『常識知らずの竜王候補さま、人間界で学習中。』

ひとりさんぽ

第1話


 雲を裂くように屹立する天空の神殿。

 

 その白亜の石柱は、陽光を受けて銀のように輝き、風を切る音すらも聖歌の一節に聞こえるほど荘厳だった。

 

 広間に敷き詰められた大理石はひんやりと冷たく、そこに素足を置くと、創造神でありながらも人の肌を持つ母竜セレナリアには、わずかに震える感覚が伝わってきた。


 彼女は半透明の床へと歩み寄り、長い銀髪をさらりと肩へ流す。

 その瞳は深い翡翠色。

 そこに映し出された下界の光景に、母の胸は重く沈んだ。


 山々を貫いて走る影。

 黒き鱗をまとった巨竜——覇王竜ヴァルグレイア。

 彼は天を裂くような咆哮を上げ、尾で岩を砕き、爪で大地を抉る。

 その一挙動ごとに地鳴りが響き、村人たちは逃げ惑い、家々は土煙の中に沈んでいく。


 人間の悲鳴はここまで直接届くわけではない。

 だがセレナリアの耳には、確かに聞こえていた。

 押し殺した叫び、泣き声、瓦礫が崩れる轟音。

 

 それらが薄い風の層を越え、母の心へと突き刺さる。

 彼女は胸に手を当て、深く息を吐いた。


 おそらく今回は小さな村同士の小競り合いだろう。

 土地か水かいずれにせよ強き者が間に入れば話し合いで解決できると思われた。


「……あの子、またやってるわね」


 声は低く、だが諦めと慈しみが同居していた。


 ヴァルグレイア。

 愛しい息子であり、次代竜王の候補。

 この世界の調停者となるべく定めを持った強き竜。

 その名を呼ぶたびに胸が締めつけられる。

 

 誰よりも強く、誰よりも純粋で、そして誰よりも制御が効かない。

今回も調停ではなく等しく制裁を行なっているようだ。

 

 セレナリアは唇を結ぶ。

 光沢ある石床にその影が落ちる。

 神々しさよりも、ひとりの母としての嘆きが勝っている。


 このままでは、人類すべての敵となってしまう。


 そう思うだけで胸が軋んだ。


 セレナリアは玉座へと戻り、長い裾を整えながらゆっくり腰を下ろした。

 冷たい石の背凭れが肌を通じて伝わる。

 けれどその冷たさよりも、胸の奥を締めつける憂いの方が強かった。


 下界で暴れ回る巨影を思い浮かべるたび、ため息が深くなる。

 ヴァルグレイアは不当に命を奪うことはしていない。

 彼なりに節度はあるのだ。

 追い回すだけで、爪を振り下ろす直前で止める。

 人の命が脆いことは理解している——それは確かだ。


 けれど、理解と配慮は別物だった。


「このままでは……いずれ人類すべての敵と見なされる」


 呟いた声は、広い神殿に反響し、白い柱の間を虚しく駆け抜けていく。響き返ってきた自分の声に、彼女は目を伏せた。


 あの子は強すぎる。

 風を切る羽音ひとつで都市を壊滅させ、尾の一撃で谷を生み出すだけの力を持っている。

 

 幼い頃はその力を誇りに思っていた。

 だが成長するにつれ、誇りは慢心へと姿を変え、彼の言葉からは「慈しみ」や「調停」といった響きが抜け落ちてしまった。


 彼の瞳は、竜の祖を思わせるほどの純粋な黒だ。

 そこに映るのは常に「強者」と「弱者」。

 強者に従え、弱者は黙っていろ。

 その極端な考えだけで世界を測ろうとする。


 セレナリアは拳を膝の上で握りしめた。

 爪が食い込み、かすかに痛みが走る。

 神である自分が痛みを覚えるほど強く力んでいることに気づき、そっと力を抜いた。


 母として、何度も諭した。

 竜王とは支配者ではなく調停者であること。

 力で押さえつけるのではなく、秩序を守る存在でなければならないこと。


 しかし、彼はいつも同じ答えを返すのだ。


「我が力こそ秩序だ」と。


 セレナリアは苦く笑った。

 あきれるような、けれど愛しさが滲む笑みだった。


 頭では理解している。

 彼の言葉は傲慢で、思慮に欠ける。

 だが、同時に真っ直ぐでもある。

 曲がらぬ強さは確かに竜王の器を思わせた。

 だからこそ余計に、心配でならない。


「どうしたら……あの子は人を人として見ることが出来るようになるかしら」


 その問いは答えを持たず、雲海を渡る風にさらわれて消えていった。


 セレナリアは、もう一度下界を覗き込んだ。

 そこでは依然として、黒き巨竜ヴァルグレイアが山道を駆け回り、逃げ惑う人間たちを「弱者」と断じるかのように追い立てている。

 尾が大地を叩くたびに、土煙が舞い上がり、山鳴りが轟く。


 母竜の頬がぴくりと引きつった。

 眉間に刻まれた皺は深くなり、とうとう限界に達したように声を張り上げる。


「ヴァルグレイアーーッ! ちょっときなさぁぁーーーい!!!」


 その一声は天空を震わせ、白亜の神殿全体をびりびりと振動させた。

 高くそびえる柱がかすかに軋み、天井のステンドグラスからは細かい光の粒が舞い落ちる。


 周囲に控えていた従竜たちが、一斉にビクリと身をすくめた。

 鱗に覆われた巨体が小さく震え、耳を垂れ下げる。

 精霊たちも羽音を止め、風の流れすら凍りついたかのようだった。


「ひ、ひぃ……母神がお怒りに……」

「また、若様か……」


 従竜同士がひそひそと囁く声が、神殿の隅々まで響く。


 セレナリアは片手を腰に当て、片手を大きく口の横へ添え、まるで人間の母親が庭で遊ぶ子を呼び戻すような仕草で声を張る。

 その光景は神殿に似つかわしくなく、荘厳さと庶民的な生活感が妙に同居していた。


 神殿を震わせる声の余韻がまだ残る中、彼女は肩をすくめて呟く。

 

「全く……“竜王候補”ともあろう者が、呼び出されるたびに素直に駆け戻ってくるなんて、情けないやら可愛いやら」


 その口調は呆れと愛情の入り混じった、母親そのものの響きだった。


 下界。


 大地を揺らして暴れ回っていた巨竜ヴァルグレイアは、突如として頭上から響いた母の声に、ビクリと体を硬直させた。


「……はっ!? 母上が呼んでいる!」


 その巨大な体が慌てて振り返り、羽をばさばさと広げる。先ほどまで人間たちを追い立てていた覇王竜が、今や迷子を呼び戻された子犬のように右往左往しているのだから、村人たちはぽかんと口を開けて見送るしかない。


「え、逃げてった……?」

「……助かった?」


 混乱する人々の視線を背に、ヴァルグレイアは空へ飛び立った。翼がはためくたびに大気が鳴動し、土埃が巻き上がる。その勢いは恐怖を呼ぶはずなのに、彼の挙動はどこか必死で、緊張感よりも滑稽さが勝っていた。


 天空神殿へ戻る道すがら、彼は焦りを隠せない。

「な、なぜいつも絶妙なタイミングで呼ばれるのだ……! 敵を討ち果たす直前だったのに!」

 口では威勢を張るが、翼の動きはどこかぎこちない。


 一方、天空神殿では従竜や精霊たちが、竜王候補の情けない様子を想像して小さく肩を震わせていた。彼らは恐怖で震えているのではない。笑いを堪えていたのだ。


 やがて、雲海をかき分けて巨竜の影が近づく。ヴァルグレイアは神殿前に着地し、どしんと床を揺らす。その迫力は確かに竜王の器に相応しい。だが、次の瞬間。


「母上ぇ……呼ばれましたので、ただいま参上仕りました……!」


 意外にも殊勝な態度で神殿の扉をくぐる姿に、従竜たちの堪えていた笑いが一気にこぼれた。


 竜王候補にして覇王の器、しかし母の一喝には逆らえず尻に敷かれる——そんな矛盾めいた姿こそが、彼ヴァルグレイアの滑稽さであり、愛らしさだった。


 セレナリアは玉座からその様子を見て、深いため息をつきつつも、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「……まったく、しょうがない……」


 その声には、どうしようもなく母の愛情が滲んでいた。

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