第9話 普通の夢
──白い花壇の前で、小さな声が響いていた。
「大きくなったら、けっこんしようね」
幼い手と手が重なる。
優しい光。
ぼんやりとした輪郭の笑顔
誰の声だったのか、思い出そうとしたところで──。
「……ん」
朝日に目を細めた。夢か。
時計を見ると、午前六時を少し回ったところ。俺は布団を蹴飛ばし、むくりと体を起こす。
幼い頃の夢なんて、今さら気にする必要もない。誰とどんな約束をしたのかも曖昧だし、たぶん思い出の脚色みたいなものだろう。
「まあ……夢だしな」
そう呟いて、ベッドから降りる。
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外は朝の空気がひんやりして気持ちいい。まだ人通りも少ない住宅街を走り出す。舗装道路を踏むスニーカーの音が一定のリズムを刻み、体がじわじわと温まっていく。
「……はぁ、はぁ」
一時間ほど走って、近所の公園で軽くストレッチ。額から汗が滴り落ち、筋肉が心地よく張っているのを感じた。
帰宅し、シャワーを浴びた。
冷蔵庫から朝食を取り出す。昨日三姉妹の夕飯に呼ばれ、帰りに待たしてくれたものだ。とても助かる。
食卓に並べ、ひとり「いただきます」と小さく呟いた。
ふと、リビングの壁に掛かっている両親との家族写真が目に入る。スーツ姿の父と、着物姿の母。その間で笑う幼い自分。写真は古くても、まだ色あせてはいなかった。
食後、スマホが震えた。
画面に「父」の文字。
通話ボタンを押すと、少し遅れて海外からの声が届いた。
『拓海、おはよう。元気にしてるか?』
「まあ、普通に」
『そうか。ちゃんと食べてるか?』
「食べてるよ。昨日は三姉妹の家で」
『はは、相変わらずお世話になってるな。こっちは忙しいが、大丈夫だ。また連絡する』
「うん」
会話はすぐに終わった。特に大した内容はない。でも、それで十分だった。
通話を切った直後、またスマホが震える。今度は「母」の文字。
「……立て続けに?」
出ると、柔らかい声が響いた。
『拓海、おはよう。朝ごはん食べた?』
「食べたよ。卵焼きと鮭」
『ふふ、それだけじゃ足りないわ。サラダとか果物も食べなさい』
「お隣で食べさせてもらってる」
『それなら安心ね。ちゃんと休んでる?無理しないでね』
「してるって」
小言みたいだけど、不思議と嫌じゃない。
短い会話の中に「気にかけている」という気持ちが詰まっていた。
電話を切ると、ふっと胸の奥が温かくなる。親として接する時間は少ないけど、それでも大事にされているのだと感じられた。
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机に向かう。ノートを広げ、数Ⅱの問題集を解き進める。公式は頭に入っていても、すぐ応用が出てくると手が止まる。シャーペンの芯をカチリと出し直し、もう一度式を追いかける。
「……ここは、こうか」
集中が途切れると、窓の外から鳥のさえずりや子どもの声が微かに届く。自分だけ別の時間に取り残されたようで、少し不思議な気分になる。黙々と解き進め、気づけば昼過ぎ。朝食の残りがまだ十分にあった。
食後、スマホに通知が入った。
《拓海くん、今日の夕飯一緒に食べるよね?》
送り主は小鳥。メッセージは疑問形なのに、ほとんど決定事項のような響きだ。
「……行くしかないよな」
思わず苦笑して、スタンプを返す。
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午後の前半は英語。途中、英単語を声に出して暗記したり、古文を読んだり、休憩を挟んだりしながら気持ちを切り替える。
集中していると時間の感覚が薄れる。気づけば日が傾き、頭が重くなっていた。
十七時、参考書を閉じ、部屋の隅のダンベルを手に取った。筋トレをしながら、動画を流し見したり、友人から勧められたゲームを進めたり。
「はぁ……」
息が上がるけど、この疲労感が心地よい。
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十九時過ぎ。着替えて隣家へ向かう。
扉を開けると、明るい声が飛んできた。
「拓海、待ってたわ!」
花音の声に迎えられ、小鳥と実月の笑顔が並ぶ。
ダイニングに入ると、テーブルには色とりどりの料理が並んでいた。グラタン、ローストチキン、サラダ、そして焼き立てのパン。香りだけで腹が鳴る。
四人で食卓を囲む。花音は学校の話を、小鳥は撮影現場の裏話を、実月はアトリエの近況を。話題は絶えず、笑い声が絶えない。
俺はその輪の中で相槌を打ち、時に突っ込みを入れる。三姉妹といると、自然と表情が柔らかくなる。
「拓海、もっと食べなさいよ」
小鳥が皿を差し出す。
「いや、もう十分……」
「育ち盛りでしょ」
「俺、もう高校生なんだけど」
「まだまだよ」
そんなやりとりに、花音がクスクス笑い、実月が「花音お姉ちゃんは拓海くんの前だけではしっかり者だよね」と茶化す。
花音が頬を膨らませると、三人で大笑いになった。
──気づけば二時間近くが経っていた。
「じゃあ、また明日ね」
玄関で三姉妹に見送られ、自宅へ戻る。
リビングに入ると、再び家族写真に止まった。
父と母の笑顔。その間で笑う小さな自分。
ポケットのスマホを取り出す。今日の父と母の声がまだ耳に残っていた。
「……今度は、こっちからかけてみるか」
独り言のように呟き、写真を見上げる。
──平凡な休日の終わりに、そんな前向きな気持ちが芽生えていた。
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