真冬の蝶

月兎アリス/月兎愛麗絲@後宮奇芸師

真冬の蝶

 さなは遠く離れた、呼吸が詰まるほどに鮨詰め状態であろう都会に旅立った。高校を卒業した春、桜の花がほんとうの春を俟たずして散るあけぼのだった。


 わたし、都会に行くんだ。


 縹渺たる水面に涓滴の雫を落とされた音が、わたしの胸の裡で木霊する。さなの屈託ない破顔が、走馬灯のように駈け巡る。けれどもわたしは、さなを故郷で咲かせて散らそうとは微塵も想っていなかった。


 さなは稚い頃から健かな子だった。おとなの男に気後れしたこともなく、如何なるときも壮烈に口返答した。いつも背中で怖気ついてばかりのわたしを護ってくれた。おなじ女なのに、さなはどこか漢気があって頼りがいがある。

 けれども女の子たちはさなのことを、怖いと口を揃えて言う。呶鳴ったら怖い、疾ったら怖い。


「さなは強いんだよ。なにも知らないくせに」


 周囲は罵詈雑言ばかりで、さなのことを可愛げがないとか、そんなことを言って倦厭していたけれども、わたしは知っている。さなが誰よりも脆くて、弱いことを。


 さなが都会へと発って十数年。

 いちどたりとも地元へ舞い戻ってきたことはなかった。


 恋愛や結婚は脳裡に留めはじめたのかな。むこうで素敵な男の人との邂逅はあったのかな。お仕事は順調なのかな。というか、なんのお仕事をやっているんだろう。忙碌なのかな。


『宗川咲那の母親です』

『咲那はくも膜下出血で永眠しました』


 悲哀のあまり脳が可笑しくなったのかと想ったけれども、悪夢に過ぎなかった。目を醒ましたときは、それが現世で起こらぬことを只管に祈った。


 四季が循って冬季になる。

 蝶は蛹になって春の訪れを俟つ。はらりと初雪が舞い落ちる凍夜は街燈に煤をかけたように昏く陰鬱だった。叢雲の隙から碧月が覘いたときだけが薄ら明るくなる。まるで街燈の代わりだ。月影を頼りに稔りのない畦道を辿っていると、鈴の音がした。


 鈴が、胸底に響く律動を奏でながら鳴っていた。それに重ねて鼓の地鳴りが響く。夏の終焉なら縁日だと想えたけれども、初雪と雅楽は嚙み合わなかった。誰かが何処かで神楽を舞っているのだろうかと疑っていると、まさしく神楽とよべる舞台が眼前に顕れた。


 凍れる月と雪を纏って、燦然と蝶が飛翔いていた。ただ一羽だ。されど雅楽の音と阿吽の呼吸で翔ぶから、わたしには神楽にも想えた。蛹であるはずの蝶々が此処に居ることに暫しの違和は感じていたけれども、燦々とする佳景に、なにかべつのことを考えるちからを奪われる。

 さな。

 そう想えた。


「ねえ、なぎは好きなどうぶつってあるの?」

「好きな……」


 さなに訊かれたときにわたしは刹那、唇をとめた。こたえかたが想いつかなかった。好きなどうぶつとしか訊かれていないのだから、どうぶつならわたしはなにを言ってもいいのだと、そう想ってしまったから。


「……強いて、蝶々かな」

「ほんとう? わたしも!」


 何時の出来事だっただろうか。そんなのわすれた。

 さなはいま幸せなのかも知らない。けれども、わたしの記憶の中で笑っているさなは、何時でも幸せというわけじゃないと知っている。


「ふたりだけの瞬刻が幸せだったんだよね?」


 呼応するように蝶が瞬いた。いつしか雅楽の音は静謐へと変化した。蝶の神楽は終わらなかった。月の影を追うように蝶が彼方へ発とうとしたので想わずおいかければ、ふるびた神社についた。さなとわたしが幾度となくお賽銭をして、おみくじを引いた神社だ。いまではもう廃れて、おみくじなど遺っていない。狛犬も風化していて、邪気を祓ってくれるとはおもいづらい。


 さな。


 雪が懐かしい後ろ姿を擁いていた。雪は双つの翅を払い落とす。抱擁と接吻をすれば融け、ただ愁いを煩わせていた。死装束の如き経帷子ゆかたびらと融けあう雪が、夜の帷を白く染めていく。叢雲が晴れて紺の夜空がらんらんと顔をあらわす。絶えず降り頻る雪は結晶となり、女の黒髪にかんざしを挿した。


「さな」



「な、ぎ」



 掠れた声でわたしの名を呼ばれた。さなの声だ。玉を転がすような、歌声のような音色に涙を抑えられなかった。只管に歩み寄った。さな。恋しいさな。ねえ、逢ってよ、わたしに。


「ふたりでもういちど春をみよう」


 わたしたちは。



 ――さなぎなんだから。一羽の蝶にならなくちゃ。

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