僕らはまだ、ミステリーにいる

理瑠

第1話~消えた人形師と始まりの館~

 夕焼けだった。

 世界からあらゆる色彩が奪われ、燃えるようなオレンジとすべてを飲み込む深い影の二色だけになったかのような、そんな放課後だった。

 コンクリートを蹴るボールの音、吹奏楽部が奏でる少しだけ音の外れたメロディ、家路につく生徒たちの楽しそうな笑い声。それら放課後を構成するすべての音が遠い世界の出来事のように聞こえる。

 新館三階の廊下の突き当り。その場所だけが学校という日常から切り離された特別な空間になっていた。


「――よし、カギかけたぞ」

 空野湊(そらのみなと)が古い引き戸に背を向け小さな声で言った。カチャンと心もとない音を立ててかんぬきが下りる。これでこの部屋の存在を覚えている教師や生徒がいないかぎり、日の出まで誰かがここを訪れることはないだろう。

 そこはほとんどの生徒から「開かずのパソコン室」と呼ばれている場所だった。十数年前に使われていた旧式のパソコンが教室の亡霊のように白い布をかぶせられて並んでいる。彼らが使うのはその奥で唯一いまだに現役で稼働しているサーバー管理用の教師用端末。それこそが「放課後ミステリー同好会」を名乗る彼らの秘密の玉座だった。


「サンキュ、ミナト! よーし、じゃあ始めっか!」

 玉座――使い古されたオフィスチェア――に陣取る火野太陽(ひのたいよう)が待ちきれないといった様子で両腕を天に突き上げた。彼の足元には昼休みに購買で買った焼きそばパンの袋が無残にも踏みつぶされて転がっている。ついさっきまで彼はその椅子の上で体育座りをしながら今日の給食のデザートが冷凍みかんだったことについて熱弁をふるっていたが、湊がカギをかけた瞬間彼の頭の中は完全に別の世界へと切り替わったのだ。


「落ち着きなさい太陽。あなたのその騒々しさは私たちの品位を著しく損なうわ」

 太陽の隣で持参した携帯用の椅子に背筋を伸ばして座る月島玲奈(つきしまれいな)が冷ややかに言った。彼女は除菌シートで念入りにキーボードとマウスを拭き清めるという彼女なりの儀式を終えたところだった。その指先はまるでコンサートを控えたピアニストのようにしなやかで迷いがない。

「それにまだ例の『準備』が終わっていないでしょう。焦りは禁物。どんな優れた探偵にも共通する鉄則よ」


 玲奈の言う「準備」とはこの伝説のゲーム『ミステリー・ラビリンス』に挑むにあたって彼らが自らに課したルールのことだった。それは先週解決したとある推理小説の犯人当てクイズでの苦い敗北がきっかけだった。太陽が「ぜったい犯人はヤスだ!」という直感だけで突っ走り玲奈がそれを論理的に否定し、そして湊が二人の意見をまとめきれずにタイムアップとなったあの事件だ。

 その反省会で彼らは決めたのだ。今後いかなる謎に挑む時も必ず最初にそれぞれの役割とそこから逸脱しないという「誓い」を立てることを。


 湊は自分の胸にそっと手を当て、期待と緊張で心臓がいつもより少し速く脈打っているのを感じた。

「――放課後ミステリー同好会、会員番号一番、空野湊。やくわりは『探偵』。二人から集まったすべての情報を吟味し最終的な推理を組み立てることをここに誓います」

 彼の声は静かだが決意に満ちていた。


「会員番号二番、月島玲奈。やくわりは『分析官』。あらゆる情報を論理的に分析し矛盾点と可能性を提示することをここに誓います」

 玲奈はすっと立ち上がりスカートのしわを伸ばしながら言った。


「会員番号三番ッ、火野太陽! やくわりは『捜査官』! 持ち前の体力と行動力で誰よりも多くの情報を足で稼いでくることをここに誓いますッ!」

 太陽はビシッと敬礼のポーズを決めた。


 三人の誓いがほこりっぽい部屋の中で厳かに交差する。

 それはただの遊びだったが彼らにとってはどんな約束よりも重い真剣な儀式だった。

 儀式を終え湊が玉座に深く座り直しゆっくりとマウスに手を伸ばした。

 画面の中央には古びた羊皮紙を模した背景にまるで血で描かれたかのような黒に近い赤色のインクでこう書かれていた。

『ミステリー・ラビリンス』


 湊がゆっくりとマウスをにぎりその矢印型のカーソルを画面の中央にある「START」という文字の上にそっと重ねる。

 古いボール式のマウスは湊の意図とは少しずれてカーソルをぷるぷると震わせた。まるでこれから始まる冒険の大きさに機械自身がおびえているかのようだ。

 ごくりと誰かが息をのむ音がやけに大きく部屋に響いた。


「なあミナト……」

 太陽がさっきまでのはしゃいだ声を潜め真剣な調子で言った。

「ほんとに大丈夫なんだろうな? このゲーム。うわさじゃヤバい話ばっかりだったぜ」


 太陽の言う通りだった。

 湊がこのゲームの入り口を発見した海外の匿名掲示板ではその正体についてさまざまな憶測が飛び交っていた。

『あれはゲームじゃない。ある組織が天才的な頭脳を持つ子供を探すための特別なテストだ』

『一度ログインした者は二度とその体験を語ることはない。なぜならあまりの恐ろしさに記憶を失うからだ』

『ゲームの中のNPCは本物の人間と区別がつかないらしい。まるで魂がプログラムされているようだ』


 どれもこれも子供だましのようなうさんくさい話ばかり。だがそのどれもが妙に真実味を帯びていた。なぜならこのゲームに関する情報はすべてがうわさ話だけでスクリーンショットの一枚すらネット上には存在しないのだ。


「データの痕跡から推測するかぎりどこかの大学の研究室が新しいAI技術の実験をしているというのが最も可能性の高い説よ」

 玲奈が腕を組んで冷静に分析してみせる。

「被験者である私たちに強烈な体験をさせることで人間の脳がどう反応するかのデータを集めている……考えられなくはないわ。だとしたら私たちがやるべきことは一つ。その開発者たちの予想をはるかに超えるスピードでこのゲームを完全攻略してみせることよ」


「へっ、のぞむところだぜ!」

 玲奈の言葉に太陽はふたたび自信を取り戻したようだった。

「どこの大学のえらい先生か知らねえけどおれたち放課後ミステリー同好会の実力、思い知らせてやろうぜ!」


 そうだ、と湊は思った。

 どんなうわさがあろうとどんなナゾが待ち受けていようとこの三人で挑むのなら何も怖いことはない。最高の仲間がすぐ隣にいるのだから。

 湊は仲間たちの顔を見て強くうなずき今まで感じていたかすかな不安を心の奥底にぐっと押しこめた。

「――いくぞ!」


 湊の指がマウスの左ボタンを強く深く押しこんだ。

 カチッという乾いた音が静まり返ったパソコン室に響きわたる。


 その瞬間だった。

 パソコンの冷却ファンがぶおんとほこりをまきあげながらとつぜん回転数を上げた。画面が一度砂嵐が吹き荒れるテレビのように激しく点滅する。

 スピーカーからジジ……というノイズと共に聞いたこともないような物悲しいオルゴールのメロディが流れ始めた。


 画面の「START」の文字が水に溶けるインクのようにゆっくりとにじんで消えていく。そしてそのあとにカタカタカタと昔のタイプライターみたいな小気味いい音といっしょに新しいメッセージが紡がれていった。


《ようこそ、なぞを求める者たちよ》

《きみたちの知性は、このめいきゅうのなぞを解き明かすに値するか?》

《物語を始める前に、きみたちには「やくわり」をあたえよう》

《それは、きみたちの力であり、そして、きみたちをしばる呪いともなるだろう》

《――さあ、えらびなさい》


 メッセージが消えると画面に三枚のタロットカードがゆっくりと裏返った。

 ふるい物語の挿絵のようにこまかい線でえがかれたうつくしいカードだった。


 一枚目には虫めがねを構え真実の星を見通す人物の絵。

『たんてい』――散らばった点を結び、真実という一本の線を描く者。


 二枚目には鋭い眼光で天秤を見つめる人物の絵。

『ぶんせきかん』――偽りの山の中から、たった一つの真実を見つけ出す者。


 三枚目には力強く扉をこじ開ける人物の絵。

『そうさかん』――その足が止まる時、それはすべての謎が解き明かされた時。


 三人は自分たちの誓いとまったく同じ役割がそこによういされていたことにおどろきそしてぞくりとした。まるでこのゲームは自分たちがここにやってくることを最初から知っていたかのようだ。

 だが彼らはもう立ち止まることはできなかった。

 三人がそれぞれのカードを何かにみちびかれるようにクリックするとカードはうつくしい光の粒となって画面の中に吸いこまれていった。


 そして最後に画面のまん中に重厚で巨大な観音開きの扉の絵があらわれた。

 扉には気味の悪いほどのリアリティがあった。何百年ものあいだ誰にも開かれたことのないような古ぼけた木の質感。ところどころに浮き出た緑色のコケ。そして中央にあるかぎ穴。その奥は何も見えない本当の闇が広がっているように見えた。

 扉の上にはこうほりこまれていた。

『物語のとびらを開く』


「……じゅんび、いいか?」

 湊の声は自分でも気づかないうちにすこしかすれていた。

 玲奈と太陽は言葉なくこくりとうなずいた。

 三人はどうじにヘッドセットをかぶった。ひんやりとした機械の感触が耳をおおう。しんとまわりの音が何も聞こえなくなり自分の呼吸の音とどくどくと鳴りつづける心臓の音だけがやけに大きく感じられた。


 湊はかたくなった指で扉の絵をクリックした。


 そのしゅんかん目の前がテレビの電源をいきなり切ったときみたいに真っ白になった。

 そしてつぎのしゅんかん体がふわっとうかぶようなへんな感じがおそってきた。

「うわっ!」

 声を出そうとしたけれど出ない。

 まるで高速エレベーターでビルのてっぺんから一気に地下まで落ちていくようなおなかのあたりがひやりとする感覚。

 ぐるぐると目がまわるような感覚といっしょに万華鏡をのぞきこんだみたいに色とりどりの光が目の前をものすごい速さで流れさっていく。

 そしてだんだんねむるみたいに何も考えられなくなっていった。


 どれくらいの時間その不思議な感覚はつづいただろうか。

 十秒だったかもしれないし十分だったかもしれない。もしかしたらほんの一瞬のできごとだったのかもしれない。時間の感覚がぐにゃぐにゃにねじまがってまったく分からなくなっていた。

 ぐるぐるとまわりつづけていた色とりどりの光はやがてゆっくりとその速度をゆるめていく。赤、青、黄色、緑……ばらばらだった光はとけてまじりあい、やがてただ一つの色になった。

 すべてをすいこむような深い深い黒色だ。

 耳元でひびいていたジェットコースターみたいなごう音もいつのまにか消えていた。

 しんと静まりかえった何もない空間。

 音も光もにおいも何もない。まるで宇宙に一人でほうりだされたみたいだった。


(……おわったのか?)

 湊はまだはっきりしない頭でそう考えた。

 体はどこにもついていない。ふわふわとくらやみにうかんでいるような感じだ。

(ここがゲームの本当の入り口……?)


 その時だった。

 何もないはずのくらやみの中でとつぜんなにかのにおいがした。

 それはふるい木のにおい。図書館のだれも読まない本がならんだ棚のにおいに似ている。それに、かすかにしめった土とどこかで燃えているろうそくのロウが溶けるあまいにおいがまじっていた。

 つぎに音が聞こえてきた。

 ざあざあざあざあと何かがはげしく地面をたたく音。

 雨の音だ。

 そしてさいごに感覚がもどってきた。

 それまでずっとくらやみにうかんでいたはずの自分の体にたしかな「重さ」がもどってきたのだ。

 ずしりと。

 せなかにひんやりとした硬い床の感触がはっきりと伝わってきた。


 それはもうバーチャルリアリティの感覚ではなかった。

 まちがいなく現実だった。

 なにかがおかしい。

 なにかとんでもないことがおこっている。


 そう気づいたときにはもうおそかった。

 湊の意識はまるでぷつりと糸が切れたみたいにそこでとぎれた。

 深い深い眠りが抗う間もなく彼をつつみこんでいったのだ。


 彼らが挑もうとした伝説のゲーム。

 その入り口だと思っていた扉はまったく別の場所へとつながっていた。


 三人の小学生の日常はこのしゅんかんかんぜんに終わりを告げた。

 ここから始まるのはもとの世界に帰るためのナゾとひみつとそして危険に満ちあふれた本当の冒険の物語。


 放課後ミステリー同好会がその本当の力をためされる最初の事件。

 その幕が今、静かに上がろうとしていた。


 ……つめたい。

 それが湊が最初に感じた体のすべてを包む感覚だった。

 背中がまるで氷の上に寝かされているかのようにひんやりとした硬いものに触れている。慣れ親しんだパソコン室のプラスチックと鉄パイプでできた椅子のきしむ音や温もりとはあまりにもちがっていた。


 次ににおいがした。

 図書館の一番奥の棚に並んだ何十年もだれにも読まれていない古い本のにおい。革の表紙が長い時間をかけてゆっくりと崩れていくような甘くてかすかにかび臭いにおいだ。それにしめった土のにおいとどこかで燃えているろうそくのロウが溶けるあまいにおいが混じりあっている。

 パソコン室の機械の熱とほこりのにおいしかしないあの無機質な空間とはなにもかもがちがっていた。


 耳をすますとざあざあざあざあと何かがはげしく地面をたたく音が聞こえてくる。

 雨の音だ。

 それも普通の雨じゃない。傘なんてまったく役に立たないようなバケツをひっくり返したようなものすごいどしゃぶりだった。風がうなる音も聞こえる。きっと窓の外は大嵐なのだろう。


 湊はまぶたの裏でゆっくりと意識をうかびあがらせながら必死に考えようとした。

(ぼくはたしかに玲奈と太陽といっしょにパソコン室にいたはずだ。ヘッドセットをつけて『ミステリー・ラビリンス』にログインして……そしてあのものすごい光に包まれて……)

 そうだここはゲームの中のはずだ。

 だとしたらこのリアルすぎる感覚はいったいなんだ? 最新のフルダイブ技術というやつはここまで現実と区別がつかないものなのだろうか。


 湊はおもたいまぶたをなんとかこじ開けた。


 はじめはなにもかもがぼやけてよく見えない。暗闇に目が慣れていないせいかそれともまだ頭がちゃんと働いていないせいか。

 何度かまばたきをくりかえすうちに目の前の景色がゆっくりとカメラのピントが合うみたいにはっきりとしてきた。

 そしてその光景を完全に認識したとき湊は自分が息をするのも忘れていたことに気づいた。


「……うそだろ」

 おもわず自分の口から声がもれた。

 そこはいつも見なれているあのパソコン室なんかではもちろんない。

 見たこともないほど天井の高いだだっ広い石づくりのホールだった。


 床にはこい赤色のじゅうたんがすみからすみまでしかれている。ところどころすりきれて下の石の床が見えていた。その模様は何百年ものあいだにどれだけ多くの人がここを歩いたのかを物語っているようだった。

 かべには金色のわくに入った知らない人の肖像画がずらりとかざられている。よろいを着た騎士、ドレスを着たお姫様、いばった顔をした王様。だれもかれもこわい顔でこちらをにらみつけているようでなんだか気味がわるい。その絵の目だけが暗いホールの中でぬらりと光っているように見えた。


 そしてはるか頭の上。教会の天井みたいに高い場所から巨大なシャンデリアがぶらさがっていた。何十本ものろうそくの火がゆらめいてホールぜんたいをぼんやりとたよりなく照らし出している。その光が床にたまったほこりの粒をきらきらと金色にそめていた。天井のすみは暗くて大きなこうもりが羽を休めているんじゃないかと想像してしまいぞくりとする。


 正面には二階へとつづく大きな大きな階段があった。まるで広い川のようにゆるやかにカーブしながら二階の暗がりへとつづいている。手すりには悪魔みたいな動物のほりものがずらりとならんでいる。その口はまるでなにかをさけんでいるかのように大きく開かれていた。

 そしてその左右にはかたくとざされたいくつもの扉がならんでいた。

 扉にはそれぞれチェスのコマのマーク、動物のマーク、トランプのマークなんかがほられている。まるでここから先に進むためにはそれぞれの扉のナゾを解かなければならないとでも言うように。


 湊がそのあまりにも現実離れした光景にただ立ちつくしているとすぐ近くでうめき声がした。

「んん……いてて……なんだよ今の……。まるで頭のうしろをバットでなぐられたみたいだぜ……」

 太陽だった。

 彼も湊と同じようにかたい床の上に倒れていたらしい。げんこつでごしごしと頭をこすりながらゆっくりと立ち上がる。そして目の前の光景に気づくとぽかんと口を半開きにしたまま動きを止めた。


「…………は?」

 太陽の口からまぬけな声がもれた。

「なんだよここ……。おいおいマジかよ……。すっげえ……」

 彼はまるで生まれて初めて映画館に来た子供みたいに目をきらきらさせながら三十秒ほどただただ天井のシャンデリアと二階へつづく大きな階段をだまったまま見上げていた。


 続いて玲奈も静かに身を起こした。

 彼女は太陽のように大声をあげたり湊のように言葉を失ったりはしなかった。まず最初にくせなのだろうすこしもずれていない黒縁めがねの位置を中指でくいと押し上げた。そして自分がいる場所の状況をたしかめるようにするどい目つきですみからすみまでホール全体を見回し始めた。

 石でできた床の材質、かべにかかった絵のタッチ、ろうそくの炎のゆらめき、そしてそれらが作り出す影の濃さ。まるで事件現場を分析する本物の探偵のようだった。


「湊、太陽、無事?」

 玲奈は仲間たちの無事を確認するとほっとしたように小さな息をついた。

「ああ、なんとか」「平気だぜレイナ! それより見てみろよこれ!」

 太陽が自分の服をつまんでうれしそうに見せた。

 三人はいつのまにか学校の制服や私服ではない特別な服に着がえていた。


「うおー! かっけえ! まるで本物の探偵団みたいだぜおれたち!」

 太陽がはしゃぐのも無理はなかった。その服はまるでこの古い洋館のためにあつらえられたかのように雰囲気にぴったりと合っていたのだ。

 太陽が着ているのは『捜査官』のやくわりにふさわしい動きやすそうな茶色いツイード生地のニッカボッカと革のサスペンダー。ブーツは石の床を歩くとコツコツと場違いなほど大きな音をたてた。

 玲奈の『分析官』の服は知的に見えるこい青色のケープ付きワンピースだった。生地はぶあつくてすこし重そうだ。彼女は自分の服の生地を指でつまむとその本格的な手ざわりにおどろきの表情をうかべていた。

 そして湊の『探偵』服は映画に出てくる名探偵みたいなチェック柄のズボンとポケットがたくさんついたジャケットだ。ためしにポケットに手を入れてみると思ったよりもずっと深くいろいろな道具が入れられそうだった。


「すごい……」

 玲奈が自分のワンピースのスカートのすそをひるがえしながら感心したように小さな声で言った。

「ゲームでえらんだ『やくわり』に合わせてアバターの服も変わるのね。この生地の質感、風が吹いたときのかすかな動き……。今のフルダイブ技術がここまで五感を再現できるなんて……。これがβテストだっていうんだから末恐ろしいわ」

 玲奈は分析するように自分の置かれた状況を冷静に言葉にしていく。


「そんなむずかしいことは分かんねえけどとにかくすげえってことだよな!」

 太陽はもうすっかりこの世界に夢中になっているようだった。彼はホールの中を意味もなく走り回り始めた。

「うおー、走った感じも本物そっくりだ! ちょっとだけ体が軽い気もするぜ!」

 コツコツという彼の足音だけがやけに大きく静かなホールにひびきわたる。


 あまりにも本物みたいな世界とかっこいい探偵服。

 はじめは三人ともそのすごさにただただおどろき興奮していた。

 湊もこの信じられないような体験に胸が高鳴るのを感じていた。

 だがその興奮が少しずつおちついてくると湊は心臓のあたりがひやりとつめたくなっていくのを感じ始めた。

(おかしいぞ……リアルすぎる。においも空気のしめっぽさも服の肌ざわりもぜんぶ本物としか思えない。それに……)


 ゲームならぜったいにあるはずのものがどこにもないのだ。

 自分の体力をしめすHPバーも地図もメニュー画面を開くためのアイコンも視界のどこにもうつっていなかった。

 ゲームの中のキャラクターを動かしているという感覚ではない。

 まるで湊自身の体がそのままこの世界にやってきてしまったかのようなそんな奇妙な感覚だった。


 その時玲奈がふと動きを止めた。

 彼女はなにもない空間に向かってはっきりとした声で言った。

「メニュー、オープン」

 いつもの彼女なら絶対にしないような行動だったが彼女は真剣だった。ゲームのコマンドを試しているのだ。


 しんと静まりかえるホール。

 もちろん何もおこらなかった。

「……だめか」

 玲奈の眉間にしわがよった。

「なにかジェスチャーとか音声コマンドがあるのかもしれないわ……『ログアウト!』」

 玲奈がもう一度試してみる。

 だが彼女の声は高い天井にむなしくひびくだけだった。


「なーにやってんだよレイナ」

 ホールを走り回っていた太陽が玲奈の行動を見てきょとんとした顔で言った。

「そんなアニメみたいなコマンドでメニューが開くわけねえだろ。ふつうゲームならスタートボタンを押すとかそういうコントローラーの操作が……」

 そこまで言って太陽ははっと口をつぐんだ。

 自分たちの手にはコントローラーなんてものはどこにもないことに気づいたのだ。ヘッドセットをかぶってはいるがそれはログインの時に使っただけのはずだ。


「……じゃあどうやってメニュー画面を出すんだよ?」

 太陽もようやくこの世界の奇妙さに気づき始めたらしい。うでをふったり指で空中にしかくを書いてみたりしているが何もおこらない。彼の元気な声からすこしずついつもの勢いが消えていく。


 湊も玲奈と同じようにコマンドを試してみる。

 声に出すのはなんだかはずかしかったので心の中でできるだけつよくさけんでみた。

(メニュー! 装備! アイテム! ステータス! そして……ログアウト!)

 頭の中でその言葉が何度もこだまする。だが目の前の現実はぴくりとも動かない。ただ、しんとしたホールに雨の音と不安に満ちた三人の呼吸の音だけがひびくだけだ。


 じわと背中にいやな汗がつたうのを感じた。

 それはテストで答えが分からない時のあせりともお化け屋敷に入った時のこわさともちがうもっと体のしんから冷えてくるようなぞっとする感覚だった。


「そんなバカな!」

 太陽はしんじられないという顔でホールの壁にあった大きな木のドアにかけよった。そのドアはここに来た時にはかたく閉ざされていた唯一の「外」へとつながっていそうなドアだった。

「こんなのゲームじゃねえ! だったらここから出てやる! オレがぜったいに開けてみせる!」

 太陽は全体重をかけてドアに体当たりをした。

 ドンッとにぶい音がひびく。だがドアはびくともしない。まるで分厚い鉄のかたまりにぶつかったかのようだった。


「くそっ、開けろよ! 開けろってんだ!」

 太陽はあきらめなかった。何度も何度もドアをたたきけとばすがまるで岩のかたまりみたいにドアはうんともすんとも言わなかった。

 ドンドンドン!という音がむなしくホールにひびきわたる。

 やがて太陽の動きが止まった。

「はあ……はあ……。だめだ……まるでコンクリートで固められてるみたいだ……」

 太陽はドアに背中をあずけぜえぜえと肩で息をしながらくやしそうに床にすわりこんでしまった。


「……できない」

 玲奈の声がふるえていた。いつも冷静な彼女が顔をまっさおにして自分の手のひらをじっと見つめている。

「ログアウトが……できないのよ……!」


 その言葉がひえた空気の中でずしりとおもく感じられた。

 パソコン室にいたはずが知らない洋館にいる。

 ゲームのキャラクターの服を着ている。

 そしてここから出るための「ログアウト」ボタンがどこにもない。

 それどころか物理的な出口であるはずのドアさえ開かない。


 ここはただのゲームじゃない。

 出口のないとじこめられた世界なんだ。

 もしかしたらもう二度とお父さんやお母さん学校の友達にも会えないかもしれない。

 そう気づいたとき湊の心臓がこれまででいちばん速くどきどきと大きく鳴り始めた。指先がどんどん冷たくなっていくのが分かった。


 パアンッ!


 その時だった。

 三人がぜつぼう的な気持ちで立ちつくしているととつぜん風船がわれるような明るい音がした。あまりにも場違いな楽しそうな音だった。

 何もないはずの空間からきらきらと光る紙ふぶきがまいちった。赤、青、黄色、銀色。まるでだれかの誕生日パーティーが始まったかのようだった。


「な、なんだ!?」

 太陽がすわりこんだままびくっとしてさけぶ。


 三人があっけにとられて見ているとその紙ふぶきが集まっていた場所の空気がもやりとゆがんだ。夏の暑い日に道路の向こうの景色がゆらめいて見えるあの感じだ。

 そしてまるでテレビの画面がつくみたいにその空間に一つの「文字」がうかびあがったのだ。


 それはアルファベットの「Q」だった。

 黒くてくるりと丸まったまるでナゾナゾの本に出てくる記号のような文字だ。それはただじっとうかんでいるのではなく楽しそうにぷかぷかと空中をただよっていた。


《やあやあ、かわいそうなたんていたち》


 うかびあがった「Q」の文字から直接声が聞こえてきた。

 男の人の声のようでもあり女の人の声のようでもある。すこしふざけたようなまるで歌うような楽しそうな声だ。


《そんなにかわいそうな顔をしないでくれたまえ。せっかくのパーティーがしらけてしまうじゃないか》


「だれだおまえは!」

 太陽がゆらゆらとうかぶ文字にむかってさけんだ。


《おっと自己紹介がまだだったね。失礼失礼。私はゲームマスター。そうだな……きみたちにはこう名乗るとしよう。『Q』とでもよんでくれたまえ》

 その声はまったくこわがっている様子もなくむしろ新しい友達ができた子供のように楽しそうにこたえた。


「ゲームマスター……?」

 玲奈がきびしい顔でぷかぷかと浮かぶ黒い文字をにらみつけた。彼女は恐怖や混乱よりも先にこの異常な事態を分析しようと頭をフル回転させているようだった。

「あなたがこの『ミステリー・ラビリンス』の管理人だというの? いったいどういうことなの! どうして私たちはここから出られないのよ! これは法律に違反する行為よ。立派な誘拐、監禁罪だわ!」


 玲奈はまるで裁判官が罪人を問いつめるかのようにするどい言葉を次々となげつける。そうだここはゲームなんかじゃない。ぼくたちは犯罪に巻きこまれているんだ。


《おっとこわいこわい。さすがは『分析官』さんだ。すぐに法律の話を持ち出すとは実に頭がかたい》

 『Q』は玲奈の言葉をまったく相手にせずひらひらと空中を舞いながらからかうように言った。

《だが残念だったな。きみたちの世界の法律はこの世界ではなんの意味も持たない。なぜならここはきみたちの世界ではないのだから》


「なに……?」

《きみたちはもはや現実とゲームの『境界線』をこえてしまったのさ。自らの足でね。この世界では私がルール。私が法律なのだよ》


 その言葉はふざけた声の調子とはうらはらにぜったい的な重みを持っていた。まるで王様が自分の国民に命令を下すようなさからうことなどけっして許さないという強い意志がこめられている。


「ふざけんじゃねえ!」

 それまで黙ってすわりこんでいた太陽がばねのように立ち上がった。

「わけのわかんねえことぐだぐだ言ってんじゃねえぞ! さっさとおれたちをここから出せ! さもないとおまえをひっとらまえてめちゃくちゃにしてやるからな!」

 太陽は本気だった。その目は怒りの炎で赤く燃えているように見えた。


《おやおやこんどは血の気の多い『捜査官』くんか。威勢が良くて大変けっこう。だがきみはなにか大きなかんちがいをしているようだね》

 『Q』は太陽の威嚇にもまったく動じなかった。それどころか太陽の目の前までをすうっと近づいていく。

《きみはこの私をどうやって捕まえるというんだい?》

「うおっ!」

 太陽は目の前に浮かぶ黒い文字を虫でもはらうかのように思いきりひっぱたいた。だが彼の手はなんのてごたえもなく空気を切っただけだった。


《ふふふ、あはははは!》

 『Q』は楽しそうに笑い声をあげた。

《残念だったな。私はきみたちがさわることのできないこの世界の『神様』のようなもの。だが私からはきみたちのことがよーく見える。きみたちがどんな表情でどんなふうにふるえているのかもすべてお見通しさ》


 その言葉に三人はぞくりとした。

 そうだこいつには自分たちがただの弱い子供だということがすべて分かっているのだ。

 力では絶対にかなわない。

 言葉も法律もなにもかもが通じない。


 湊はふるえるこぶしをぎゅっとにぎりしめた。

 こわい。正直今すぐにでも泣き出してにげだしたかった。

 だけどここで負けるわけにはいかない。

 湊は勇気をふりしぼって一歩前に出た。

「……きみはなにがしたいんだ?」


 湊の問いに『Q』はぴたりと動きを止めた。そしてまるでようやく話のわかる相手が出てきたとでも言うように満足そうな声で言った。

《ほう……ようやく『探偵』くんのお出ましか。そうだな、きみの問いにだけはちゃんと答えてあげよう》

《私がしたいこと。それはただ一つ。最高のミステリーを最高のプレイヤーに心ゆくまで楽しんでもらうことさ》


「楽しむ……だって?」

《そうだとも! 私はこの世のあらゆるミステリーを愛している。そしてすぐれた才能を持つプレイヤーが私の作った最高の舞台でその才能をいかんなく発揮する姿を見るのがなによりも好きなのだ!》

 『Q』の声はまるで好きなアニメについて語るオタクみたいにどんどん早口になっていく。

《だから安心してくれたまえ。きみたちをむやみに傷つけたりはしない。ちゃんと、もとの世界に帰るためのチャンスもよういしてある》


「本当か!?」

 湊がおもわず聞き返す。


《ああ本当だとも。ただしそれにはもちろん条件がある》

 ごくりと三人はつばを飲みこんだ。

 『Q』はまるで先生が生徒に問題を出すときみたいに楽しそうな声で言った。

《この『始まりの館』には七つの大きな謎がかくされている。うわさで聞いて知っているかもしれないがね。そのすべてを解き明かしたとき本当の出口への道が開かれるだろう》


「七つの……ナゾ……!」

 太陽が言っていたうわさと同じ数だ。


《そうだ。そして今からきみたちにちょうせんしてもらうのはその一つ目》

《これはきみたちの力をはかる最初の『試験』にすぎない。もしこんなかんたんなナゾも解けないようであれば……》

 声の調子がすうっと低くなった。さっきまでの明るい声とはちがうひやりとするような冷たい声だ。

《きみたちは永遠にこのやかたの“登場人物”……つまりこのゲームのNPCになってもらう。ミステリーの一部となってこれからここへやってくる新しいプレイヤーたちをただの人形としてむかえることになるのさ》


 ぞくりと背すじがさむくなった。

 ゲームの登場人物になる? 永遠に?

 それはつまりもう二度とお父さんやお母さん学校の友達にも会えないということだ。自分の心がなくなりただプログラムされたセリフをくりかえすだけの人形になってしまうということだ。

 それは死ぬよりもおそろしいことかもしれない。


《さて自己紹介はこれくらいにしてさっそく最初の物語を始めるとしようじゃないか》

 『Q』の声はまたもとの明るい調子にもどっていた。

 うかびあがっていた『Q』の文字がすうっとホールの天井近くまでのぼっていく。そしてまるでスクリーンに映像をうつすみたいにその前にうつくしい書体の文字がうかびあがってきた。


《シナリオ1:消えた人形師》


《このやかたの主であり天才人形師のミスター・アークライトが、かぎのかかった書斎からとつぜんすがたを消した》

《そとは大雨。やかたはかんぜんな密室状態にある》


《夜が明けるまでに、かれを見つけ出すこと》

《もし見つけ出せなければ……きみたちは、かれの“コレクション”にくわわることになる》


 ひょうしぎを打つようなカーンという高くするどい音がどこからかひびきわたった。

 それが最初のミステリーが始まった合図だった。

 うかんでいた文字はまるで最初から何もなかったかのようにきれいさっぱりと消えてしまった。『Q』のすがたももうどこにもない。


 のこされたのはとほうもないナゾととほうもない時間せいげん。

 そしてゲームに失敗したときのおそろしいバツだけだった。


 カーンという甲高い音がいつまでも耳の奥で響いているかのようだった。

 うかんでいた文字もからかうような声もきらきらした紙ふぶきもすべてがうそみたいに消えうせホールにはふたたび重苦しい静けさだけがのこされた。

 聞こえるのは外で荒れくるう嵐の音と三人のふるえる呼吸の音だけ。


 スポットライトが消えた舞台のように急に現実の重みが三人の肩にずしりとのしかかってきた。

 夜が明けるまでに見つけ出す。

 できなければ永遠にこのやかたの“登場人物”になる。

 それはあまりにもむごい死刑宣告のようだった。


「……な、なんだよそれ……」

 最初に口を開いたのは太陽だった。

 彼の声は怒っているというよりとほうにくれて迷子になった子供のようだった。

「勝手すぎるだろ……! なんでおれたちがそんなこと……!」

 太陽は近くにあった石の柱を思いきりなぐりつけた。

 ドンッというにぶい音がひびく。

「いてっ……!」

 太陽は赤くなった自分のこぶしを見つめその場にくずおれるようにひざをついた。

「……どうすりゃいいんだよ……。こんなのぜったいムリだ……」

 いつも元気な太陽の目からぽろぽろと大つぶの涙がこぼれおちじゅうたんに黒いシミを作っていった。


 玲奈も顔をまっさおにしてくちびるをきつくむすんでいた。

 彼女は自分のうでをだきしめるようにして小さく小刻みにふるえていた。いつも冷静な彼女がこれほどまでに動揺しているのを湊は初めて見た。

 だがそれでも彼女は分析することをやめなかった。

「……だめ。パニックになるのがいちばんあの『Q』の思うつぼよ」

 ふるえる声で自分に言い聞かせるように玲奈は言った。

「状況を整理しましょう。まず私たちの目的はミスター・アークライトを見つけ出すこと。場所はかぎのかかった書斎。時間せいげんは夜明けまで……。夜明け……あと何時間あるのかもわからない……」

 玲奈は必死にこのぜつぼう的な状況の中から解決への糸口を見つけ出そうとしていた。だが考えれば考えるほど自分たちがどれだけ不利な立場にいるのかを思い知らされるだけだった。


 太陽はうなだれて動かない。

 玲奈は恐怖とたたかいながらなんとか冷静さを保とうとしている。

 二人の姿を見て湊の心もまるで氷水につけられたみたいにどんどん冷たくなっていくのを感じた。


 こわい。

 正直今すぐにでも太陽といっしょに大声で泣き出してしまいたかった。

 お母さんお父さんとさけんでここからにげだしたかった。

 だけどもしぼくまでが心を折られてしまったら?

 そしたらこの物語はここで本当に終わってしまう。

 三人そろって永遠にこのやかたをさまようただの人形になってしまうんだ。


 それだけはぜったいにいやだ。


 湊はふるえる自分のこぶしを爪が食いこむほど強く強くにぎりしめた。

 そしてしぼりだすように言った。

「……顔を上げてくれ、太陽」


 湊の声は自分でもおどろくほど静かだった。

 太陽は涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げた。

「……ミナト……? だってもうどうしようも……」


「どうしようもなくなんかない」

 湊はきっぱりと言った。

「たしかにこわいよ。ぼくだって今足がガクガクふるえてる。でもぼくたちはただの小学生じゃないだろ?」

 湊は自分の胸をとんと指さした。

「ぼくたちは『放課後ミステリー同好会』だ。今までだってたくさんのむずかしいナゾを三人で解いてきたじゃないか。図書室の暗号も理科室の怪人からの挑戦状もぜんぶ力を合わせて解決してきた」


 その言葉に太陽がはっと顔を上げた。玲奈のふるえもいつのまにか少しだけおさまっていた。


 湊は二人の目をまっすぐに見つめて言った。

「これも同じだよ。そうだろ?

 ただ今まででいちばん大きくてむずかしい最高のミステリーなんだ。

 そしてぼくたちはミステリーを解くのが大好きだ。

 ……ちがうか?」


 ホールは静まりかえっていた。

 湊の言葉がゆっくりと二人の心にしみこんでいく。

 やがて太陽がうででごしごしと涙をぬぐった。

「……そうだな」

 しゃくりあげながら太陽は言った。

「……ミナトの言うとおりだぜ……。メソメсоしたって腹がへるだけだよな……」

 太陽はよろよろと立ち上がると自分のほっぺたを両手でパンッとはげしくたたいた。

「……よし! やってやろうぜどんなナゾだって! おれたち三人にかかればちょちょいのちょいだ! あの『Q』とかいうやつにおれたちの実力思い知らせてやる!」

 いつもの元気な太陽がそこにもどってきていた。


 玲奈もめがねの位置をなおしすうっと息をすいこんだ。

「ええ。それにあの『Q』とかいうゲームマスターなんだかすごく気にくわないわ」

 彼女の口元にするどい挑戦的な笑みがうかんでいた。

「こんなゲームさっさとクリアしてぎゃふんと言わせてやりましょう。私たちの分析力と推理力でね」


 いつもの三人がそこにいた。

 絶望のふちからおたがいを信じることでふたたび立ち上がったのだ。

 湊はふたりの顔を見てこの仲間たちとならどんなナゾだって解けると心の底から思った。

 彼は強くうなずいた。

「よし、決まりだ!」


 湊はホールぜんたいを見回した。

 薄暗い不気味なやかた。どこに何があるのかも分からない。

 だがもう迷っている時間はない。

「最初の捜査、始めよう!」

 湊の声が決意に満ちてホールにひびきわたった。

「まずは事件現場だ。ミスター・アークライトが消えたっていう『書斎』をさがすぞ!」


 その声に玲奈と太陽が力強くうなずきかえす。

 こうしてもとの世界に帰るための三人の最初のちょうせんが静かにだが確かに幕を開けたのだった。


 「書斎をさがすぞ!」

 湊のその一言で三人の間に張りつめていたぜつぼう的な空気は完全に消え去っていた。

 そのかわりにそこにあったのはこれから始まる大冒険を前にしたかすかな興奮と強い決意だった。

 彼らはもうただおびえるだけの迷子ではない。

 この不気味なやかたというとほうもないナゾに三人で立ちむかう「放課後ミステリー同好会」の探偵たちだった。


「よしきた! 書斎だな!」

 太陽がまるで宝さがしにでも行くみたいに目を輝かせた。

「こういうやかたの書斎ってのはだいたい一階の奥まった場所にあるもんだ! 手分けしてドアをしらみつぶしに調べていこうぜ!」

「待って太陽」

 今にも走り出しそうな太陽のうでを玲奈が静かにつかんで止めた。

「むやみに動きまわるのは得策じゃないわ。このホールにはたくさんの扉がある。一つ一つしらみつぶしに開けていたら夜が明けてしまうかもしれない」

 玲奈の言うとおりだった。ホールを見渡すだけでも一階には少なくとも十以上の扉がならんでいる。どれも重そうな木の扉で簡単には開きそうにもない。


「それに……」玲奈はかすかに声をひそめた。「このやかたに誰があるいは何がいるのかまだ分からない。もしかしたら私たち以外の『だれか』がどこかで息をひそめている可能性だってあるわ」


 玲奈の言葉に太陽はごくりとつばを飲みこんだ。

 たしかにそうだ。あの『Q』はやかたの主がすがたを消したとだけ言っていた。

 それはやかたに誰もいなくなったという意味ではない。

 この広いやかたのどこかにミスター・アークライトの家族やお手伝いさん、あるいはまったく別の招かれざる客がひそんでいるかもしれないのだ。


「じゃあどうするんだよレイナ?」

「まずは情報収集よ。このやかたについて何か知っている人物をさがすのがいちばんてっとり早いわ」

「そんなやつどこにいるんだよ」

「さあ……。でもどんな大きなやかたにもそれを管理する人がいるはずよ。執事とかメイドとか……」


 玲奈がそこまで言った時だった。

 三人のすぐそばにこれまでまったく気づかなかったふるい木でできた小さなドアがあることに湊は気づいた。ほかの客間や食堂につながっていそうなごうかな扉とはちがう使用人が使うための目立たないドアだ。

 ドアのよこには黒ずんだ金のプレートがかかっている。湊がジャケットのそででプレートのほこりをぬぐうとそこにはふるい文字でこう書かれていた。


《お客様へ:何か御用でしたら、いつでも彼にお申しつけください》


「……『彼』?」

 三人は顔を見合わせた。

「ビンゴじゃないかしら」

 玲奈の口元がすこしだけゆるんだ。

「開けてみましょう」


 湊がふるい真ちゅうのドアノブに手をかける。ひんやりとした金属の感触。

 ゆっくりと力をこめるとぎいと長いあいだ開けられたことのなかったサビついたちょうつがいがいやな音をたてた。

 ドアのすきまからかび臭くてひんやりとした空気が流れだしてくる。

 湊は唾を飲みこんでドアを完全に開けはなった。


 部屋の中はほこりっぽい物置のようだった。

 高い棚には白いシーツがかぶせられた家具やらよく分からない機械の部品みたいなものがところせましとつまっている。天井のすみにはくもの巣が何重にもはっていた。

 そしてその部屋のまん中に一体の人形がまっすぐに立っていた。


 それはおじいさんのすがたをした人形だった。

 しらがまじりの髪をまるで定規で線を引いたかのようにきっちりと七三に分けている。寸分の狂いもない黒い執事の服。その手は白い手袋をはめ体の前で行儀よく組まれていた。

 しわのきざまれた顔はまるで生きている人間みたいに精巧に作られていたがその目はすきとおったガラス玉のようだった。なんの感情もうつさずただまっすぐに部屋の入り口を見つめている。


「うわっ、びっくりした! 人形か……。またおどかしやがって……」

 太陽がほっとしたように胸をなでおろす。

 湊がその人形に一歩近づいたその時だった。

 まるで湊の動きをずっと待っていたかのように人形がまったく音をたてずにするりと動いた。そしてうつくしい角度で深々とおじぎをした。


「ようこそお客様がた。わたくしはこのやかたの執事をつとめておりますセバスチャンと申します」

 人形がしゃべった。

 その声はふるいレコードから流れてくるようなすこしかすれてノイズがまじったような声だった。だがその言葉ははっきりと聞き取ることができた。


「あなたがセバスチャン……」

「はい。主であるミスター・アークライトに百年以上お仕えしております」

 セバスチャンと名乗った人形は顔色ひとつ変えずに言った。


 玲奈がするどい目でセバスチャンを見つめる。

「あなたがこのやかたの執事なのね。私たちはゲームマスター『Q』の命令であなたの主人ミスター・アークライトをさがしに来たの。彼がいなくなったという書斎はどこ?」


 セバスチャンは玲奈の言葉を聞いてもまったくおどろいた様子を見せなかった。

 そのガラス玉の目はまばたき一つしない。

「……主のなさることにはすべてふかいお考えがございます。お客様がた、主の書斎をご所望でございますか。かしこまりました。どうぞこちらへ」

 そう言うとセバスチャンはふたたびおじぎをし物置の奥にあるもう一つのドアへとすべるように歩き始めた。

 三人は顔を見合わせそのあとに続いた。

 この執事はいったいどこまで知っているのだろうか。味方なのかそれとも敵なのか……。


 セバスチャンが先導して進む廊下はメインホールとはうってかわって狭く薄暗かった。

 高い天井には等間隔に裸電球がついているだけでその弱い光が三人の長い影を床にくっきりと映し出している。まるで、もう一人黒い誰かがすぐ後ろをついてきているようで湊は何度も振り返りそうになるのを必死にこらえた。

 壁には肖像画のかわりに作者のわからない不気味な風景画がかけられていた。嵐の海、枯れ木が立つ荒野、廃墟となった教会。どの絵も見ているだけで不安な気持ちにさせられる。


 先を歩くセバスチャンはまったく音をたてなかった。

 コツコツと響くのは太陽のブーツの音と三人の緊張した呼吸の音だけ。セバスチャンはまるで床の上をすべる幽霊のようにするりするりと暗い廊下の奥へと進んでいく。その背中はぴんと伸ばされ少しも揺れない。人間ではない精巧に作られた機械だということがその動き一つからも伝わってきた。


「なあセバスチャンさんよ」

 沈黙に耐えかねたのか太陽が先を歩く執事の背中に話しかけた。

「あんた主人がいなくなったってのにずいぶん落ち着いてるじゃねえか。心配じゃねえのかよ?」


 太陽の問いにセバスチャンは足を止めることも振り返ることもなく静かに答えた。

「心配でございますか。その感情はわたくしのプログラムにはインプットされておりません」

「プログラム?」

「はい。わたくしたちオートマタは主がお与えになった命令に従い行動するのみ。主のなさることにはすべてふかいお考えがございます。それを信じただお仕えすること。それがわたくしの存在理由でございますので」

 その声にはなんの感情もこもっていなかった。まるで教科書を読み上げているかのように平坦で抑揚がない。


(こいつ本当にただの人形なのか……?)

 湊はセバスチャンの背中を見つめながら考えた。

 彼の言葉はあまりにも完璧すぎる。プログラムされたセリフをただ繰り返しているだけなのだろうか。それともその完璧さの裏に何か別の感情を隠しているのだろうか。


 やがて廊下の突き当り、ひときわ大きく豪華な彫りがほどこされた観音開きのドアの前でセバスチャンは足を止めた。

「こちらが主の書斎でございます」

 そのドアはこれまで見てきたどのドアよりも重厚で威圧感があった。表面にはフクロウやヘビそして様々な薬草の模様がこまかく彫りこまれている。ここがただの部屋ではない特別な場所であることを示しているようだった。


 ドアノブは金ピカのライオンの形をしていた。たてがみを逆立て大きく口を開けている。

 太陽がそのライオンの口に手をかけガチャガチャと力いっぱい回してみるがドアはびくともしない。

「だめだやっぱりかぎがかかってる」

「内側からですか?」

 湊があらためてセバスチャンに確認した。

「はい。主はご自分の研究に集中されるときいつも内側からかんぬき……かぎのようなものをかけて部屋にこもられておりました。誰にも邪魔をされぬように」


「じゃあ主人がすがたを消したときもかぎはかかっていたのね?」

 玲奈の鋭い問いにセバスチャンは「さようでございます」とだけ短くこたえた。


 内側からかぎがかかっている扉。

 誰も出入りできないはずの部屋。

 そこから人が消える。

 これぞまさしくミステリーの王道「密室トリック」だった。

 『Q』が最初の「試験」としてこれを選んだのも分かる気がした。


「どうするんだよミナト。これじゃ中に入れないぜ。またドアをけやぶるか?」

 太陽がうずうずしたように戦闘準備に入る。

「待って太陽。今度はその必要はないかもしれない」

 湊は自分が着ている探偵服の胸ポケットに手を入れた。さっきから何か細くてかたいものが入っているのをずっと感じていたのだ。

 とりだしてみるとそれは一本の細長い金属の棒だった。黒く光るピアノ線のようなものでできており先端がすこしだけ曲がっている。ヘアピンに少しにているがもっと硬くて丈夫そうだった。


「なんだそれ?」

「たぶん……このゲームがよういしてくれたアイテムだと思う」

 湊はミステリー小説で読んだピッキングという技を思い出した。鍵を使わずに特殊な道具で錠前を開ける技術だ。やったことはもちろんない。だがなぜかこの道具をどう使えばいいのか頭の中に自然とイメージがうかんできた。これもこのゲームの力なのだろうか。


 湊はライオンの口の中にあった暗いかぎ穴にその金属の棒をそっとさしこんだ。

 ひんやりとした金属の感触が指先に伝わる。

 湊は息を止め耳をすませた。中のしくみを頭の中にえがきながら小説の主人公になったつもりでしんちょうにしんちょうに金属の棒を動かしていく。

 カリカリリと中のピンが動く小さな音が聞こえる。


 カチリとそれまでの音とはちがう手ごたえのある音がした。

 湊がおそるおそるライオンのドアノブをゆっくりと回すと今度は重い音をたててドアが内側へと開いた。


「やったなミナト!」

「すごいわあなたそんな特技があったのね」

 太陽と玲奈が感心したように言う。

 湊はすこしだけ得意な気持ちになりながらも目の前の暗い部屋の奥をごくりとつばをのんで見つめた。

 ひんやりとした空気が三人をむかえる。

 天才人形師の書斎。最初の事件現場。

 捜索がいよいよ始まる。


 湊が先頭に立ち三人はしんちょうに書斎の中へと足を踏み入れた。

 うしろでセバスチャンが音もなくドアを閉める。カタンという重い音がして部屋はふたたび外の世界から完全に切りはなされた。セバスチャンはまるで門番のようにドアの前にまっすぐに立ったまま動かない。


 書斎の中はインクと古い紙のにおいがした。それは湊が知っている学校の図書室のにおいよりももっとずっと濃くて甘いにおいだった。何百年もかけてたくさんの知識と物語がじっくりと熟成されたようなそんなにおいだ。

 部屋は思ったよりもずっと広かった。ろうそくの明かりだけでは部屋のすみずみまで見わたすことはできない。


 壁は床から高い天井まで本でびっしりと埋めつくされていた。

 ふるそうな革の表紙の本がまるでレンガのようにすきまなくぎっしりとつまっている。むずかしそうな専門書から外国の物語までいったい何千冊あるのか見当もつかない。本の題名はどれもむずかしそうな外国語で書かれていて読めなかった。


 部屋の奥にはおおきくて立派な黒光りする木製の机が一つおかれている。その上には書きかけの手紙や人形の設計図と思われる羊皮紙が山のようにちらばっていた。羽ペンがまだインクが乾かないままインクつぼにさされている。まるでついさっきまでだれかがここで仕事をしていたかのようだった。

 そして部屋のあちこちに作りかけの人形やその部品が置かれている。

 机の横にはまだ髪が植えられていないつるつるの頭をした少女人形がぽつんと椅子にすわっている。棚の上にはずらりとならんだガラスの目玉が暗闇の中で不気味にこちらを見つめていた。壁にはオートマタの内部構造をしめす精巧な解剖図が何枚もはられている。

 ここはまさに天才人形師ミスター・アークライトのひみつの心臓部だったのだ。


「すごい……。ここが天才人形師の仕事場……」

 湊はおもわず息をのんだ。この部屋にあるものすべてがアークライトという人物の人形作りにかけるものすごい情熱を物語っているようだった。


「手分けして調べましょう」

 玲奈がきりっとした顔で言った。もう彼女の顔におびえの色はなかった。目の前にナゾがある。その事実が彼女をいつもの『分析官』にもどしていた。

「私は現場の状況をもう一度くわしく確認するわ。密室だったっていうのが本当かどうか窓やほかの出口がないかをチェックする」


「おう! オレはあやしい場所がないかかたっぱしからさがしてやるぜ! 隠し扉とかそういうのミステリーのやかたにはぜったいあるって!」

 太陽はすっかりたんけん気分でうでをまくした。


「わかった。ぼくはこの机の上を調べてみる。アークライトさんがなにか手がかりになるものをのこしているかもしれない」

 三人はそれぞれのやくわりを果たすため静かに動き始めた。その動きはもう何度もいっしょにナゾトキをしてきたあうんの呼吸だった。


 玲奈はまず大きな窓に向かった。

 分厚いビロードのカーテンを開けると窓の外ははげしい雨がたたきつけているのが見えた。

「まちがいないわ。窓には内側からしっかりとしたねじこみ式の錠がかかっている。それにこのほこり……ここ数日開けられた様子はないわね」

 玲奈は白い手袋をはめた指で窓の錠をそとなぞりするどく観察する。

 つぎに部屋のすみにあるレンガでできた大きな暖炉をのぞきこんだ。中には燃えつきたマキが黒い炭になってのこっている。

「煙突も人が通れるほどの大きさじゃない。それに中にはススがびっしり。もしだれかがここを通ればススが落ちて床がよごれるはずだわ。でも床はじゅうたんの上まですごくきれい」

 玲奈は探偵のように一つ一つ可能性をつぶしていく。


 そのころ太陽は部屋でいちばん大きな本棚を調べていた。

「ぜったいあやしいと思ったんだよなこの本棚! ミステリーだと本棚を動かすと隠し扉が出てくるのがおやくそくだろ!」

 太陽はううんとうなりながら力いっぱい本棚を押してみる。だがその本棚はびくともしなかった。まるで床に根っこでもはえているみたいにまったく動かない。

「くそー、かてえな、おい! なんだこれ岩でできてんのか!?」

 太陽は本棚をたたいたりゆすったり中に入っている本を何冊か引っぱりだしてみたりしたが隠し扉が見つかる気配はまったくなかった。


 湊は机の上にちらばった書類を一枚一枚ていねいに見ていた。

 設計図、外国語で書かれた手紙、人形のドレスのデザイン画。どれも事件とは関係なさそうだった。

(ミスター・アークライトはどこに消えたんだ……? この部屋からどうやって……? そもそもかれは自分の意志で消えたのか? それともだれかに……?)

 湊が考えこんでいたその時だった。


 すっと自分のジャケットのそでがだれかにためらうように優しく引っぱられた。


「わっ!?」

 おどろいてふりかえるといつのまにかすぐうしろに一人の女の子が立っていた。

 年のころは湊たちと同じくらいだろうか。

 黒いフリルがたくさんついたゴシックドレスを着て銀色の髪をきれいなおさげにしている。

 透きとおるように白い肌と大きな黒い瞳。それは湊がこれまで見たどんな人間の女の子よりもうつくしくそしてはかなく見えた。

(だれだ……? いつのまに部屋に……?)

 湊はたしかに部屋には自分たち三人しかいなかったはずだと思った。太陽や玲奈のように大きな音をたてて入ってきた様子もない。まるで最初からそこにいたかのようにその少女は静かにたたずんでいた。


 湊はあまりのおどろきに一歩うしろへさがってしまった。

 太陽や玲奈もいつのまにか現れたこの新しい登場人物に気づいて作業の手を止め息をのんでこちらを見ている。

 少女はなにもしゃべらない。ただ大きな瞳でじっと湊のことを見つめていた。その目にはおびえや好奇心といった分かりやすい感情はうかんでいない。どこまでも深く静かでまるでガラス玉の奥に本当の心をかくしているかのようだった。

 その手には使いこまれて表紙がすこしだけボロボロになった小さなスケッチブックを宝物のように大切にだきしめている。


「きみは……?」

 湊がかすれた声でおそるおそるたずねても少女はこくりと首をかしげるだけでなにもこたえなかった。

 すると部屋の入り口に門番のように立っていた執事のセバスチャンが抑揚のない平坦な声で言った。

「その方はリリー様。主がもっとも大切にされていたオートマタ……自動人形でございます」


「この子が……オートマタ?」

 玲奈がおどろきの声を上げた。

 セバスチャンそしてこれから会うであろう兄の人形ヴィクトル、メイドのエリアーヌ。このやかたには主をのぞいて四体のオートマタがいるとゲームの最初の説明にあった。この子がさいごの四体目なのだ。

「リリー様は主が特別に設計された最新式のオートマタでございます。そのせいかすこしだけ繊細な作りになっておりましてお話することができません」


 言葉を話せない人形。

 湊はその言葉を聞いて目の前の少女が人間ではないことをあらためて理解した。

(そうかこの子も容疑者の一人なんだ……。いや、そもそも犯人がいるのかどうかもまだ分からないんだ)


 リリーと呼ばれた人形は湊の問いにはこたえずただだきしめていたスケッチブックをぱらぱらと慣れた手つきでめくった。紙がすれるかすかな音だけが静かな書斎にひびく。

 そしてあるページを開いて湊の目の前にとさしだした。

 まるで「これを見て」とでも言うように。


 そこにはえんぴつで描かれた一枚の絵があった。

 とても上手な絵だった。線の太さを変えたりこまかい影をつけたりしてそれがただの絵ではないなにか特別なものであることがひとめで分かった。


 それは「星」の絵だった。

 夜空にかがやくきれいな五つの角をもった星の絵だ。

 その星のまん中にはもう一つ小さな丸がえがかれていてそこからまるで光が四方八方に広がっていくみたいにたくさんの細い線が引かれていた。


「……星?」

 湊はリリーの顔と絵を何度も見くらべた。

 リリーはなにも言わない。ただその絵を湊に指さしているだけだ。

(どういう意味だこれ? 星がなにかのヒントだって言うのか……? それともただのいたずら書きか? いやそんなはずはない。この子の目は本気だ)


「おいミナトどうしたんだよ?」

 太陽がしびれを切らしたように湊のうしろから絵をのぞきこんだ。玲奈も近くにやってきてするどい目でその絵を分析し始める。

「星の絵……。たしかに上手だけど……これが密室の謎となんの関係があるっていうの?」

 玲奈がうでを組んで言う。


「わかんねえ……。でもこの子リリーはこれをぼくたちに見せるためにわざわざ出てきてくれたんだ。きっとすごく大事なヒントなんだよ」

 湊はリリーの手からそっとスケッチブックを受け取った。リリーはおとなしく湊にそれをわたした。


 これでこの部屋で見つかったナゾのヒントは三つになった。

 玲奈がじゅうたんの上で見つけた小さな「歯車」。

 玲奈が気づいたかすかな「薬品のにおい」。

 太陽がどんなに力をこめてもびくともしなかった巨大な「本棚」。

 そしてリリーがしめしたなぞの「星の絵」。


 ばらばらのヒントがまるでまだ完成していないジグソーパズルのピースのようにそこにあった。

 どれとどれを組み合わせれば本当の絵が見えてくるのかまだまったく分からない。

 時間だけがむじょうにもすぎていく。

 窓の外の雨音はさっきよりもさらに強くなっているようだった。


「くそー、わけわかんねえ!」

 太陽がいらいらしたように自分の頭をがしがしとかいた。

「歯車ににおいに本棚に星! ヒントが多すぎて逆に頭が混乱してきたぜ!」


「落ち着きなさい太陽。こういう時こそ冷静な分析が必要なのよ」

 玲奈はそう言うが彼女の眉間にもふかいしわがよっている。

「でもたしかにそれぞれのヒントのつながりがまったく見えてこないわ……。このままじゃ……」

 玲奈の言葉がそこで途切れた。

「このままじゃ時間切れになる」と彼女が言いたいことはだれにでも分かった。


 時間切れ。

 その言葉が湊の心にずしりと重くのしかかる。

 もしこのナゾが解けなければぼくたちは……。

 いやな想像が頭をよぎる。


 その時だった。

 湊はスケッチブックの星の絵から目をはなさずに無意識に部屋の中をぐるりと見回した。

 本、本、本。たくさんの本。

 作りかけの人形たち。

 ガラスの目玉。

 設計図。

 そして……。


 湊の視線がある一点でぴたりと止まった。

 それはこれまでだれも気にしていなかった場所。

 この部屋のずっとずっと上。


「……あ」


 湊の口からもれた声は自分でもおどろくほど小さかった。

 だがその声は絶望的な空気がただよっていた書斎の静けさをたしかにやぶった。

 太陽と玲奈がはっとしたように湊の顔を見る。


 湊はなにも言わなかった。

 ただその指でゆっくりとその場所を指さした。

 部屋の天井を。


 「……あ」


 湊の口からもれた声は自分でもおどろくほど小さかった。

 だがその声は絶望的な空気がただよっていた書斎の静けさをたしかにやぶった。

 太陽と玲奈がはっとしたように湊の顔を見る。湊はなにも言わなかった。ただその指でゆっくりとその場所を指さした。

 部屋の天井を。


「天井……?」

 太陽が怪訝そうな顔でつぶやいた。

「天井がなんだってんだよ。ただのきたねえ天井じゃねえか」


 太陽の言うとおり書斎の天井はシャンデリアの光もあまり届かず薄暗い影におおわれている。これまで三人はだれひとりとして天井のことなどまったく気にしていなかった。事件のヒントは床や机の上やかべにあるものだと思いこんでいたからだ。


「いいえ……」

 玲奈がするどい声で言った。彼女はめがねの位置をなおし目を細めて湊が指さす天井の暗がりをじっと見つめている。

「ただの天井じゃないわ……。見て太陽。あれは……絵よ」


 玲奈に言われて太陽もそして湊自身もあらためてその天井の正体を見た。

 それはただの天井ではなかった。

 ドームのような形になった天井ぜんたいにうつくしい夜空がえがかれていたのだ。


 こい青色の夜空。天の川がうっすらとした白い帯となって天井を横切っている。そして数えきれないほどの星々がまるで本物のダイヤモンドのようにきらきらとまたたいていた。いや、またたいているように見えた。ふるい絵の具にガラスの粉か何かがまぜてあるのだろうか。ろうそくの光を反射して星々がまるで本当に生きているかのように光って見えるのだ。


「うわ……!」

 太陽がおもわず声を上げた。

「なんだこれ……! プラネタリウムみてえだ……!」


「どうして今まで気づかなかったのかしら……」

 玲奈がくやしそうに言う。

「部屋に入ったときからずっと私たちの頭の上にあったというのに。完全に灯台下暗しだったわ」


 そうだ、と湊は思った。

 この部屋に入ってからずっと床に落ちたもの、机の上のもの、本棚に並んだ本、そういった目に見える分かりやすいものばかりに気をとられていた。まさかこんなに大きなヒントが頭の上にひろがっていたなんて。


「ミナトどうして天井のことに気づいたんだ?」

 太陽が興奮したようにたずねてきた。


 湊は自分がさっきまで考えていたことを一つ一つたしかめるようにゆっくりと話し始めた。

「リリーがあの星の絵を見せてくれたときぼくはずっと考えてたんだ。どうして星なんだろうって」

 湊は手に持ったリリーのスケッチブックを開いてみせる。

「それでさっき会ったほかの人形たちの言葉を思い出したんだ。メイドのエリアーヌは言ってた。『だんな様はよく書斎のまどから空をながめていた』って。でも兄のヴィクトルはこう言ったんだ。『マスターが見ていたのは夜空の星じゃない』って」


「ああたしかに言ってることがちがってたな」

「うん。はじめはどっちかがウソをついてるのかと思った。でももしどっちも本当のことを言ってるとしたら……?」

 湊はそこで一度言葉を切り天井の星図を見上げてつづけた。

「アークライトさんがながめていた『空』が窓の外の本物の空じゃなくてこの天井にえがかれた『作られた空』だったとしたら? それなら二人の言葉はどっちもおかしくないんだ」

 ヴィクトルは『夜空の星じゃない』つまり『本物の夜空の星ではない』と言いたかったんだ。エリアーヌは主人が『空』をながめていたのは見たけれどそれが窓の外だったか天井だったかまでは知らなかったのかもしれない。


「なるほど……!」

 玲奈がぽんと手を打った。

「点と点が線でつながったわね。リリーの絵はこの天井の星図のことを示していたんだわ」


「じゃあこの天井の絵が隠し扉を開けるスイッチかなんかになってるのか!」

 太陽が天井に向かってジャンプしてみたり背伸びしてみたりするがもちろん手が届くはずもなかった。


「待ってまだ問題があるわ」

 玲奈が冷静に言った。

「天井にはたくさんの星座がえがかれている。リリーが描いた星の絵はこの中のどの星座のことを指しているのかしら。これだけたくさんあったらしらみつぶしに調べるわけにもいかないわ」


 玲奈の言うとおり天井には何十もの星座がえがかれている。おおいぬ座、こぐま座、はくちょう座……。図書室の図鑑で見たことがある有名な星座ばかりだ。

 この中からたった一つの答えをどうやって見つけろと……?


 いや、と湊は思った。

 リリーはぼくたちにちゃんと答えが分かるようにあの絵を描いてくれたはずだ。

 湊はもう一度リリーが描いた「星」の絵を見た。

 それはたった一つ。でもとてもはっきりと力強くえがかかれていた。

(リリーはこのたくさんの星座の中からたった一つの答えを教えてくれようとしてるんだ……)


 湊はもう一度天井の絵をすみからすみまでじっくりと見回した。

 そしてあることに気づいてはっと息をのんだ。

 たくさんの星座の中で一つだけひときわ大きくそして明るい絵の具でえがかれている星座があったのだ。それは冬の夜空で王様のようにかがやくあの星座。

「……オリオン座だ」

 湊が指さした先、天井のまん中あたりにだれが見ても分かるほどはっきりと勇ましい狩人オリオンのすがたがえがかれていた。


「たしかに……! あの星座だけまわりの星より光が強くないか?」

「ええ。おそらくあの星々にだけ光を反射する特別な塗料が使われているのね」

 玲奈も湊の発見にうなずいた。


「わかったぞ! リリーが描いた星はあのオリオン座のことだったんだ!」

 太陽が答えにたどり着いてうれしそうにさけんだ。


「うん。そしてたぶん……」

 湊は太陽がびくともさせられなかったあの巨大な本棚を指さした。

「あの本棚とこの天井のオリオン座がこの密室のなぞを解く本当のかぎなんだ!」


 湊の言葉に太陽と玲奈の視線がいっせいに本棚へと集まった。

 かくされていたヒントはすべてそろった。

 いよいよこのやかたで最初のそして最大のナゾトキが始まろうとしていた。


 「本棚とオリオン座……」

 玲奈があごに手をあててつぶやいた。

「たしかにそれが一番可能性の高い組み合わせね。でも問題はどうやってその二つを結びつけるかよ」

 三人はあらためて書斎の壁一面をうめつくす巨大な本棚の前に立った。

 床から高い天井までぎっしりとつまっている何千冊もの本、本、本。

 その圧倒的な本の量を前にすると自分たちがまるで小さなアリにでもなったかのような気分になる。


「オリオン座の形に本を引っぱり出すとか?」

 太陽がさっきと同じようにてきとうに何冊か本を引っぱってみるがなにもおこらない。本がぬけた場所には黒い木の板が見えるだけでスイッチのようなものはどこにも見あたらなかった。


「そんな単純なしかけじゃないはずよ。もっと、なにか……」

 玲奈が本棚をすみからすみまでそれこそ虫めがねでも使うかのようなするどい目で観察し始める。

 湊もなにかヒントはないかと本棚に近づいた。

 革でできた背表紙のざらざらした感触。古い紙のかすかにあまいにおい。

 湊は一本一本背表紙を指でなぞっていった。アルファベットが金色で書かれているがむずかしい外国語なので題名の意味は分からない。

(なにかあるはずだ。星座と本とをつなぐものが……。リリーはあの絵をぼくに……)


 その時だった。

 湊の指先になにかがかすかにひっかかった。

「ん?」

 それはあるぶあつい本の背表紙の下の方だった。

 よく見ると革の模様にまぎれるようにして小さな小さな「星のマーク」がほられている。金色で大きさは米つぶほどしかない。あまりにも小さいのでただの飾りかあるいは革の傷にしか見えない。

「……これだ!」


 湊の声に玲奈と太陽がはっとしたようにとんできた。

「どうしたミナト!?」

「見て! この本の背表紙!」

 湊が指さした先を見て二人も目を見開いた。


「ほんとだ! 星のマークがあるぞ!」

 太陽が自分の大きな指でその小さな星のマークをそっとなぞる。

「ちっちぇーなー! こんなの普通に見てたらぜったいに気づかねえって!」


「小さい……だからこそヒントなのよ」

 玲奈の目がきらりと光った。

「これはアークライトさんがしかけた観察力をためすテストなのね。きっとほかにもあるはずよ! さがしましょう!」


 玲奈の言葉を合図に三人はむちゅうになって何千冊とある本の中から同じように小さな星のマークがついた本をさがし始めた。

 それはまるで広大な砂浜の中からたった一つの貝がらをさがしだすような気が遠くなる作業だった。

「あったぞ! こっちにも!」

 太陽が大きな本棚の一番上の棚を指さしてさけんだ。背の高い彼だからこそ見つけられた場所だった。

「こっちにもあるわ! 題名が『人形の作り方』という本よ! なんて分かりやすいのかしら!」

 玲奈はしゃがみこんで床に近い棚から一冊を見つけ出した。

「見つけた! これは真ん中へんだ!」

 湊も次々と見つけていく。


 星のマークがついた本はぜんぶで七冊見つかった。

 それは天井の絵でひときわ強くかがやいていたオリオン座を形づくる一等星の数とまったく同じだった。

 オリオンの肩にかがやく二つの星、腰でベルトのようにならぶ三つの星、そして足元でかがやく二つの星。ぜんぶで七つ。


「七つの星……オリオン座……」

 玲奈がはっとしたように天井を見上げた。

「わかったわ! あの七冊の本をただ見つけるだけじゃだめなのよ。天井のオリオン座の星のならびとまったく同じ位置に本棚の上でならべかえるのよ!」


「なるほど!」

 湊も玲奈の考えにうなずいた。

「ただの本棚じゃないんだ。この本棚そのものが一つの大きなパズル盤なんだ!」

 これならつじつまが合う。

 太陽がどんなに押しても引いても本棚がびくともしなかった理由もこれではっきりした。この本棚はただの家具ではない。このやかたにしかけられた巨大な機械の一部なのだ。


「よしきた! ならべかえだな! オレにまかせろ!」

 太陽がうでまくりをして言った。こういう力と体を動かす作業は彼の得意分野だ。

 玲奈は天才的な記憶力でそばにあった紙とペンを取ると天井のオリオン座の形をすばやくそして正確にスケッチし始めた。星と星の間のきょりや角度までまるで写し取ったかのようにかんぺきだった。

「オリオン座の形はこうよ。一番上の星がここでベルトの三つ星がこう……。太陽この順番どおりに本を動かせる?」

「おうよ! まかせとけ!」


 作戦は決まった。

 玲奈が星図を見てならべる本の順番とその場所を指示する。

 太陽がその指示にしたがって重い本をえっさほいさと動かす。

 そして湊は全体を見てまちがいがないかを確認する司令塔の役だ。

 三人のチームワークが今まさに試されようとしていた。


「まず右上の星! ベテルギウスにあたる場所ね! そこには『世界の神話』という題名の本を!」

「あいよ!」

 太陽が本棚の別の場所にあったそのぶあつい本を引っぱりだす。そして玲奈が指示した本棚の右上の棚にそれをもう一度強く奥まで押しこんだ。

「つぎは左上の星ベラトリックス! そこは『人間解体新書』よ! ……なんてぶっそうな名前の本を読むのかしらあの方は」

「文句はあとだレイナ! はやく!」


 カチリ。

 本を押しこむとどこか奥の方でかすかに小さな音がした。まるで古い時計の歯車がかみあうようなそんな音だった。

「……今の音聞いたか?」

「ええ。しかけがまちがいなく動いてるわ。つづけて太陽!」


 三人の集中力は最高潮に達していた。

 玲奈が次々と言うむずかしい星の名前と本の題名を太陽が驚くほどの速さで正確にこなしていく。

 オリオンのベルトにあたる三つの星の本を順番に押しこんでいく。

 カチリ、カチリと歯車がかみあう音がだんだんと大きくなっていく。


 そしてさいごに残った左下の一番大きな星リゲルにあたる場所。

 そこには『からくり人形の歴史』というこの書斎で一番ぶあつくて重い本をはめることになっていた。

 太陽が両手でその巨大な本をかかえる。

「ふんぬうう……! これがさいごの一冊だ!」

 太陽が汗をぬぐいながらその本を本棚の決められた場所へぐぐぐと全身の力を使って押しこんでいく。


 トンと本が奥まで入ったその時だった。


 ゴ……ゴゴゴゴゴ……。


 とつぜん部屋ぜんたいがびりびりとふるえ始めた。

 本棚の奥から何か重いものが地面をこするような低い低い音が聞こえてくる。まるでねむっていた巨人が目を覚ましたかのようだ。


「うわっ!」

「きゃあ!」

 とつぜんの地響きのようなふるえに三人はおどろいてうしろへとびのいた。

 本棚の本が何冊かガタガタという音をたてて床に落ちる。天井からはぱらぱらと古いほこりが舞い落ちてきて湊の髪を白くそめた。


 ゴ……ゴゴゴゴゴ……。


 低い低い音はどんどん大きくなっていく。

 それはただの音ではなかった。体のしんまでひびいてくるような重い重い音だ。

 そして三人は目の前でありえないことがおこっているのをただ息をのんで見つめることしかできなかった。

 あれだけ太陽が押しても引いてもたたいてもびくともしなかったあの巨大な本棚ぜんたいがまるで意思を持った生き物のようにゆっくりと横にスライドし始めたのだ。


「……う、動いてる」

 太陽がしんじられないという顔でつぶやいた。

「本棚が……動いてるぞ……!」


 本棚はまるで電車のドアが開くみたいにミリミリと古い木をきしませながら横に横にと動いていく。

 そしてそのうしろにかくされていた黒い黒い空間を少しずつあらわにしていった。

 それはまるで巨大なクジラがゆっくりと口を開けていく光景のようだった。

 その奥にはなにもない光のまったくとどかない本当の闇が広がっていた。


 やがて本棚が完全に横にスライドしきると地響きのような音はぴたりと止まった。

 あとには不気味なほどの静けさと壁にぽっかりと口を開けた四角い黒い穴だけがのこされた。

 その穴からはひんやりとしたしめった空気がまるで深いため息のように流れだしてくる。

 それはこれまでこの書斎でかいでいた古い紙やインクのにおいとはまったくちがうにおいだった。

 何百年ものあいだずっと日の光をあびることのなかった土とカビとそしてかすかな機械の油がまじりあったようなそんなにおいだ。


「……開いた」

 湊がゴクリとつばをのんで言った。

「本棚にかくされた……隠し通路だ」


  密室のナゾはついに解かれたが、それはこのミステリーの終わりではなく本当の始まりを告げる合図にすぎなかった。


「すっげえ……」太陽があっけにとられたようにその黒い穴を見つめている。「ほんとにあったんだな隠し通路……」

 彼の顔にはさっきまでの必死な表情はもうなかった。そのかわりに新しい冒険の舞台を見つけた子供のようなわくわくとした好奇心の光がかがやいていた。

「上等じゃんか。よし、オレが先に見てきてやる!」

 太陽はもうこわいものなど何もないとでも言うように暗い階段の入口へと一歩足を踏み出した。


「待って太陽!」

 その腕を玲奈が強くするどくつかんだ。

「軽はずみな行動はつつしみなさい。何があるか分からないのよ」

 玲奈の顔はまっさおだった。彼女はその黒い穴の奥に何かとてつもなくおそろしいものがひそんでいるのを感じとっているのかもしれない。

「この下はアークライトさんの脚本には書かれていなかった場所かもしれない。もしかしたらあの『Q』がしかけた本当のワナが私たちを待ちぶせしている可能性だってあるわ」


 玲奈の言うとおりだった。

 これまではあくまでも「ナゾトキ」だったがここから先は本当に危険な場所かもしれないのだ。

 太陽も玲奈の真剣な表情を見てごくりとつばを飲みこんだ。


 湊は二人を見た。そして暗い穴の奥をじっと見つめた。

 たしかにこわい。この一歩先はもうあとにもどれない場所かもしれない。

 だが行くしかないのだ。

 時間せいげんは夜明けまで。もう残された時間はそれほど多くはないはずだ。

 そしてなによりこの通路の先にすがたを消したミスター・アークライトがいる。そのことを湊はなぜか強く確信していた。


「……玲奈の言うとおりだ。しんちょうに行こう」

 湊は静かに言った。

「でもぼくたちは進まなきゃならない。これがこのナゾを解くためのたった一つの道なんだから」

 湊は自分の探偵服のポケットを探りさっき鍵を開けるのに使った金属の棒とはべつに手のひらに収まるほどの小さな機械が入っているのを見つけた。

 それはふるいデザインのオイルランタンだった。これもこのゲームがよういしてくれたアイテムなのだ。

 湊がそのランタンのスイッチを入れるとぽっとあたたかいオレンジ色の光がともった。


「よしこれがあれば少しはましだろ」

 湊はランタンを高くかかげ暗い穴の中を照らした。

 光の先にうかびあがったのは下へ下へとどこまでもつづいているように見える石の螺旋階段だった。壁には緑色のコケがびっしりと生えている。


「……よし、決まりだな」

 太陽がにやりと笑った。

「オレが先頭だ。何かあってもオレがぜったいに二人を守ってやるからな」

 その目はもう少しもおびえてはいなかった。


 こうして三人は天才人形師がのこした本当のひみつへとその一歩を踏み出したのだった。


 太陽が先頭に立ち湊がランタンを手にそのうしろ、そして玲奈がしんがりを務める形で三人は暗い石の螺旋階段へとその一歩を踏み出した。

 湊がかかげたランタンのオレンジ色の光が三人の行く先数段だけをぼんやりと照らし出している。その光はまるでこの広大で不気味なやかたの中にともされたちっぽけなたった一つの希望のようだった。


 一歩また一歩と下へ下へとおりていく。

 階段はどこまでもつづいているように思えた。右に右にと同じ角度でカーブしながらまるでやかたの、もっと言えばこの世界のずっと奥深くへと三人をいざなっているかのようだった。


 ひんやりとした空気がまとわりついてくる。

 壁は長いあいだじめった空気にさらされていたのだろう。手でふれるとぬるりとしていて指先が緑色のコケでよごれた。

 どこからかぽたんぽたんと水がしたたる音が聞こえてくる。その音が静まりかえった空間に不気味にひびきわたった。


 コツ、コツ、コツ……。

 三人の足音だけが自分たちの存在を証明するように暗闇の中にひびいている。

 太陽は先頭でなにも言わなかった。いつもはおしゃべりな彼が今はまるで口にチャックでもされたかのようにだまりこんでいる。その背中はいつもよりもすこしだけ小さく見えた。きっと彼もこわいのだ。それをうしろの二人にかくすために必死にむねを張っているのだろう。


 湊はランタンを高くかかげながらしんちょうに足を進めた。

 光が壁に三人の大きな影をうつしだす。その影はまるでゆらゆらとおどる巨大な怪物のように見えた。風が下から吹き上げてきてランタンの炎が一瞬大きくゆらめく。湊はあわててその炎を手でおおった。もしこの光が消えてしまったら……。そう思うと心臓がひやりとつめたくなった。


 玲奈はしんがりでときどきうしろをふりかえっていた。

 だれもついてきてはいない。分かっている。だけどそうせずにはいられなかった。この暗闇の中からとつぜんなにかがおそいかかってくるようなそんな言いようのない不安がずっと背中にへばりついていた。


 いったいどれくらいの時間階段をおりつづいただろうか。

 百だんいや二百だんはおいただろうか。もう自分がどれくらい深く地下にもぐったのかまったく見当もつかない。

 もうここからもどることはできないかもしれない。

 そんなよわきな考えが湊の頭をよぎったその時だった。


「……ミナト、玲奈」

 先頭を歩いていた太陽が足を止めひそめた声で言った。

「……見てみろよ。行き止まりだ」


 湊がランタンの光を太陽のさらに先へと向けた。

 太陽の言うとおり長くつづいた螺旋階段はそこでぷつりと終わっていた。

 そこは石でできたせまい踊り場のような場所だった。そして目の前にはこれまで見てきたどのドアともちがう鉄のわくでほきょうされた頑丈そうな木のドアが一つ三人の行く手をふさいでいた。

 ドアにはドアノブもかぎ穴もどこにもついていない。


「どうすんだこれ? 開かねえぞ」

 太陽がドアをぐいぐいと押してみるがやはりびくともしない。


「待って」

 玲奈がドアの表面をていねいに指でなぞった。

「よく見て。ここに、かすかに手のひらの形のくぼみがあるわ」

 玲奈が指さした先、ドアのまん中あたりにたしかに人間の手のひらの形をした浅いくぼみがあった。


「ここに手を置けばいいのか……?」

 太陽が自分の手のひらをそのくぼみに合わせようとする。

「たぶんそうだと思う。よし太陽、やってみてくれ」

 湊がうながすと太陽はこくりとうなずいて自分の右手をそのくぼみにそっと置いた。


 そのしゅんかんだった。


 ゴゴゴゴ……!


 まただ。書斎の本棚を動かした時とまったく同じ低い低い地響きのような音がドアの向こうから聞こえてきた。

 そして目の前の巨大な木のドアがゆっくりと内側へと沈みこむようにして開いていったのだ。

 ドアのすきまからこれまでとは比べものにならないほど強い光がもれてくる。そして機械の油とかすかな金属のにおいが三人の鼻をついた。


 三人はごくりとつばを飲みこんで開かれたドアの向こうをのぞきこんだ。

 そして息をのんだ。


 そこはこれまでのやかたのごうかな部屋とはまったくちがう場所だった。

 ひろいだだっ広い地下の工房。

 天井からはたくさんの裸電球がぶらさがっており作業台の上を手術室のように白くまぶしく照らし出している。

 壁ぎわの棚には人形の部品――手や足、ガラスの目玉、さまざまな色の髪のかつらなどがぎっしりとすきまなくならべられていた。

 そして三人はそれを見つけた。


 工房のいちばん奥。

 ほかのどの場所よりもひときわ明るいスポットライトに照らされてそこに豪華な作りのイスが一つおかれていた。

 そしてそのイスに一人の老人が深く腰をかけていた。

 銀色の髪をきっちりと分け上品なフロックコートを着ている。

 そのすがたはまるでねむっているかのようだった。


「……いた」

 湊がかすれた声でつぶやいた。

「ミスター・アークライトだ」


 ゴゴゴ……という重い音を立ててうしろの鉄の扉が完全に閉じた。

 ふたたび三人は外の世界から切りはなされた。だが今度はこれまでのような暗くて冷たい空間ではない。

 目の前に広がるのはまぶしいほどの光と機械油のにおいに満ちた巨大な地下工房だった。


 天井からは何十本もの裸電球がぶらさがり部屋のすみずみまでを手術室のように白く照らし出している。

 壁ぎわの棚には人形の部品――手や足、ガラスの目玉、さまざまな色の髪のかつらなどがまるで標本のようにぎっしりとすきまなくならべられていた。その数は百や二百ではきかないだろう。棚には小さなプレートで『フランス製・ビスクヘッド・1880年代』『ドイツ製・コンポジションボディ・1910年代』などとこまかく分類されているのが見えた。

 部屋の中央にはいくつかの大きな作業台が置かれその上には作りかけのオートマтаや見たこともないようなふくざつな道具がちらばっている。歯車、ぜんまい、レンズ、設計図。ここはまさに天才人形師ミスター・アークライトのひみつの心臓部だった。


「すごい……。ここで、あの人形たちが作られたんだ……」

 湊はあたりを見回しながらおもわず声を漏らした。

 この部屋にあるものすべてがアークライトという人物の人形作りにかけるものすごい情熱と何十年いや何百年という長い歴史を物語っているようだった。


 そして三人はそれを見つけた。


 工房のいちばん奥。

 ほかのどの場所よりもひときわ明るいスポットライトに照らされてそこに豪華な作りのイスが一つおかれていた。

 ビロードのようなこい赤色の布がはられたまるで王様のイス。その背もたれは天井に届きそうなほど高く美しい木彫りの飾りがほどこされている。

 そしてそのイスに一人の老人が深く腰をかけていた。


 銀色の髪をきっちりと七三に分けている。上品な黒いフロックコートを着て胸元にはくたびれた蝶ネクタイ。その顔にはふかいしわが何本も刻まれ閉じたまぶたはまるで気持ちよさそうに眠っているかのように安らかに見えた。

 その姿には不思議なほどの威厳があった。たとえ眠っているように見えてもこの人物がこの工房のそしてこのやかたの絶対的な主人であることがひとめで分かった。


「……いた」

 太陽がもう一度小さな声で言った。

「ミスター・アークライトだ。まちがいない」


 三人はおそるおそるそのイスに近づいていった。

 まぶしいスポットライトの光の中にゆっくりと足を踏み入れる。

 老人はまったく動かない。

 三人がすぐ目の前に立ってもその安らかな表情は少しも変わらなかった。

 声をかけても反応はない。


 湊はごくりとつばを飲みこんだ。

 そして勇気を出してその老人のイスのひじかけに置かれた手にそっとふれてみた。

 ひやりとする。

 生きている人間のあたたかさがまったくなかった。

 それはなめらかな陶器にでもふれたかのようなつめたくて硬い感触だった。


「……まさか、死んで……」

 玲奈の声がふるえた。

 その時だった。湊は老人の胸元フロックコートのボタンがいくつかはずれて中の白いシャツが見えていることに気づいた。

 そしてそのシャツの奥に信じられないものが見えた。


「うそだろ……」


 老人の胸には人間ならあるはずの呼吸にあわせて上下するやわらかいふくらみがなかった。

 そのかわりまるで博物館にあるからくり時計の中身みたいに何百という小さな歯車やぜんまいが複雑にそしてうつくしくからみあっているのが見えたのだ。

 金や銀に輝くうつくしい機械の心臓。

 だがその動きは完全に止まっていた。

 時を刻むことをやめた古い時計のようにしんと静まりかえっていた。


「この人……人間じゃない……?」

 太陽がっけにとられたようににつぶやいた。


 そう。

 イスにすわっていたやかたの主人ミスター・アークライトは人間ではなかった。

 かれ自身が自分自身の手で作り出した最高傑作のオートマタ――自動人形だったのだ。


 がらんとした工房に三人ののおどろきの声だけがひびいた。

 いったいどういうことなのか。

 だれがアークライトの動きを止めたのか。

 ナゾは解けるどころかよけいに深まってしまった。


 あまりの衝撃に三人はただイスに座るその美しい老人形を見つめることしかできなかった。


 その時うしろで静かに鉄の扉が開く音がした。

 三人がはっとふりかえるとそこにはいつのまにか四体の人形たちがそろって立っていた。

 執事のセバスチャン。メイドのエリアーヌ。兄のヴィクトル。

 そしてそのうしろからリリーが心配そうな顔でこちらを見ている。

 彼らは一体いつからそこにいたのだろうか。


 先頭に立つセバスチャンがゆっくりと一歩前に出た。

 その顔にはもういつもの無表情な仮面はなかった。どこかかなしそうなさびしそうなそれでいてほっとしたようなふくざつな表情をうかべている。


「……よくぞここまでたどり着かれましたな、お客様がた」

 セバスチャンの声はいつものかすれたレコードのような声ではなかった。もっとはっきりとした人間の声に近いふかい響きを持っていた。


「あなたがたの勝ちです。このミステリーゲームはあなたがたの勝利です」


「どういうことだよ一体!」

 太陽がこんらんしたようにさけんだ。

「アークライトさんはどうして……! それにミステリーゲームってどういうことなんだ!?」


 セバスチャンはゆっくりとすべてを語り始めた。

 それはだれも知らなかったこのやかたの主人と人形たちだけのかなしくてそしてあたたかい物語だった。


「主……ミスター・アークライトはご自分の最期が近いことを知っておられました」

「最期?」

「はい。主の心臓部であるこの時計じかけの『コア』はもう百年以上も動きつづけてまいりました。どんなにすぐれた機械でもいつかは寿命がまいります。主の命のぜんまいがもうすぐとまりかけていたのです」


 セバスチャンの言葉に三人は息をのんだ。


 エリアーヌが美しい青い瞳に涙をいっぱいうかべて言葉をつづけた。

「だんな様はわたしたちのことを心から本当に心から心配しておられました。『わたしがいなくなったらこの子たちはだれにも修理をしてもらえない。やかたといっしょにただほこりをかぶってくちていくだけだ』と……。毎晩毎晩わたしたちの顔を見ながらそう言ってかなしそうな顔をされていました」


「だからマスターは最後の力をふりしぼってこの『ゲーム』をよういした」

 兄人形のヴィクトルがうつむきながら言った。その声にいつものようなとげとげしい響きはなかった。

「自分がいなくなったあとでもわたしたち人形が自分たちの力でたがいに協力して生きていけるかどうかを試すために。そしてわたしたちの未来を安心してまかせられるすぐれた人間を見つけ出すために。そのための卒業試験のようなものだったのさ」


 そう。

 すべてはアークライトが愛する自分の〝子供〟たちのためにしかけた最後のミステリーだったのだ。

 密室も人形たちのあやしい態度もすべてはアークライトがのこした「脚本(シナリオ)」に書かれていたおしばいだったのだ。

 ヴィクトルが嫉妬にくるいエリアーヌがおびえそしてセバスチャンがなにも知らないふりをする。それもすべてアークライトが書いた物語の登場人物を彼らが必死に演じていただけだった。


「……じゃああのナゾトキもぜんぶ……」

「はい。主はご自分の書斎にたくさんのナゾをしかけられました。『これくらいむずかしいナゾが解けるほどの知恵と勇気とそしてやさしさをもった人間でなければわたしの可愛い子供たちの未来をたくすことはできない』とおっしゃっていました」

 セバスチャンが深々と頭をさげた。

「そしてあなたがたはその試験にみごとに合格されたのです。わたしたちの新しい主として……」


「……そんな……」

 玲奈の目からぽろりと涙が一粒こぼれおちた。

 事件の真相。

 それはだれかをうらんだり憎んだりするようなつめたいものではなかった。

 犯人などどこにもいなかったのだ。

 そこにあったのは自分の死を前にしてのこされる子供たちの未来をあんじる父親のふかくてせつない愛情だけだった。

 三人は言葉をうしなった。

 この結末はあまりにもかなしくてそしてあまりにもあたたかいものだったからだ。


 物語の終わりはあまりにもかなしくてそしてあたたかいものだった。

 太陽はくやしそうにだがどこかほっとしたようにぐしぐしと自分の目元をぬぐっている。玲奈もめがねを外し涙でぬれたレンズをそっとハンカチでふいていた。

 湊も胸の奥がきゅっとしめつけられるように熱くなっていた。


 だがまだすべてが終わったわけではなかった。

 一つだけどうしても分からない最後のナゾがのこっていた。


「待って」

 湊が顔を上げた。その声は感動でふるえながらも探偵としてのするどい響きを持っていた。

「話は分かった。でもそれならどうしてアークライトさんの胸の心臓部……コアはこわれているんだ? いちばん大事そうな歯車が一つだけ抜き取られている。あれはどういうこと?」


 湊の指さした先、イスに座るアークライトの胸の中心にはたしかに一つの歯車がはまるはずの丸いすきまがあいていた。そこだけがぽっかりと口を開けている。

 その問いにセバスチャンはかなしそうにしずかに首をふった。


「そのことだけは主の脚本には書かれておりませんでした」

「どういうこと?」

「主は最後にこう書きのこしておられました。『最後の歯車のありかはわたしの可愛い子供たちへのわたしからの最後の宿題だ。それを見つけ出しわたしをふたたび目覚めさせることができたならその時こそきみたちは本当の意味でひとりだちできたことになるだろう』と」


 最後の宿題。最後のナゾ。

 アークライトは人形たちに自分を復活させるための最後の希望をのこしていたのだ。

 だが、とセバスチャンは力をなくしたように言葉をつづけた。

「主が機能をお止めになってからわたくしたちはずっとその歯車をさがしつづけてまいりました。この工房もやかたのすみずみまで……。ですがどこにも見つけることはできませんでした。主はわたしたちにあまりにもむずかしすぎる宿題をのこされていかれたのです」

 その声は絶望の色をふかくふかく含んでいた。


 工房はふたたび静まりかえった。

 このままではアークライトは二度と目を覚ますことはない。

 三人も人形たちもただ動かなくなったアークライトを見つめることしかできなかった。

 せっかくここまでたどり着いたのに。

 せっかく本当の気持ちを知ることができたのに。

 このまま悲しいお別れで終わってしまうしかないのだろうか。


 その時だった。

 ずっとだまっていたリリーがそっと湊のそばにやってきた。

 そしてなにも言わずに自分の小さな手を湊の大きな手にかさねた。

 ひんやりとした人形の手の感触。

 湊はリリーの顔を見た。リリーはただこくんと小さくうなずいてみせた。その大きな黒い瞳はなにかを強く強くうったえかけているようだった。


 そして湊の視線は自然とリリーの胸元へとみちびかれた。

 彼女が着ている黒いゴシックドレスの胸元には銀色にかがやくうつくしいブローチがつけられていた。

 それはたくさんの小さな歯車を組み合わせて作られたまるで雪の結晶のように精巧でうつくしいブローチだった。

 アークライトがさいごに作り出した〝最高傑作〟であるリリーのために特別に作ったブローチだとだれもが思っていた。セバスチャンたちもずっとそう信じていた。


 だが湊は気づいてしまった。

 気づかなければいけなかった。

 自分は探偵なのだから。


 ブローチの形が――その大きさと厚みとふちのかざりの形がアークライトの胸で一つだけなくなっている歯車とまったく寸分の狂いもなく同じ形をしていることに。


「……まさか」

 湊の口からもれた声はほとんど音にならなかった。

 頭の中でばらばらだったピースが一つにつながっていく。

 アークライトは歯車を「かくした」のではなかった。

 かれは歯車を「たくした」のだ。

 自分の新しい心臓をもっとも愛する最後の娘に。


 リリーこそが新しい心臓部の〝鍵〟だったのだ。

 そしてそれはただの鍵ではない。もしリリーが自分のブローチをわたすことをいやだと言えば? もしリリーが父親の最期を受け入れて自分のうつくしさをえらんだとしたら?

 そうだこれはリリーにだけにあたえられた最後の「選択」だったのだ。


 湊はゆっくりとリリーの前にひざまずいた。

 そしてできるだけやさしい声で言った。

「リリーちゃん。きみが、お父さんを……ううん、アークライトさんを助けたいって本当にそう思ってるんだね?」


 リリーはこくこくと何度も強くうなずいた。

 その目にまじめてはっきりとした感情がうかんでいた。

 それは涙だった。

 ガラス玉の目から涙がぽろりぽろりとこぼれおちていく。


「……わかった」

 湊はその涙を見てすべてを理解した。

 彼は工房にいる全員に聞こえるようにはっきりと言った。

「みんな聞いてくれ。最後の歯車はあったんだ。ずっとぼくたちの目の前にあったんだよ」


 湊はゆっくりと立ち上がりリリーの胸元についているうつくしいブローチを指さした。

「これだ。このブローチがアークライトさんの新しい心臓なんだ」


「なんと……!」

 セバスチャンがおどろきの声を上げた。ヴィクトルもエリアーヌも信じられないという顔でリリーの胸元を見つめている。


 リリーは湊の言葉を聞くと、もうためらわなかった。

 自分の小さな指でなれた手つきでブローチの留め金をはずしていく。

 そしてその銀色の歯車をまるで宝物のようにそっと両手でつつみこんだ。

 彼女は湊にその歯車をさしだした。

「……ありがとう、リリーちゃん」

 湊はその小さな歯車を受け取った。ずしりと見た目よりもずっと重い。これがアークライトの命の重さなのだ。


 湊はイスに座るアークライトの前にふたたび立った。

 そしてリリーといっしょにその銀色の歯車をアークライトの胸の中心にあるぽっかりと空いたすきまへとゆっくりと近づけていった。


 湊はイスに座るアークライトの前にふたたび立った。

 その手の中にはリリーから託された銀色に輝く雪の結晶のようにうつくしい歯車がずしりとした重みを持ってのせられている。

 湊はリリーのほうをふりかえった。リリーはこくんと強くうなずきかえす。その大きな黒い瞳にはもう涙はなかった。そのかわりに父親の復活を信じる強い強い光がやどっていた。


 湊はうなずきかえすとアークライトの胸の中心にあるぽっかりと空いたすきまへとゆっくりとしんちょうにその歯車を近づけていった。

 工房の中はしんと静まりかえっていた。

 だれもが息をのんで湊の手元を見守っている。

 セバスチャンもヴィクトルもエリアーヌもまるで祈るかのようにその場に立ちつくしていた。


 湊の指先がかすかにふるえる。

 歯車をすきまの形にそっと合わせた。

 まるで、もともとそこにあったかのように歯車はすうっと寸分の狂いもなくその穴にはまっていった。


 カチリ。


 ごくごくかすかに。

 だが静まりかえった工房の中ではだれの耳にもはっきりと聞こえるほど澄んだ音がした。

 まるで最後のピースがはまったジグソーパズルのように。


 だがなにもおこらない。

 アークライトのすがたは眠っているかのように静かなままだった。


「……だめなのか……?」

 太陽の声がふるえた。

 エリアーヌが小さな声で「あ……」と絶望の声を漏らした。


 その時だった。


 チ……。


 チチ……。


 チチチチ………。


 小さな小さな音がアークライトの胸の奥から聞こえ始めた。

 はじめは時計の秒針が動くようなかすかな音。

 だがその音はだんだんと力強くなっていく。

 一つまた一つと止まっていた歯車たちが目を覚ますかのようにゆっくりと動き始める。

 止まっていたぜんまいがきりきりと巻かれていく。

 銀色の歯車、金色の歯車、銅色の歯車。何百何千という部品がおたがいにかみあい力を伝えあいふたたび一つの大きな流れを生み出していく。


 カチ、カチ、カチ、カチ……。


 やがてその音は一つの安定したリズムになった。

 まるで人間の心臓の鼓動のように力強くそしてあたたかく。

 うつくしい機械の心臓がふたたび時を刻み始めたのだ。


 その規則正しいリズムに合わせるかのようにアークライトの指先がぴくりと動いた。

 そしてゆっくりと本当にゆっくりとその重そうなまぶたが持ち上がっていく。

 あらわれたのはガラス玉ではないふかいふかいぬくもりのあるやさしい瞳だった。


「……ああ」

 アークライトの口からもれたのは長い眠りから覚めたようなかすれただがとてもあたたかい声だった。

「……よく、眠った……」


 かれはゆっくりと目の前に立つ湊たち三人を見た。

 そしてその後ろに立つ自分の子供たちを見た。

 その瞳が安心したようにうれしそうにやわらかく細められた。


「……わたしの可愛い子供たち……」

 アークライトはゆっくりとイスから手をのばした。

「だんな様……!」

 エリアーヌがその手に泣きながらすがりつく。

「マスター……!」

 ヴィクトルもいつものつんとした態度はどこへやら子供のようにその手をにぎりしめた。

 セバスチャンはただ涙を流しながら深々と何度も何度も頭をさげつづけていた。

 リリーはなにも言わずアークライトの足元にかけよりそのひざにぎゅっとだきついた。


「心配をかけたな」

 アークライトは子供たちの頭を一人一人やさしくなでていく。

「だがよくがんばった。きみたちはみごとにわたしの最後の宿題を解いてみせた。もうわたしがいなくても大丈夫だな」

 その言葉は父親の最高のほめ言葉だった。


 そしてアークライトはふたたび湊たち三人にそのやさしい目を向けた。

「そして……わたしの新しい小さなたんていたち」

 かれはにっこりとほほえんだ。

「きみたちのおかげだ。ありがとう。きみたちの知恵と勇気とそしてなによりもやさしい心がわたしたち家族を救ってくれた」

 アークライトは湊たちのこともすべて分かっていた。

「きみたちはわたしの試験にみごとに合格した。どうかこれからもこの子たちのともだちでいてやってはくれないだろうか」


「……もちろんです!」

 湊は涙をこらえながら力強くうなずいた。


 その時だった。


 キーン、コーン、カーン、コーン……。


 どこからか学校のチャイムのようなだがもっとうつくしくてすきとおった音が工房ぜんたいにひびきわたった。


《SCENARIO 1 : CLEAR》


《CONGRATULATIONS!》


 うしろの空間にあの『Q』の文字がうかびあがっていた。

 だがその声はもういつものようなからかう響きはなかった。どこか満足そうでよろこんでいるかのようだった。

 三人ははっとした。

 そうだこれはゲームだったんだ。

 そしてぼくたちはこの最初のシナリオをクリアしたんだ。


 アークライトがうなずいた。

「……どうやら時間切れのようだ。名残惜しいがまた会おう。わたしの自慢の友人たち」

 その言葉を合図に湊たち三人の体がふわりと光の粒につつまれ始めた。

「あ……!」

「うそ! もうお別れかよ!」

「またね! 絶対また会いに来るから!」

 三人がさけぶ。

 セバスチャンたちが涙をふいて力いっぱい手をふっている。

 リリーがぶんぶんと小さな手をふっている。

 アークライトが満足そうにほほえんでいる。


 その光景がだんだんと白くとけていく。

 うれしくてでもすこしさびしいあたたかい気持ちにつつまれながら三人の意識はゆっくりと光の中へとすいこまれていった。


 次に気がついた時三人はあのやかたのメインホールにふたたび立っていた。

 地下工房もアークライトも人形たちもいない。まるですべてが長い長い夢だったかのようだ。

 だが湊のポケットの中にはたしかにあのオイルランタンのあたたかい感触がのこっていた。


「……おわったのか?」

 太陽がぽつりと言った。

「ああ。最初のナゾはぼくたちの勝ちだ」

 湊が力強く言った。


 だが彼らの冒険はまだ終わってはいなかった。

 三人の目の前。ホールのまん中にさっきまではなかった新しい真っ白な扉がゆっくりとそのすがたをあらわし始めていた。

 それは次のナゾへの入り口だった。


 光がゆっくりと晴れていく。

 まぶしいほどの白い光につつまれていた視界がだんだんともとの世界の色彩を取りもどしていく。

 耳の奥で鳴りひびいていたすきとおるようなチャイムの音もまるで遠くへ去っていく教会の鐘のように静かに静かに消えていった。


 次に気がついた時三人はあのやかたのメインホールにふたたび立っていた。

 ひんやりとした石の床の感触がブーツの底から伝わってくる。

 高い天井からはさっきとまったく同じように巨大なシャンデリアがろうそくの炎をゆらめかせながらぶらさがっている。壁の肖像画の人物たちも相変わらずこわい顔でこちらをにらみつけていた。

 まるで地下工房でのできごとすべてが長い長い夢だったかのようだ。


 だがそれはけっして夢ではなかった。

 湊のポケットの中にはたしかにあのオイルランタンのずしりとした金属の感触がのこっていた。そして鼻の奥にはまだあの工房の機械の油と古い木のにおいがかすかにだが確かにのこっていた。

 なによりも胸の奥があたたかい。

 アークライトと四体の人形たちと心を通わせたあの最後の瞬間の記憶が今もはっきりとこの胸によみがえってくる。


「……おわったのか?」

 太陽がぽつりとだれに言うでもなくつぶやいた。その声はまだ夢から覚めきっていないかのようにすこしだけぼんやりとしていた。

「ああ。最初のナゾはぼくたちの勝ちだ」

 湊が力強く言った。


「そうね。勝ちは勝ちだわ」

 玲奈が静かにうなずいた。彼女は自分の手のひらをじっと見つめている。

「でも……なんだか不思議な気持ち。ナゾを解き明かしたのにいつものようなスッキリとした感じがしない。うれしいようなでもそれ以上に、なんだかすこしだけさびしいような……」


 玲奈の言葉に湊も太陽もだまったままうなずいた。

 たしかにそうだ。

 今回の事件には犯人も悪人もいなかった。

 あったのはただのこされる子供たちを思う父親の大きくてせつない愛情だけだった。

 ぼくたちはその愛情が生んだやさしいウソを暴いただけなのだ。


 ホールは静まりかえっていた。

 三人はだれともなくさっきまでいたあの地下工房のことを思い出していた。

 今ごろアークライトは目を覚ました子供たちに囲まれているだろうか。

 セバスチャンはあいかわらずしかめっつらをしながらもうれしそうに主人の世話をやいているだろうか。

 エリアーヌは泣きながら主人のためにとびきりおいしい紅茶でもいれているかもしれない。

 ヴィクトルはぶっきらぼうな顔をしながらも本当はだれよりも父親の復活をよろこんでいるにちがいない。

 そしてリリーは……。

 リリーはきっと大好きな父親のひざの上で新しいスケッチブックに家族みんなの笑顔の絵を描いているだろう。


 そんなあたたかい光景を想像すると湊の胸も自然とあたたかくなった。

 それでいいんだ。

 ぼくたちはあの家族を救うことができたんだ。


「……よし!」

 太陽が自分の両手でほっぺたをパン!とたたいた。

「いつまでも感傷にひたってる場合じゃねえ! おれたちは勝ったんだ! まずは勝利のポーズだろ!」

 太陽はそう言うと意味もなくガッツポーズをしてみせた。

 そのいつもと変わらない明るい太陽の姿に湊と玲奈の顔にも自然と笑みがうかんだ。


 そうだ。

 感傷にひたっている時間はない。

 ぼくたちの冒険はまだ始まったばかりなのだから。


 だが彼らの冒険はまだ終わってはいなかった。

 その証拠に三人の目の前。ホールのまん中にさっきまではけっしてなかったはずの新しい真っ白な扉がゆっくりとそのすがたをあらわし始めていた。


 それはまるでけむりが集まって形になっていくかのようにじわりじわりと空間にうかびあがってきた。

 何の飾りもないただ真っ白なのっぺりとした扉。

 ドアノブもかぎ穴もどこにもついていない。

 だがその扉はこれまで見てきたどの重厚な扉よりもふしぎな人をひきつけるような強い力を持っているように見えた。


「……なんだあれは……」

 太陽がガッツポーズをしたまま固まっている。


「おそらく……」

 玲奈がごくりとつばを飲みこんだ。

「次のステージへの入り口よ」


 玲奈の言葉がしんとしたホールにひびきわたったその時だった。


《BRAVO! BRAVO! WONDERFUL!》


 あの声がふたたびホールぜんたいにひびきわたった。

 楽しそうでうれしそうでまるで最高の芝居を見たあとの観客のように心からの拍手を送っているかのようだった。

 空間にふたたびあの黒くて丸い『Q』の文字がうかびあがる。


《いやあすばらしかった! 実にすばらしかったぞわたしの小さなたんていたち!》

 『Q』はうれしそうにぷかぷかと空中をただよっている。

《まさかわたしの予想をはるかに超えるスピードであの人形師のナゾを解き明かしてしまうとは! しかもあんなにもうつくしい結末をむかえるなんて! 感動した! わたしは心から感動したぞ!》


 その言葉に玲奈がきりっとした顔でくいさがった。

「……どういうこと? あの結末もすべてあなたの計算どおりだったとでも言うつもり?」


 玲奈のするどいとがった声がホールにひびきわたった。


 その問いに『Q』は楽しそうにぷかぷかと空中を上下にゆれた。

《計算どおり? とんでもない! きみはこのわたしをなんだと思っているんだい?》

 『Q』の声は心外だとでも言うようにすこしだけ大げさになった。

《わたしはただのゲームマスターじゃない。わたしは最高の物語を愛する一人の『観客』でもあるのだよ》


「観客……?」


《そうだとも。わたしは舞台を用意し登場人物を用意しそして最初のきっかけだけをあたえる。だがその物語がどんな結末をむかえるのかはわたしにも分からないのだ》

 『Q』はうっとりとした声で言葉をつづけた。

《あの人形師の物語はもしかしたらもっとかなしい結末をむかえていたかもしれない。きみたちがアークライトの本当の気持ちに気づけずにただ彼を『こわれた人形』だと判断していたら? リリーのブローチのナゾに永遠に気づけなかったとしたら? そうなればあの家族は二度と笑いあうことはなかっただろう》


 その言葉に三人はぞくりとした。

 そうだ。自分たちの選択一つであの物語はまったくちがうくらい結末になっていたかもしれないのだ。


《だがきみたちはちがった!》

 『Q』の声がふたたびよろこびに満ちたものになる。

《きみたちはただナゾを解くだけでなく登場人物たちの心までをも救ってみせた! すばらしい! 実にすばらしい結末だった! 最高のハッピーエンドだ! わたしが用意したどの悲劇のシナリオよりもずっとずっとうつくしい物語だったぞ!》


 『Q』は本当に心の底からよろこんでいるようだった。

 だが湊はその言葉に素直にうなずくことはできなかった。

「……きみはそれをただ楽しんで見ていただけだっていうのか」

 湊の声は怒りでかすかにふるえていた。

「ぼくたちがどれだけこわい思いをしてどれだけ必死だったかも知らずに……! これは遊びじゃないんだぞ!」


《おっとそう怒るなよたんていくん》

 『Q』は湊の怒りをひらりとかわすように言った。

《きみたちのその必死さが物語をよりおもしろくより感動的にする最高のスパイスになるんじゃないか。それにわたしはただ見ていただけじゃない。ちゃんとごほうびもよういしてある》


「ごほうび?」

 その言葉に太陽がぴくりと反応した。


《そうだとも。最初の試験を最高の形でクリアしたきみたちへの特別なごほうびだ》

 『Q』がぱちんと指をならすような音をたてると三人の目の前に三枚のカードがふわりと舞いおりてきた。

 それはプロローグで自分たちの「やくわり」をえらんだ時とまったく同じデザインのカードだった。


《それは『スキルカード』だ》

 『Q』が説明する。

《たんていくんには『ひらめき』のスキルを。ぶんせきかんさんには『看破(かんぱ)』のスキルを。そしてそうさかんくんには『直感』のスキルをあたえよう》

《これから先のナゾトキで行きづまった時そのスキルを使えばきっときみたちの助けになるはずだ。ただし使えるのは一つのシナリオにつき一度だけ。使いどころをよく考えることだな》


 三人はおそるおそる自分のスキルカードを手に取った。

 カードはすうっと光の粒になって三人の体の中へと吸いこまれていった。

 なにか特別な力が自分の身にやどったような不思議な感覚がした。


「……これがごほうび……」

 たしかにこれからの冒険で役に立つ力かもしれない。

 だがこんなものでごまかされてたまるか。

 湊はもう一度『Q』をにらみつけた。

「ぼくたちがほしいのはこんな力じゃない! もとの世界に帰してくれ!」


《だから言っているだろう?》

 『Q』はやれやれとでも言うようにあきれた声を出した。

《すべてのナゾを解き明かした時その道は開かれると》

 『Q』はくるりと向きを変えホールのまん中にうかぶ真っ白な扉を指し示した。

《さあ感傷にひたっている時間は終わりだ。次の舞台がきみたちを待っているぞ》


 三人の視線が白い扉に集まる。

 さっきまでとはちがい扉の表面にはうっすらと次のシナリオをしめすもようがうかびあがり始めていた。

 それは白と黒の四角い模様。

 そして馬の形をした騎士のコマ。


《次のシナリオは『盤上のアリバイ崩し』》

《今度はすこしだけ頭を使ってもらうぞ。なにしろ次の事件の容疑者には鉄壁のアリバイがあるのだからな》

 『Q』は楽しそうにくつくつと笑った。

《さあどうする? このまま次のナゾにちょうせんするか? それとも……このホールで夜明けまで泣きながらすごすかね?》


 それは選択のようで選択ではなかった。

 道は一つしかないのだ。


 『Q』のからかうような笑い声が高い天井にひびきわたってゆっくりと消えていく。

 あとにはまた三人だけがのこされた。

 しんと静まりかえったホール。目の前には不気味なほどに真っ白な次のナゾへの扉。

 そしてその扉の表面には白と黒の四角い模様――チェス盤の模様と馬の形をした騎士(ナイト)のコマがうっすらとだがはっきりと、うかびあがっていた。


「……『盤上のアリバイ崩し』だってよ」

 最初に沈黙をやぶったのは太陽だった。

 彼の声にはもういつもの元気はなかった。心も体もつかれきっているのがその声だけで痛いほど伝わってくる。

「あのヤロー……どこまでおれたちをコケにすれば気がすむんだ……」

 太陽はくやしそうに近くにあった石の柱にこつんと自分の頭をもたせかけた。そしてずるずるをその場にすわりこんでしまう。

「アリバイがなんだってんだよ……。もう頭まわんねえよ……。すこしだけ休ませてくれ……」


 その言葉に玲奈も湊もなにも言いかえすことができなかった。

 無理もない。

 このやかたに来てからどれくらいの時間がたったのか分からない。

 だけど三人は命がけのナゾトキをたった一つ乗りこえたばかりなのだ。

 頭も心もまるで乾いたぞうきんみたいにしぼりきられてくたくただった。

 玲奈はまっさおな顔でだまったまま自分のゆびさきを見つめている。湊も足がまるで鉛のかたまりみたいに重く感じられた。


(このまま次のナゾにちょうせんするのはムリだ……)

 湊はそう判断した。

 今のぼくたちではぜったいにナゾは解けない。それどころかかんたんなミスをしてワナにはまってしまうかもしれない。

 だけど休む場所なんてどこにも……。


 その時だった。

 カチリ。

 メインホールの壁にあったいくつもの扉の一つがまるでずっと待っていたとでも言うように小さな音をたてた。

 それはこれまでかたく閉ざされていたいちばんすみにある何の飾りもない小さな扉だった。


「……今の音なんだ?」

 太陽が顔を上げる。

 三人の視線が音のした扉に集まった。

 扉はほんのすこしだけ開いている。そのすきまからあたたかいオレンジ色の光がもれていた。


「……ワナかしら」

 玲奈が用心深く言った。

「でも……」湊は言葉をつづけた。「行ってみるしかない」

 三人は顔を見合わせるとゆっくりとその扉に近づいていった。


 湊がおそるおそる扉を開ける。

 そこにあったのはこれまでの不気味なやかたの雰囲気とはまったくちがうあたたかくて安心できるような小さな部屋だった。


 部屋のまん中にはふるい木の丸テーブル。その上には湯気の立つスープと焼きたてのパンそしてフルーツジュースが入ったグラスが三人分きちんとよういされていた。

 壁ぎわには大きな暖炉がありぱちぱちと音を立ててオレンジ色の炎がやさしく部屋をあたためている。

 そしてふかふかしていそうな一人用のソファが三つその暖炉をかこむようにおかれていた。


「なんだこの部屋……」

「食べ物……?」

 三人はあっけにとられてその光景を見つめた。

 テーブルの上には一枚のカードが置かれている。湊がそれを手に取るとそこには『Q』のものと同じうつくしい書体でこう書かれていた。


《よくがんばった、たんていたちへ。》

《ここは、きみたちだけの『セーフルーム』だ。》

《ここでは、どんな危険も、どんなナゾも、きみたちをおそうことはない。》

《つかの間の休息を、楽しむがいい。だが、忘れるな。時計の針は、けっして、止まってはくれないのだぞ》


「……あいつのしわざか」

 太陽がうらめしそうに言った。

「病人にあたえる薬のつもりかしら。それともこれからもっとひどい目にあわせるためのただのアメとムチというやつかしらね」

 玲奈はれいせいに分析する。

 だが三人の体は正直だった。

 焼きたてのパンのこうばしいにおいとスープのあたたかい湯気がつかれきった三人のおなかの虫をぐうと鳴らしたのだ。


 三人は顔を見合わせてふきだした。

「……食うか」

「……ええ、食べましょう」

「おう!」


 イスにすわるとどっとつかれが体中からあふれだしてくるようだった。

 三人はむちゅうでスープとパンを口にはこんだ。

 あたたかいスープが冷えきった体をじんわりととかしていく。

 やわらかいパンがすききっていたおなかをやさしく満たしていく。

 それは三人がこれまで食べたどんなごちそうよりもおいしく感じられた。


 おなかがいっぱいになると三人は暖炉の前のソファに深く体をしずめた。

 ぱちぱちと炎がはぜる音を聞いているとおもたいまぶたが自然ととじてきそうになる。

 だがまだ眠るわけにはいかなかった。


「……さて」

 湊が口を開いた。

「作戦会議をしよう」

 その言葉に太陽と玲奈がこくりとうなずいた。


「まず最初の事件『消えた人形師』の反省だ」

 湊は探偵のように指を一本立てた。

「ぼくたちはまんまとアークライトさんのしかけにはまった。人形たちのウソの言葉に完全におどらされていたんだ」


「そうだな。オレなんてあのヴィクトルってやつがぜったい犯人だと思ってたぜ」

 太陽がくやしそうに言う。


「思いこみは推理の一番の敵だということね」

 玲奈が自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「私たちはつい『ミステリーの犯人さがし』というゲームのわくの中でしか物事を考えられなかった。でもあの物語の本当のテーマは犯人さがしなんかじゃなかった……」


「うん。だから次の事件ではもっと視野を広く持たないといけない」

 湊は言葉をつづけた。

「『盤上のアリバイ崩し』。タイトルからしてこんどはもっと本格的なミステリーだ。だれかが何かをしてそのアリバイがあるという状況。ぼくたちはそのアリバイがウソだという証拠を見つけなくちゃならない」


「次に戦う相手は『時間』そのものということね」

 玲奈の言葉にみんなだまりこんだ。

 そうだ。アリバイとは時間を使ったトリックのことだ。

 きっと次のナゾはこれまで以上にせいかくでそして冷静な分析がためされることになるだろう。


「そうだ。アリバイトリックは時間との戦いだ。……でも」

 湊は自分の胸にそっと手を当てた。あのスキルカードが体の中にすうっと吸いこまれていった時の不思議な感覚がまだかすかにのこっている。

「今のぼくたちにはただの知恵と勇気だけじゃない。新しい武器があたえられた」


 その言葉に太陽と玲奈もはっとしたように自分の胸に手を当てた。

 『Q』があたえた三つのスキル。『ひらめき』、『看破(かんぱ)』、そして『直感』。


「そうだった! スキルカードのことすっかり忘れてたぜ!」

 太陽の顔がぱあっと明るくなった。

「『直感』のスキルか……。なあミナトこれどういう力なんだろうな?『こっちがあやしいぜ!』ってピーンと頭にひらめくみたいな感じか? すげえかっけえじゃん!」

 太陽はもうすっかりその不思議な力を手に入れた気になってうれしそうにしている。単純なところが彼のいいところだった。


「そんなあいまいな力じゃないはずよ」

 玲奈が分析するように言った。

「私の『看破』のスキル。おそらくこれは相手のウソを一度だけ絶対に見やぶることができる力。あるいはたくさんの証拠の中からたった一つの決定的なニセモノを見つけ出す力。でも『Q』は言っていたわ『使えるのは一つのシナリオにつき一度だけ』と。その一度をいつどこで使うか……。その判断がものすごく重要になるわね」


「うん。ぼくの『ひらめき』のスキルもきっと同じだ」

 湊もうなずいた。

「たぶんぼくたちがもう本当に行きづまってどうしようもなくなった時にだけ天からヒントがふってくるみたいな力なんだと思う。ぜったいにむだづかいはできないたった一度だけの切り札だ」


 三人はだまった。

 あたえられた新しい力はたしかに心強い。

 だがそれはこれからのナゾがその切り札を使わないとぜったいに解けないほどむずかしくそして危険なものであることを同時に示していた。


 暖炉の炎がぱちりと静かにはぜた。

 どれくらいの時間がたっただろうか。

 スープとパンで体はすっかりあたたまっていた。重かったまぶたも頭もすこしだけすっきりとしてきた。

 もうだれの顔にもさっきまでのぜつぼうの色はなかった。

 そのかわりにそこにあったのはこれから始まる本当の戦いを前にした静かでそして強い決意の光だった。


 最初に立ち上がったのは湊だった。

「……そろそろ行くか」

 その声は静かだったがもうふるえてはいなかった。

 湊の言葉に太陽と玲奈もこくりと強くうなずいてゆっくりとソファから立ち上がった。


 三人はあたたかくて安全なその小さな部屋に一度だけふりかえってだまって頭をさげた。

 そしてふたたびあのひやりとした広いホールへと戻っていった。


 しんと静まりかえったホール。

 目の前にはあの真っ白な扉がまるで三人をずっと待ちつづけていたかのように静かにうかんでいた。

 扉の表面には白と黒のチェス盤の模様と馬の形をした騎士のコマがさっきよりもはっきりと、うかびあがっている。


 三人はその扉の前に横一列にならんだ。

 太陽が右。玲奈が左。そしてまん中に湊。

 だれが言うでもなく自然とそうなっていた。


「……こわいか?」

 湊が小さな声で聞いた。


「……ああ。正直めちゃくちゃこえーよ」

 太陽が自分の両うでをぎゅっとだきしめながら言った。

「でもよそれ以上に、なんだかわくわくしてる自分もいるんだ。へんかな?」


「いいえ。私も同じよ」

 玲奈がふっとかすかにほほえんだ。

「こわいわ。でもそれ以上に次のナゾを解いてあの『Q』のくやしがる顔が見てみたいっていう気持ちの方がずっとずっと強い」


 湊も笑った。

「……ああ。ぼくも同じだ」


 三人はだまったまま視線を交わした。

 そしてゆっくりと手を前にのばした。

 太陽の大きくてごつごつした手。

 玲奈の白くてほっそりとした手。

 そして湊のまだすこしだけふるえている手。

 三人の手が真っ白な扉の冷たい表面にそっとふれた。


 そのしゅんかんだった。

 扉は開かなかった。

 そのかわりに三人の手がふれた場所から水面に石を投げこんだ時のようにうつくしい光の波紋がすうっと広がっていったのだ。

 そして扉ぜんたいがきらきらとまぶしい光の粒に変わっていく。

 それはまるでかたく閉ざされた氷の扉が春の日差しをあびてとけていくかのようだった。

 やがて扉は完全にかたちをうしないあとには光りかがやくトンネルのような空間だけがのこされた。


 トンネルの向こうには新しい部屋が見える。

 静かで広くてそして床には巨大な本物のチェス盤がしかれていた。

 白と黒のマスの上には人間と同じくらいの大きさの馬や王様女王様のコマがまるでこれから始まる戦いを静かに待っているかのようにいくつもいくつもそびえたっていた。

 そしてそのチェス盤のはるか向こう。

 王様のコマの影にだれかが立っているのが見えた。

 黒いジャケットを着た見覚えのあるほっそりとした後ろ姿。

 ヴィクトルだった。

 かれはなにかをじっと見つめているようだった。


 湊はふたりの仲間ともう一度顔を見合わせた。

 そして強くうなずいた。


「さあ、行こう」


 その声はもう探偵の声ではなかった。

 これから始まる長い長い戦いにいどむリーダーの声だった。


「――次のミステリーへ!」

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僕らはまだ、ミステリーにいる 理瑠 @AQRIL

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