第36話:温かいおかゆと合理的なゼリー

 その日の午後、陽菜は時雨に手伝ってもらいながら、ゆっくりとベッドから起き上がれるようになっていた。体の気だるさはまだ残っているものの、心は少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。


(……相羽君は、大丈夫なんだろうか)

隣の部屋で眠っているはずの少年のことが、どうしても気になって仕方がなかった。時雨は「あの子は丈夫だから、心配いらないさね」と笑っていたけれど、あの光の剣を顕現させた後の、彼の蒼白な顔が脳裏に焼き付いて離れない。


 陽菜は、意を決すると、時雨が用意してくれた新しいお粥が乗ったお盆を、そっと手に取った。


「あの、私……相羽君のところに、これを持って行ってもいいですか?」

その申し出に、時雨は一瞬だけ目を丸くしたが、やがて悪戯っぽく微笑んで、こくりと頷いた。


駆の部屋のドアを、陽菜は、おそるおそるノックした。返事はない。もう一度、今度はもう少しだけ強く叩いてみる。


「……相羽君? 入るよ……?」

許可を待たずに、陽菜はゆっくりとドアを開けた。


 部屋の中は、薄暗かった。カーテンが引かれ、午後の柔らかな光が、わずかに室内に差し込んでいる。駆は、ベッドの上で静かに寝息を立てていた。その寝顔は、陽菜が知っているどの彼の顔とも違って、ひどく無防備で、年相応の少年らしいあどけなさを残している。


 陽菜は、音を立てないように、そろり、とベッドサイドへ近づいた。椅子を引き寄せ、持ってきたお盆をサイドテーブルに置く。彼の顔をじっと見つめていると、自分の心臓が、どきどきと速鐘を打っているのが分かった。


「……ん……」

不意に、駆の瞼がぴくりと動き、ゆっくりと開かれた。その、まだ夢の続きを映しているかのような瞳が、目の前にいる陽菜の姿を捉え、ゆっくりと焦点が合っていく。


「……かざま、さん……?」

「ご、ごめんなさい! 起こしちゃった……?」

陽菜は、慌てて立ち上がろうとした。だが、その手首を、駆の、思ったよりも力強い手が、そっと掴んだ。


「いや……。ちょうど、目が覚めたところだ」

彼は、ゆっくりと身を起こすと、陽菜の手を掴んだまま、静かに言った。


「……怪我は、ないか?」

その言葉に、陽菜の胸が、きゅっと締め付けられた。自分の方が、彼のことを心配しているはずなのに。


「私は、大丈夫……。それより、相羽君こそ……。私のせいで、ごめんなさい……」

俯く陽菜の頭の上で、駆は、ふっと息を漏らすように笑った。


「あんたのせいじゃない。俺が、勝手にやったことだ」

彼は、掴んでいた手を離すと、サイドテーブルのお粥に目を向けた。


「……それ、あんたが?」

「う、うん。時雨さんが……」

「そうか」

駆は、それだけ言うと、お盆の上のお粥を手に取り、一口、静かに口に運んだ。そして、少しだけ、本当に少しだけ、その口元を綻ばせた。


「……うまい」

その、たった一言が、陽菜の心の中に、温かい光のように、じんわりと広がっていった。






 陽菜が部屋に戻った後、駆は、まだ半分ほど残っているお粥を、ゆっくりと味わっていた。体の気だるさは残っているが、精神は、久しぶりに凪いだ湖のように静かだった。


その静寂を破ったのは、唐突な、しかし礼儀正しいノックの音だった。


「……誰だ?」

「私よ」


ドアの向こうから聞こえてきたのは、アリスの、いつもと変わらない冷静な声だった。駆が「開いてる」とだけ答えると、彼女は音もなく室内へ入ってきた。その手には、栄養補助食品のゼリー飲料が数本、無造作に握られている 。


「……見舞いのつもりか?」

「違うわ。任務遂行に必要な、戦力のコンディション確認よ」

アリスは、そう言ってのけると、持ってきたゼリー飲料を、どさりとベッドの上に置いた。


「あなたの身体データは、特対経由で共有されているわ。今回の戦闘による消耗は、通常の人間なら一週間は絶対安静レベル。それを考慮して、最も効率的に栄養を摂取できるものを、合理的に判断して持ってきただけ」

その、いかにも彼女らしい言い草に、駆は思わず苦笑した。


「……そうか。それは、どうも」

「それにしても」

とアリスは続けた。その碧い瞳が、値踏みをするように駆の全身を훑る。


「本当に、人間離れしているのね、あなた。三種の神器……。我が国のデータベースにも、概念的な情報しか存在しない代物よ。あれは、一体何?」

その問いに、駆は静かに首を横に振った。


「俺にも、よく分からない。ただ、師匠から譲られた、お守りのようなものだ。……まだ、完全に扱いきれてるわけじゃない」

「そう」

アリスは、それ以上は追及しなかった。代わりに、彼女は窓の外に目を向け、ぽつりと、誰に言うでもなく呟いた。


「……昨日の、あなたの判断は、非合理的だったわ」

「……そうかもな」

「軍人としては、失格よ。仲間を危険に晒し、自らも消耗するなんて。失敗していたらどうしてたの。」

アリスは、そこで一度、言葉を切った。そして、ゆっくりとこちらに向き直った。


「けれど……」

彼女の碧い瞳の奥に、今まで駆が見たことのない、複雑な光が揺らめいている。


「……任務のパートナーとしては、悪くない」

それだけを言うと、アリスは「早く回復しなさい。足手まといは、いらないから」という捨て台詞を残して、風のように部屋から出て行った。


 後に残された駆は、ベッドの上に置かれた栄養補助食品のパッケージを、ただぼんやりと見つめていた。陽菜が持ってきてくれた温かいお粥と、アリスが持ってきた合理的なゼリー。その対照的な二つが、今の自分の、奇妙な日常を象徴しているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る