えた。
39
深夜、斗真は一通のメールを書いていた。会社の後輩たちへの挨拶メール。急な退職で迷惑をかけたことへの謝罪と、これからの挑戦について。
「突然の退職で、皆さんにご迷惑をおかけしました。実は、病気が見つかり、残りの時間をゴルフに捧げることにしました。無責任だと思われるかもしれませんが、これが今の私にとって最も大切なことです。いつか、良い報告ができることを願っています」
送信ボタンを押した瞬間、斗真の新しい人生が本格的に始まった。
40
翌朝のSNSには、会社の同僚からのコメントも届いていた。
「星野係長、応援しています」
「びっくりしましたが、素晴らしい決断だと思います」
「体調に気をつけて頑張ってください」
思いがけない反応に、斗真は胸が熱くなった。
美咲が出勤してきて、斗真の表情を見て言った。
「いい顔してますね。昨日より生き生きしてる」
「みんなが応援してくれて。一人じゃないって感じられるんです」
「それが一番大切です。ゴルフは個人競技だけど、支えてくれる人がいるかどうかで全然違いますから」
エピローグ
第1話の最後、斗真は練習場で一人、夕日を見ながら素振りをしていた。
一年前の自分には想像もできなかった状況。余命宣告、退職、そして本格的なゴルフへの挑戦。
しかし、不思議と恐怖はなかった。むしろ、初めて明確な目標を持てた充実感があった。
*72を出す。絶対に*
その決意と共に、斗真の挑戦が始まった。そして、これから出会うであろう11人の運命の人たちとの物語も。
遠くで美咲が手を振っている。明日もまた、新しい一日が始まる。
限られた時間の中で、斗真は最も濃密な人生を歩み始めていた。
**第1話 完**
---
*次回予告:*
*美咲の本格的なサポートが始まり、斗真は新しい練習仲間と出会う。SNSでの反響も拡大し、思いがけない出会いが待っている。第2話お楽しみに。*
The Last 72 @Hidekichi72
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