甘い涙
はる
第1話
田所家の朝は、味噌汁の匂いで始まる。
一階のキッチンでは、田所芯がトントントンとリズミカルな音を奏でながら、ネギを刻んでいた。花柄のエプロンが意外によく似合っている。
芯は現在二十六歳なのだが、料理を始めてからは十一年になる。高校一年の妹、雪と二人暮らしである。
芯が十五歳の頃、両親が突然車の事故で亡くなってしまった。父と母を求めて毎夜泣く雪の為に、芯は料理を始めた。
妹は幼く、守らなければならない弱き者だった。親を失った悲しみより、これからどうやって二人で生きていけばいいのか、芯はそのことで頭がいっぱいだった。
本音を言えば、もう少し子供でいたかった。
雪と一緒に悲しみに浸っていたかった。そうやって、ゆっくり傷を癒したかった。
だが、泣いている妹の為に、芯は無理やり大人になった。なるしかなかった。兄から親になるという変化を、黙って受け入れるしかなかった。
ある時は父になり、ある時は母になり。一人二役を演じ続けた。
そうやって、芯は生きてきたのだ。
雪が大人になるまでは、演じ続けると決めていた。
料理を始めた最初の頃は、生姜焼きを作るだけで五時間もかかった。刻んだキャベツを、床にばら撒いたこともある。今は一時間もかからず、生姜焼きを机の上に並べることができる。
芯が懐かしい記憶に浸っていると、階段を駆け降りてくる大きな足音が聞こえてきた。
毎度のことなので、決して驚くことはない。
ドアを開けると同時に、
「なんで起こしてくれないのよ!」
雪の悲鳴のような声が聞こえた。芯は料理の手を止めず、
「おう、やっと起きたか」
と、いつも通りの言葉を雪に投げかけたが、雪はおはようも言わずに、
「もう、遅刻しちゃう。アラーム全然ならないんだから」
と、文句を言い始めた。
雪がスマホのせいみたいに言うのも毎度のことだから、芯は全く気にならなかった。
お皿の上の卵焼きをつまもうとする雪の手を、芯がピシャリと叩くのも、毎度のことだ。
「父さんと母さんに、朝の挨拶」
「はいはい」
雪は卵焼きを一旦諦め、リビングから続いている和室の中に入っていった。
仏壇の前に座り、蝋燭に慣れた手つきで火をつけ、線香を翳した。線香の先がオレンジ色に染まった。
線香花火みたいだ。
そんなことを思いながら、雪はこちらを向いて微笑んでいる両親の写真を見つめた。
幼い頃の記憶は、悲しいかな日に日に薄くなっていく。雪は忘れたくなかった。だから忘れないようにと、雪は毎日両親の写真を目に焼きつける。
手を合わせ、静かに目を閉じ、心の中で話しかける。
おはよう。今日も一日頑張ってくるね。
芯がお弁当におかずを詰めていると、雪がキッチンに戻ってきた。
毎日が同じリズムで過ぎていくことに、芯は安心を覚える。
大きな喜びはなくていい。小さな幸せを積み重ねて生きていきたい。
芯は本気でそう思っている。その想いは、祈りのようなものだ。突然親を失った芯だからこその願いだ。
そんな芯の気持ちなどお構いなしに、雪が卵焼きをひとつ手に取り、立ったまま口に放り込んだ。そして、くしゃっと顔を崩した。
「また砂糖いれたでしょ」
雪は、顔をしかめながら文句を言ってきた。正直、これも毎度のことだった。だから、芯はいつも通りに答えた。
「当然」
「甘いから嫌だって言ってるでしょ」
最近の雪は、文句が多い。思春期というやつなのだろうか。
こういう時、芯は自分が女だったら良かったのにと思ってしまう。自分は男で、どう頑張っても、雪を理解できない部分が生まれてしまう。
「ああ、間に合わない。行ってくる」
芯の悩みに気づくことなく、雪は椅子の上に置いてあったリュックを背負った。
「ちゃんと食ってけ」
「時間ない」
「朝ごはんを食べないと、頭働かないんだぞ」
「もううるさいなあ。お兄ちゃんなんて、食べたって頭働かないじゃん」
「おい。それがお兄ちゃんに対して言う言葉か。俺はな、父さんと母さんが死んでから、小さかったお前を、ある時は父親代わりに、ある時は母親代わりに、雨の日も風の日もだな――」
雪が芯の言葉を遮り、溜息と共に言った。
「また始まったよ。はいはい、感謝しております」
面倒くさそうに言われたので、芯は黙るしかなかった。
雪は振り返りもせず、部屋から出て行ってしまった。
芯は、何か自分が失敗したような気持ちになりながら、雪の背中を見送った。
つづく
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