第6話:古都の少年
その頃、相羽駆(あいば かける)は、京都の穏やかな午後の光の中にいた。
鴨川の河川敷に腰を下ろし、ゆっくりと流れていく川面をぼんやりと眺める。対岸では、見慣れた制服を着た高校生たちが楽しそうに談笑している。駆もついさっきまで、あの輪の中にいた。けれど、友人たちの他愛のない会話よりも、一人でこうして風に吹かれている方が、どうにも性分に合っているらしかった。
爽やかで好青年風、というのが周囲からの評価だったが、それはほとんど、一緒に暮らしている幼馴染の光(ひかり)が彼の身なりを整えているおかげだった 。駆自身は外見に驚くほど無頓着で、放っておけば寝癖がついたまま一日を過ごしてしまうだろう 。
駆がこの古都、京都で暮らし始めて、もう十年になる 。彼が七歳まで過ごした故郷は、あの喧騒と分断の象徴である東京だった 。十年前、反体制派が起こした大規模なテロに巻き込まれ、両親を失ってから、駆の人生は一変した 。あの事件をきっかけに、駆は師であり親代わりである鬼塚玄に拾われ、鬼塚の娘である光と共にこの地で育ったのだ 。
両親を失った悲しみは、もちろん今でも胸の奥深くに沈んでいる。けれど、駆の中では既に区切りがついている感情でもあった 。反体制派に対して良い印象がないのは当然だが、それ以上に、今の穏やかな生活と、光や鬼塚といった新しい家族との関係を守りたいという気持ちの方が、ずっと強かった 。
不意に、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。画面には、予想通りの名前が表示されている。
『もしもし、駆? あんた、また一人でどっか行ってるでしょ!』
電話の向こうから聞こえてくる、快活で、少しだけ棘のある声。幼馴染の鬼塚光だった。
「ああ、光か。いや、ちょっと風に当たってるだけだ」
『「だけだ」じゃないわよ! もう、あんたは私がいないとどうせろくなもの食べないんだから、今日の夕飯はうちに来なさいよ! コロッケ、いっぱい揚げといたげるから!』
「わかった、わかった。ありがとう」
駆は苦笑しながら礼を言った。
光の世話焼きは、時に過保護すぎるきらいがある 。けれど、その優しさが、この十年間の駆の心をどれだけ支えてくれたか分からない。
その時だった。駆のすぐそばに、一台の黒塗りのセダンが、音もなくすっと停車した。後部座席の窓が静かに下がり、中からスーツを着た見知らぬ男が顔をのぞかせる。男は駆に向かって、事務的な口調で言った。
「相羽駆君。――鬼塚本部長が、至急お会いしたいと」
電話の向こうで、光が「え、今の誰?」と訝しむ声が聞こえる。
駆の背筋を、今まで感じていた川風とは質の違う、冷たいものがすっと撫でていった。鬼塚が、この男たちを、この時間に、自分の元へよこす。それが何を意味するのか、駆には痛いほどわかっていた。
平穏な日常の終わり。そして、〝任務〟の始まりだ。
「光、ごめん。急用ができた。また後で連絡する」
駆は一方的に電話を切ると、スマートフォンをポケットにしまい、黒塗りの車へと向かってゆっくりと立ち上がった。
鴨川のせせらぎと友人たちの笑い声が、急速に背後へと遠ざかっていく。古都の穏やかな午後は、もう駆の世界にはなかった。
黒塗りのセダンが駆を乗せて向かったのは、京都の街並みに溶け込むように建つ、何の変哲もない雑居ビルだった。しかし、一歩足を踏み入れると、そこは外界とは完全に隔絶された、冷たく無機質な空間が広がっている。内閣情報調査室 特殊事案対策室、通称「特対」の京都本部の一つだ。
案内された最上階の一室で、一人の男が窓の外を眺めながら駆を待っていた。
「来たか、駆」
振り返った男――鬼塚玄(おにづか げん)は、そこにいるだけで部屋の空気を震わせるような、圧倒的な存在感を放っていた。一八五センチはあろうかという長身に、鍛え抜かれた分厚い体躯 。短く刈り揃えられた髪には白いものが目立ち、眉間に刻まれた深い皺と、全てを見透かすような鋭い眼光が、彼が潜り抜けてきた修羅場の数を物語っている 。
駆にとって、鬼塚は単なる上官ではなかった。テロで全てを失った自分を拾い、育て、そして戦う術を授けてくれた師であり、父親代わりの存在だった 。駆は、この男を心の底から尊敬していた 。
「お呼びと聞き、参りました。本部長」
駆が直立不動で応えると、鬼塚は「座れ」とだけ言って、自身もソファに深く腰を下ろした。いつものように、ヨレたスーツを着崩している 。だが、その雰囲気は普段の彼とはまるで違っていた。
「単刀直入に言う。お前に、任務を与える」
鬼塚は、テーブルの上に一枚の顔写真が貼られたファイルを置いた。
「東京で、新たな〝天然物(ナチュラル)〟が覚醒した」
駆の心臓が、かすかにどきりと音を立てた。天然物(ナチュラル)。それは、何の器具も特殊な訓練もなしに、他人の精神世界に潜行(ダイブ)できる、数千万人に一人と言われる稀有な才能の持ち主を指す言葉だ 。駆自身も、その一人だった。
「名前は、風間陽菜(かざま ひな)、十六歳」 。
鬼塚は続けた。「彼女は先日、友人を助けるために無意識に能力を覚醒させた 。だが、その現場をアメリカとロシアの諜報員に目撃された」 。
鬼塚の言葉は、淡々としていた。だが、その一言一言が持つ重みは、駆にひしひしと伝わってくる。
「ロシアは、支援している反体制派と連携し、彼女の身柄確保に動くだろう。アメリカも同じだ。日本に身柄の優先権はあるが、あわよくばの思惑もないわけではない。才能(ギフト)を巡る奪い合いが、既に水面下で始まっている」
「……俺の任務は」
駆が静かに問うと、鬼塚は真っ直ぐに駆の目を見据えた。
「風間陽菜の護衛だ。お前には、急遽東京へ飛んでもらう。彼女が通う高校に転校生として編入し、二十四時間体制で対象を保護しろ」 。
東京、という言葉。その響きが、駆の脳裏に、十年前に見た炎と黒煙の記憶をほんの一瞬だけ蘇らせた。けれど、駆の表情は微動だにしなかった。彼はもう、過去に囚われる少年ではない。
「承知、いたしました」
駆は、一切の迷いなく答えた。その即答に、鬼塚の険しい表情がほんのわずかに和らぐ。それは、上官が部下に向ける顔ではなく、父親が息子に向ける、不器用な労りの色をしていた。
「……無理は、するなよ」
「はい」
駆は短く答え、深く頭を下げた。
部屋を出ると、先ほどとは比べ物にならないほどの重圧が、駆の両肩にのしかかっているのを感じた。
東京へ。 十年ぶりに、あの街へ帰る。
それは、駆の平穏な日常の、完全な終わりを意味していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます