酷暑の影
階段甘栗野郎
酷暑の影
あれは、三年前の夏のことでした。
その年の八月は記録的な酷暑で、テレビでは連日「命の危険を伴う暑さ」と報道されていました。
気温は連日三十七度を超え、夜になっても三十度を下回ることがない。
まるで一日中、熱風の中に閉じ込められているようでした。
私はそのとき、郊外にある古い市営団地に住んでいました。
昭和四十年代に建てられた五階建てのコンクリート造り。
エレベーターはなく、外廊下と階段が延びている典型的な造りでした。
築五十年近い建物は老朽化が進み、壁の塗装は剥げ、ところどころに黒ずんだ雨染みが浮き出していました。
昼間は子どもたちの遊ぶ声が響くのですが、夜になると一転、コンクリートが熱を吐き出す音さえ聞こえてきそうなほどの沈黙に包まれるのです。
八月のある夜。
私は布団に入っても寝付けずにいました。
扇風機は熱風をかき回すだけで、汗は滝のように流れる。
時計を見ると、午前一時を過ぎていました。
そのときです。
廊下の向こうから、足音が聞こえてきました。
「ペタ・・・ペタ・・・」
サンダルを引きずるような音が、静かな夜に異様なほど響き渡ります。
こんな時間に誰が、と耳を澄ませると、足音は私の部屋の前で止まりました。
私は身を固くしました。
ドア一枚隔てて、向こうに誰かが立っている・・・そんな気配がはっきりと伝わってくるのです。
やがて足音は再び動き出し、遠ざかっていきました。
翌朝、階段で顔を合わせた住人に「昨夜、誰か歩いてませんでした?」と尋ねました。
しかし、返ってきた答えは首を傾げるだけ。
「聞いてないわよ」と。
それからというもの、同じことが続きました。
決まって午前一時を過ぎるころ、足音が聞こえてきては、部屋の前で止まるのです。
私は次第に眠れなくなり、夜を待つのが怖くなりました。
三度目の夜、思い切って覗き穴を覗いてみました。
しかし、そこには誰もいませんでした。
確かに足音はする。
ドアのすぐ向こうで、重みのある気配さえ感じるのに、覗いても廊下は空っぽなのです。
その晩から、私は覗き穴を見るのをやめました。
見えないものが歩いている。
そう考えるだけで背筋が凍りました。
団地には、以前から妙な噂がありました。
「夜中に廊下を歩く人影を見た」という話です。
見たという住人によれば、影は人の形をしているのに、輪郭が揺れて定まらず、真夏の陽炎のように見えたといいます。
ある老婆は「五年前、熱中症で亡くなった独り暮らしの男性が出るんだよ」とも語っていました。
団地のような古い集合住宅では、孤独死が珍しくありません。
夏場は発見が遅れれば、匂いで気づかれることもあります。
その話を聞いたとき、私は背筋が冷たくなるのを感じました。
八月半ばのある夜。
私は耐えられなくなり、友人を部屋に呼びました。
「夜になると足音がする」と訴えると、友人は半信半疑ながら泊まってくれることになったのです。
その夜も、やはり一時を過ぎると足音が始まりました。
「ペタ・・・ペタ・・・」
私だけではなく、友人の耳にもはっきり届いたのです。
私たちは息を潜めて耳を澄ませました。
足音はドアの前で止まり、しばらく動かない。
「おい・・・今、覗いてみようか」
友人が小声で言いました。
私は必死で止めました。
「見えないんだ。何もいないんだよ」
しかし彼は好奇心に負け、覗き穴を覗いてしまったのです。
数秒の沈黙のあと、彼は顔を引きつらせて振り返りました。
「・・・影が・・・いる」
彼の言葉に、私は凍りつきました。
覗いても見えなかったはずの廊下に、友人には「影」が立っていたというのです。
輪郭が揺れ、黒い靄のようなものが人の形を取っていた、と。
それ以来、私は友人を泊めることはやめました。
彼はあの晩から体調を崩し、数日寝込んだといいます。
私自身は、その後も足音を聞きました。
だが、決して覗くことはしませんでした。
見てはいけない。
そう思ったのです。
九月になり、気温が下がると、足音は聞こえなくなりました。
まるで酷暑の季節にだけ現れるもののようでした。
今でも八月の夜になると、私は思い出します。
団地のコンクリートが熱を吐き出すようにむっとする廊下。
静寂を破る「ペタ・・・ペタ・・・」という足音。
そして、ドアの向こうに立ち尽くす「影」
あれは本当に、亡くなった誰かの残滓だったのか。
それとも、酷暑に焼かれた団地そのものが見せる幻だったのか。
分かりません。
ただひとつ確かなのは・・・真夏の団地の夜、窓の外を吹き抜ける生温い風の音を聞くたび、私はあの「歩き回る影」を思い出してしまうのです。
酷暑の影 階段甘栗野郎 @kaidanamaguri
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