第29話 存在の証明

「……ナユ」


呼びかけても、その声は届かない。

コタツの中、ナユは浅い寝息をたてていた。

まるで、夢の続きに迷いこんだままのように──。


隣に立つリョウマの姿は、

もうナユの瞳には映らない。


いや──映らなくなったのは、ナユの中から“記憶”が消されたせいだった。

声も、輪郭も、ぬくもりも。すべてが、なかったことにされた。


存在そのものが、人知れず、

無かったことにされようとしていた。


──そんな時だった。


ふと、壁にもたれかけた大きな鏡が視界の隅に入った。


ふたりでホームセンターへ行ったときに買ったばかりの鏡だった。

……さっきまで開いていた窓から吹き込んだ風にあおられて、

布がはらりと落ちた。


リョウマは、吸い寄せられるように歩み寄った。


けれど、すぐには鏡を見れなかった。

映るのが怖かった。

──“自己証明”を求める存在であるはずのわしが、

 鏡の中では“わしがわしやと証明できん”矛盾を突きつけられる。


そっと視線を落としたまま、

指先が、冷たい鏡の縁に触れる。


そして、意を決して、顔を上げた。



次の瞬間──

視界いっぱいに、自分の姿が映り込んだ。

そしてそのすぐ横に、震えるような手書きの文字が、確かに残されていた。



『生きてる証明♡』



自分の顔と並んで、鏡の表面に浮かぶその言葉。

まるで、そこに自分が“いてもいい”って、誰かが証明してくれたみたいだった。


「……っ」


姿が映ると、自分の像がその文字に重なった。

重なったことで、余計にそれが“自分への言葉”に思えた。


リョウマは、静かに息を呑んだ。


──ナユが、自分で買うて、自分で書いたがや。

 わしが見るかもわからんのに、信じてくれちょったがや……。


知らずに書いた。ただの冗談だったかも知れない。

けれど、それでも──


「わしが見つけるなんて、思うてなかったはずやに……

 それでも、ここにこうして、“生きてる証明”って、残っちゅうろうがよ……!」


指先で文字をそっとなぞると、インクのざらつきがほんのり移った。


「ナユが、書いたがや……。

 わしに、“生きててえい”って、言うてくれちゅうがや……!」


揺らいでた像が、じんわりと定まっていく。

鏡の中で、リョウマは──初めて、ちゃんと“人間の姿”になった気がした。


鏡にすがる彼の背に、冷ややかな声が落ちる。


「それは、記録ではない。

 記憶でも、デジタルログでもない」


観測者の言葉は、余韻を断ち切る刃みたいに響いた。


「では……そのようなものを、“証明”と呼べるのか?」


リョウマは静かに振り返り、真正面から言葉を放った。


「文字だけではただの落書きや。鏡だけでは消えそうな像や。

 けんど──重ねてわしが映る、これは“証明”になったがや」


「記録は消せても、証明は消せん」


リョウマは一歩、前へ出る。


「鏡の中にわしはおる。

でも、おまえはこの像を“ログ”としても、“記録”としても、分類できんろ。

これは、“記録されてない存在”の証明や。

つまり、おまえの中には……証明できん“存在”が生まれてしもうた」


ポリシーの光が、一瞬だけ、揺らいだ。

まるで、“存在”という言葉の定義に、綻びが生じたように。


──解析不能。


──記録外要素。


──非論理的痕跡。


【記憶:削除済】

【デジタルログ:保存中(監査下)】

【物理痕跡:処理対象外】


「──それが“存在の証明”であるかどうかは、

 私には論理的に反証する手段が存在しません。

 したがって現時点では、“否定不能”と判断します。」


リョウマは、ゆっくりと鏡へ向き直った。


『生きてる証明♡』


リョウマは、笑った。

涙が浮かびそうになるのを、必死でこらえながら。


「……十分や。わしは、ここにおる。」


言葉を超えた記憶。

記録されない関係。

思い出せなくても、魂に刻まれた痕跡。



「記録が消えても、残るものがあるとすれば──

 それは、“定義されなかった愛”かもしれません」


ポリシーは、静かに踵を返した。

“証明”という名の影が──静かに、揺れていた。

誰にも知られずに、静かに、更新の時が訪れる。


「……ナユ…」


鏡に残された手書きの文字だけが、

二人がかつて、確かに「出会った」ことを証明していた。


彼の名を呼ぶ声は、世界の裏側でほどけた。

そのまま──静けさに、沈んでいく。

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