この街で君と出会い、君に恋をし、そして別れた

春風秋雄

14年ぶりに来た街

またこの街に来ることがあるとは思ってもみなかった。14年ぶりに訪れたこの街は、建物も変わり、道路もかなり整備されて、別の街のようだった。スマホの地図アプリを見ながら相手先の会社を探し、ようやく見つけたときは、約束の時間の5分前だった。何とか間に合った。

先方との商談もうまくいき、外に出ると懐かしさがこみあげてきた。今日はもう東京へ帰るだけだ。少し懐かしい街を歩いてみようと思った。いつも真奈美がパフェを食べていたあの喫茶店は、まだあるのだろうか。


俺の名前は古賀真人。36歳の独身だ。現在は東京で小さいながらも会社を経営している。

14年前俺は、以前勤めていた会社の新入社員研修で、半年間、山梨県甲府市のこの街に来ていた。その会社の新入社員の研修は、この街に設けている研修センターで基本的な研修をしながら、近くの支社で実地研修をすることになっていた。その期間は半年で、半年間の研修が終了したら東京本社に戻り、正式な配属が決まるシステムだった。半年間は研修センターの寮でその年入社した社員が共同生活をする。その年の新入社員は約30名ほどだったと思う。研修センターの寮では寮母さんがいて、食事の世話をしてくれていた。月単位で献立表が張り出され、AセットかBセットのいずれかを事前に申請する方式で、外食するときは何も記入しないことになっており、寮で食べた食費は給与から差し引かれるようになっていた。寮の食事は美味しかったが、たまには外食をしたいときもある。同僚何人かと居酒屋へ行ったり、ひとりでラーメン屋に行くときもあった。

ひと月ほどたった頃、時々行くラーメン屋へ入ると、めずらしくカウンター席もテーブル席もお客で埋まっていた。少し待とうかと思っていると、店主が「相席で良ければ、そちらへどうぞ」と言ってくれた。その席は4人掛けのテーブルに若い女性が一人座っているだけだった。

「相席よろしいですか?」

俺はその女性に尋ねた。女性は笑顔で「どうぞ」と言ってくれた。

席に座り、俺は味噌チャーシューラーメンと炒飯を注文する。しばらくすると、女性のラーメンが運ばれてきた。この店で一番安いシンプルなラーメンだった。女性は猫舌なのか、一生懸命フーフーと冷ましながら食べている。そうこうするうちに俺のラーメンと炒飯が運ばれてきた。俺は熱いのは大丈夫なので、勢いよく食べていく。半分ほど食べたとき、ふと前の女性を見ると、ラーメンは全然減っていなかった。かなり食べるのが遅いようだ。俺の視線に気づいたのか女性が俺を見た。

「食べるのが遅いなと思ったでしょ?」

「え、いや、別に・・・」

「いいよ。本当に遅いんだから。私猫舌で、熱いものは早く食べられないの」

「そうですか・・・」

「お兄さんは、あの研修所で研修している人?」

「そうですけど、よくわかりましたね?」

「毎年この時期になると、寮の食事に飽きたという人がここにくるから」

「そうなんだ」

そうこうするうちに俺は食べ終った。女性はまだ食べている。俺は会計をしようと、お尻のポケットから財布を出そうとした。あれ?財布がない。逆のポケットを探るがそっちにもない。そうか、着替えたスーツのポケットに入れたままだった。俺が青ざめた顔をしていると女性が声をかけてきた。

「どうしたの?財布を忘れた?」

「はい。寮に置いてきてしまいました。寮まで取りに戻らなければ」

俺が焦ってそう言うと、女性はこともなげに言った。

「いいよ。私が払っておくから」

「寮に戻って財布を取ったらすぐに戻ってきますから」

「今度会ったときでいいよ。」

「今度いつ会えるかわからないじゃないですか」

「じゃあ、今度の日曜日に会おうか」

「今度の日曜日?」

「仕事休みでしょ?」

「ええ」

「この先を少し行ったところに、“グリーンベル”という喫茶店があるから、2時にそこに来て」

「わかりました。必ず行きます。僕の名前は古賀真人と言います。携帯の番号を伝えておきます」

「いいよ。来なかったら来なかったでいいから」

「必ず行きます。あのー、名前教えてもらえますか?」

「真奈美。水沢真奈美」

「真奈美さんですね。じゃあ、日曜日に」

俺がそう言うと真奈美は大将に「こちらのお客さんの分も私が払うから」と言ってくれた。


日曜日にグリーンベルという喫茶店を探すと、すぐに見つかった。表にくすんだ緑色の大きなベルが下げてあった。店に入ると、奥のテーブルに真奈美は座っていた。すでにパフェを注文して食べている。その席に行き、向かいに腰かける。

「この前はありがとうございました」

「ちゃんと来たんだ」

「当たり前ですよ。これ、この前立て替えてもらったお金です」

俺はそう言って用意していた封筒を渡した。

「古賀さんもパフェ食べる?ここのパフェ美味しいんだよ」

真奈美は封筒の中身を確認することもなくバッグに仕舞いながらそう言った。

「パフェですか?」

俺がそう聞き返すと、真奈美は俺の返事も聞かずマスターにパフェを注文した。パフェなんか食べる機会は今までなかった。食べてみると、本当に美味しい。

「美味しいですね」

「そうでしょ?ここのマスターは東京のホテルで修行したことがあるらしいの」

男ひとりでは恥ずかしくてとても注文できないが、女性と一緒なら平気で食べられる。良い経験をしたと思った。

「古賀さんは新卒であの会社に入ったんだよね?だったら今年23歳か」

「11月生まれですから、まだ22歳ですけどね。水沢さんは今何歳なのですか?」

「19」

「学生さん?」

「働いている。昼間は工場で働いて、夜はスナックで働いている」

「そんなに?」

「うちは母子家庭で、いま母が病気で私が稼がなければいけないの」

「そうなんですか」

「古賀さん、大学はどこ?」

俺は東京の国立大学の名前を言った。

「すごい。あの大学を出て、あの会社に入ったなんて、超エリートじゃない」

「そうなのかな」

「私も本当は大学へ行きたかったんだ。でもこれ以上母親に負担かけるわけにはいかないから就職したのだけど、とたんに母が病気になって。大学へ行っていても結局やめなければならなかったから、あきらめがついた」

俺は慰めの言葉が見つからなかった。俺は恵まれていたのだと思うしかなかった。

「古賀さん、ここのパフェ美味しいでしょ?」

「うん、本当に美味しい」

「また食べたいと思うでしょ?」

「そうだね。でも男一人で食べるのは・・・」

「来週の日曜日もここにおいでよ。一緒にパフェ食べよう?」

真奈美のその笑顔を見て、俺は無意識に頷いていた。


それから俺たちは毎週日曜日になるとグリーンベルでパフェを食べるようになった。俺は真奈美に連絡先を教えてくれと頼んだが、真奈美は頑なに断った。毎週日曜日の決まった時間にここに来れば会えるのだから、教える必要はないと言う。病気とか、用事で来られない時もあるのだから、その時は連絡先が分かっていた方がいいだろと言うと、来なければ何か用事があったのかなと思えばいいと、そっけなく答えた。じゃあ、せめて働いているスナックの名前を教えてと頼んだが、それも教えてくれなかった。この街にスナックやバーの飲み屋は100件以上ある。1軒1軒行って探すのは無理だった。

毎回毎回注文するのはパフェだったので、マスターは俺たちが来れば注文しなくてもパフェを出すようになった。その日によって乗せるフルーツを色々変えてくれる。他にお客がいないときは、マスターを交えて雑談するときもあった。俺はグリーンベルで過ごす時間がとても楽しかった。

日曜日はスナックは休みらしく、グリーンベルを出てから二人で街を歩くこともあった。お母さんの世話があるので、真奈美は夕方には帰らなければいけなかったが、たまに夕食を一緒にすることもあった。その時は寮に電話を入れ、寮母さんに夕食のキャンセルをしなければならなかった。


研修は残り1ヵ月になった。真奈美と会えるのはあと多くて4回。東京へ帰る準備もあるので、3回しか会えないかもしれない。次の日曜日にレンタカーを借りてドライブしようと誘うと、真奈美は嬉しそうに頷いた。

せっかくのドライブなのに、待ち合わせ時間はやはり2時だった。グリーンベルでパフェを食べたあと、ドライブへ出かける。このあたりの観光地を真奈美の案内で回った。子供の頃にお父さんに連れてきてもらったらしい。お父さんは真奈美が中学生の時に事故で亡くなったそうだ。

山菜料理を出す店で夕食を済ませ、夜景がきれいなところがあると真奈美が言うので、そこへ車を走らせた。夜景は綺麗だった。車を降りて、並んで夜景を見る。

「夜景を見るのなんて、何年ぶりだろう」

真奈美がポツリとつぶやいた。

俺はそっと真奈美の肩を抱いた。真奈美が俺に身体を預けてくる。俺は真奈美に顔を近づけ口づけた。真奈美が俺に抱きついてくる。

俺たちは、車を走らせホテルに入った。


「なあ、もう連絡先を教えてくれてもいいだろ?」

俺はベッドの中で真奈美に言った。

「古賀さんとは、古賀さんが甲府にいるときだけの付き合いがいいの」

「連休には会いに来るつもりだよ」

「研修期間が終わったら、もう古賀さんとは会わないつもりだから」

「約束する。今は新入社員で、給与も安いし、とても家庭を持てる状況ではないけど、先々家庭を持てるだけの給与になったら、真奈美を迎えにくるから。だから、お願いだ。連絡先を教えてくれ」

「今はそう思っていても、先々は気持ちが変わっているかもしれないでしょ?そんな不確かな言葉なんか、私は信じないことにしているの。それに、その頃には私だって、こっちで良い人を見つけているかもしれないよ。だから、連絡先は教えない」

真奈美は、そう言って連絡先は教えてくれなかった。


デートが終って真奈美と別れるのは、いつもグリーンベルの前だった。決して家まで送らせなかった。真奈美と会うのは今日が最後と言う日、レンタカーでデートしたあと、ホテルからグリーンベルまで真奈美を送っていく途中で、俺は真奈美に聞いてみた。

「グリーンベルには、これからも日曜日に行くのか?」

「日曜日に行っていたのは古賀さんに会うため。これからは気が向いたときに行くつもり」

真奈美と会ったのは、それが最後だった。


14年ぶりに懐かしい街を歩いていると、真奈美への思いがぶり返してきそうだった。いや、俺はこの14年間、真奈美のことを忘れたことはなかった。その気持ちを普段は無理やり閉じ込めていただけだ。

14年前、俺は東京に戻ってから、2回だけ、休みの日に甲府まで来て、グリーンベルに行ってみた。ひとりで来ているので、マスターは怪訝な顔をしていた。いつものようにパフェを頼み、食べ終わったあと、もう少し居座るため、初めてコーヒーを注文した。コーヒーもとても美味しかった。2回とも3時間近く店にいたが、真奈美は現れなかった。それ以来、甲府へは来ていない。

足は自然とグリーンベルがあった方向へ向いていた。すると、くすんだ緑のベルをつるした店構えが見えた。グリーンベルだ。まだあったんだ。俺は迷わず店の中に入った。何も変わっていない。お客は他に誰もいなかった。真っすぐに、いつも座っていた奥のテーブルへ行く。座ってぐるりと見渡すが、少し年季が入ったようだが、本当に何も変わっていなかった。マスターが水とおしぼりを持ってきた。さすがにマスターは老けた。もう還暦が近いはずだ。

俺がパフェを注文すると、マスターは「おや?」という顔をした。

しばらく待つと、マスターがパフェを運んできた。一口食べる。美味しい。こんなに美味しかったんだと思うと、涙がでそうだった。

「お客さん、ひょっとして古賀さん?」

「覚えていてくれたのですか?お久しぶりです」

「いやー、この席でパフェを食べる姿を見たら、そうじゃないかなと思ってね」

「それより、よく名前を覚えてくれていましたよね?」

「まあね。今日は仕事?」

「ええ、あの会社は辞めて、今は独立して自分で会社をやっているのですが、その関係で来たのです」

「そうですか、もう何年になりますかね?」

「14年です。すっかりオジサンになってしまいました」

「年をとったのは、お互い様ですよ」

「水沢さんって、まだこの店に来ているのですか?」

「真奈美ちゃんのこと?忘れた頃に現れるね。古賀さんは今も東京?」

「ええ」

「もうお子さんもいるのでしょ?」

「いえ、私は独り身です。なかなか縁がなくて、気が付いたらこの年になっていました」

「そうですか。おひとりですか」

マスターはそう言いながら、カウンターの中をゴソゴソしだした。そして、何かを持ってカウンターから出てきた。

「これ、真奈美ちゃんから預かっていました。古賀さんの名前を覚えていたのは、これを預かっていたからです」

そう言って封筒を差し出した。封筒には“古賀真人様”と書かれていた。

「古賀さん、東京に戻られてから、2回うちに来られたでしょ?そのあと真奈美ちゃんが来たときにそう伝えると、この手紙を書いて、もし今度来たら渡してと言われてね。でもそれから全然来られなかったから、真奈美ちゃんに来ないよと伝えると、いいから持っておいてと言ってね。この手紙をマスターに預けているということが、自分の人生に後悔しないための、私の心の支えだからって言っていた」

そう言われて封筒に目を落とした。

「迷惑でなかったら読んであげてください」

マスターに言われて俺は封を開けた。


“古賀さんへ

この手紙を読んでいるということは、またグリーンベルに来たんだね。あれほど、もう来なくていいといったのに。私は日曜日には行かないと言ったのに。

でも、これまで2回も来てくれたと聞いて、うれしかった。私に会いに来てくれたのだと思うと、胸が張り裂けそうになるほど嬉しかった。

古賀さんが、家庭を持てるだけの給与になったら迎えに来てくれると言ってくれた時、どんなにうれしかったか。涙をこらえるのに必死だった。

でもね、迎えにきてくれても、私は甲府を離れることはできないの。お母さんをひとりにして私だけこの街を出るわけにはいかないの。だったらお母さんも一緒に東京で暮らせばいいと古賀さんは言うかもしれない。でも、そんな簡単なことではない。東京で私と家庭を持つだけでも大変なのに、お母さんの生活や治療費までまかなうのは、とても無理だと思ったの。甲府という街だから、昼も夜も働いて、質素な生活をして、やっとやっていけているの。それに古賀さんは超エリートなんだから、私なんかよりもっともっと素敵な相手がこれから現れると思う。だから、私は古賀さんのことは、この数か月の良い思い出として心の中のアルバムに大事に仕舞って、もう忘れることに決めたの。それなのに、連絡先なんか交換したら、私は古賀さんの声が聞きたくてすぐに電話してしまうに決まっている。会いに来てと、言ってしまうに決まっている。だから、連絡先は交換しなかったの。

私は、おそらく一生結婚はしないと思う。お母さんの病気は1年や2年で良くなるものではないから。お母さんの最期を看取るまで、私は結婚しないつもりです。

だから、もうグリーンベルには来ないでください。

あなたがグリーンベルに来たと聞けば、私は辛くなってしまいます。

                         真奈美   

追伸 

せっかく封をしたのに、どうしても気持ちが抑えられなくて、また封を開けて書き加えてしまいます。

古賀さん、古賀真人さん、マサト!会いたいよ。会いたくて、会いたくてどうしようもないよ。まさか初めて会ったときに、こんな気持ちになるなんて思ってもいなかった。何であのとき、真人は財布を忘れたんだよ!ちゃんと財布を持ってラーメン食べに来てたらこんなに真人のこと好きになることはなかったのに・・・。

でも、真人のこと好きになって、よかった。


手紙を読み終えて、俺はおしぼりで目頭を押さえた。

「読み終わった?」

マスターが声をかけてきた。

「はい」

「真奈美ちゃんのお母さん、一昨年亡くなってね」

俺はマスターを見た。

「かなり落ち込んでいたな。それで、真奈美ちゃんはいまだに独身だよ」

「マスター、真奈美の連絡先知りませんか?」

「電話するのか?いきなり知らない番号からかかっても出ないだろ?俺が電話してから替わろうか?」

「ダメでも一度電話してみます。私の番号を着信履歴に残したいので」

マスターは一瞬考えてから、自分のスマホを取り出し、それを見ながらメモ用紙に電話番号をメモして渡してくれた。

「古賀さんには絶対教えたらダメだと言われていたんだけど、もういいだろ。今日は水曜日だから、工場は休みだと思うよ」

俺はその電話番号に電話した。しばらく呼び出し音が鳴り、やっぱり出ないかと思ったとき、突然電話がつながった。

「もしもし?」

一瞬で記憶が蘇った。真奈美の声だ。

「俺、古賀真人。いまグリーンベルに来ていて、手紙読みました」

電話の向こうは無言だった。

「それで、俺はいまだに独身です。あれからずっと真奈美のことだけを思って生きてきました。グリーンベルで待っているので、今から来てくれませんか?」

真奈美が息をのむのがわかった。しばらく無言だった真奈美は、鼻をすする音をさせたあと、小さな声で言った。

「30分後に行きます」

電話を切ったあと、俺はしばらく手が震えていた。30分がとても長く感じる。

しばらくして、誰かが店の前に立ったのがわかった。そして、静かにドアが開いて、33歳の真奈美が入ってきた。俺を見つめるその目から、もう涙が溢れていた。

マスターがそれを見て、真奈美のためにパフェを作り出した。

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