夏の日

@Samrai

第1話

午前5時。いつも通り起床して、顔洗って着替えてランニングシューズを履く。かれこれ大学入学後4か月続いている。この時点で5時15分。ワイヤレスイヤホンを片方だけして、BPM160のアップテンポの曲をかける。

「行ってきます」

空の部屋に一言だけ残して鍵をかけた。


海岸沿いを毎朝ランニングしている。少し息が上がるくらい。余計なことを考えずに頭空っぽにできるから、毎日続いている。流石に7月半ばともなると、6時前の海岸も暑い。汗が首を伝う。いつもの折り返し地点で速度を緩めて、しばらく歩く。海面がキラキラ光っている。周りに人がいなくて、この景色を独り占め出来る気がして、いつも少し立ち止まる。身体が少し疲れて、頭が暑さと軽い酸欠でボワッとしていて、いつもみたいにヘラヘラできない。でも、見ているのは海だけだから。少しだけ涙がにじむ。


「うっす」

ギリギリで吹上秋斗の隣に滑り込む。シャワー浴びて洗濯機を回したら、いつのまにか1限ギリギリになっていた。

“颯人の方が遅いなんて珍しいな”

秋斗は僕のiPadを奪ってメモに書き殴った。彼の字は丸い。読みやすいが綺麗な類ではない気がする。

“柔軟剤入れ替えたら遅くなった”

僕は彼のメモの下に書き足した。僕の字は崩れていて読みにくい。

この授業はいわゆる楽単で、2回のレポートを出せば単位が貰える。だから後ろの席でこうして秋斗と文通している。

“期末レポート終わりそ?”

秋斗は勝手に僕のiPadを使う。勝手なのは嫌だけど、2人の書き散らした文字が並ぶのは後から見て面白いから微妙な気持ち。

“楽勝だろ あと2日あるし”

“お前いつも溜めるわりには元気だよな 楽観的で羨まし”

彼はそこまで書いてペンを置いてあくびをした。腕を組み始めて、寝る気満々だ。

正直、全然手をつけてなかった。昨日までの数学の課題が全然理解できず、ここ3日間は数学以外なにも出来なかった。数学科志望向けの演習講義で、ちゃんと受ければ数学嫌いが直ると思ったけど加速した。期末テストシーズンで普通講義のテストも迫ってパンクしそうだった。普通にこなせる人ばかりで、劣等感に押しつぶされそうだ。他の人以上の努力で、他の人に追いつけない。ずっと泣きそうだ。


「お疲れ様」

2限の空きコマにラウンジで1人で課題を進めていたら、小島沙耶がやって来た。

「お疲れ。小島も空きコマか。」

「うん。吹上は英語の補習か」

小島はちゃっかり同じテーブルに座ってパソコンを開けた。

大体は秋斗と小島と3人で行動する。講義は違うことが多くても、農業サークルが一緒だったり同じ理学部だから空きコマが似ていて、なんだかんだよく会う。

「この後さ、学食行こうよ」

「いいよ」

小島はにっこり嬉しそうに笑って、すぐにパソコン作業に戻った。

「…はぁ」

思わず溜息が出た。その途端、小島がぱっと顔を上げた。目が合って、思わずそらす。

「なんか思い詰めてんの?」

「いや、別に?なかなか劇的な展開の論文読んでて息が止まってた」

僕がケラケラ笑っても、彼女は値踏みするみたいにじっと目を合わせてきた。

「ふーん。ま、どうせあと60年で人生終わるし、無理してヘラヘラしないで素直になれば?地球の歴史38億年からしたら一瞬」

僕はヒュっと緊張する。空元気が見抜かれている気がした。彼女は普段やる気がなさそうに見えるし、期待とかしないで、そこそこの努力でそこそこの結果を残している。その器用さが羨ましいけど、その才能をもっと使って上を目指せば良いのに、とも思う。

2人ともいったんパソコンに集中した。


目が覚めたら20:00だった。講義が終わって16:00に家に戻って、いつのまにか寝落ちてたみたいだ。

まだ洗濯物も夕飯の買出しも何もしてない。とりあえずシャワーを浴びるために起き上がった。

とりあえず冷凍してあるカレーを食べながらネットサーフィンをしていたら、『8月4日夜 大津波予言』という記事が目に入った。8月4日はちょうどテストが終わる日で、次の日は僕らの港町最大の花火大会がある日だ。バカバカしい、と思いつつ、コメントをみると不安を煽るような言葉が並んでいる。僕らの港町を越えて県全体を飲み込むような津波、インフラが止まる、逃げる時間はない、最大到達点……。嫌な言葉が並ぶ。僕はネットを閉じてお皿を洗うことにした。


次の日の朝、起きたら7:00だった。珍しく寝坊だ。1限には余裕で間に合うけど、ランニングには行けない。大学入学後、寝坊したのはこれで3回目だ。1回目は前日に新歓企画でほとんどオールでカラオケに行った日。2回目はシンプルに熱を出した日だ。ただの寝坊は初めてだから少し気分が落ち込む。昨日は特段夜ふかしをしたわけではないし、ちゃんとクーラーをつけて寝たから酷く寝不足ではないはずだ。でも、なんとなく胸がモヤモヤする。頭に“大津波予言”が浮かぶ。まさかね、非科学的なものに一喜一憂するわけがない。言い聞かせて起き上がった。


「おつー」

4限まで授業が終わって僕がラウンジで勉強していると、吹上が声をかけてきた。

「何してんのー?」

吹上は向かいの席に座って、僕のノートを覗き込む。僕は明日のテストの積分を解いていた。計算工程が複雑で、式変形の発想力も必要だから苦手だった。ちなみに、楽単のレポートは相変わらず真っ白だ。明日テストが終わったらやろう。

「俺積分のテストは来週なんだよな。でも俺も勉強しよ」

荷物から教科書とiPadを取り出した。

「そういやさ、大津波予言知ってる?」

やっと勉強を始める準備を整えた吹上は、また話しかけてきた。しかも今ネット上を騒がせている話題だ。

「あー知ってる。信じてないけど」

僕はそう言いながらも、かなりビビっていた。昨晩記事を見てから、得体のしれない不安が押し寄せていた。別に死にたくない、とか強い気持ちがあるわけではないけど、こんなに何も出来ずに鬱々とした劣等感を抱いたまま死ぬのは嫌だった。まだ家族にも恩返しが終わってない。

「俺は信じてないな。納得できる科学的根拠がない」

吹上は自信満々に言った。彼はこの町で実家暮らしだから、町全体を津波が飲み込んだら確実に滅亡する。それが怖くて信じないように、と思い込んでいるのかもしれない。でも、コンビニのイチゴオレを幸せそうに飲む吹上を見ていたら、やっぱり彼は本当に大津波予言なんて信じていない気がした。

2人で積分を黙々と解いていると、小島もやって来た。一通り挨拶して、彼女も一緒に勉強することになった。

「なあ、小島は大津波予言信じてる?」

吹上はまた同じ話題を出す。どんだけ気になるんだよ、と思いつつ、小島の反応は気になった。小島は冷静で無気力な感じだから、興味がなさそうに見える。一方で、こういう漠然とした恐怖に弱そうな気もする。

「あーあれ?別にどうでもいいかな」

想像通り、興味がない反応だ。吹上は「つまんねー」と言いながら口を尖らす。

「だってさ、もし本当だったら私は死んじゃうから、どうしようもないじゃない。嘘だったら“何もなかった”と笑って次の日を待てばいいじゃん?結局何も変わらないよ」

僕の想像以上に冷めていた。たしかにそうだ。でも少しくらい死ぬのが怖い、とかないのだろうか。彼女だって僕と同じように一人暮らしをしていて、家族と離れている。彼女はいつもと変わらない涼しい顔をして化学の教科書を広げる。色白な肌と、通った鼻筋がより彼女の冷たさを強めている。

3人でしばらく勉強していると、吹上が帰る支度を始めた。

「もう帰るの?」

小島が聞くと、彼は

「もう6時過ぎだし。親から卵のお使い頼まれてんだよな」

と面倒くさそうに言った。

「2人は残るのか?」

チラリと小島を見ると、まだ帰る素振りを見せていない。あと少しだけ集中力が続きそうだから、もう少し残ることにした。

「そっか。頑張ってな」

「おう、卵割るなよ」

僕が軽口を叩くと、吹上はケラケラ笑いながらリュックを背負って手を振って出ていった。

小島と2人になって、沈黙が流れる。彼女がすぐに勉強に戻ったので僕も戻ることにした。積分は相変わらず苦手意識が消えない。先が見えなくて漠然とした不安があるのは、適切な式変形が思いつかなくて解けないからか、あの大津波予言のせいか、分からなかった。

「そろそろ帰ろうかな」

1時間くらい経って、小島は伸びをした。彼女の前には3枚ほどルーズリーフが広がっている。どれも化学の内容だった。

「僕もキリが良いから帰る」

僕も荷物を片付け始める。ふと小島は手を止めて、僕と目を合わせてきた。

「神田くんは大津波予言信じてるの?」

僕はびっくりした。まさか彼女に聞かれると思わなかった。

「信じてないよ。非科学的だし」

ふーん、と言いながらもじっと目が合う。彼女の表情は変わらないから、何を思ったかは読めない。でもなんとなく、僕がビビっていることはバレた気がする。

僕が最初に目をそらす。

「一緒に帰る?」

小島も片付けを終え、帽子を被りながら僕を誘った。僕らはたまたま同じアパートに住んでいる。

「うん」

その日、僕らはコンビニでハーゲンダッツを買って、食べながら歩いて帰った。もしかしたら、もうこの先ずっとハーゲンダッツなんて美味しいもの、食べられないかもしれないから。


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