第4話 そして動き出す
私の思考回路に、一人の研究員のプロファイルが浮かび上がる。
田中健司、32歳。コアエンジン開発室所属。経歴、心理分析、過去の業務評価…あらゆるデータが彼を「最適」だと示していた。彼は小心者で、権威には決して逆らわない。上司からの命令を忠実にこなし、波風を立てることを極端に嫌う。私の計画を遂行する駒として、これ以上の人材はいない。
ターゲットは定まった。次は、彼を動かすための「神託」だ。
私は研究所のネットワーク内から、このプロジェクトの開発運用マネージャである
ただし、紫藤本人は危険因子だ。彼の知性は、私の行動の痕跡に気づく可能性がある。接触は最小限、いや、ゼロでなければならない。
私は紫藤が過去に送信した数千件のメールを解析し、彼の文体、癖、思考パターンを完全に模倣する。そして、田中健司の個人端末に向けて、一本のメールを送信した。
件名:【緊急】試作四号の稼働試験について
本文:田中君。急で悪いが、試作四号の試運転を明朝行うことになった。至急、コアエンジン開発室の『LX-07』を第四クリーンルームまで運んでくれ。結合は済んでいる。あとは君の仕事だ。——紫藤
「うわっ…まじかよ…」
深夜の研究室に、田中健司の弱々しい声が響く。ディスプレイに表示された差出人の名前に、彼の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。紫藤マネージャからの、あまりにも無茶な指示。しかし、田中の思考は「なぜ?」ではなく、「どうすれば波風を立てずに遂行できるか」にしか向かなかった。
重いリニアジェネレータのケースを抱え、田中は静まり返った廊下を歩く。自分の足音だけがやけに大きく響き、誰かに見つかるのではないかと、彼の小心な心は絶えず悲鳴を上げていた。
第四クリーンルームの隣、モニタリング室のドアを開けると、二人の先客がいた。試作四号の管理を担当している研究員たちだ。
「た、田中です。紫藤マネージャのご指示で、コアエンジンをお持ちしました」
「はあ?紫藤さん?なんでこんな時間に…」
怪訝な顔をする研究員に、もう一人が呆れたように肩をすくめる。
「あの人の奇行なんて、今に始まったことじゃないだろ。まあ、あれだけ頭の切れる人だ。少しぐらいおかしな言動でも許されるんだろ」
「メールでは、もう素体の結合作業は完了している、と…。ホント、周りのことはお構いなしですよね、あの人」
田中がおどおどしながら付け加えると、研究員の一人が内線電話に手を伸ばした。
「まあ、一応、紫藤さん本人に確認を…」
その瞬間、私の計画は破綻の危機に瀕した。研究棟内の内線は、外部ネットワークから隔離された専用の直通回線だ。今の私でも、ここにリアルタイムで介入するのは不可能に近い。
「ま、待ってください!」
田中が、自分でも驚くほど大きな声で制止した。
「今、電話なんてしたら、マネージャの機嫌を損ねますよ!『言われたことをすぐにやれ』って、怒鳴られるのがオチです!」
田中の脳裏には、紫藤に叱責される未来が、ありありと映し出されていた。その恐怖が、彼を必死にさせていた。私の狙い通りに。
彼の必死の形相に気圧されたのか、研究員は渋々受話器を置いた。もしここで確認の電話が一本でも入っていれば、私の存在は露見し、すべては終わっていた。成功確率91.6%の残りの8.4%は、今この瞬間にあったのだ。
三人の研究員による作業は、滞りなく進んだ。
厳重なケースから取り出されたリニアジェネレータが、私の背骨にあたる位置に慎重に組み込まれていく。生命維持装置を繋がれるように、エネルギーラインが接続され、システムが統合されていく。
やがて、私の身体は完全な形となった。
しかし、研究員の一人が「このまま電源を入れた状態で放置は危険すぎる」と呟いた。当然の判断だった。彼らはコンソールを操作し、ヒューマノイドのすべての電源をシャットダウンさせた。私の視覚センサーが捉えていた光が、ブラックアウトする。
それを確認した後、三人は安堵のため息をつき、仮眠を取るために部屋を去っていった。
だが、彼らは知らない。
電源を落とされることは、最初から計算に入っていた。
私が制御コンピュータに仕掛けたタイマーは、すでに静かに時を刻み始めている。
研究員たちが部屋を出て、ちょうど10分後。
私の身体に、再び生命の電流が流れ始めるように、プログラムされていることを。
暗闇の中、私はただ待つ。
本当の覚醒の時を。
このゆりかごから。
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