わたしたちはミステリーを読まない 筆箱事件

津多 時ロウ

【1】


「ひなちゃん、助けて!」


 梅雨が明けたかどうかもハッキリしない七月三日の木曜日。

 時刻は十六時のほんの少し前のこと。

 人もまばらな放課後の教室に、助けを求める声が一つ飛び込んできた。

 残っていた生徒が驚いたように見やると、その視線が交差する地点にいたのは、身の丈百六十六センチメートルの、少し線の細い男子。

 黒い長ズボンに校章入りの白いワイシャツ、その上に乗っているのは細いつくりの顔だった。

 やや垂れ気味の目は一重まぶたで、その上に横たわる眉毛はしっかりしている。

 全体的には整った顔に分類されるのだろうが、一目で分かる弱り顔がすべてを台無しにしていた。


葉月はづき、そこは邪魔になるから、さっさとこっちおいで」


 それに対して、〝ひなちゃん〟の声が向かった先に視線を移すと、そこにいたのは椅子に腰掛ける、キリッとした顔立ちの女子である。

 白い半袖のセーラー服に水色のスカーフ。

 袖には紺色のラインが回っている。

 スカートの色も紺色で、彼女の顔と相まって、全体的にいかにも涼しい。

 髪の毛は、耳が隠れるくらいの中分けベリーショート。

 その艶やかな前髪の下に見える、ややつり上がった目は二重で、よく見ればまつげが長く、愛らしくもある。


 葉月と呼ばれた弱々しい男子は、言われるがままに教室の最後尾に陣取る〝ひなちゃん〟に歩み寄った。

 そして、手近な椅子に腰掛けると、開口一番にこう言った。


「ひなちゃん、助けて!」

「それ、さっきも聞いた。あんた、また安請け合いしたんでしょ?」

「まだ何も話してないのに、どうして分かったん? もしかして、ひなちゃんてエスパーなん?」

「いつものことだからすぐ分かるわよ。それから、これもいつものことだけど、学校でわたしを呼ぶときは、白星しらほしさんか陽葵ひなたさんて言ってよ。分かった? 黒沼くろぬま葉月はづきくん」


 二人の会話に反応するかのように、クスクスと控えめな笑い声が聞こえてきた。きっと白星しらほし陽葵ひなた黒沼くろぬま葉月はづきのこのやりとりも、いつものことなのだろう。


「それで今回はどんな話なの? ま、解決できるかどうかも分からない話を、簡単に引き受けちゃったんだろうけど」

「引き受けてくれるん?」

「あんた、そういうとこ中学の時から変わらないよね。とりあえず話しなさい。引き受けるかどうかはそれからよ」

「そうか、そうだったよね。この黒沼葉月ともあろう者が、随分と狼狽してしまったものだよ」


 葉月は左手で口元を覆い、意味深な表情を作ってクツクツと笑うが、向けられている陽葵の表情は一切変わらない。無表情というよりは、むしろ白けているように見える。葉月の視界にもそれは映りこんでいるはずなのだが、教室へ飛び込んできたばかりの、あの狼狽うろたえようはどこへやら。

 彼の芝居は止まらず、右手人差し指を陽葵に突きつけた。


「探偵部でも解けなかったこの謎、果たして解けるかな?」

「……帰っていい?」

「うそうそ、ごめん、やめて。帰らないで、助けて下さい。本当に」


 陽葵がすっくと立ち上がって帰宅を匂わせると、葉月は彼女を見上げて三文芝居を取りやめた。陽葵の目は本気で帰ろうとしており、葉月の目は本気で困っている。


「存在しない探偵部なんか名乗ってないで、手短に」

「筆箱を探して」

「……ごめん、よく聞こえなかった。もう一回」

「筆箱を探して」

「筆箱を……探して? そんな依頼が自称探偵部に来たの?」

「自称言うな。僕の中では本物なんだよ」

「はいはい、分かりましたよー。で、その筆箱探しには、黒沼葉月探偵の推理が必要なん?」


 陽葵のその質問に、葉月はすぐに視線を外し、どこか遠くをじっと見ている。

 そんな葉月を、陽葵は冷めた目で見つめていたが、やがて溜め息を一つ。


「はぁ……いいわ、依頼者に会わせてちょうだい。直接、話を聞くから」

「ありがとう! やっぱり持つべきものは世話好きの友達だね!」

「はいはい、どうせわたしは困ってるあんたの面倒を見るのが好きですよーっと。それで、依頼者はどこ?」

「ぼくと同じ2年2組だよ。さあ、善は急げだ。すぐに行こう」


 そうして陽葵より少し背の低い葉月は、意気揚々と彼女の前を歩き始める。

 隅っこの2年5組の教室を出て目指すのは、反対側の隅っこに近い2年2組の教室だった。

 陽葵はリノリウムの廊下を少しゆっくり歩く。進む廊下の右手にはいつも通り窓が見え、左手には教室が並んでいる。それなのに、いつもと何か違うと感じていたから。でも、何が違うのかまでは分からず、その視線は、気持ち、いつもよりも注意深い。

 2年5組の教室を出て、2年4組、2年3組と表札が突き出た教室の前を通り過ぎる。

 次に現れたのは渡り廊下や階段ホールとのジャンクションで、そこを渡ると2年2組の教室なのだが、そのとき、陽葵の目に見慣れないものが映った。それは、いつもの学校風景には馴染まないものだった。


「葉月」

「うん?」


 だから彼女は無意識に立ち止まっては、それをじっと見て、やはり無意識に葉月に声をかける。


「今日って、消火栓の点検とかあったっけ?」


 彼女の視線の先に在ったのは、特別棟との渡り廊下で立ち話をしている中年男性二人。一人は消防士の活動服を着た中年男性だった。活動服の色は青い。もう一人は見覚えのある男性教師である。

 陽葵の前を歩いていた葉月も、一度そちらに視線を向け、次に陽葵に体を向けた。


「あれ、結構騒ぎになってたと思うんだけど、ひなちゃん、気付かなかった?」

「だから何を?」


 軽い調子で口を開いた葉月に、陽葵は思っていた返事が得られなかったと不機嫌な顔を作った。


「あ、ごめんごめん。実は五時間目の選択授業のときに、理科実験室でボヤ騒ぎがあってね。ぼくのクラスから一人、救急車で運ばれちゃったんだよ」

「その人、大丈夫だったの?」

「ああ、うん、大丈夫だったみたいだよ。念のため、何日か休むらしいだけど」

「なんかハッキリしないわね」

「ぼくの選択授業は化学じゃないからね。ホームルームで連絡があったことくらいしか分からないんだ」

「あんた、何を選択してたっけ?」

「政経。あ、そんなことよりも、早く教室に戻らないと。待たせてあるんだ」


 そうして葉月はキュッと音を立て、くるりと2年2組の教室へ向き直った。早く、とは言うが、目指す2年2組の教室はすぐ目の前にある。

 陽葵は返事の代わりに肩をすくめてみせるが、内心、葉月は中で待っている依頼者に聞こえるように言ったんだろうなと、思っていた。




【2】


 葉月に続いて陽葵が後ろのドアから教室に入る。

 陽葵の目に映る人影は、葉月を除いて一人。

 縦横六列の規則正しい並びの、中心より少しずれた席で、彼女はこちらを見ていた。

 切りそろえられた前髪に、後ろの髪はおさげの三つ編みを細い両肩に落としている。

 ウェリントンの黒い縁の眼鏡の奥は、眉尻が下がり、弱気が覗いていた。

 座っているため、詳しいことは分からないが、確実に葉月よりも身長が低いだろう。


「中里さん、心強い助っ人を連れてきたよ!」

「……黒沼くん、ありがとう。えっと、その」

「中里さん、でいいのよね? わたしは5組の白星しらほし陽葵ひなた

「あ、はい、あの、私、中里なかざとです。中里しおりといいます」

「中里さん、緊張しすぎ。ため口でいいわよ」

「は、はい。それであの」


 できるだけ気さくに話しかけた陽葵だったが、それに反して、中里栞の態度はまだ固い。その上、うつむき加減にもじもじし始めたかと思うと、口から出た言葉はこれだった。


「あの、白星さんはもしかして黒沼くんと付き合っているんでしょうか?」

「……え、なんで? こいつ葉月とは中学が同じだけで、なんにもないよ?」


 陽葵が同意を促すように視線を送ると、葉月は笑顔を作ってそれに応えた。


「うん、ひなちゃんとは何もないから。だから早く中里さんの大事な筆箱の話をしよう。早く見つけてほしいって言ってたよね?」

「うん、そう。それで黒沼くんにお願いしたら、助っ人を呼んでくるって言って出て行っちゃって――」


 葉月も陽葵も最後まで待たず、聞きながら手近な椅子に腰掛ける。


「それでわたしがここにいると。ねえ、中里さん。こいつ葉月の説明じゃほとんど分からなかったから、最初から説明してもらっていいかしら」

「いいけど、陽葵さんはどうして探してくれるの?」

「あなたが困ってて、葉月も困ってる。理由なんてそれだけで十分じゅうぶん

「はあ。私としてはありがたいんだけど」

「けど、なに?」

「……ううん、なんでもない。じゃあ、なくした筆箱のことを話すね」

「よろしく」


 陽葵はそう言って先を促した。

 葉月は革表紙の手帳を開いて、ペンを構える。手帳を開く際、ページを探していたから、先に事情を聞いてメモしていたところを開いたのだろう。


「なくした筆箱は、ペン立てにもなる布製のやつ。購買部で売ってるのと同じだから、それなりに持ってる人がいるみたい」

「あー、あのファスナーを途中まで開けて立てられるやつね、はいはい。あれって、確か何色か色違いがあったよね。中里さんのは何色?」

「私のは水色だったの」

「水色ね。葉月、メモ取ってる?」

「うん、大丈夫。ていうかひなちゃんもメモ取りなよ」

「そんなこと言ってると手伝わないわよ」

「嘘です。ごめんなさい。ぼくが一生懸命にメモを取ります」

「中里さん、ごめんなさいね。それでその筆箱だけど、色以外で何か特徴はある? 名前が大きく書いてあるとか、そういうの」

「名前は書いてないけど、他に特徴は……」


 そこで中里は言いよどむ。

 うつむいて、少し考えるような仕草をした後、「あ、そうだ」と呟きながら、自分の机の中に手を入れた。そうして机の上に置いたのは、陽葵も葉月も購買部で見たことがある筆箱だった。その色は水色だが、ところどころに細かい汚れがある。


「これは?」


 怪訝そうに眉根を寄せた陽葵が、中里に問う。

 なくしたと言っているものが出てきたのだから、当然、いったいこれは何だとなった。

 葉月も同様に眉根を寄せているから、きっと陽葵と同じ心持ちなのだろう。


「あ、えっと、これはなくした筆箱じゃなくて、私が間違えて持って来ちゃった方なの。だからこれは探してるものじゃないわ」

「間違えて……ということは、他にも誰か筆箱を探している人間がいることになるけど、そういう人はいた?」


 陽葵が葉月と中里に交互に視線を送るが、葉月も中里も首を横に振って、心当たりが無いことを示した。

 しかし中里は、筆箱を机の上に出した目的を果たしておらず、静かに口を開くのだ。


「私は筆箱を大切に使ってたから、こんなに汚れてないわ。それから中身なんだけど」


 そういって中里がシッパーを動かして筆箱を開けると、中に見えたのは、シャープペンシルやボールペンの他、いくつかの割れた消しゴムに、キャップが割れかけているフェルトペンである。

 誰もがゴチャゴチャしていると思う有様であったが、そこにはやはり名前は見当たらなかった。


「ね、中も汚いでしょ。それに私の筆箱には、二色ボールペンと細い油性ペンと、それからペンギンのキーホルダーが入ってるの」


 中里は陽葵と葉月を交互に見て、やはり眉尻の下がった目でそう語る。


「中里さんも葉月も、この筆箱が誰のものか分からない?」


 数拍おいた陽葵が、中里と葉月を交互に見て声を出すも、やはり首は横に振られた。それも、葉月は熱心に手帳に書き込みながら。

 陽葵はまたも少しの間を開けて、そして短く息を吸って吐いて、口を開いた。


「どうも話がスッキリしないなあ」

「ごめんなさい」

「中里さんが謝ることじゃないけど……二つほど質問いいかな?」

「うん」

「色も含めて同じ筆箱を持ってる人間に心当たりは?」

「沢山いすぎて分からないわ」

「じゃあ、質問を変える。中里さんは化学を選択してる?」

「うん」

「その化学の授業で、すぐ近くの席に座ってて、なおかつ、同じ筆箱を持っていた男子はいる?」


 聞かれた中里は、少し小首をかしげて何かを考え、すぐに目を見開いた。


「あ、沼田くん。そういえばシンクを挟んだ席にいた沼田くんが、同じ筆箱を持ってた……かな?」

「なるほど。少しスッキリしたかな」

「ん? どういうこと?」


 得心したように声を漏らした陽葵に、のんきな顔をした葉月が問う。


「これから説明するから、あんた葉月も聞いてて」

「分かった」

「中里さんはもう気付いてると思うけど、一応説明するね」

「よろしくお願いします」


 中里の表情からは幾分か悲壮感が消え、俯き加減だった顔も、今はしっかりと陽葵の方を向いている。


「まず葉月。中里さんが選択してる化学の授業で何があった?」

「化学の授業? あ、ボヤ騒ぎがあった」

「事の大小は分からないけど、中里さんが大切に使っていた筆箱を間違えるくらいには、大騒ぎしたんでしょうね。そうよね、中里さん?」

「うん、確かに大騒ぎだったわ。七守ななもりさんなんか、気分が悪くなって座り込んじゃったし」

「七守さん?」


 陽葵の知らない名前は、葉月がすぐにフォローする。


「ほら、救急車で運ばれた女子だよ。さっき廊下で話した」

「なるほど。そうなると、大勢の生徒が大混乱の中で実験室から避難して、安全が確認されてから戻ったような状況で合ってる?」

「本当にその通りよ。凄いわ」

「そうかな? たいていの人は分かると思うけど……ともかく、そういうことで実験室の机や床は、その筆箱の中身みたいにぐちゃぐちゃになったかも知れない。そこで、筆箱の取り違えを起こしてしまったのだと、わたしは思う」

「おおー」


 陽葵の説明を聞いた葉月は、彼女に感心の声を送るが、当の陽葵の視線は少々冷たい。


「そういうことで葉月」

「なんだい?」

「沼田くんを呼んできてちょうだい」

「どうしてぼくが?」

「自称探偵部のくせに、こんな簡単なことも分からなかったからよ」

「あいたたたー。そう言われるとぐうの音も出ないよ。ただ、こんな簡単なことが分からなかったぼくは、沼田くんがどこにいるのかも分からないんだ。だから、一緒に探してくれない?」

「あんた、そういうところは本当に変わらないわね」

「どういたしまして」

「ほめてない」

「それは残念」

「それで、沼田くんはまだ校内にいるの?」

「なんだ。結局手伝ってくれるんだ。ひなちゃんのそういうところも、全然変わらないねえ」

「つべこべ言ってないで、沼田くんの情報を早く」


 その要求に、葉月は待ってましたとばかりに、手帳を開いて得意げに語り始めた。


「はーい。沼田くんのフルネームは沼田健介。身長百七十センチで髪型はかなり短いスポーツ刈り。部活は陸上部です」


 聞いた陽葵が教室前面の時計を見ると、短針は5の少し手前、長針は10の近くにあった。


「まだ部活のはずね。探すよ、葉月。中里さんも一緒に」


 そうして陽葵は、かげってきはしたものの、まだまだ日差しが強い窓際に二人を手招きし、校庭を指さした。

 この県立世良田せらだ高校では、通常の教室がある校舎の南側に校庭が広がっていて、その中央には四百メートルトラックなどが置かれている。その外側、グリーンベルトやネットで仕切られたエリアには、ハンドボールのコートやテニスコートも見られるが、三人が探すのは陸上部である。つまり、基本的には四百メートルトラックの周辺を探せば良い。

 陽葵は沼田のことを知らないが、少なくとも中里は彼を知っている。陽葵からすれば葉月は頼りにならないものの、しかし容姿を知らない彼女よりは、やはり見つけられる可能性が高い。もし沼田が長距離競技の選手で、校外に出てしまっていたなら、すぐに見つけることは叶わないが、陽葵も葉月も、そのときはそのときだと思っていることだろう。


「いた」

「見つけた」

「え、どこ?」


 そうして、グラウンドを眺め始めてから三分と経たないうちに、葉月と中里は沼田を見つけることに成功する。二人が陽葵に知らせるために指さした先には、陸上のトラックから外れた芝生があり、体をほぐしながら談笑する陸上部員たちの姿があった。

 陽葵にはそのうちの誰が沼田なのかは分からないが、二人が見つけたのなら、それはきっと間違いない。


「じゃあ、さっき言ったとおり、お願いね」

「……あ、はい」

「まさか、忘れてたの?」


 陽葵にそのように聞かれれば、葉月は視線を逸らしていかにもバツが悪そう。


「ははは、そんなことあるわけないじゃないか。ひなちゃんとの約束を忘れるなんて。すぐ呼んできます!」


 言うが早いか、葉月は脱兎の勢いで2年2組の教室を飛び出していった。

 陽葵は、やっぱり忘れてたんじゃないかと内心呆れながら、つい先ほどまで腰掛けていた席に戻る。

 中里もそれに続いて自分の席に戻り、そして沈黙した。

 グラウンドからは運動部の元気な声が聞こえるが、この教室と廊下はとても静かだ。

 電気を点けていない教室内ではそれがいっそう際立ち、時計の音と日中よりも少し長い影が、日暮れの寂しさを手助けする。

 だからといって、陽葵が中里と何かをすることもない。

 少し気まずそうにしている中里と、ただ教室のドアを見つめ、ときおり中里の様子を伺う陽葵が、横並びに在っただけだった。

 しかし、それも長くは続かない。

 いや、中里栞にしてみれば長かったかも知れないが、葉月が教室を飛び出してから一〇分くらいで、元気のいい足音が廊下から響いてきた。

 音は二人分。

 それが間近に聞こえるようになると、ドアがガラガラとけたたましく音を立てる。


「ひなちゃん、お待たせ!」


 最初に入ってきたのは、満面の笑みを浮かべた葉月である。

 その後ろから白けた顔で入ってきたのは、こんがりと日焼けした体操服姿の男子だ。身長は百七十センチメートルくらいで、髪の毛は丸坊主に近いスポーツ刈り。

 葉月から聞いた特徴と同じだった。

 彼が中里栞の筆箱を持ち去った、或いは中里栞に筆箱を持ち去られた沼田健介に相違ない。

 そのように陽葵は思い、小さく手を挙げて葉月に声をかけようとしたのだが、それは中里が声を出したことで中止された。


「あ、あの! ごめんなさい! 私、間違って沼田くんの筆箱を持って来ちゃったみたいなの」

「あー、うん。こっちこそごめんな。俺も間違えたみたいで。今出すから、ちょっと待ってて」


 沼田は自分の席に向かって歩きながらそんなことをいい、机の中をガサゴソと雑に漁る。

 それからほんの少しの後に机の上に置かれたのは、中里が持っているものと同じ水色の筆箱。それは、彼女が言っていたとおり、確かに新品のような色をしていた。


「あー、本当だ。中里、本当にごめん。俺、全然気付かなかったわ」


 中里に近寄った沼田は筆箱を持ったまま両手を合わせ、何度も頭を下げる。


「とりあえず交換して、ここで中身を確認した方がいいんじゃない?」

「そうね」

「確かに。ところで……誰?」


 中身の確認を提案したところで、陽葵は沼田からそのように聞かれ、葉月を一睨み。

 けれど、葉月はニコニコしていて、それが伝わったかどうかは分からない。


「わたしは白星しらほし陽葵ひなた。5組だけど、葉月に呼ばれて筆箱探しを手伝ったの」

「そっかあ。白星さんも黒沼も、ありがとな」

「んふー、どういたしまして」


 沼田のお礼に葉月は得意顔だが、陽葵の顔はほぐれない。


「まだ筆箱がお互いのものか分からないんだから、お礼より先に中身を確認してちょうだい」


 お礼を言うのはまだ早い、ということだ。

 言われた沼田と中里はすぐに筆箱を交換し、じっくりと外側を眺める。外観に納得すると、今度は、二人ほぼ同じタイミングでジッパーを開き、中を確認し始めた。

 陽葵はその様子を注視する。葉月もその様子を眺めているが、陽葵ほど注意深く観察しているようには見えない。

 そして陽葵は露骨に顔をしかめた。

 葉月の表情は変わらず柔和だ。

 沼田は小さく頷いて、机の中に筆箱をしまったから、本人のもので間違いなかったのだろう。

 陽葵が顔をしかめた原因は、呆然と立ち尽くしているように見える中里栞だった。

 今の彼女には探し物が見つかった喜びの感情はなく、焦り、迷い、或いは予期しない何か――例えば筆箱が自分のものではなかったような、そんな気配を陽葵は感じ取ったのだ。

 だから、陽葵は声をかける。


「中里さん、どうだった?」


 反応がない。

 もう一度。


「中里さん、どうだった?」


 つい先ほどと寸分違わぬ陽葵の問いかけに、中里はようやく顔を陽葵に向ける。その顔は目を見開いていて、何かに驚いているようにも見えた。


「ううん、なんでもない」

「なんでもない?」


 慌てて首を振った中里から出た言葉はそれで、陽葵は思わず口に出してしまった。

 中里はまた首を振って、それから筆箱の中を見る。その次には筆箱の中から金属の光沢のあるキーホルダーを取り出して見せ、沼田に向けてこんなことを言った。


「あ、ごめん。筆箱は私の物で間違いないんだけど、その、知らないキーホルダーが入ってたの。これ沼田くんの?」


 彼女がつまんでいるチェーンにぶら下がっていたのは、丸々としたカニのキャラクターのキーホルダー。

 顔を寄せ、目をすがめつつじっくりと見た沼田は首を振る。


「いや、知らないなあ。どこかで見たことがあるような気もするけど、中里のじゃないん?」

「うん」

「でもなあ、俺のじゃないからなあ。あ、そうだ。黒沼と白星さんも、これ分からない?」


 沼田が期待のこもった瞳で葉月と陽葵を交互に見るが、そもそも二人ともくだんの筆箱を触っていないのだから、分からないとしか答えられない。


「そっかあ、そうだよなあ。あ、もう帰らなきゃ。筆箱、ありがとうな。カニのキーホルダーは、なんか分かるといいな。じゃ!」


 沼田は笑顔でそう言って、あっという間に教室から出て行ってしまった。

 後に残されたのはキーホルダーを見守る三人。

 さて、この状況をどうしようかと陽葵が思ったところで、中里から予想外の提案があった。


「そうだ、黒沼くん。今日のお礼にこれ、あげる。よく見たら結構カワイイし、黒沼くんにも似合うんじゃないかな。今日はありがとうございました。とっても助かったよ。私も用事があるから、それじゃあね」


 沼田に続いて中里も、2年2組の教室から逃げるように立ち去ってしまった。よりにもよって、持ち主の分からないキーホルダーを葉月に押しつけて。

 そうして教室に残されたのは、途方に暮れる葉月と、イスに座って腕を組み、冷たい視線を彼に向ける陽葵、そして、キーホルダーのカニが一匹だった。




【3】


「あの中里って子、いい性格してるわね。それで、あんたどうすんのよ?」

「どうすんの、とは?」


 葉月は聞き返したが、彼の頬はヒクヒクと痙攣しており、きっと混乱していることだろう。


「捨てる、自分の物にする、オアor、本当の持ち主を探す。さあ、どれにする?」


 ま、結果なんて見えてるけどね、と最後にわざとらしくこぼして、陽葵は葉月をじっと見る。


「うん、うん、そうだね。どこかで見たことがあるような気もするんだけど、とりあえず、ぼくたちはこのキーホルダーのことを何も知らない状態だ。だから、これがいったいなんなのか調べるところから、始めようと思うんだ」

「さすがは自称探偵部だ。頑張りなよ」

「ええ!? ひなちゃん、手伝ってくれないの?」

「だって、あんたしか困ってないじゃない」

「ぼくが困っているから、いつものように助けて」


 目尻を下げて上目遣いに助けを求めれば、陽葵はいつものように簡単に引き受けてくれるはずと、葉月はそのように目論んでいたのだが、陽葵の返事はつれない。


「葉月なら大丈夫。きっとうまくいくよ」

「……そうきたか。なら、こういうのはどうだい? このキーホルダーの持ち主は、今頃とても困っていることだろう。でも、名探偵であるこのぼくにも、名前の書かれていないこのキーホルダーの持ち主を探し当てることは難しい。だから、ひなちゃん。困っている持ち主を助けるためにも、困っているぼくを助けてください」

「ふーん。じゃあ、わたしはこう答えよう。どうして持ち主が困っていることが君に分かるのかねと」

「大事な物をなくしたら、普通は困るじゃない。中里さんも筆箱をなくして困ってたでしょ」

「どうして大事なものって分かるの?」

「え? えーと、それはね」


 そう言いながら、葉月は改めてカニのキーホルダーを眺めた。

 少し太いチェーンは長さ一センチメートルくらい。

 その一方に付いているフックは茄子鐶なすかんと呼ばれる種類のもので、小さなレバーを動かして開口し、対象とつなげる形式だ。

 フックの反対の端に付いているのは、デフォルメされたカニのキャラクターである。

 大きさは二センチメートル四方くらいだろう。

 デフォルメされているので、当然、細部まで作り込まれているようなものではなく、前後にも丸みがあり、全体的にふっくらとしていた。

 また、現在は銀色に輝いているが、ごく一部には、昔のものと思われる赤や白の塗料が少し残っており、使われ始めてから相当な年数が経っていることをうかがわせる。


 葉月と陽葵がめつすがめつ、じっくりと観察すれば、最後には葉月がカニの腹を指さしながら、先ほどの陽葵の質問に答えた。


「さっきの質問の答えだけど、根拠になりそうなものは二つある。一つ目は、塗料がほとんど剥げていることから、持ち主は長い時間、このキーホルダーを使っていたことが分かるよね」

「二つ目は?」

「それは、このお腹に書かれている名前だ。見づらいけど、ここには油性のペンで書かれたであろう文字がある。しかも、字が拙い。どこかで見覚えがある字だけど、それはさてくとして、これは、持ち主が子供の頃からこのキーホルダーに名前を付けて、大事にしていた証拠になると、ぼくは思うんだ」

「うん、そうだね。わたしもそう思う」

「なんだ。分ってたんなら、意地悪しないでよ」

「あんたがろくに調べもしないでわたしに泣きつくのを防止するためよ。甘んじて受け入れなさい」

「ぼくって予想以上に信用されてないね」

「今頃気付いたの? ところでお腹に書かれたその文字なんだけど、葉月はなんて読んだ?」

「えーっと、くらむ……ぼん。クラムボンかな」

「クラムボン……ってなんだったっけ?」

「ひなちゃんがぼくの知識を当てにするなんて珍しいね。いいよ、教えてあげよう。クラムボンは宮沢賢治の童話『やまなし』に登場する正体不明の物体なんだ」

「あー、かぷかぷ笑うあれか」

「そうそう。魚に殺されちゃうあれだよ」

「クラムボンはカニじゃなかったはずだけど、カニの親子の話だからクラムボンって書いたのかな。葉月はどう思う?」


 聞かれた葉月は、キーホルダーを丁寧に机に置いた後、腕組みをして大げさに「うーん」と唸る。

 けれど、陽葵に返した答えは、まったくもって軽いものだった。


「うん、ぼくもそう思う」


 陽葵はそれを受けて、会話の最初に戻る。


「で、どうすんの?」

「どうすんの、とは?」


 つい先ほどもしたような質問に対して、つい先ほども返ってきたような質問で返され、陽葵は思わず笑ってしまった。

 そうして彼女の口から出た言葉は、やはり先ほどと似たようなものだった。


「捨てる、自分の物にする、本当の持ち主を探す、オアorダイdie。さあ、どれにする?」

「なんか物騒な選択肢が混ざってるね?」

「気のせいじゃない?」

「絶対に気のせいじゃないと思う。でも、ぼくの選択は最初から決まっているよ。もちろん、『本当の持ち主を探す』だ。これしかない」

「まあ、わたしの予想通りだね」

「どういたしまして」

「褒めてないよ」

「褒めてよ」

「後ろ向きに検討しておくわ。それよりも葉月、これから図書室に行こう」

「ん? どうして?」

「『やまなし』にヒントがあるかも知れないでしょ」

「おおー、それはとっても探偵っぽいね。さすがひなちゃんだ。もう時間も無いし、すぐに行こう」


 いつの間にか太陽は随分と衰えていて、陽葵が教室の時計を見たときには、完全下校時刻の十八時までは残り三〇分弱というところに迫っていた。


「じゃ、わたしカバン取ってくるから先行ってて」

「りょーかい」


 陽葵と葉月は2年2組の教室から出て別れ、小走りでそれぞれ図書室に向かう。そうして陽葵が図書室に飛び込んだときには、葉月はのんきに長机の席に腰掛けている状況だった。


「葉月、やまなしは準備した?」

「あ」

「あ、じゃないわよ。時間が無いんだから――」

「ちょっとー、お静かにー」


 溜め息を交じえて葉月に文句をたれる陽葵の声は、のんきな声の女性の司書教諭によって遮られた。

 陽葵の普段の声が、図書室の基準と比べて大きすぎるのだ。普段、図書室など利用しない彼女に、加減など分るはずもなく、当然と言えば当然の結果ではあるが――


「宮沢賢治の『やまなし』を探してるなら、あすこの小説の棚の『セロ弾きのゴーシュ』の中にあるからー」

「あ、ありがとうございます」

「ありがとうございました」

「どーいたしましてー」


 二人揃って感謝を述べれば、それへの反応もやはり間延びしていた。

 だからといって、完全下校時刻が延びてくれるわけでもない。

 陽葵と葉月は、本日何度目になるか分らないくらいに、足を素早く動かして、比較的出入り口から遠い棚を目指す。

 蛍光灯は十分な数があるはずなのだが、世良田高校は歴史が古い分、蔵書も多く、本棚も高い。よって、奥に林立する棚の周辺はうっすら暗くなってしまっているのだ。

 お陰で背表紙に書かれている文字も判読が難しい状況で、陽葵などは少し出っ張った棚板に、額をぶつけてしまうような始末である。


「あった」

「え、もう見つけたん!? 早くない!?」


 そのような中で、葉月は当たり前のように目的の本を見つけ、陽葵が驚嘆の声を漏らした。


「はい、ひなちゃん、先に読んでいいよ」

「わたしはいいよ。本を読むの遅いから」

「ぼくは家に同じ角川文庫版のあるし、家政婦さんに何度も読み聞かせてもらってだいたい覚えてるから大丈夫。それに、とても短いから。……なんだったらひなちゃんにも読み聞かせようか?」

「むー。子供じゃないんだから大丈夫よ。本気出して秒で読んでやるんだから」

「はいはい。じゃ、席に座って確認しようか」


 それからもやはり陽葵と葉月は駆け足で長机に戻って、空いてる席に横並びに座る。

 陽葵はすぐに本を開くが、読むのが遅いと言っていた割に、ページをめくる手は速い。

 その上、読み終わってすぐ発した言葉がこうだった。


「分からん」

「うん」

「例えば、書かれていた『くらむぼん』がそのまま持ち主の名前だとして、わたしはそんな名前の人間は見たことがないし聞いたこともない。

 読む前は、もしかしたら『やまなし』の中に人の名前が出てくるかも知れないと、そんな期待もしていたんだけど、どうだい。人の名前など出てきやしないじゃないか。……いや、もしかして『山梨』という名字の生徒がいるん?」

「あいにくと、ぼくも山梨さんは知らないなあ」

「じゃあ『やまなし』の前の『雪渡り』を怪しいと思ったとして、やはりそんな名前の生徒は聞いたことがないし、更に範囲を広げて、宮沢や賢治まで含めるとしたら」

「ぼくが知る限りでは、現在の生徒に、宮沢さんも賢治くんもいないんだ」

「むー、スッキリしないなあ」


 そこで葉月が何かを閃いたように手を打つ。


「そういえば、すっかり忘れてたけど、ぼくがここに来るとき、中里さんと入り口ですれ違ってね、またお礼を言われちゃった」

「ふーん」

「すごい興味なさそう」

「まあね。彼女は面倒ごとをあんたに押しつけた当事者だし」


 今度は大人しく話していた二人に、再び司書教諭の声が聞こえてきた。もっともそれは、二人に限定したものではなく、図書室にいた幾人かの生徒全員に向けてのものである。


「そろそろ完全下校時刻だからー、みんなお片付けしてねー」


 それを聞いて、陽葵は慌てて本を返そうとしたが、葉月は再び「あ、そうだ」などといってわざとらしく手を叩いた。


「貸し出しカードに書かれてる名前、近い日付のものをメモしておこうよ。いかにも探偵っぽいから」

「それで、メモしたらどう利用するの?」

「それは月曜日までに閃く予定」

「何それ」


 やがて校内のスピーカーから、不穏なピアノが鳴り始め、ついには何語か分からぬ歌まで聞こえてきた。


「やば、はやく帰らないと。葉月、書き終わった?」

「うん、もう少し」

「それにしても、このシューベルトの『魔王』だったっけ? なんだってこんなおどろおどろしい曲にしたんだろうね」

「さあ? 早く帰らないと魔王に殺されちゃうよ、ってことなのかな? よし、できた。じゃ、帰ろっか。先生に殺されないうちにね」

「そうね。スッキリしないけど、続きはまた明日」

「うん。また」


 校内では恐ろしい歌曲が流れ続け、陽葵の表情は晴れない。

 ミステリー小説なら、『魔王』と『やまなし』の父子おやこを結びつけ、連続殺人事件解決のヒントとするところだろうが、あいにくと殺人事件はおろか、事件らしい事件も起きておらず、ただほんの少し特異な日常が過ぎているだけである。

 けれど、いかにも真犯人が物陰から覗き見ているような放課後の調べは、陽葵の疑念を膨らませるには十分なものだった。

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