ただ時間が進む

@tankodayo

空白

暗闇の中で、私はうずくまって座っていた。湿った空気が肺にまとわりつく。遠くで水の滴る音がして、それが秒針のように時を刻んでいた。順番が来たらピエロをやるために、どこかへ行かなければならない。理由も分からないまま、ただ待っていた。


目を開けたとき、「おはよう」と声がかかった。けれど、その言葉には疑問符がついていた。消毒液の匂いと、どこかで煮詰まった野菜の匂いが入り混じり、吐き気のように押し寄せてきた。口を開こうとしたが、言葉が絡まって声にならなかった。舌の先にあるはずの言葉が、喉の奥で途切れ、息だけがもれる。誰かが私の手を握っていた。温かさは確かにあったのに、それが誰なのかは分からなかった。私は空っぽで、上手く喋ることができなかった。


数日が過ぎても、右半身が動かないことに気づかなかった。動かそうとしても、命令が途中で霧に溶けていくようだった。看護師が身体を拭いてくれるとき、タオルの布が冷たいのか温かいのか、はっきりしなかった。感触はあったが、輪郭が曖昧だった。窓の外では蝉が鳴いていた。その声は耳の奥で反響していたが、現実の音なのか頭の中の残響なのか分からなかった。疑問さえも浮かばなかった。


あの暗い場所には、二度と行きたくない。思い出すだけで胸の奥にざらついた影が広がる。心の隙間に砂利を詰められたように、重く、痛みもなく、ただ不快だった。


退院後、収入は二十万円ほどに減った。それが現実だった。以前のように三十万円を稼ぐ自分には戻れなかった。財布の数字は冷たいのに、春の風はやさしく吹いていた。その温度差に取り残されたまま、ただ息をしていた。


家族と食事をするとき、右の口から食べ物をこぼした。味噌汁の匂い、焼き魚の煙、湯気の立つご飯。匂いは届くのに、味は半分しか分からない。笑い声が聞こえても、自分の喉からは音が出にくい。言葉は出ても濁り、笑い声は遅れて響く。こぼすのを恐れて口を閉ざし、笑うのを恐れて視線を避けた。食卓に並んでいるのは料理と会話のはずなのに、私の前にあるのは沈黙と不安だけだった。


リハビリでは、ベッドから降りること、立ち上がること、足を前に出すこと、それらが課題として並んでいた。「もう一度やってみましょう」と声がかかる。床のワックスの匂い、雨の冷たい匂い、どちらも混ざって頭がくらんだ。背中に支える手の重みがかかるたび、体は動いているのに自分のものではないように思えた。その声に従い、私は繰り返した。動かない足に命令を送り続ける。一歩進むと、周囲から拍手が起きた。私はうなずいた。それ以上の感情は、浮かんでこなかった。半年ほど、その空っぽは続いた。


ある日、ふと思った。このまま生きていくのだ、と。恐怖はなかった。希望もなかった。ただ、それが事実として胸に落ちただけだった。もう元には戻らない。それでも時間は進む。朝が来て、夜が来て、また朝が来る。季節は巡り、人の声と匂いと温かさが、形を変えながら続いていく。私は、その流れに身を置くしかなかった。

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