星野が泣いた

椎名 透子

第1話


僕には、"嫌だな"という感情を抱く物や場面がいくつかある。


夏の肌を刺すような日差し。


氷が溶け切って苦味が薄れたブラックコーヒー。


渡ろうと思った瞬間に点滅し始める横断歩道の青信号。


四という数字が並ぶお会計。



——————そして、今。



「月野くん、そろそろ鍵を閉める時間だから、起きてもらってもいいかな。」



木製の机を指でトントンと叩く音と、嫌に澄んだ声が鼓膜を揺らす。



聞こえないふりをしてみれば、「月野くん、起きてるんでしょ。」と。



現在は僕ともうひとりしか人が存在しない、校舎から少し離れた位置にある図書室という限られた空間で、相手は分かったような口ぶりで再び静かな空間に声を溶かす。



"月野くん"と僕の姓を口にしたその声も、言葉も、態度も、その全てが気に入らない。



「鍵は僕が閉めておくから星野は先に帰りなよ。」



机に伏せたままの顔を上げることはせずに声だけを返してみれば、嫌に似た姓を持つ彼女————星野は、ふふっと邪気のない笑いをひとつ溢した。




「月野くん、前にそう言って鍵をかけ忘れて帰ったじゃない。だからダメです。あの時、先生にすごく怒られたんだから。」



「僕のせいだって言えばよかったのに。」



「月野くんのせいじゃないよ。お願いしたのは私だから、私が悪かったんだよ」




だから起きて帰る準備をしてください、と。



星野は、同い年で同級生である僕に対しては不要な敬語を使って、はやく起きて図書室から出ていくようにと行動を促す。



不服ではあるものの、確かに以前彼女の言う通りに鍵をかけ忘れてそのまま帰ってしまったという罪悪感が少しだけある僕がのそのそと顔をあげれば、星野はもう近くにはいなかった。



残っていたのは、自分と同じ人工的に作り出された香りだけ。




「香水、つけたんだ。」



「なにそれ、白々しいね。昨日、月野くんが言ったくせに。明日だけはこの香水をつけて欲しいって。」



「…言ったけど。」



「だから、今日だけつけてきたの。」




じっと、少し離れた場所で帰り支度をしている彼女の華奢な後ろ姿を見つめる。



だけど一向に視線が交わる気配はない。



星野は、こちらのことなんて微塵も気にする様子は見せずに淡々と荷物をまとめて、教科書や本がたくさん入って重たそうな鞄を持ってやっと、僕の方へと視線を寄越す。




「月野くん、鍵を閉めたいから早く図書室から出てくれる?」




優しい口調なのに、星野の言葉や態度にどこか棘を含んだように感じる自分も、嫌な物のひとつだ。









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