邯鄲 その2


 次の日、劉秀、呉漢・耿弇を大将軍と為して幽州から兵を発すべしと命ず。両将軍に苗曾の代わりの幽州牧として朱浮しゅふを加える。また呉漢には自分の剣を帯から外して、これを彭寵にたまわろうと託し、耿弇にも自分の玉玦を外して、これを耿況に賜ろうと託す。劉秀、王郎を倒した時に、幾らか鹵獲ろかく品を得た。その宝剣に玉玦である。剣は青銅製で薄く黄色く光る銘品であり、玉玦は白地に灰のまだらのうねりが入ったあでやかな物である。劉秀、それらの珍宝を惜しいとは思わなかった。身を飾るなら兎も角、馬上で片手で使うにはこの宝剣は重く扱いづらい、それよりも錆びやすいが故に手入れが必要ではあるが、鉄製の軽い刀の方が良かった。玦は役目を果たすなら玉で無くとも樫でも良かった。彭寵・耿況の方が余程失うには惜しい。劉秀たちが見送る中、騎馬隊は土煙を上げて、北へまっしぐらに走った。

 鄧禹は劉秀が蕭王を拝命したことを寿ことほいで、宴を設け、謝躬ら皇帝劉玄の将も招く。劉秀・鄧禹の誤算だったのは謝躬配下の振威しんい将軍馬武ばぶであった。

 宴が始まると途端、劉秀の酒杯に注ぎに参って、蕭王の拝命を喜び、昆陽こんようの鬼神が何故早々と行賞こうしょうされなかったのでありましょうと、劉秀をかつぐ。それだけに留まらず、謝躬を斬らせようと思っていた将軍賈復かふくの元に注ぎに行き、今、蕭王麾下きかで最大の勇将は御身と思えますが、どうで御座ろうかと尋ねる。賈復、一応謙遜けんそんして見せるが、謙遜では馬武の方が上手であった。馬武、賈復が気にさわるであろう自分の昆陽の戦いを一切話題とせず、酒を注ぎて、賈復に柏人はくじんの戦い、鉅鹿きょろくの戦い、南䜌なんれんの戦いを訊く。賈復ならず劉秀の将が舌を巻いたのは、良くも劉秀の戦いを知り尽くしていることであった。皇帝劉玄配下で一番の猛将ゆえ、賈復・銚期・蓋延こうえんの猛将たちでも警戒しなければならない男が、目覚しい働きをした賈復・銚期、幽州突騎の将の功績を知っているのである。そして、最後に、我も、そういう功を為したいと結ぶ。単純に武勇をたっとぶ男であった。

 この馬武の動きが牽制となって、劉秀が図った謝躬の謀殺の機会は失われた。何時の間にやら謝躬は宴を切り上げて帰り、諸将の中にはつぶれるものもいた。劉秀は、飲める方ではないので控えていたのが幸いした。

 宴を終わらせた劉秀は馬武を誘って二人だけで高台に登って曰く「我は、漁陽と上谷の突騎兵を得ている。将軍にこれを率いて貰いたいと思う。如何いかん

 馬武、はっとして、ひざを屈して応えて曰く「我はのろまで臆病おくびょうであれば何の方略も持ちませぬ」

 劉秀、くすくす笑いて曰く「謙遜するな。将軍は長く戦に慣れ、兵に習熟しゅうじゅくす。どうして我が属官ぞっかんと同じことがあろうか」

 馬武、既に昆陽で一緒に戦った勇将として劉秀を見ていたが、今に至ってその人物に惹かれ、劉秀、馬武の意外な謙虚さに惹かれる。


 次の日、鄧禹・朱祐しゅゆうが拝謁を願うと、劉秀、鄧禹に応じて、開口一番に曰く「言うな、責めるな。我、先ず帰順をうながそうと欲す」と横を向く。

 鄧禹、じっと劉秀をうかがうが、口許を弛め「だく」とぬかづいて退く。

 次に、朱祐に応じれば、朱祐切り出して曰く「尚書令謝躬を如何いかに思われる」

 劉秀、はかりごとが漏れたかと思い、とぼけて答えて曰く「如何にというは、謝躬の人となりか」

 朱祐答えて曰く「左様、鄧禹と話せしも一致しましたが、彼の副将、兵士は掠奪に余念無く、命令に服せず。あれは軍に非ず、寇賊なり。それを束ねるは将軍ならず盗賊の頭目渠帥きょすいなり。それと共に並ぶは、只悪名を共にするのみ」

 劉秀、ふむと頷き問いて曰く「如何にすべし」

 朱祐曰く「先ずは同じ所に営を持つべからず。これを捕えて兵を分けるべし。最悪、斬るも可なり」

 劉秀、朱祐がここまで思うとなれば、鄧禹は何を吹き込んだと思うが、吹き込むも何も、悪事千里を走り、劉秀も悪名を聞いたが故、謝躬を殺すのを一旦は認めたのである。


 よって劉秀、城を遷すと同時に謝躬の所に祭遵さいじゅん陳俊ちんしゅんを連れて出向く。

 蕭王来ると言えば、謝躬はすぐさま迎える。劉秀、謝躬の兵の規律無く乱れたる様をむが顔には出さず、謝躬と話す。

 劉秀曰く「卿にだけ伝えることがある。河北未だ撹乱こうらんすれば、これを定むべし。然るに長安は、兵を帰して、我に戻れと命ず。我は河北を失うを恐れて、兵法の謂う所に従いて、帝命を拒んだ」

 謝躬曰く「それは聞き申した」

 劉秀、頷くと続けて曰く「河北を定める為には兵がいる。故に、幽州に兵を発させた。如何に思う」

 謝躬答えて曰く「それは当然でありましょう」

 劉秀、続けて曰く「若し、幽州牧、上谷太守、漁陽太守、それを妨げんとすれば、それを捕え斬らせよと命じた」

 謝躬答えに詰まったが、漸くして曰く「それも可なり」

 劉秀、にこりと笑うと曰く「卿も、そう思われるか」

 そして長安の便りがあるかを尋ねて、閑話して帰る。


 帰り道、馬上で劉秀、祭遵に問いて曰く「謝尚書を如何にすべし」

 祭遵答えて曰く「大王のお決めになることです」

 劉秀更に問いて曰く「もし、弟孫ていそんに任せれば如何」

 祭遵振り返り答えて曰く「唯斬るのみ」

 劉秀同じ事を陳俊に聞けば、陳俊答えて曰く「斬らんと欲すれば、即ち我に命ずべし」


 この後も、劉秀、度々、謝躬に会い慰安する。謝躬、職務に勤めたれば、劉秀称して曰く「謝尚書は真の吏なり」。表面上は謝躬に親しむが、劉秀、依然としてその乱兵を憎み、時に応じて連れる将も、謝躬の兵を忌む。時々、劉秀は兵の乱れていることを問えば、謝躬、欲強ければ、兵また強く、牛角をめて牛を殺すより放すが良しと答える。劉秀ただ左様かと言う。

 都度都度現れる劉秀に、龐萌は謝躬に謂いて曰く「劉公信ずべからざるなり」

 よって謝躬はそれを劉秀に告げると、劉秀は謝躬をさとしてこれを安んじた。復た謝躬の妻も、劉秀に表裏ありと見抜いて諫めるが、謝躬は意に介さず、遂に疑わない。

 兵を調発ちょうはつしながらけいまで同道した呉漢・耿弇・朱浮、苗曾が既に劉秀が兵を発させるを知って、兵を調えて幽州十郡には劉秀に応じぬようにと檄を飛ばしたことを知る。朱浮を薊に置いた両将軍、劉秀には、降れと伝えよ降らざれば捕えるか斬れと命じられたが、相手が呼びかけて降る相手ではなく、また伝者によって互いに連絡するであろうことから、即座に斬る事を確認し、耿弇は韋順・蔡充の居る上谷郡沮陽そように向い、呉漢は漁陽郡を抜けて苗曾の居る右北平うほくへい無終むじゅう県に至る。


 昌平しょうへいに至った耿弇、見馴れた知己を見つけると、言付けて先に抜け道を行かせ、自らは兵を調発した後、ゆるりと百騎ばかりで沮陽に出る。城壁には韋順・蔡充が旗幟はたのぼりを立たせて待ち受ける。

 耿弇声を上げて問いて曰く「帝に命じられた上谷の韋太守殿に、漁陽の蔡太守殿とお見受けするが如何に」

 韋順応えて曰く「左様なり、将軍は蕭王の配下なりや」

 耿弇答えて曰く「如何にも、蕭王の大将軍なり。なれば門を開けよ」

 蔡充笑みて答えて曰く「蕭王に、我らの印綬いんじゅを奪いに遣った者あれば、城を守って迎うべしと告げる者あり。話次第では門を開けるわけに行かぬ」

 耿弇、声を上げて曰く「上谷漁陽の太守は蕭王に応じる者のみ、汝らは蕭王に応じんや」

 韋順・蔡充、声を上げて笑い、曰く「ただ今上帝に応じるのみ」

 耿弇曰く「蕭王の大将軍耿伯昭はくしょう・上谷太守耿俠游ゆうきょう、ならば卿らを斬るのみ。我に応じるものは、旗幟を捨てよ」と手を上げる。すなわち、全ての幟が捨てられる。ぎょっとしたのは韋順・蔡充、ようやく城壁におびき出されしと悟るが、次の瞬間には四方から寄せられて、剣を抜く間もなく、そでを刺されよろいの間を縫われて取り押さえられる。もとより耿況に懐いていた上谷の兵、韋順・蔡充に応じ難く、その中で先に城壁の守兵に集められたのは、耿況・耿弇に忠誓している者であった。耿弇、城内に入ると父耿況ら一族に会い、幽州十郡の兵を調発する策を述べれば、弟の復胡将軍耿舒もその任に当たらんと欲す。耿弇、韋順・蔡充を斬り、耿舒に代郡を任せれば、自らは上谷郡の兵を募る。


 呉漢、僅か二十騎で無終まで至れば、苗曾はこれを備えなきと思い手勢のみでこれを迎える。

 呉漢、苗曾と認めたれば、単騎近づいて声を上げて問いて曰く「幽州牧苗曾なるや」

 苗曾答えて「左様、将は蕭王の手の者なるか」

 呉漢、更に問いて曰く「蕭王を妨げる気か」

 苗曾答えて曰く「我は今上帝の臣下であれば、従うのは帝のみ」

 呉漢何も言わず、膝を叩く。苗曾、何を考えていると呉漢を窺えど、即座に判らず。呉漢の後方から騎馬が猛進して、初めて知る。苗曾の手勢が散じ、苗曾の目が呆然とするのを見るや、呉漢、馬を走らせ、右手で苗曾の手を叩いて手綱を落とさせ、その手でそのまま胴を抱えて馬からすくい上げる。苗曾、手を剣にやろうとするが、剣は呉漢に握られて抜けぬ。あらがえば地面に落ちるだけと気づいて遂には命乞いをする。

 返して呉漢曰く「帝に請うべし」と苗曾を、手元に剣を残して放り投げ、馬を取って返して降りると苗曾の剣でこれを斬る。よって呉漢、苗曾の軍を掌握しょうあくした。呉漢、幽州牧の朱浮と漁陽で会おうと伝者を薊に遣って、自らも漁陽に向う。

 呉漢・耿弇の働きに幽州震え驚き、県・郷は風聞を伝えて帰順しないところは無い。遂に呉漢・耿弇、ことごとく兵を引き出し、南に向う。

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