赤九 光武帝中興記

河野 行成

長安

長安

 長安ちょうあん


 日が昇ると共に始めた武芸の後、男は服を着替えて、再び机に向かう。既に机には筆とすずりを用意させている。棚に仕舞ったまだ新しい竹簡ちくかんを机の上に広げて眺め、腰掛けを引き、筆をって、邯鄲かんたんの文字の後に二文字を付け足し、た夢想にふける。


 時は、更始こうし二年五月、劉秀りゅうしゅう州の殆どとゆう州の西部を下知げちの及ぶ範囲と為した。劉秀は皇帝劉玄りゅうげんぎょう大司馬だいしばであれば、皇帝劉玄は中央の司隷しれい南陽なんよう潁川えいせん漢中かんちゅうよう州、りょう州、へい州に加えて、劉秀の意及ぶ範囲を自らの支配下としたことになる。しかし王莽おうもうの朝廷が揺らぎ倒れて以来、地方に立った群雄は多い。また皇帝劉玄に立てられたりょう劉永りゅうえいは、再度長安が揺らいでいると見れば、劉玄の名を借りて専横せんおうし始める。即ち兵を起こし、弟劉防りゅうぼう輔国ほこく大将軍、また弟りゅう少公しょうこう御史ぎょし大夫たいふ王に封じ、はい県の豪傑周建しゅうけんを呼び寄せ将と為し、済陰さいいん山陽さんようはい淮陽わいよう汝南じょなんを下して二十八城を得る。更に西防さいぼうの賊の頭目佼彊こうきょう横行おうこう将軍に拝し、東海とうかい郡に兵を起こした赤眉せきび董憲とうけん翼漢よくかん大将軍、琅邪ろうや郡の張歩ちょうほ輔漢ほかん大将軍、忠節ちゅうせつ侯に拝す。

 その張歩は劉永にせい州・じょ州をせいすることを許され、弟の張弘ちょうこう張藍ちょうらん張寿ちょうじゅをそれぞれえい将軍、玄武げんぶ大将軍、高密こうみつ太守と為し、泰山たいざん東莱とうらい城陽じょうよう膠東こうとう北海ほっかい済南せいなんせいの諸郡を下し、皇帝劉玄が派遣した琅邪太守、元はとう郡太守の王閎おうこう赴任ふにんはばんだ。


 しかし王閎はきもわっている。それを示す逸話いつわが幾つかある。かつて王閎は中常侍ちゅうじょうじとして侍中じちゅうである兄おう去疾きょしつと共にあい帝の側につかえた。

 時に哀帝がほろ酔いで寵臣ちょうしん董賢とうけんを見やって曰く「吾、ぎょうしゅんゆずったのにのっとろうと欲す。如何いかん」。すなわち哀帝、董賢に天下をゆずろうと言った。

 王閎進み出て曰く「天下は高皇帝の天下であり、陛下の天下にあらざる。陛下は宗廟そうびょうけ、まさに子孫の無窮むきゅうに伝えるべきものなり。天下の統業は至って重ければ、天子は戯言ざれごとすべきにあらず」

 哀帝は白じみ、黙然もくねんとして喜ばず、左右の者は後のことを恐れた。王閎は追われ、以後宴席に侍することを得なかった。

 その哀帝の崩御ほうぎょの際、哀帝はこの佞臣ねいしん董賢に、人に与える無かれと璽綬じじゅたくした。王閎はげん太后たいこうに申して、璽綬を奪うことを請い、すなわち後宮に入り董賢を叱りつけて取り戻した。


 その王閎であれば、張歩にひるまずげきを発して吏民りみんさとし、贛楡こうゆ等六県を得、兵数千を集めて張歩に対抗する。しかし日に日に張歩の勢いが盛んとなれば、王閎、その集めた兵のさんじることを怖れて、張歩と会見し道理をこうと欲した。張歩、大兵を連ねて王閎を招き、怒って曰く「我に何のあやまちあって、前に君にはなはだしく攻められたるや」

 王閎、剣の柄に手を掛けて曰く「閎は朝廷の命を奉じたるに、ちょう文公ぶんこうは兵をようしてあいふせぐ。閎は賊を攻めしのみ。どうして甚だしくとわれるか」

 張歩、黙然たること久しく、席を離れてひざまずいてびる。すなわち張歩、楽をつらね酒をけんじ、上客の礼を以て王閎を遇し、琅邪郡の郡事を掌握しょうあくさせた。

 また、王莽の末、江賊王州公を破った盧江ろこう太守の李憲りけん淮南わいなん王を称し、けい州南郡黎丘れいきゅうに挙兵した秦豊しんほう楚黎それい王と称し、南郡夷陵いりょうでは盗賊上がりの田戎でんじゅう陳義ちんぎがそれぞれ周成しゅうせい王・臨江りんこう王と称した。

 漢中郡南方のしょくには公孫述こうそんじゅつがこれまた長安を虎視眈々こしたんたんうかがう。また潁川は再び赤眉の軍が荒らすところと為った。


 四方に群雄立つといえどもも、これらの群雄・寇賊こうぞくは長安の動きを気にめていた。よって皇帝劉玄が真摯しんしまつりごとを執り行い、謁者えつしゃを遣り、兵を遣り、群雄を帰順させようと勤めれば、まだしも一応の平静は得られた。さらに進んで政策では漢時代をそのまま踏襲とうしゅうすることのみとし、それを以て配下の勇将らに、並びたる群雄を各個に降させれば、大いに中華は統一出来る所であった。

 ところが皇帝劉玄は長安に入ったものの、諫言かんげんする臣、例えば朱鮪しゅいらを外に出すことになり、趙萌ちょうぼうの娘をれて夫人と為した頃から、一層機能しなくなった。もっぱまつりごとは右大司馬趙萌にゆだね、昼夜を問わず婦人たちと後宮で酒宴を繰り広げる。もとより強い主張を行わない、言わばお人好しである。頼りにする寵臣たちをその意向に沿って王侯と為してしまえば、欲を満たされた寵臣は、もとより政治に関心が無いため意見を言わなくなる。寵臣の意見が無いのに決断をうながされて、苦渋くじゅうする中、劉玄は酒に逃げ道を見出した。群臣が事を言おうと欲するも、酔いて会することあたわず。それでもむ無き時には、侍中をとばりの内にさせてこれに語らせる。

 諸将、皇帝の声にあらずと知り、出ればみなうらみ言を言う、曰く「天下の動静未だ定まらずして、かくの如くにわかに放縦ほうじゅうするか」

 かん夫人、取り分け酒をたしなみたれば、皇帝にはべって酒を飲むたびに、中常侍の奏上するを見て怒って曰く「帝まさに我を相手に飲もうと欲す。しかるにこの時に限って事を言い出すか」。立ち上がると、木簡もっかんを取り上げて、床にぶちまけ、ばらけさせる。皇帝劉玄、これをとがめぬ、あたかもそこに在らずの如く。

 遂に朝廷は趙萌の意のままに動かされることになり、当初は皇帝をはばかっていた趙萌も何の咎めもない、それどころか尚書に下される沙汰さた自体が無いと知ると、政は続けねばなるまいと、形振なりふり構わず専横し権を専らとする。

 時に洛陽に出た左大司馬朱鮪・舞陰ぶいん李軼りいつ、皇帝劉玄から明確な下命無ければ山東に権を専らとする。比陽ひよう王匤おうきょう淮陽わいよう張卬ちょうぎょう、歯止め無ければ三輔さんぽに横暴を働く。劉玄の為せること、皇帝の権限である官位爵位しゃくいの任命と言えば、授けるのは物品をもたらす者に、配膳係に料理人。受けたる者、しゅうめんきんばかま・打ち掛けに着飾り、路上に罵声ばせいし出歩く。智者これを見て、服の中身が服に相応しくなければ、身の災いと辺郡にうつって避ける。長安中は皇帝劉玄の叙官じょかんはやして曰く「かまどの料理人は中郎将ちゅうろうじょう。羊の胃をあぶるは騎都尉きとい。羊の頭を炙るは関内侯かんないこう

 


 男は、棚の束ねた巻物を抜き出し、思い至った所を見る。そこにはこう書かれていた「申屠しんとけん李松りしょう、長安より天子のじょう輿ふくを伝え送る」

 男は再び書を巻きながら曰く「人形飾りは、物を思わず。物を思えばこそ、人形飾りにならず。飾り物であればどんな服でも良かろうが、物を思う人ではそうは行かぬ。よって、服の中身が服に相応ふさわしくなければ、まさしく身の災いとなろう」

 男は天井を向き、また竹簡を向き、筆を執れば二字を書く。そしてまた腕を組んで瞑目めいもくする。

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