歩道橋の上、煙の向こうで

宇津木 しろ

第1話 渋谷の白い煙

 制服の少年が、たばこを吸っていた。渋谷の歩道橋で、夕陽を背にして。

 その姿は、どこか映画のワンシーンみたいだった。


 赤く灯る火。きらりと光る胸元のエンブレム。

 整った顔立ち。モデルみたいなバランス。──だけど、目だけが冷めていた。まるで、世界のすべてに興味を失くしたみたいに。


 私は、その光景に立ち尽くしていた。


 十五歳、無職。高校にも行けず、履歴書の「学歴」欄で落とされる日々。今日も、病院と家を往復しただけだった。


 私のことなんて、誰も気にしない、誰も見ていない。まるで、「透明」だ。


 なのに、自分とは真逆の、彼を見つけたあの瞬間。心の中で、何かがふっと音を立てた。


 風が吹いた。たばこの匂いが、鼻先をかすめる。そのとき、思わず口が動いた。


「……そんなこと、しちゃダメだよ」


 少年がゆっくり顔を上げる。逆光で睫毛の影が長い。冷たい視線が、私を一瞬で測った。


「は?」


 短く、刺すみたいな声。

 怖い。けど、引けない。私は制服を着ていない自分に、もうこれ以上負けたくなかった。


「かっこ悪」


 一拍、風まで止まった気がした。

 少年は鼻で笑い、靴底で火を踏み消す。からん、と乾いた音。落ちた吸い殻を拾い、ポケットに押し込む。


「……はいはい、スミマセンでした」


 軽い調子。でも、逃げ腰じゃない。

 私は手すりを握り直し、アルミの冷たさで呼吸を整える。下では青信号に合わせて人の塊が流れ、また止まる。


「未成年でしょ」

「そうだけど、なに」


 そこで会話は切れた。

 少年は手すりから体を離し、私の横をすれ違う。香水じゃなく、洗い立てのシャツの匂い。すれ違いざま、目だけでこちらをかすめて、


「じゃあな」


 階段の影に消えた。

 残された私は欄干に額を当てる。金属の冷たさが、火照った頬に沁みた。

 時計を見る。16:23。面会にはまだ間に合う。私は病院の方向へ足を向けた。


 ——行かなきゃ。今日も。



 自動ドアが開くたび、消毒液の匂いが新しくなる。

 面会カードに「春野奈央」と書き、アルコールを手にすり込む。エレベーターで四階へ。

 病室のドアを開けると、母は点滴の棒につかまったままでも笑った。


「奈央、今日も来てくれたの?」

「うん。ちょっと早いけど」


 テレビの音量を下げ、母は「今日のごはん、味濃かったなぁ」といつもの冗談を言う。

 私はストローを差したお茶を渡し、爪をやすりで整え、ハンドクリームを塗る。こうしている間だけ、私の手の居場所が分かる。

 「今日、どうだった?」と母は聞かない。私が学校に通っていないことを、誰より母が気にしているから。

 だから私は、廊下の掲示の貼り替えの話や、エレベーターの中で見た変なポスターのことを話す。母は笑う。私も笑う。

 面会終了のアナウンスが流れる。「また来るね」と言うと、母は小さくうなずいた。



 次の日。

 病院へ直行できる時間なのに、私はまた階段を上がった。自分でもあきれる。だけど、ここで呼吸してからでないと、病室で笑えない気がする。


 昨日の少年がいた。今日は煙草がない。ミントの匂いが夕陽にまざっている。

 目が合う。先に口を開いたのは彼の方だった。


「……お前、名前は?」


 胸が少し固くなる。名乗らなければ、私はまた「透明」に戻ってしまう気がした。だから、面会カードを書くみたいに、はっきり言う。


「春野、奈央」

「奈央、ね」


 ひと呼吸置いて、彼は口角を上げる。


「奈央ちゃん。のんきそうな名前だな」

「のんきじゃない」

 反射的に返す。心臓がうるさい。のんきなんて、いちばん遠い言葉だ。


 彼は小さく笑った。笑うと年相応で、昨日の冷たい目がほんの少し緩む。


「俺は真夜まよ。真夜中の、真夜。……変だろ」

「全然変じゃない。似合ってるよ」

「なにそれ。新手の悪口?」

「本気で言ってるのに。……素直じゃないな」

 

 ぷいっとそっぽを向くと、彼は吹き出した。

 風がいたずらっぽく、髪を乱して通り過ぎていく。


「その学校、有名なんでしょ」

「まあ。めんどいけど」


 ——めんどい。

 私には夢だった場所を、彼はその一言で片づける。羨望と苛立ちが喉に詰まり、私は視線をスニーカーの先に落とした。


「ここ、よく来るの?」

「たまに。奈央ちゃんは?」

「……母のお見舞いの前」


「ふーん」


 それだけ。

 「大変だね」も「頑張れ」も言わない。軽くも重くも、のせない。

 その「ふーん」が、意外と楽だった。勝手に同情された感じがしないから。


 時計を見て、決める。今日は五分だけ。


「昨日は、ごめん」

「なんで?」

「言い方、強かったかも」

「いや、正論でしょ。『かっこ悪』は効いた」


 真夜は肩をすくめる。私もつられて、肩の力が抜けた。


「もう吸わないの?」

「吸わない。今は」


「今は、ね」


 欄干のボルトを指で弾く。小さな金属音がひとつ跳ねた。下では青信号に合わせて、人の波がまた動き出す。


「なんでここ?」

「ここにいると、俺、止まってられるから」


 真夜が指で下を示す。

 青、赤、青。命令に従って動く人の群れ。その上で、私たちだけが取り残される。静かで、少し安心する。


「奈央ちゃんは?」

「……面会前に、呼吸しに来る」


「一緒じゃん」


 ミントガムの包みを一つ差し出され、私は受け取らずに笑った。

「時間、行ってこいよ」

「うん。行く」


「じゃ、また」

「また」


 この「また」は約束じゃない。でも、今日の私には十分だった。私は病院の方向へ歩き出す。



 面会カードに「春野奈央」と書く。

 母は私の顔を見るだけで、少し安心したみたいに目じりを下げる。

「今日、少し遅かったね」

「うん。ちょっと寄り道してたから」

「歩道橋?」

「なんで分かるの」

「奈央、昔から寄り道うまかったでしょ」


 笑い合う。私の指は、また母の手にハンドクリームを塗っている。

 入院費の明細の数字を見た日の胸の痛みが、うっすら残っている。進学を諦めた春を思い出し、唇の裏を噛む。

 ——でも、来る。毎日。面会時間に間に合わせる。それが今の私の「学校」。



 三日目。

 階段を上がると、欄干は空だった。いない日もある。分かってる。

 手すりに肘を置き、下の人波を眺める。ポケットの中のガムの包み紙を指で丸めて、また開いた。

 五分、七分、十分。風だけが髪を揺らしていく。


「——お」


 背中から小さな声がする。振り向くと、階段の上に真夜がいた。息は上がっていないのに、少し急いだ顔だった。


「来てたんだ」

「うん」

「……雨、降るかと思った。雲、厚いから」

「今日は降らないよ」


 そう言うと、真夜は空を一度見上げ、肩の力を抜いた。


「奈央ちゃん、占い師?」

「ちがう。ただの、のんきそうな名前の持ち主」


 わざと返すと、真夜は目を丸くして、すぐ笑った。


「お、気にしてた?」

「ちょっとだけ」

「悪かった。褒め言葉のつもりだった」

「どこが」

「生き延びるのに、のんきさって強いから」


 言い方は軽いのに、芯がまっすぐで、言葉だけが胸に残る。返事が見つからず、私は欄干のボルトを数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。


「俺、今日は行く。塾」

「真面目」

「めんどいけど、行く」


 真夜は階段に向き直り、振り返らずに手をひらりと上げる。


「じゃあな。また」

「また」


 私は病院へ向かう。面会カードに名前を書き、アルコールをこすり合わせる。

 母は私を見ると、いつも通りに笑った。その表情だけで、ここへ来た意味がすべて分かる。

 透明だった私が、少しだけ「見えている」。名前を呼ばれるだけで、世界はすこし、輪郭を取り戻していた。

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