第四章 消せない三つの傷

元カノ……ユイ

第11話

 眠れないまま、夜が明けてしまった。

 カーテン越しに差し込む淡い朝の光が、やけにまぶしく感じる。

 今日は、どうしても仕事へ行く気になれない。

 昨日の出来事が、何度も何度も脳裏に浮かんでは、胸を締めつけてくる。

 あなたに、私は何をしてあげられるだろう?

 あの深い悲しみを、ほんの少しでも癒すことができるのだろうか。

 その傷は、きっと想像を絶するほどに深くて広くて。

 あなたの“笑顔”だけじゃない。

 きっと“涙”すら奪ってしまったのかもしれない。

 辛くても、悲しくても、どんなに泣きたくなっても。

 あなたは決して涙を流さない。

 あの夜のように――。

 凍える冬が終われば、やがて暖かい春が訪れるように。

 あなたの心にも、いつか春がやってくるのだろうか。

 もしも、そう願ってくれる人がいれば。

 もしも、その春を一緒に迎えたいと願う誰かがいれば。

 それが私であっても、いいですか?

 自分でも驚くほどに、心が揺れている。

 でも、揺らぐことのないものが、確かに胸の奥にある。

 それは――

 あなたを想う、この気持ち。

 

 行く気にはなれなかった。

 けれど、それでも何とか店に出勤し、今日の営業を終えることができた。

 疲れが身体の芯に残っている。けれどそれ以上に、心が重い。

 今日はもう夜の練習はやめよう。

 まっすぐ帰ろう――。

 そう思って荷物を取りに休憩室へ向かうと、煙の匂いが鼻をかすめた。

 ドアを開けた先にいたのは、タバコをくゆらせているジュンの姿だった。


「ジュンさんは……知ってるんですよね?」


 聞くつもりなんて、なかった。

 でも、なぜだろう――。

 口が自然と動いていた。


「何を?」

「アヤカちゃんのことです」

「……聞いたのか」

「どうしてケン君だけが、あんな酷い目に遭わなきゃいけないんですか……。悪いことなんて何もしてないのに……。ずっと、自分を責め続けて……追い込んで……」


 朝から必死にこらえてきた感情が、一気に溢れ出してくる。

 止められなかった。

 ジュンは、ゆっくりと煙を吐き出した。


「あいつは、自分を守る言葉を知らないんだ。罪悪感を抱え、自責の念に駆られ、それを背負い続けることでしか、自分の存在を許せない。自分を責めることで、どうにか心の均衡を保っているんだよ」

「でも、救ったと思うんです。たとえ……アヤカちゃんが、死を選んでしまったとしても……」

「……俺も、そう思うよ」


 ジュンの声は、どこか遠くを見つめるように静かだった。


「でもな……俺は、あの時のケンを知ってる。きっと他に、どうしていいのか分からなかったんだと思う。自分で作り出してしまった、目の前の“現実”ってやつに――」


 その言葉に、チカの涙は止めどなく頬をつたう。

 どうすることもできず、ただ指先で拭うしかなかった。


「ケンにとって、これは“悪くない”なんて一言で済むような話じゃない。誰かがそう言えば言うほど、逆に苦しみが深くなる。言葉ってのは時に、思いやりの形をして、ナイフにもなるんだ」


 あの夜、チカが言った“ケン君は悪くない”という言葉――

 たしかに本心だった。けれど、それはあまりにも軽すぎたのかもしれない。

 自分の言葉が、誰かの傷を広げてしまうこともある。

 あの時は、他に何を言えばよかったのかも分からなかった。

 ジュンは静かにタバコを灰皿に押しつけながら、ぽつりと呟いた。


「あいつは今でも、覚めることのない悪夢の中で生きてる。ようやく、その底から這い上がろうとした時――その出口を、硬くて重い蓋で塞いだ女がいたんだよ」

 

 

* * *

 

 3年前――。

 あいつには、ユイという恋人がいた。

 アヤカのことがあってから、二人の関係は少しずつ、けれど確実に崩れ始めた。

 あの頃のケンは、まるで氷のように心を閉ざし、感情のすべてを凍りつかせていた。

 それでもなお、彼が唯一、心の隙間を見せようとしていたのが、ユイだった。

 きっと、アヤカの名前を口にすることすら、彼にとっては苦痛だったはずだ。

 それでも、どうにか心の拠り所を求めるようにして、アヤカのことをユイに打ち明けた。

 その時、返ってきた言葉――。


「その子を自殺に追い込んだのは、ケン……あなたよ。その子の両親からしたら、あなたは――人殺し」


 その一言で、ケンは居場所を失った。

 音を立てるように、すべてが崩れ去っていった。

 心は空っぽになり、自分が生きている意味さえ見えなくなった。

 “あなたは悪くない”

 “あなたのせいじゃない”

 そんな言葉を求めていたわけじゃない。

 ただほんの少しでいい。

 少しだけ、ユイの肩に寄りかかりたかった。

 何も言わなくていい。

 ただ、隣にいてほしかった。

 それだけだったのに。

 ――理解してほしかった人に、拒絶された。

 その後、二人は「別れ話」を交わすこともなく、お互いに自然と離れていった。

 もともと、ユイの両親はケンの育った環境に偏見を抱いており、交際に反対していたらしい。

 ユイ自身も、両親に認められない恋を、この先も続けることに疲れてしまったのだろう。

 それも、別れの理由のひとつだったのかもしれない。

 二人の恋は、あっけないほど静かに終わった。

 それ以来、ケンは女性という存在に対して深い不信感を抱くようになった。

 そして、心に壁を作るようになっていった――。

 

* * *

 

 

 ジュンの言葉ひとつひとつが、チカの心を静かに、しかし確実に締めつけていった。

 今にも折れてしまいそうなほどに、心は脆く揺れていた。

 あなたを知れば知るほど、何もできない自分がもどかしくなる。

 その過去の話を聞いて、怒りを覚えなかったわけじゃない。

 けれどそれ以上に、ただ涙を流すことしかできない自分自身が、虚しくて、悔しかった。

 “生きている意味がわからない”

 ――どうか、そんな哀しいことを思わないでほしい。

 あなたは、ちゃんと生きている。

 悲しみも、苦しみも、傷つくことも――

 それらはすべて、あなたの“心”が確かに生きている証だから。

 もし、それらを感じることすらできなくなってしまったら――

 その方がずっと、ずっと哀しい。

 その夜、チカは家に戻ってからも、ずっと涙が止まらなかった。

 自分の無力さを噛みしめるように、枕に顔を埋めたまま、涙だけが静かに流れ続けた。

 そして、いつの間にか――そのまま眠りについていた。

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