海と山の記憶
@aya_tws
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父がハンドルを切った瞬間、世界がひっくり返った。車のフロントガラスに広がったのは夜の海。波のざわめきが一瞬にして轟音に変わり、私と母の叫びがその中に溶けた。水が押し寄せ、シートベルトが軋む。父の顔は驚くほど静かで、ただ何かを終わらせることに満足したような表情をしていた。
「お父さん!」
母が必死に叫ぶ声は、水の中で泡となり消えた。私は咄嗟にドアを蹴った。運よくガラスが割れ、水が雪崩れ込む。必死で母の腕をつかみ、光の方へ泳いだ。肺が焼けつくように苦しい。水面に顔を出した時、父の姿はもうどこにもなかった。
なぜ助かってしまったのか。なぜ父と一緒に沈まなかったのか。答えのない問いを胸に抱えながら、私たちは震える体で岸に這い上がった。
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周りには警察やら救急車やら集まってきた。そんなことは気にせず家に戻ろうと電車に乗ったときには、空は裂けていた。天気予報を超える豪雨が、列車を叩きつける。ガラスに張りついた水の筋は、外の景色を歪ませていた。突然、稲光が走り、遠くのマンションが直撃された。轟音とともに炎が吹き上がり、暗い空を赤く染める。車内に悲鳴が広がった。
やがて電車は緊急停止した。
「ただいま安全を確認しています。乗客の皆さまは落ち着いてお待ちください」
アナウンスは震えていた。時間が過ぎても、再び動く気配はなかった。外では濁流が街を呑み込み、行き場を失った水が線路を覆い始めていた。食料を分け合おうとする人もいれば、わずかなパンを奪い合って口論になる人もいた。車内の空気は重く、湿気と恐怖でまとわりつく。私は母の手を強く握りながら、ただ雨が止むのを祈っていた。
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数時間後、乗客は列車を離れる決断を迫られた。
避難先は海と山に挟まれた小さな村。地図にもろくに載っていないような場所だった。人々はまず水を探した。渇きは理性を奪う。多くの人が海に駆け込み、掌ですくった。だが数分もせず、彼らは苦しみ始め、次々に倒れていった。海水には特殊な化学物質が流れ込んでいたらしい。
そのとき、一人の老人が現れた。背を丸めた農作業着の男だった。
「飲むならこっちだ」
彼に導かれて辿り着いたのは、古びた水道。冷たい湧き水が絶え間なく流れ落ちていた。喉を潤した瞬間、体が生き返るようだった。老人はさらに、わずかに残った米を炊き、せんべいを配った。湯気の立つ釜の匂いが、飢えた胃袋を刺激する。だが数が足りず、全員には行き渡らなかった。
私は差し出されたせんべいを受け取り、ふと一枚余分に握ってしまった。手の中で固くて軽いその感触が、心臓の鼓動と同じ速さで響いた。母の視線を盗み、私はそっとカバンに滑り込ませた。誰にも見られていないはずだ。だが胸の奥でざらりとした罪悪感が広がった。せんべい一枚がこんなに重いとは思わなかった。
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数日が過ぎた。
「山を越えれば街へ出られる」
そんな噂が広がり、生き残った人々は決断した。母と私も列に加わった。
しかし山は牙を剥いていた。濃いガスが谷を覆い、視界を曇らせる。足元はぬかるみ、誰かが咳き込み倒れるたびに、他の誰かが立ち止まった。突如、稲妻のような閃光が走り、山肌から火が噴き出した。熱気が押し寄せ、木々が燃え、地面が揺れる。
避難を指揮していた自衛隊の隊員が叫んだ。
「この先だ、走れ!」
だが次の瞬間、爆発が起こり、炎に包まれた。唯一の道しるべを失った群衆は、絶望に立ち尽くした。
私は諦めきれずに山を探った。瓦礫の裂け目、岩の隙間。やがて、小さな抜け道を見つけた。冷たい風が奥から吹いてくる。私は母の手を引き、声を張り上げた。
「こっち!こっちに道がある!」
人々は我先にと押し寄せた。狭い通路はすぐに混乱に包まれる。叫び声、泣き声、崩れ落ちる岩の音。
その混乱の中で、母の手が急に離れた。
「走って!」
振り返ると、炎が背後から迫っていた。母は私を突き飛ばし、笑顔とも苦悶ともつかない顔で叫んだ。
「生きて、お願い」
炎に呑まれる母の姿を、私はただ見ているしかなかった。喉が裂けそうな声を上げても、届くことはなかった。
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抜け道を抜けたのは、ほんの数人だった。
海と山を越えた先に広がっていたのは、瓦礫と泥に覆われた別の世界。生き延びた喜びはなく、ただ重い沈黙が漂った。私はポケットを探った。そこには、あの日カバンに忍ばせたせんべいのかけらが残っていた。湿気て砕け、もう食べられない。けれどそれは、あの罪とあの夜の証拠だった。
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――あれから数年。
私は生き残った者の一人として、語り続けている。
海に沈んだ父のことを。
豪雨に呑まれた村のことを。
そして、母が最後に私へ託した言葉を。
人は生き延びると、必ず誰かの死を背負う。罪を、優しさを、記憶を抱えながら、それでも明日へ進む。
私は語る。
あの日、海と山の間で見たすべてを。それが、私に許されたただ一つの"生き残り方"だから。
海と山の記憶 @aya_tws
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