第26話

2013年2月8日。


 私は20歳になった。親友の中では1番遅い誕生日。やっとみんなとお酒を飲めると思うとやっぱり嬉しい。

 そして今日は玉木青についに会える日でもある。どんな人だろうか、でもあんなに聡明な文章と言葉を紡いで、私を元気付けてくれた人だからきっと、とてつもなく素敵な人に違いない。私は想像の中の玉木青像(天海祐希似)を思い浮かべて、翔子さんの運転する車に揺られながらワクワクしていた。


 会場の駐車場に着いて、入場した。

 なんと最前列。さすが青木さんの計らいだ。

「最前列なら、玉木青の毛穴まで見られるね!」と翔子さんが冗談混じりで言う。

「やばい!あたし『海辺から』しか読んでないけど、緊張する!舘ひろしだといいなあ」

 とちーちゃんが言う。

「絶対女性じゃけ!」と私は言った。

「あ、今日の夜ね、KIRISAWAの営業終了後に杏ちゃんの誕生日パーティーするからね!」翔子さんが言う。

「えっ!嬉しい!」

「うん!男子たちが準備してくれるって!大事なハタチの誕生日だからね」

「よーし、杏!今日は飲むよ!」ちーちゃんは私がやっと飲めるようになり嬉しそうだ。

 

 そんなことを話してるうちにいよいよ始まりの時間になり、司会者の声がホールに響く。

「それでは直木賞作家・玉木青さんのご登場です」


 一瞬にして会場が静まり、緊張感が走る。

 私たちは息を呑んで壇上に視線を向けた。


「大きな拍手でお迎えください!」


 ぱちぱちと大きな拍手が広がる中、袖から現れた人物を見た瞬間─。

 私たちは目を疑った。


 壇上に現れたのは、青木さんだった。


「……え?青木さん?」

 隣でちーちゃんが小声で囁く。


「影武者役もしてんのかな……?」私も思わず答える。


 けれど翔子さんだけは表情を変え、ぽつりと言った。

「……いや、全部辻褄が合う。玉木青は、青木さんだったってことだよ。」


「ええ!?」

 私とちーちゃんの声がぴったり重なった。


 壇上では司会者に促され、青木さん─いや、玉木青が中央の椅子に腰掛ける。

 会場の空気がどよめき、カメラのシャッター音が響いた。


 インタビュー形式の講演会が、静かに始まった。


 スポットライトに照らされた壇上の青木さん――いや、玉木青は落ち着いた笑みを浮かべ、司会者の質問に答えていた。

 最前列にいる私は、耳の奥で自分の心臓が鳴る音がやけに大きく響いていた。


「玉木先生、まず多くの読者の方が疑問に思っていることをお聞きします。今まで正体を明かさずに活動されていたのに、なぜこのタイミングで顔を出されたのでしょうか?」


 会場がざわめき、みんなが固唾を呑む。


 青木さんは一瞬だけ考えるように目を伏せ、それから真っ直ぐに前を見て、落ち着いた声で答えた。


「『海辺から』は、僕にとってこれまでで一番、大切で、誇れるものが書けたと感じた作品です。だからこそ、この物語をできるだけ多くの人に届けたいと思いました。匿名のままではなく、自分の存在を賭けて読者の前に立ちたかったんです。」


 その言葉に、ホール全体が温かい拍手に包まれる。私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 次の質問に司会者が移る。

「この『海辺から』には、どんな思いが込められているのでしょうか?」


「友情をベースにした物語ですが、生きていくことには辛いことも多い。誰だって傷つくし、投げ出したくなる瞬間がある。けれど―腐らずに前を向いていれば、人生には奇跡のような出来事が訪れることがある。その想いを、どうしても伝えたかったんです。……そして、この物語には実はモデルがいます。」


 青木さんの視線が、最前列のこちらに真っ直ぐ向けられた。

「そこに座っている方です。装丁も描いてくれた、美大生の子なんですよ。」


 突然示された指先。

 会場中の視線が、一斉に私に注がれる。


「えっ……」

 私は小さく声を漏らした。背中に冷たい汗が流れるのを感じる。


 司会者がすぐにマイクを取って言った。

「せっかくですから、壇上に上がっていただけませんか?」


「え、いや……」と首を振る間もなく、ちーちゃんや翔子さんが「行け行け!」と背中を押す。


 足が震える。けれど、逃げられない。

 私は客席のざわめきの中、よろよろと立ち上がり、照明に照らされながら壇上へ向かった。

 目の前の階段が、まるで頂上の見えない山のように高く感じられる。


 やばいくらい、緊張してる。

 


「軽い自己紹介を……」と促された。

「は、はじめまして。桐澤杏と申します。大学2年生です。大竹のブックカフェでも働いています。」

「玉木さんとは、どのようなつながりなのですか?」

 司会者からの質問に、マイクが私に向けられる。

 目の前のライトが強すぎて、会場の人たちの表情がまったく見えない。

 そのぶん、注がれる視線の重みだけが痛いほど伝わってくる。


「え、えっと……」

 声が裏返りそうになって、慌てて唇を噛んだ。頭の中が真っ白になる。


 そんな私を見て、青さんが横からすぐに助け舟を出してくれた。

「僕の恩師のお孫さんなんです」

 柔らかく、それでいて自信のある声。

 その一言で会場の空気が和らぎ、ざわめきが小さな納得の吐息に変わった。


 司会者が次の質問を投げる。

「装丁は、夕陽がとても印象的な場面が描かれていますよね。とても美しい仕上がりですが、どのようなこだわりがあったのでしょうか?」


「は、はい……」

 マイクを持つ手が震えているのが自分でもわかる。

「少しでも、この本を手にとっていただきたいと思って……頑張りました……」


 もっと、ちゃんと伝えたいことはあった。

 どうやって色を重ねたか、どうして夕陽にしたのか、本当は胸の中にいろんな言葉があったのに――緊張で全部、喉の奥に引っかかって出てこない。


 そんな私の横で、青さんがじっと優しい目を向けてくれていた。

 


「ありがとうございます。……ほんとにこの作品は桐澤さんなしでは完成しなかったんですね!」

 司会者が明るくまとめてくれた。

「それではどうぞ、席へお戻りください」


 深く頭を下げると、会場から自然と拍手が起こる。

 私は真っ赤になった顔を隠すようにして、足早に壇上から降りていった。

 心臓はまだ暴れていたけれど、その鼓動の裏に、温かい余韻が確かに残っていた。


 ――――――――――――


 講演会が終わると、スタッフが私たちの前にやってきて言った。

「こちらへどうぞ。玉木さんの楽屋にご案内します」


 案内されて裏口から建物に入り、白いドアに「玉木青」と表札のかかった部屋へ通された。

 ドアを開けると、青木さんが椅子に腰かけ、水を飲んでひと息ついているところだった。こちらに気づくと、柔らかな笑顔を向けてくる。


 ―いつもの青木さんとも違う。

 目の前にいるのは「玉木青」という作家その人で、私は思わず背筋を正した。


「ごめんね、みんな。驚かせちゃったよね」

 青木さんが軽やかに言う。


「いや、ほんとですよ! ちゃんと言ってくださいよ!」ちーちゃんが思わず声を上げた。


「ははは。言えなかったんだ。ずっと秘密にしてたことだからね。でも君たちが来てくれて、本当に心強かったよ」

 そう言ってから、青木さんは私に視線を向けた。

 

「杏ちゃん、ごめんね。急に壇上まで出てもらって。……あのさ、今日誕生日だよね?これ、プレゼント」


 差し出されたのは、鮮やかなブルーのティファニーの紙袋。

 あまりにも高価そうで、胸がどきんと跳ねた。


「す、すみません……。ありがとうございます、こんな……」


「装丁のお礼も兼ねてるし、ハタチだしね。気に入ってもらえるといいけど。――夜は、誕生日会でもするの?」


「はい! うちのカフェで営業後にやります!」

 私が答える前に、翔子さんが代わりに言ってくれた。


「そっか。じゃあ、その前に少しだけ杏ちゃんを借りてもいい?誕生日会の始まるまでには車で責任持って店まで送るから。」

 青さんがにこやかに言う。


「私たちは構いませんけど……杏ちゃんは?」

 翔子さんがこちらに確認する。隣のちーちゃんは、何か含みのある笑みを浮かべていた。


「……はい。大丈夫です」

 そう答えるしかなかった。


「ありがとう。じゃあ、少しだけね。夜までには必ず返すから」

 青さんが微笑むと、翔子さんとちーちゃんは安心したように頷き、楽屋を後にした。


 二人きりになると、私は改めて頭を下げた。

「青木さん本当に……ありがとうございます」


「うん。でも、“青木さん”じゃなくて、“青さん”って呼んで?」

 少し照れたように、でも無邪気に笑う。

「良かったら、プレゼント開けてみてよ。」

 促されるまま紙袋を開けると、白いリボンのかかった箱が現れた。震える手で蓋を開けると、小さなダイヤが光を宿すネックレスが収まっていた。


「……きれい。可愛い……」


「よかった」

 青さんは優しく微笑み、そのネックレスを手に取ると私の髪をそっとかき上げた。

 近くで感じる気配に、思わず息が詰まる。


「似合うよ」

 そう言って微笑む青さんの声が、胸の奥まで響いた。

 

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