長安

長安

 長安ちょうあん


 陳倉ちんそう劉嘉りゅうか李宝りほうは逃げた延岑えんしんを追おうとするも、赤眉せきびかすめ通った後なのでその足取りを見失った。延岑は赤眉と正面から渡り合う気はあるまい、よって真東の長安には行くまい。北東、或いは南東へ。李宝、北東にこくがあれば北東に向いましょうと言う。そこで劉嘉、兵を率いて北東へ向う。昼夜いとわず、劉嘉・李宝が足早に進めば、延岑に出遭であわず、同じく兵糧ひょうろうを求めて動く赤眉軍に出遭う。赤眉は、元は劉玄りゅうげんの将、じょう廖湛りょうたんが十八万を率いて劉嘉を攻める。劉嘉・李宝、既に廖湛が劉玄にそむいたのを知る。赤眉に降って長安をおとしいれることに加担したのを知る。怒り心頭に来た劉嘉・李宝、赤眉の軍勢大なるなぞ知らぬ。遮二しゃに無二むに、廖湛を討とうと欲す。劉嘉、長安の北西一日の谷口やこうにて廖湛を破り、己が手で廖湛を斬る。

 しかし延岑の軍が兵糧に困ったように劉嘉の軍も窮乏きゅうぼうしだした。よって谷口の真北、雲陽うんよう県に入る。雲陽城は皇帝劉秀りゅうしゅうっただい司徒しと鄧禹とううる所、そこに劉嘉が陣営を築く。これは鄧禹が西征せいせいするという噂を、劉嘉をも討つことと考えた李宝が、兵をようして自ら守り、劉嘉にすすめてしばらく成り行きをうかがわせた故である。

 鄧禹、常々のように早馬で皇帝劉秀に連絡を取れば、劉秀は鄧禹にたくして曰く「孝孫こうそんは素より勤勉善良、我と若くして親愛す。この事態は長安の軽薄児けいはくじが、誤らせるばかりなり」

 鄧禹は直ちに皇帝のむねべるや、劉嘉は動く。即ち自らの妻の兄、劉秀にとっては大伯母の子、来歙らいきゅうを遣る。来歙が鄧禹への使者となったのにはもう一つ訳がある。鄧禹と来歙は昔長安で劉秀を介してよしみを通じていたのである。わだかまり無い鄧禹と来歙、劉嘉が皇帝劉秀に降るべしと意見を一致させれば、来歙、戻ってこれを勧める。劉嘉、雲陽城まで到って降る。

 面白くないのは李宝である。自らの策が裏目に出て、劉秀には長安の軽薄児とざまに言われれば、腹にえかねる。更に鄧禹が二十前半と見れば、あなどって孺子じゅしがと毒づく。劉嘉らにたしなめられても自ら抑えられぬ。多少のあざけりは無視した鄧禹だが、これ以上耐えれば末端の兵士にまであなどられよう、これも威信を保つためと、李宝を軍法の下に斬る。だが李宝の弟、これを聞いて仇を撃とうと、李宝の部隊を率いて鄧禹を撃つ。鄧禹は免れたが、赤眉将軍耿訢こうきんが害された。鄧禹の威信、結局はこぼたれる所となった。


 一方、劉嘉・李宝に追われた当の延岑は、劉嘉らの予測とは異なり、長安の南東、杜陵とりょうようやく穀に就くことが出来た。ここはせん帝の墓陵ぼりょう。されど赤眉が長安から西で掠奪を働いていたため、災禍さいかを免れた所である。数十万の軍勢である赤眉は幾つかの部隊に分かれ、その一部が再び長安に入り、延岑はこの赤眉に対抗することになる。延岑にその気は無いにしても、赤眉の将逄安ほうあんが精鋭の十万余人を率いて兵糧故に延岑を襲うのであるから、戦うしかない。そこに元劉玄の李宝、劉嘉の相とは同姓同名の別人からげきが届く。延岑が赤眉と戦うなら、共に戦おうと言うのである。この李宝は、自らは皇帝劉玄の将であり、赤眉は劉玄の敵であり、これを討たねばならず、お互い赤眉は敵である、よって合従がっしょうせぬかと伺う。延岑、使者を斬り捨てようと剣を抜きかけるが、ぎりぎりで思い止まった。敵を増やしても得はしない。今は向こうが手を組もうというのだ、これに乗る方が良い。延岑、承知したと、使者を帰らせる。

 逄安が全軍を率いて延岑・李宝と戦えば、長安に残るは皇帝りゅう盆子ぼんし惰弱だじゃくな兵のみとなる。斥候せっこうに長安を見張らせていた鄧禹は、好機と長安を襲う。しかし物事がうまく行かない時は、まるで前以て見透みすかされたように、物事は頓挫とんざする。赤眉の将謝禄しゃろく偶々たまたま長安に近ければ、兵を率いて窮を救い、夜中、長安城中の戦いの末、鄧禹は敗れて高陵こうりょうに到る。ついに兵糧は乏しくなり、鄧禹に帰順した者も離散し始める。

 一方、延岑と李宝、合して数万の軍勢であるが、一万人余りの死者を出して、逄安に破れる。李宝は赤眉に降り、延岑は散兵さんぺいを収めて逃れる。戦いはそれで終わった訳で無かった。李宝の密使が延岑の陣を訪れて、秘策を授ける、曰く「汝、努力して戻って戦え。吾は内部において反そう。表裏の勢いを合すれば、大いに破ることあたおう」

 延岑直ちに兵を返して戦いを挑めば、逄安は陣営を空にしてこれを撃つ。よって李宝は、その後方で、わずかな手勢で赤眉の幟旗のぼりばたことごとく抜いて、改めて己の幟旗を立てる。逄安の兵、復た延岑を撃つも戦いに疲れて陣営に戻れば、幟旗が全て白きを見て、陣が奪われたと大いに驚いて、乱れ走る。一度走り出した乱兵らんぺいは留まることを知らず、我先にと飛び出す。逃げる先は長安。よって間に在る滻水さんすいの為す谷に雪崩なだれれ込み、死する者十余万。逄安、数千人と共に逃れて長安に帰る。

 この勝利で延岑の名は関東までとどろくことになる。しかし、延岑、赤眉が十万余りの兵を失うとは思わず、また兵糧を得るため、杜陵の南東の藍田らんでんまで引かせる。また勝ったといえど、李宝、兵を失ったことには変りない。よって集められるだけの兵を収めて、宝物や印綬いんじゅ輺重しちょうに載せて、延岑と合流する。鄧禹、この延岑を藍田に撃って出るも反って破られる所となる。漢軍の兵士も飢餓し、菜の類を食してしのぐ。


 男はまた妙なりと史書をにらむ。男の指を走らせた部分に書かれたは「建武二年――冬十一月、岑彭しんほう征南せいなん大将軍と為し、八将軍を率いて――」と読める。男はまた別の巻物を広げて、また指を走らせる。そこに書かれたは「岑彭、征南大将軍にかえる。また遣って、――偏将軍劉嘉――」と読める。将軍の数を数えれば八人。男はまた別の巻物を広げて、指を走らせる。そこに書かれたは「建武三年、劉嘉、雲陽から洛陽らくよういたる」と読めた。男は嘆息して曰く「また年がずれている。何れが正しきか」。男は天井を見上げる。「うむ。二年冬に到ると考えよう。辻褄つじつまが合うには、それが一番単純ゆえ」

 また男は史書に指を走らせると「太中大夫たちゅうたいふ伏隆ふくりゅう張歩ちょうほに遣る」とあり、別の史料に指を走らせれば、「光禄大夫こうろくたいふ伏隆は張歩に使いす」とある。男は怪訝けげんに思うが、また別の史料を読みて得心す。そこには「太中大夫伏隆を光禄大夫と拝し、再び張歩に使いす」とある。男、曰く「何れの史書も正しい。しかし、三つを見ずば分からず」とにやりと笑う。

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