パリから始めるサスペンスロマンス

神坂俊一郎

第1話パリの失踪

国内屈指の名門西都大学を1979年3月に卒業した神坂俊一郎は、東京の会社に就職したのですが、研修ということもあって、2ヶ月間ほぼ休みなしに働いて、6月になってから、まとめて取った初の有給休暇で、京都の奥の京丹波にある実家に帰りました。


母の高子は、不便なので吹田に家を借りて移っていたため実家は今無人になっていたのですが、電話が引かれたままになっており、思わぬ事に東京の会社から電話があったのです。

休暇中に何の用事かと思えば、どう言う訳か大学の後輩で、学生時代にガールフレンドだった斉藤圭子の母の園子から至急連絡が欲しいと会社に電話があったと言うのです。

圭子とは、テニス同好会の先輩と後輩の関係でもあり、2年前にはお互い結婚を考えたこともあったのですが、結局結ばれずに終わっていましたし、ガールフレンドとは言っても、セックスはおろかキスさえしていない清い関係だったのです。

奇妙な関係の相手でしたし、いろいろと面倒を押し付けられたこともあって、その母親とも知らぬ仲では無かったのですが、今更何の用事なのか、想像もつきませんでした。

しかも、圭子はテニス同好会を辞めて、確か今は大学もさぼって海外旅行に出かけているはずでした。

とりあえず、大阪の平野の彼女の実家に電話をしてみました。

すると、何と彼女が旅行先のパリで失踪したことがわかりました。

園子の要件は、俊一郎が圭子の失踪について何か心当たりはないか、とのことだったのですが、俊一郎としても、全く心当たりはありませんでした。

「残念ながら、ここ2か月ばかり会っていませんし、心当たりはないのですが。」

そう答えると、園子は奇妙なことを聞きました。

「神坂さん、パスポートをお持ちですか。」

2ヶ月前に京都で圭子に最後に会った時、就職したら、急な海外出張も有り得ると強引に勧められたので、行くあてもなくパスポートを取得していたことを思い出し、あると答えたところ、園子はしばらく考えている様子で沈黙が続きました。

彼、たまたまほぼ休みなしだった2ヶ月間の研修が終わって、ほぼ2週間連続の休暇が取れたところだったのですが、大学に顔を出そうかなと考えていたぐらいで、今は付き合っている彼女もいませんでしたし、特に予定はなかったのです。

そして、斉藤圭子は、なさぬ仲なのに、本当にこれこそ腐れ縁と言うしかないぐらいに、再三面倒に巻き込まれた相手でしたが、お互い余り幸福とは言えない家庭に育っていたこともあって、妹のような親近感も持っていた相手でしたから、つい気をきかせて答えてしまいました。

「では、私も捜しに行くのに付き合えばよろしいのでしょうか。」

言った後で、旅費等はどうすればいいのだろうか、貯金で間に合うだろうかと心配になった俊一郎でしたが、園子の方も、彼の答えに驚いたと見えて、またしばらく沈黙が続きました。

それから、安堵した様な声が返ってきました。

「本当にお願いできるかしら。幸い旅行保険もあるし、私達の分は旅行会社の方で手配してもらえそうやし、もしだめなら、全額私が負担するから。」

おお、それはラッキー、ただで初の海外旅行に行ける、と思いながら俊一郎は聞き返しました。

「わかりました。幸い休暇が取れていましたから、一応の期限は最大14日間ですが、それでよろしければ、ご一緒します。」

答えながら、あてもなかったのに何となく最大限休暇を取ったのはこのためだったのかな、と思う彼でした。


実は俊一郎、何となくしたことが、後からまるで予知していたのではないかと思われることがしばしばあったので、仲間内では、預言者と呼ばれていたののです。

「2週間あれば十分だと思うわ。是非、お願いしたいわ。私一人で、初めての海外は心細かったから、無理なお願いだったんだけど、ついついしてしまったの。」

園子は、あっさりOKしてもらえて嬉しかったのですが、余りに簡単に彼が答えたので、実感が湧きませんでした。

「では、用意してから伺いますが、どちらに行けばよろしいでしょうか。」

何故か帰省にパスポートを持ってきたことも、シンクロニシティーと考えざるを得ないことでした。

「じゃあ、午後2時に新大阪駅2階の名店街前の喫茶店まで来てもらえるかしら。」

「わかりました。では急いで用意します。」

「ごめんなさい、急にとんでもないことをお願いして。でも、お願いできる人は他にいなかったし…。」

園子は、圭子の父と離婚して再婚したものの別居中で、圭子にとっての実の父も義理の父もあてにはできない状況でしたし、俊一郎は、そのことも知っていたのです。

「大丈夫です。海外に行けるだけでもラッキーで大歓迎ですから、気にしないでください。」

「じゃあ、お願いね。」

俊一郎は、電話を切った後、これは現実だろうかとふと思いましたが、約束の時間まで4時間しかありませんでしたから、とりあえず目についたボストンバッグに下着と着替え用の服、それに防寒用にジャンパーも一枚詰め込んで、恐るべき素早さで京都の奥の京丹波にある実家を出ました。


友達と急に旅行することになったと適当な嘘をつき、大阪の吹田に住んでいる母の所に立ち寄って車を預け、新大阪駅まで送ってもらうと、まだ1時前でした。


彼は、全く無駄遣いをせず、給料は半分は母への仕送り、半分はそのまま貯金で2か月たっていましたから、ATMで5万円ほど引き出してから指定の喫茶店に入って見ましたが、彼の方が早かったようで、圭子の母園子の姿は見えませんでした。

やれやれ、自分の方が早かったか、と思いながら俊一郎はコーヒーを注文してしばらくぼーっとしていました。

15分ぐらいたった時に、大きなトランクを引きずった園子があたふたと現れ、彼が来ているとは思わなかったらしく、そのまま入口近くの席に座ったのです。

俊一郎は、ウェイトレスより早く立っていくと「ご無沙汰しています。」と声をかけました。

園子は一瞬信じられないような顔をしましたが、すぐ気を取り直して、彼の向かいの席に座りました。

「俊一郎さん、確か京都の山奥から電話をくれたのよね。それがどうして平野に住んでいる私より先に、新大阪にたどりつけるのよ。」

コーヒーを注文した後、不思議そうに聞くので、俊一郎はありのままを答えました。

「15分で身の回りの用意をして、車で1時間半で吹田まで来て、母に私の車でここまで送ってもらったんですよ。」

「私なんか、服の用意だけで1時間もかかったのにえらいわね。」

「ところで、その中には何が入っているのですか。」

俊一郎は、園子の大きなトランクを見ながら聞いてみました。

「うん。半分服で、後インスタント味噌汁とか、非常食も入っているわ。」

「ふーん、私は下着プラスアルファぐらいしか持ってきませんでしたよ。」

「それでいいんじゃない。考えてみると、パリって、フランスの大都会なのよね。」

園子も、荷物が多過ぎたと後悔していましたから、彼の軽装をうらやましく思っていました。

「そうですね。ところで、少し詳しい話を聞かせてもらえませんか。パリでいなくなったとしか聞いていませんから。」

圭子を捜しに行くのなら、俊一郎は、とにかく詳しいことを知りたかったのです。

「そうね。でも、私もよくわからないの。今朝旅行社から電話があって、一昨日から滞在先のホテルにも戻っていないから、何か心当たりはないかって言ってきたの。思わずふざけんじゃないわよ、と言って、その後騒ぎまくったからか、直ぐ行かせてくれることになったの。で、一人じゃ心細いし、外国わけわからないから…。」

「それで、私の登場とあいなったわけですか。」

何となく合点が行ったので言うと、園子はとんでもないことを付け加えたのでした。

「そう。文句言いまくった後、娘の婚約者だから一緒に連れてけって。」

「婚約者…。」

俊一郎は、自分が引っ張り出されるからにはただの友人との触れこみではあるまいとは思っていましたが、婚約者には絶句しました。

「あっ、ごめんなさい。そんな積もりじゃなくて、旅行社の人が普通の友人じゃ駄目だって言うから、じゃあ、婚約者ならOKなのって聞いたら、それなら大丈夫でしょうって言ったのよ。嘘も方便で言っちゃっただけだから、安心してちょうだい。」

事情を理解した俊一郎は、にっこり笑って答えました。

「大丈夫ですよ。赤の他人ならともかく、圭子さんは今でも大事な友人だと思っていますから。大体、私には友人と言える人って、彼女ぐらいしか居ませんし。入籍されると一寸ことですが、婚約者なら喜んでなりましょう。海外に行けるだけでも有り難いことです。フランスは、ちょっとひっかかりますが。」

「貴方、博学でも、フランス語までは知らないわよね。」

娘から、俊一郎は英語なら結構わかると聞いてはいましたが、園子もフランス語までは期待していませんでした。

「ええ。英語以外はドイツ語なら少々はわかりますが、文学部でフランス語を選択していた圭子さんと違って、残念ながらほとんどわかりません。でも、行けば英語で何とかなるでしょう。」

「頼りにしてるわよ。」

頼りにされた俊一郎は、思わず苦笑しました。

「まあ、いざとなったら、誰か通訳をお願いしましょう。」

「そうね。旅行社が誰か付けますからって言ってたから。もっとごねて見ましょうか。」

実は園子、旅行社にごねて案内役まで手配させていたのです。

「ほどほどにお願いします。ところで、本当に心当たりはないのですか。」

俊一郎、実はこのことがずっと頭にあったのです。

自分にしつこくパスポートを取れと言ったのが圭子でしたし、この調子では園子もパスポートは持っているようですから、ひっかかっていたのです。

「そうね。全くないと言ったら嘘になりそうだけど、取り敢えずはないわね。神坂さんは如何。」

彼は、正直言うと思い当たるふしは沢山あったのですが、疑問を一つずつあげてみることにした。

「沢山ありますが、一つは、私は一種の腐れ縁ではありましたが、テニス同好会を辞めて、大学をさぼってまで海外に出かけたことですね。」

「そのことは、貴方の方がよくご存じでしょう。」

園子は、意味あり気に答えました。

実は圭子、俊一郎と別れた後の一昨年の冬からテニス同好会の先輩青木孝一とかなり深く付き合っていたのですが、結局は彼女の性格が災いして、去年の早春に相手の自殺未遂を伴うひどい別れ方をしていたのでした。

そして、何とその時にいろいろと面倒を見たのが、以前に圭子の恋人でもあった俊一郎で、彼がいたからこそ、同好会のマネージャーを続けていたのであって、彼が卒業していなくなった同好会には、圭子は、愛着も未練も無かったのです。

「そうですね。某先輩とのことでこうなると預言したのは、他ならぬこの私ですからね。まあ、この疑問については、次の疑問、何故この時期に海外に出かけたのか、につながります。あの事件の後、どうも男性とはうまく行かなくなったようですから、1年たって私もいなくなったから、一種の感傷的な旅と考えれば、それほど無理な理由付けの必要はありませんね。」

すると、園子もその辺の事情は知っていたらしく、同意しました。

「私もそう思う。とにかく、青木さんやったか、とのいざこざの一周年記念厄払いって感じはあったわ。」

俊一郎は、圭子と青木孝一のことについては触れるべきか否か迷っていたことだったので、園子が知っていたことには安心しました。

「貴方は、圭子さんと青木さんとのことはご存じでしたか。」

「ご存じも何も、神坂さんよりはまとも、あっごめんなさい。そんなつもりじゃなく。」

つい園子は本音を漏らしてしまい、慌てて謝ったのですが、俊一郎の方が笑って許しました。

「いや結構です。私自身自覚していますから。圭子さんの恋人としては不気味であり、まともでなかったことは。」

結局それで、圭子は俊一郎のプロポーズを断ったのだと、彼も自覚していました。

「いやね、青木さんは何度か家に来て、圭子を妻にとほのめかしたこともあったの。それでつい…。」

青木は乗り気であり、園子も彼のことは好青年だと思ったものでした。

「私よりは普通で、結婚相手にはよいと思ったのでしょう。」

俊一郎もそんなものだろうと思っていたので言うと、園子は感心したように確かめました。

「ピンポーンやね。何故わかったの。」

「私変な特技がありまして、その人を通して間接的にどんなことがあったのか、何となく想像がついてしまうんです。」

彼には確かに奇妙な能力があり、他人を介して物事を言い当てたり、透視したりすることができたのです。

「千里眼みたいやね。そうそう。確かに貴方の眼は怖いときがあるわ。何か見つめられると心のなかを覗かれているみたいな。」

娘を訪ねて来たり、送ってきてくれたりして来た時に、園子は何度か彼と話をしていたのですが、時々自分の心の中を覗かれているような気分になったり、過去の出来事を透視できるのではないかと思ったことがあったことを思い出しました。

「その通りです。でも何時ものぞくわけではありません。何だか、他人に関してやばくなりそうな時だけですから。」

「あら、自分に関してはしないの。」

「自分に関しては、知りすぎるとろくなことはありませんから見えない、いや見ないようにしているようです。無意識にプロテクトをかけているのかも知れません。」

俊一郎、自分に対しては極力目をつぶることにしていたのです。

「ふーん。でも大丈夫よ。私、あの子には全部聞いてるから。青木さんとは何度も寝たけど、貴方とは一度も寝てないし、キスさえしてないことまで。」

俊一郎は、彼女の言葉に驚きましたが、いい親子関係だなと羨ましくもなった。

「いい親子関係ですね。私は、圭子さんにプロポーズしたことは、母にも話していませんし、両親も、破局を迎えるまで、私には何も話してくれませんでした。今回も、母には友達とちょっと旅行するとしか言っていませんし。まさか外国に行くとは思ってもいないでしょう。」

俊一郎の両親は、何と彼が中に立って離婚の調停をしたのですが、もめにもめた末、父が失踪して、最近ようやく離婚が成立していたのです。

「そうだったの。」

「でも、あなたがそれだけ知っているなら、圭子さんのことを、遠慮せずに話せます。」

「ところで、一つ聞いていいかしら。」

「私が、何故圭子さんとセックスしなかったか、ですか。」

園子、尋ねようとしたことを、彼に先に言われてしまったので、彼の直観には背筋が寒くなりました。

「そう。」

「簡単に言いますと、相性と時期が悪かったからです。」

彼は、さらっと答えました。

「じゃあ、残念ながら、圭子の婚約者神坂俊一郎は、未来永劫実現しそうにはないわね。」

予想していたことではありましたが、園子は少し落胆しました。

何だかんだ言っても、娘の圭子は俊一郎には一目も二目も置いていましたし、それだけ信頼している相手でもあったのですから。

しかし、俊一郎は意外なことを言いだしました。

「いいえ、そうとは限りません。確かに相性は余りいいとは思いませんが、時期は変わります。この先また親しくなれば、結婚することだってあるかも知れませんし、今回の件も一つの縁です。少なくともあっさり別れる運命にはなかったことは確実ですから。」

園子は、以前圭子に俊一郎との結婚について意見を求められた時、彼が確かにいい人であることは認めましたが、夫としては素直にはすすめられませんでしたし、それは今でも変わっていませんでした。

しかし、今回が一つの試練であるとしたら、それを乗り越えられればあるいは、との希望も見えてきました。

俊一郎は、娘の圭子が処女ではなく、他人とセックスしていることなど、全く気にしないように思えましたから。

「ふーん。じゃあ、びくはあるわね。期待しようかしら。」

俊一郎は、にっこり微笑みました。

「まあ、それは成り行き任せにしましょう。一ついっておきますが、圭子さんのことは今でも好きですよ。それに、私は過去にはこだわりません。」

「そりゃそうよ。それでないと、国際捜索隊に付き合ってくれるわけないわ。」

園子は、下心無く尽くしてくれるからには、彼が娘を未だに愛してくれていることについては疑っていませんでした。

「ただし、正直に一言いわせてもらいますと、圭子さんは、自分勝手で、わがままで、そのくせ甘えん坊なのに我を張りたがるから、付き合う相手は苦労しそうな気はします。」

彼が圭子のことを非常に客観的に見ていることはよくわかっていましたが、一番苦労したのは彼自身のはずなので、それを他人事のように話すのが滑稽でした。

でも、その中に彼なりの愛情が感じられましたから、園子は安心していました。

「よく見てるわね。その通りだと思うわ。」

「ですから、余計にひっかかるんですよ。」

俊一郎は、自分が引っ張り出されたことに対して一つ引っかかりがあったのです。

「今回の件もしかしたら狂言で、私が騒げば、行きがかり上貴方が引きずられて出てくるだろうから、パリでめでたしめでたしとなるって感じかしら。」

彼の思いは、少し違っていた。

「それもないとは言いませんが、めでたしめでたしよりは、土地勘の無い外国を利用して、私をへこませてやろうとする可能性の方が高そうな気がします。もしそうだとしたら、まんまと騙されに行くようなものですが。」

すると、園子があっさりと認めたように答えました。

「もしそうだったらごめんなさいね。私は、強制はしないから、二人で話し合ってちょうだい。」

何だか本当にその通りのような話し方なので、俊一郎は不安になって聞き返しました。

「あのう。本当にそうではないですよね。」

「あっ、いや違うわよ。少なくとも今現在は、圭子の捜索隊であることは本当よ。」

園子も、そうであって欲しいとは思っていましたが、慌てて否定しました。

「では、疑問を続けますが、貴方もパスポートをお持ちですね。」

「そして、神坂さんも持っている。そして二人とも半ば強制的に圭子に作らされた。」

園子の言うとおりで、3月に最後に会ったとき、圭子は、パスポートは、これからは社会人として必需品だと主張して、彼にも取らせていたのです。

「そう。取らなきゃ印紙代まで出しそうな勢いでしたから。」

「あら、私出してもらったわよ。」

圭子、母の園子には、印紙代までバイト代から出して取らせていたのだ。

「あっいいな。私は、就職したらいつ何時海外出張が持ち上がるかわからないから、パスポートも持っていないようでは時代遅れってな感じで、乗せられて取ってしまいましたよ。」

「それなら、印紙代ぐらいは私が出すわ。」

付いてきてもらえる以上、それぐらいはしないといけないと園子は思っていた。

「いや、それはいいんです。それで、もしかしたら貴方にも言われたかも知れませんが、テニス同好会の元の仲間達にまで、『もし私に何かあったら、神坂先輩に助けに来てもらえるように頼んでちょうだい。』なんて言っていたそうです。」

「うん。その通りだわ。」

「と言うことは、もしかして。」

「そうなの。私にも、何かあったらきっと貴方が助けてくれるでしょうって。」

「はあ。光栄なのやら、都合よく利用されているのやら。」

「きっと後者ね。」

二人は、顔を見合わせて笑いましたが、お互い複雑な気分でした。

「ただ、それだけではないと思うんですよ。」

俊一郎は、引っかかっていました。

「というと。」

「本当にそれだけなら、まあ、パリというところがロマンチックと言えないこともありませんが、危険を冒してまで、パリで失踪したりはしないはずです。パリでないといけない何かがないと。」

園子はしばらく考え込んでいたが、つぶやくように答えました。

「深い読みね。流石にあの子と2年間も付き合っただけのことはあるわ。私もそんな気がする。パリに何かある。」

「あるいは、パリで誰かに会うってところですかね。」

何気ない一言の中に深い洞察を秘めているのが彼の常であることは園子もよく知っていましたし、確かに何故パリなのかは気になっていました。

そして、彼はもっと何か知っているのではないかとさえ思えたのです。

「他に、何か知っていることは。」

二人ほぼ同時に問いかけたので、顔を見合わせて思わず笑いだしました。

俊一郎も園子も、何故か、不思議なぐらいに深刻な気分にならなかったのです。

園子は、パリで娘と待ち合わせをしているような感じで、実感が湧かなかったことが原因だったのですが、これは奇妙でした。

特に、園子の陽気さは、俊一郎でさえ不気味に感じました。

そこで彼は、出来るかぎり情報を集めることにしました。

「そもそも、今回の旅行は何時計画したんですか。」

「そうね。今年の2月頃だったかしら。格安なツアーがあるからとか言いだしたの。」

「それで、旅行社に申し込んだのは何時ですか。」

「貴方に、蹴上近くの下宿から平野に戻る引っ越しの荷物運びまで全部やってもらった一周年記念の日って言ってたわ。」

「と言うことは、3月6日ですね。」

彼は、驚異的な記憶力で、その日付まで覚えていました。

「貴方がそう言うならそうでしょう。確かその頃だったわ。」

「で、貴方が半分たかられたと。」

「よくご存じね。」

園子には、彼がそんなことまで知っていることは驚きだった。

「ええ。都合の悪いこと以外は、会うと何でも話してくれましたから。私としては、別に聞きたいわけではなかったのですが。それで、思ったんですが、私は圭子さんとは、いや、圭子さんにとっての私は、恋人ではないなと。」

園子は、一昨年の夏のことを思い出しました。

彼が、圭子一人を長野の別荘に誘ったことは、結局プロポーズだったのです。

圭子は、散々悩んだ末に園子にも相談しました。

そして、彼とは、恋人よりも、夫よりも、父親のような関係の方がよいと断ったのです。

しかし、俊一郎は圭子の決断をあっさり受け入れ、その後も面倒を見てくれていました。

「そうね。父なし子のあの子にとっては、貴方は父のような存在だった。」

「私としては、娘を持つには早すぎましたが。」

彼は、ぼそりと言った後笑いました。

神坂俊一郎は、見かけだけは高校生と言っても通用しそうなのですが、中身は違いました。

恐ろしいほど落ち着いているし、何が起きても冷静に余裕を持って対処しそうだったのです。

だから園子も、娘の友人というよりは、むしろ自分よりも年上の友人のように感じられていましたし、今回、迷わず彼に頼る気になったのです。

「だから、貴方は、精神的には私と釣り合うのよ。」

ぼそっと言うと、彼は静かに答えました。

「それは言わないでください。まあ、貴重な体験の賜物ですから。それに、私は奇妙な記憶があるのです。」

「あっ、大昔のことを覚えているってやつね。」

圭子から聞いたことがあったので、園子が言うと、彼はうなずきました。

「そうなんです。ただ、前世の記憶なのか、時代を超越して透視しているものなのか、は曖昧なんです。母の記憶としか思えないものもありますし、戦死した母の恋人のものではないか、と思えるものもあります。時代を超越したものもあります。古いところではアトランティスが沈んだ大異変らしいものまでありますから。」

アトランティスまでは聞いていなかったので、園子は驚きました。

「不思議な人ね。でも、そんなことを体験している時って、別の人格を体験しているようなものでしょう。よく分裂症にならないわね。」

そう言われてみるとその通りなのですが、彼にはもう一つの秘密があったのです。

「確かにその時は、その場面でその人に成りきっているのですが、不思議なものでそれらを超越したもう一つの人格みたいなものがあって、結局は、その人格が私自身をもコントロールしているんですよ。」

「凄い話やね。」

園子には理解できませんでした。

「でも、反面全ては他人事って思えることもあるんです。そのためか、苦労して何かをしたって感覚もありません。」

「ふーん。」

園子は、そんな彼が不気味に思えましたが、現在の自分の状況を考えると、彼ほど頼りになる存在も居ませんでしたから、娘の指名も当を得たものと言わざるを得ませんでした。

彼を指名した意図は、謎でしたが。

「でも、何だか変ですね。」

「なにが。」

聞き返しながらも、園子自身、俊一郎の言葉は確かに今の自分達をうまく表しているように思えた。変な二人組、親子でもないし、単に娘の友人と私。それでいて、年齢を超越して奇妙に釣り合いがとれている。

「いや、圭子さんが行方不明で、しかもそれが外国でしょう。」

「そうやね。」

「どう考えたって深刻な大事件ですよね。少なくとも貴方にとっては。」

俊一郎にとっては、圭子は、本物の婚約者ではなく、所詮友人でしかありませんし、じたばたするほどのことはないのですが、母の園子にまで妙に落ち着かれると、不気味だったのです。

「そうよ。確かに大事件やね。私には、家族は娘の圭子一人しかいいいひんし。」

「でも、何だか貴方を見ていると、そんな気がしないんですよ。」

言われてみるとその通りで、今朝は流石に取り乱してわめき散らして、そのお蔭でパリに行けることになったのですが、俊一郎を前にした今は、不思議なぐらい落ち着いていました。

むしろ、このまま彼と二人でここにずっと座っていたいぐらいだったのです。

「貴方と一緒だからかも知れないわ。確かに落ち着いちゃった。」

「まあ、取り乱して『娘を返せ。』なんてやられると、私としても他人のふりをしたくなりますから、落ち着いてもらえるのは有り難いのですが。」

実は俊一郎、両親の離婚調停の時に、その修羅場に立ち会ったのですが、両親ともに、自分がしたことは棚の上にあげて、『私の人生を返せ。』なんて感じでやりあわれて閉口した経験があったのです。

それで、彼自身も見るに見かねましたし、調停委員も、一人だけ冷静な彼に調停に参加して欲しいと希望したため、名目は母の代理人ながら、二人の間に立って調停を切り盛りしたのでした。

もっとも、結果は彼にとっては、理不尽とした言いようがなかったのですが、双方から恨まれ憎まれると言う、悲惨としか言いようが無いものに終わったのですから、彼の方がよほど「私の青春を返せ。」と言いたかったのです。

しかし、その後の展開から言えば、父が失踪して離婚が成立した結果、ほんの少し残った財産は、とは言っても元々は全て祖父の遺産だったのですが、弁護士と彼を舎弟と呼ぶヤクザの不動産業者佐々木氏の暗躍?によって、ほとんど全てを、本来の名義人は彼であるとして、俊一郎が受け継ぐことになったのですから、彼が一番得をしたとも言える結果でした。

俊一郎が真顔で言うので、園子は思わず笑いだし、彼も半ば呆れ顔ながら、にっこり微笑みました。

「まあ、のんびり陽気に行きましょう。何とかなりますよ。」

彼のこの言葉に、園子は気が楽になりました。

喫茶店を出て、パリ行きは成田発の便でしたから、早い方がよいだろうと園子がのぞみの切符を買って、新幹線に乗りました。

のぞみは確かに速く、あっと言う間に名古屋を過ぎ、静岡に入ると左手に富士山がきれいに見えました。

「わっ、富士山だ。」

「えっ、どれ。あっ確かに富士山だ。きれいねえ。」

俊一郎につられて二人で見とれていると、俊一郎は何を思ったか笑いだしました。

「どうしたの。」

聞くと、彼は3年前のことを話しだした。

「我々、年に一度学生の親善大会で東京に行っていたのですが、2年の時に、確か圭子さんも一緒でしたね。」

「そうね。帰りは、貴方の車で帰ってきたのよね。」

「そう。その時やっぱり同じように富士山みてはしゃぎまくったんですよ。」

「確かにきれいよね。」

「ところが東京出身の奴がいて、さも不思議そうに我々を見ていたんです。」

「なるほど。東京だと天気がいいと見えるから、珍しくも何ともないんや。」

「で、その彼、面白いこと言ってましたね。」

「何と。」

「関西以西でも、反応が違うって言うんですよ。」

「そやの。」

「彼が言うには、陽気に『わあっ、きれいや。』が大阪人で、京都人はそんなに素直には騒がないし、神戸の人も少し気取って見るからそんな大袈裟には驚かないっていうんです。」

「へえ、そんなものかしら。じゃあ、九州や北海道はどうなのかしら。」

「北海道はわからないと言ってましたが、九州の人は感激の余り間抜けた表情になりやすいんだそうです。」

「凄かー、美しかーって感じなのね。」

園子が思った通りに口をぽかんと開けながら言うと、俊一郎は、笑いだしました。

「そう。そんな感じがぴったりでしょう。ところで、斉藤さんはどちらの御出身なんですか。」

「私は、大阪よ。」

「じゃあ、私と同じですね。」

「でも、あんた、全然大阪弁しゃべらへんのね。」

前にも聞いた覚えはあったのですが、園子には大阪弁を使わない大阪人は不思議でした。

「ええ。小さい頃から厳しく躾けられましたから、人前できちっと話す時は、関西のイントネーションの標準語です。」

「大阪弁話せへんの。」

「いや、話せへんわけやあらしまへん。わてかて話そ思たら話せます。」

使っては見たが、少し変でした。

「何や、変な大阪弁。」

「わざとやから、あきまへんわ。」

「あんたの大阪弁、ごっつう変やわ。」

園子は、思わず笑い出しましたし、俊一郎も頭の中で変換しながら話しているようなものなので、やめることにしました。

「なれへんことやめまひょ。そやけど、あんたはんは、気にせんで使っておくれやす。なんて大阪弁ありましたっけ。」

園子は、彼の大阪弁が変なのでしばらく笑っていました。

「変どすか。そやし、わて使わんのどすえ。これ京都弁。」

園子は余計笑いましたが、ひとしきり笑い終わってから、感心したように言いました。

「神坂さんって、堅物やとばかり思ったらそうやないのね。」

『常に紳士の仮面を外さない。』と言われていると娘から聞いたことを思い出すと、園子には、彼の妙に軽い態度が意外に思えました。

「昔は、噺家と言われたこともあったんですよ。でも、家庭が暗くなると性格も暗うなります。そやから、高校2年以降は、品行方正学業まずまずの優等生でしたね。」

「ふーん、そうやったの。少しは圭子から聞いてたけど、お父さんのことで苦労したそうね。」

園子も、娘から彼の家庭のことを少し聞いていた。

「苦労と言えば苦労ですけど、滅多にできん経験させてもろたと思えば、いい勉強になりましたね。でも、貴方も御主人ではいろいろあったのでは、あっ失礼。」

つい言ってしまって、俊一郎は謝りました。

「いいのよ。私やって誰かに話したくなることあるから。私、結局二度離婚して今は独身なの。」

「あっ、そうだったんですか。」

俊一郎は、そう答えたものの、圭子から聞いたのと違うなと思ったので怪訝そうな顔をしたため、園子は慌てて訂正した。

「あっ、ごめんなさい。それは表向きで、正確には二度目は現在別居中。そのこと貴方はよく知ってたのよね。でも、時間の問題よ。」

わざわざ言わせてしまったことを、彼は謝りました。

「すみません、そこまで言わせてしまって。ただ、圭子さんに聞いたのとは違うなと思ったので。」

「本当に記憶力いいのね。」

彼の記憶力については、圭子からもよく聞いていた。

「そうですね。でも、うちの大学の連中、多少の差はあれ、皆凄いですよ。」

彼と圭子は、国内屈指の名門西都大学の先輩後輩の間柄でしたから、天才の集まりだったのです。

「そりゃそうよ。何と言っても名門中の名門だもの。」

「でも、大学入って思ったんですが、頭も結局は使いようかなと。」

「もとからとは違うの。」

日本人は、天才は天才と諦めたように見てしまうので、園子もそんなものだと思っていました。

「多少の差はあるんでしょうけど、それよりは使い方、コンピューターで言えば本体のハードウェアよりはソフトウェアの差の方が大きいんじゃないかと。」

「もっとわかりやすう言うて。」

彼の話は、園子には少し難しかった。

「そうですね。頭脳自体の問題よりも、使い方ってことですよ。例えば、大抵の人勉強って言うと、余り好きだと言う人いませんね。」

「孔子も、言ってるじゃない。」

俊一郎は、園子がその言葉を知っていることには感心した。

「そうですね。顔回以外は学を好んだ者はいないって。」

「そうじゃないの。」

「でも、一寸違うんです。」

「どこが。」

「うちの大学の連中、必ずしも好きとは言いませんが、どこかで勉強を楽しんでいる面を持っているんです。」

「それじゃ、好き以上じゃないの。」

「そうなんです。これも孔子の言葉にありますが、好む者より楽しむ者の方が更に上だと。浪人している奴も多いけど、予備校の勉強なんかもどこかで楽しんでいたんですよ。だから4年になっても、大学入試に出る英単語や公式なんか、ほとんど覚えているんですよ。」

「ふーんそうなんや。一夜漬けやないわけね。」

「そうです。私なんかその典型で、高校の時普段の試験はクラスの中程でしたが、実力テストは常にベスト3にいましたから。」

「じゃあ、学校のテストのための勉強はしなかったの。」

そんな高校生がいるとは驚きでしたし、それで西都大に入るのですから、尚更です。

「しなかったわけじゃありませんが、それに限定しなかったんです。だから興味があれば逸脱して進んでしまうし、興味が湧かなければ別のこと考えていたりしただけなんです。試験の範囲はここまでだから、これだけやればいい、という勉強はしなかったんです。しかし、勉強なんていうものは、いや、知識はというべきですか、科目で分けられるものじゃないんです。総合的、有機的につながっているんです。ですから、そこだけなんて限定する方がおかしいし、限定してたら、実力テストみたいなものではいい点とれない。」

彼は常々そう思っていましたし、範囲を定めての勉強やテストには反発していました。

「でも、日本人って限定してやりたがらないかしら。」

「そうですね。だから、日本にはスケールの大きな天才は出ないんでしょうね。」

何でもできたら、それは超人ではあるけど、気味悪いが先に来るのかもしれないと園子は思いました。

「つまはじきもんになってしまうやろね。」

「正直言って、私もかなり危険でしたよ。」

「へえー、そんな風に見えんけど。いかにも紳士風で。」

娘の話から、園子は、俊一郎は品行方正学業優秀の見本のように思っていました。

「それが全く違うんですよ。こうなったのは小学校高学年からで、それまでたるや傍若無人というか、人がどう見ようがおかまいないしで、自分の興味の赴くままに行動していました。」

「へえー、信じられへんわ。」

眼前の如何にも紳士風の青年からは、そんなことは想像もできなかった。

「幼稚園の時の話なんですけど、大騒動ひきおこしたことあるんですよ。」

「なあにそれ、教えて教えて。」

彼女は、謎の人物俊一郎の過去には、娘と付き合っていた頃から興味がありました。

「そうですね。とんでもないことですが、教えましょう。ある日、幼稚園から帰る時、みんなで校門というか入口前に整列していた時、ふとおしっこがしたくなったんです。」

「よくあることね。それでもらしちゃうとか。」

「いや、それならよくある話ですが、その時ふと野良犬が電信柱に、それも今のと違って珍しいことに木にコールタールが塗ってあるやつでしたが、おしっこしてるのが目についたんです。」

「じゃあ、そのままやっちゃったわけ。」

「ええ。それもそのままならまだしも、通行人に向かって放尿したんですよ。しかもその時通りかかったのが和服を着たおばさんで、かかりはしなかったと思うんですが、私には何も言わずに、そのまま園長先生のところに怒鳴り込んだんです。」

「そりゃ滅多にない話ね。確かに騒動になってもおかしくないわ。」

思わず笑いながら、園子は真面目に話す彼の顔を見つめました。

「それで、流石に園長先生ではなく、主任の女の先生に耳引っ張られてトイレに連れていかれて、『人間ならここでしなさい。あんたは犬やないんでしょ。』ってこっぴどく叱られました。」

「それで、あなたどうしたの。」

「滑稽な話ですが、子供心に思いました。『へえー、人間はトイレでしないといけないのか、そんなものだったのか、そこが犬と違うのか。』と。」

園子は、それを聞くとあたりかまわず大声で笑ってしまいました。

「同じように、幼稚園の先生を唖然とさせたことが、まだありましたね。」

「なあに、それ。」

「当時は、大阪でも郊外は自然が一杯で、田んぼや小川には生き物が一杯いたんです。」

「そうね。まだ結構きれいだったでしょうね。」

「それで、幼稚園に行く途中、自然観察会を開いたんです。まあ、観察会といっても、私と隣の家の子と二人だけでしたが。」

「じゃあ、きっと遅刻したんでしょ。」

「遅刻なんて生易しいものじゃなかったんですよ。園についた時は、もう皆お帰りの用意をしていたんですから。」

園子、流石に呆れました。

「先生、何て言ったん。」

「一体何してたって。」

「それで、あんたたちは何と答えたん。」

「正直に、『田んぼや溝にいるタニシの観察をしていました。』と答えました。」

「それでその後は。」

「担当の女の先生は、それ以上何言っていいかわからなくなったらしく、しばらくしたら園長先生が来て、いろいろ話を聞いてくれました。」

「へえー、でもいい園長先生だったのね。」

園子は、厄介な生徒に優しく接してくれた先生は大したものだと思った。

「そうですね。それで優しく言われました。『今度からは、朝の体操が始まるまでに来ようね。』って。」

「親、何て言ったん。」

「呆れて笑ってた。でも、考えてみると私は西都大で、もう一人の彼は難波大に入学しましたから、二人とも知識に対する素養はあったんでしょうね。」

二人とも超一流大学に進学したことは笑えましたが、今同じことしたら通用するか、は疑問でした。

「今だったら、大変でしょうね。」

「そうですね。下手したら捜索願いが出かねないところでしょう。」

「なんか、あんた叩けばほこりが一杯でそうやね。」

品行方正の見本のような彼の思わぬ過去を聞いて、園子は意外に思いました。

「そうですよ。おとなしい割りには悪行のかぎりを尽くした変な子でしたから。」

俊一郎も、自分のことながら笑っていました。

「笑うしかないわ。」

「小学校中学年までそれを続けましたからね、自分でも笑えますよ。」

「でも、勉強はできたんでしょ。」

彼は小さい頃から神童だったと、娘から聞いていました。

「できたというより、今考えてみると完全に超越していましたね。正直小学校3年までは、何でこんなばかばかしいテストなんかやらせるんやって感じでした。」

実際彼は、宿題で黒板に書かれた問題を、面倒だからと答えだけノートに書いて帰ったり、テストも同様に途中を全て飛ばして答えだけ書いてさっさと提出して後は遊んでいたり、超越していたのです。

「じゃあ、全てに逸脱していたんだ。」

「そうですね。でも、先生には恵まれました。最初に担任だった超ベテランの女の先生をして『こんな子見たことない。』と言わせたほどだったのですが、幸運にもその先生の旦那さんが別の小学校の校長先生で、私のことを聞いて、『あっ大丈夫だ。その子ほっといても将来東都大か西都大に入るわ。』って言ったそうです。それからは、勉強以外でしごかれましたが。」

「そこまでやってくれる先生、珍しいわね。」

園子は、その教師にも感心しました。

「でも、親って勝手なもんで、私の両親は、母がピアノの練習に恐ろしく厳しかった以外は、特に勉強に関しては放任状態だったんです。躾けは厳しかったんですが。」

「それなのに何故放埒だったの。」

園子の疑問に、彼は、笑いながら答えました。

「儒学じゃないですが、知行合一とはいかなかったんです。つまり、知識と行動は全く別だったということですよ。」

「知っていたけど、やらんかった。」

「いや、一寸違いますね。私の行動自体は、決して放埒じゃなかったんですよ。」

「でも、聞いてると滅茶苦茶じゃない。」

「要は、他人に全く同調しなかっただけなんです。団体行動を取らなかった。ただそれだけです。」

「大きなそれだけやね。」

園子は、苦笑しました。

「そう。で、その先生、ことあるごとに『しばいたる。』の言葉を連発して、私の根性叩きなおしてくれたんです。実際よくしばかれた。」

「今なら暴力女教師と問題になりそうな話ね。」

「でも、他の親、面白いこと言ったんですよ。」

「なんて。」

「あの先生は、あの子にだけ厳しくしている。きっと自分の息子なのよ、ですって。」

「あっはっは。本人どう思った。」

「今は感謝していますが、当時はしばかれまくって泣いていましたね。」

「でも、考えてみればあんたそれでいじけなかったんだから、大したものやわ。」

「まあ、勉強がありましたからね。体育お情けB以外オールAでしたよ。しかも、勉強なんかほとんどしないし、授業中は外見て空想に耽っているし。それで質問したら全問正解ですからね。本当に変な子でしたよ。」

園子は、自分のことなのに他人のように言う俊一郎がおかしくて思わず笑ってしまいました。

「いじめられなかったの。」

日本ではともすると逸脱した存在はいじめの標的になりやすいので、彼はどうだったのか園子は興味を持ちました。

「最初はいじめられましたが、私は決してやられっぱなしにはしなかった、かなわなくても結構やりかえしたんですよ。そうすると、1年もしたら皆に一目おかれるようになって、誰もいじめなくなりましたね。でも、今思うとおかしいんですが、小学生の時は、運動はからっきし駄目でしたね。」

これは、高校以降のスポーツ万能の彼を知る者には、どうしても信じられないことだったのです。

逆に言えば、小学校の同級生には、彼がスポーツ万能になったことの方が信じられないことだったわけですが。

「嘘みたいね。今ほとんどできるでしょう。」

「ええ。鉄棒と卓球以外は人並み以上にはできるでしょう。」

「どこでどう変わったの。」

「人間なんて気の持ちようなんです。小学校5年までは運動は確かにできなかったし、自分でもできないと思っていたんです。それが5年の時、確かポートボールでしたね、やっていてふと閃いたんですよ。今あそこにパスしたら点が取れるな、と。でやってみたらその通りになった。それで思ったんです。」

「運動も、やればできると。」

「そうです。それで、サッカーやったら何故かキック力は学年でもベスト5を争うぐらいでしたし、その気になったら走っても速かったんです。当時お笑いだったのは、我々の小学校、100m走は全員参加だったんです。ところが、5年生の時に、能力別編成なる妙な制度ができて、互選というか、『あいつは遅い。』と思われていると遅いクラスに、逆は速いクラスに入れられたんです。」

「あんたきっと得したのね。」

「そうなんです。2年連続最も遅い組で走って、結果は大差をつけての一着だったんですが、それでも遅いと思われていたんですから、人の印象とは面白いもんです。」

「つまりは、それまでが余程遅かったのね。」

「でしょうね。でも、運動できないとの思い込みの方が凄かったと思いますよ。」

「じゃあ、中学に入ったら変わったの。」

「いいえ、運動も徐々に頭角を表してきて、『あいつなかなかできるぞ。』となりかかった時に、サッカーの練習で左足をグチャグチャに骨折してからまた評判は逆戻りですよ。」

「あらあら。」

「だから中学までしか知らない人は、僕は走っても遅いし、とんでもない運動音痴だと思っているでしょう。」

「じゃあ、高校で変身したと言うわけ。」

「そうですね。勉強手抜いてサッカーしてました。ただ、進学校だから、特進クラスは、サッカー部には入れてもらえませんでした。その気になったらうまかったので、誘われましたけど、クラブと我が特進クラスが対戦したら特進クラスの方が勝ったぐらいですから、クラブのレベル低かったんです。でも、当時私は大きな勘違いをしてましたよ。」

「どんな。」

「何でもできると、自然に人がやりたがらない所に回りますよね。」

「そんなこともあるのかしら。」

園子、その辺はよくわかりませんでした。

「結局どんどん後ろに下がって、ゴールキーパーに落ち着いたんです。」

守備の要としては似合っているように思いましたが、彼、むしろ背は低い方でしたから、ゴールキーパーとしては不利であるようにも思われました。

「背が低いのによくやったわね。」

俊一郎、身長170センチでしたから、確かに低い方だったのです。

「反射神経だけでやってましたね。でも、背の低さよりも手の小ささの方が問題でした。いくら反応しても、ボールポロポロこぼしましたからね。」

「で、何が勘違いだったの。」

園子はさっぱり話が見えないので素直に聞いた。

「ゴールキーパーは守備の要ですから、私は守備に向いていると思っていたんですが、たまに中盤の選手をやると、何となく点に絡むんです。意外に点取りましたし、それ以上にアシストしたんです。ですから、今考えてみると守りの組み立てよりも、攻撃の組み立ての方が得意だったんだと思います。」

「ふーん。余りよくわからんけど、まあ、あんた普通に見てるとおとなしそうで守備的に見えるわ。」

「当時その気になっていたら、その後プロを目指したかも知れません。」

とんでもないことを言うので、園子は驚いた。

「そんなにうまかったの。」

「いいえ、練習のボールリフティングなんか、やらせるとむしろ下手でした。」

「じゃあ、何故。」

「それが試合になると集中できるのか、まず思ったところにボールを出せたし、空から見ているかのようにゲームの展開が読めたんです。ですから、無意識の内に判断して最も効果的なポジションにボールを蹴っていました。」

この辺はよくわからなかったのですが、園子はやはり彼は頭脳労働の方が向いていると思いました。

「でも、今の方が良かったでしょ。」

「そうですね。私は正直言ってそれほどハングリーじゃありませんから、頭脳労働の方が向いているでしょうね。でも、同級生で可哀相なやついましたよ。プロでやらせてやりたかったなと思ったほどレベルが違ったのが一人いたんですよ。」

「へえー、どんな選手だったの。」

「そうですね、私より小柄でしたが、私の判断力と完璧なボールコントロールを兼ね備えていましたから、敵に回した時には最も恐ろしい選手でした。ペナルティーキック専門でも、プロで十分通用しましたね。何せ何回蹴っても絶対ゴールキーパーが物理的に届かない位置に思った通りに強烈なキックで蹴り込むんですから、惜しい逸材でした。あれが進学校で無ければ彼の人生も変わっていたでしょうに。聞いたら、中学の時には大阪でも1~2を争う点取り屋だったんですから。」

「ふーん、でもきっかけ一つでそんなに変わるのかしら。」

園子は、彼がきっかけ一つで変身したと言うのが信じられなかった。

「私の場合、高校入試も大きなきっかけでしたね。」

「成績良かったんでしょ。」

「そうですね。珍しくやる気だしましたからね。テストの点数で1,100人中9位だったということですが、むしろきっかけになったのは、体力テストの方だったんですよ。」

「高校入試で体力テストなんかあったの。」

彼女、そんな高校があるとは聞いたことがなかった。

「そう。あったんですよ。ダッシュで体育館の中を3往復するテストまであったんですが、一番速そうな組で走ったところ、最初のターンで一番速かったやつがこけたんですよ。すると全員一瞬フリーズしてしまって、そのすきに私がトップに躍り出てぶっちぎりだったんです。で、何とこけた奴が2位で、もたもたしていた連中皆怒鳴られていました。それで自信もついたので、自分でイメチェンしてみたら、結構何やってもうまくできて、スポーツも万能とまでは言いませんが、できるようになったんです。」

「ふーん、そうやったの。」

聞いて見ればなるほどと思った園子でしたが、思いこんだからできたと言うのは、彼の才能であり、誰にもできることではないことは確かでした。

「ところで、圭子さんはどんなお子さんだったんですか。」

俊一郎も、不思議に圭子の昔のことは、本人から聞いていなかったのです。

「そやね。まあ、手のかからない子だったわ。でも、圭子の場合、勉強も体育も決して天才的では無かったわね。」

勉強は確かにできた方だったのですが、俊一郎の話を聞いた後では、娘も努力家だったと言わざるを得ませんでした。

「でも、現役で西都大入ったんですから、言うことないですよ。結局勉強も好きだったんだと思いますよ。」

「そうね、いろいろな本読むの好きだったわ。」

「明るいけど、本当の友人はいないタイプですね。」

俊一郎の指摘に、園子は、深くうなずいていました。

娘の圭子は、明るくて華やかな面を持っていましたから、中学高校となかなかの人気者だったのです。

ですから、友人は大勢いたのですが、彼の言うとおり、本当の友人は、母の自分から見ても、今まで俊一郎一人だけだったように思えました。

「そう。よく見てるわね。確かに単なる友人は沢山いたけど、私生活まで立ち入らせたのは二人だけね。」

「つまりは、青木さんと私ですか。」

これは、俊一郎にも想像はつきました。

「そうなの。でも、私が見たところでは、本当に圭子の心まで入り込んだのはあんただけね。」

「体には入っていませんが。」

俊一郎がぼそっと付け加えたので、園子は吹き出しました。

「だから奇妙なのよ。よく体の関係なしに、あんだけ付き合ってくれたわねえ。」

「まあ、行きがかり上そうなった訳で…。」

俊一郎もそうとしか言いようが無かったのです。

「腐れ縁ね。」

「まあ、そんなとこでしょうか。でも、まあ今回いい目見せてもらいましょう。」

「大変ないい目ね。海外捜索隊なんて。」

園子には、彼には娘のことで何度も大変なことを押しつけてしまっていた負い目があったのですが、彼は何時もむしろ楽しそうに付き合ってくれていたのです。

「いいえ、大変であればあるほど、貴重な経験にもなります。感謝したいぐらいです。」

「そう。でも、結果がめでたしめでたしならいいんだけど。」

園子は、ふと自分たちの置かれている状況に気付くと不安になりました。

「そうさせるよう、努力しましょう。」

「そうやね。」

「ところで、圭子さんのことですが。」

俊一郎が聞きかけると、反対に園子が言いました。

「あんたのほうがよく知ってないかしら。」

これ、園子の実感だったのです。

自分は、圭子の母親ではありますが、むしろ彼の方が本当の圭子を知っているのではないかとの。

「いくらなんでもそりゃないでしょう。一つ聞きたいんですが。」

「なあに、何でも聞いて。知ってることは答えるけど、知らないことは、知らないわ。」

自分の言ったことに苦笑しながら、園子は答えました。

「今回の旅行に、知人は同行していますか。」

「いいえ、全く見ず知らずの集まりで、成田集合、成田解散みたいよ。」

「そうですか。ところで、予定ではそのツアー何時までパリに滞在していますか。」

「ちょっと待って。」

園子はごそごそとハンドバックから紙を取り出し、彼に見せた。

「ふーん。6月8日にミラノに移動になっていますね。すると、我々が向こうに着くのは6月5日の朝でしょうから、同行者に話を聞けるとすると、丸2日間ぐらいの勝負ですね。」

「そうなるわね。」

答えながら、園子は、自分では時間の制約について全然考えていなかったことに気付きました。

「では、ちょっと失礼して少し休ませて下さい。」

突然彼が言い出したので、園子は驚きました。

「もうすぐ東京よ。」

もう30分ぐらいで着くと思われたので、俊一郎の言葉は意外でした。

「着いたら起こして下さい。」

「はいはい。」

俊一郎は、少し座席を倒して目を閉じました。

こんな時に寝られるとはうらやましい、と思った園子でしたが、彼の顔を見ていると自分の方が眠くなり、起きたら東京駅だったのです。


俊一郎は仮眠しながら一つのことを考えていました。『何故圭子が失踪したか。』それだけだったのですが、何らかの伏線があるように思われてならなかったのです。

圭子は、愛想はよいのですが、友達付き合いは余りありませんでした。

つまり、逆に考えると、失踪する動機にとぼしいのです。

旅行保険は、1億と凄い額をかけていました。

母のためなのか、それも一つの動機にはなりますが、自分よりも母を優先するような圭子ではないと俊一郎は確信していました。

何故かはわかりませんが、圭子一人だけではなく、もう一人誰かが絡んでいる気がしたのです。

母の園子の線も、十分考えられました。

確かに彼女の態度も、余り深刻さが感じられず奇妙なのですが、彼女は隠しごとのできるタイプではありませんから、彼女では無さそうです。

すると誰か…。


そんなことを考えながらまどろんでいると、妙な夢を見ました。

女が二人、よく似た二人、姿は圭子に似ている。

二人とも顔は見えないが、どこかが違う。

一人はさようならをしている。

さようならをしている一人は消えてしまった。

もう一人は逃げていく。

何故逃げるのだ。

圭子なら何故。

私から逃げる理由は何だ。


少しうなされた気分で夢から覚めると、品川駅が見えました。

さて園子はと見ると、口を開けて眠っていたので思わず笑ってしまいました。

親子ですが、圭子と園子は余り似ていません。

圭子は、背は低いものの、なかなかの美人です。

しかし、若い頃は園子の方が美人だったに違いないと思いました。

そう思って見ていると彼女は目覚めました。じたばたしているので気づかぬふりをしていると、声をかけてきました。

「俊一郎さん、もう直ぐ東京よ。」


東京で降りて、成田に行くために上野で降りて京成線に乗り換えようと山手線に乗り換えるまでは良かったのですが、上野で改札口を出ると、上野公園でした。

「おや、ちょっと見当違いのところに出ましたね。どうやらここは上野の山ですね。」

「彰義隊の戦いのところかしら。」

古いことを言うので、俊一郎は笑い出しました。

「何だか、明治生まれみたいなこと言いますね。」

「悪かったわね。でも、あんたよりは明治に近いわよ。」

「では、ついでに西郷さんの像でも見て行きますか。」

突然俊一郎が酔狂なことを言い出したので、園子は心配になりました。

「時間は大丈夫なの。」

「6時半に成田に着けばいいわけでしょう。2時間もあれば大丈夫ですよ。」

「じゃあ、行ってみましょ。」

最初から変なことになったなあ、と園子は思いながら彼の後をついて公園の中を通って少し東京方向に戻っていくと、西郷隆盛の銅像がありました。

「随分立派な人だったのね。」

園子が感心しているので、俊一郎は茶化しました。

「この銅像ができた時、まだ生きていた西郷夫人がなんて言ったか知ってますか。」

「うちの人はもっといい男だったって。」

園子は、ありそうなことを答えて見た。

「いいえ、記録によると、『うちの人は、こげん人やなか。』と言ったそうです。」

「じゃあ、この銅像のモデルは誰なの。」

「弟の従道公と親せきの大山元帥だったと聞いていますが、西郷夫人はいろいろな絵や銅像で似ているものは一つもないと言ったそうです。ただ、キヨソネの絵の雰囲気が一番近いと。」

「あの絵が、一番ハンサムじゃない。」

園子は、日本人的でないあの絵が一番ハンサムだと思っていた。

「そうですね。私の祖父があんな感じでした。」

「へえー、じゃああんた全然似てないわね。」

俊一郎は、顔は美男子に属する方で悪くは無いのですが、どちらかと言えば細面と言うか馬面の優男であり、祖父とは確かに似ていなかったのです。

「そうです。確かに余り似ていないのです。でも、不幸なことに上の妹が似ているんです。」

彼の上の妹高子は、眉が太くて目が大きく、精悍な感じで如何にも気が強そうな美女だったのです。

下の妹智恵子は、彼に良く似た美少女だったのですが。

「そりゃ笑えないわね。」

「時々言われますよ。反対なら良かったのにって。」

「そうね。あんた普段は優しそうな顔してるもんね。でも、圭子言ってたわよ。」

「何と。」

「あんたが、今まであった人間の中で一番怖いって。」

園子は、娘が何故そんなことを言ったのか理解できなかったのですが、今回親しく話してみて、少しわかったような気がしました。

「ふーん、意外に見られているもんですね。実は、山菱組金バッジのヤクザさんにも、同じこと言われましたよ。」

俊一郎は、父の借金のことで暴力団とも付き合いがあったのですが、大学生ながらどんな相手にも臆すること無く冷静に付き合うため、その筋の人たちから、は、不気味な男と恐れられていたのです。

「えー、ほんまやの。」

園子、暴力団とも付き合いがあったようなので、俊一郎が怖くなりました。

「ええ。実際、私は、人間を怖いと思ったことがないんです。」

「そうなの。でも、何故その人怖がったの。」

「その人、顔に凄い傷があって、小兵なんですが、空手も有段者で、実際けんかしても強かったんです。」

「じゃあ、余計不思議やないの。」

園子には、彼がその面でのプロをびびらせた理由がわかりませんでした。

「私には変な特技があって、その人の本性を見抜くんです。それで、その人とあってぱっとひらめいたんですよ。あっ、この人ずいぶん無理しているな、本当は気が小さいくらい優しくていい人なのにな、と。」

「そりゃ、見抜かれたら怖いわね。」

なるほどと思いながら、彼には自分のこともしっかり見ぬかれていることを改めて自覚した園子でした。

「しかも、職業が職業だけに、普通顔だけで威圧できるのに、私は全く平気だったことだけでもショックだったみたいです。あと、何故かわかりませんが、私その人とは、たとえけんかしても負けそうな気がしなかったこともありますね。」

「あんた、確かに怖いわ。圭子は、心の中に大魔神が隠れているって言ったけど。」

娘が、彼のプロポーズを悩んだ末に断った理由の一つがそれだった。

「それはなかなかうまい例えですね。自分でも、そんな感じはします。」

「ところで、駅はどこかしら。」

「確か、この下ですよ。私、19年前に来たんですが。」

「あんたいくつよ。19年前なら私があんたぐらいやないの。」

「その時確か3歳だったんですが、アメ横に行った覚えがあります。」

石段を降りていくと、確かに京成上野駅があり、正面はアメ横だったのです。

「ああ、これが有名なアメ横なのね。私初めてみたわ。ところで、この辺でなにか食べてかない。」

「そうですね。私は、何でも結構です。」

俊一郎が答えると、園子が笑いだしました。

「何かおかしかったですか。」

「いや、ただ圭子が、あんたのその一言が嫌だって言ってたこと、思い出したんよ。」

「なるほど。実は、私は母にも、同じことをよく言われるんですよ。」

何でもいいとしか言わないので、俊一郎は、母からも嫌われていたのです。

「本当に好みはないの。」

「実を言うと、好き嫌いの無い分、好みも特にないんですよ。食べられるだけで有り難いと思っていますから。」

「戦後の食料難の時代を経験してる老人ならわかるけど、あんたみたいな若い人が言うと変やわ。」

老人みたいなことを言う俊一郎を、園子はからかいました。

「まあ、これも戦時中の悲惨な記憶のせいかも知れません。南方戦線で、食べ物がない、武器もない、それで徹底抗戦と言う夢も希望もない戦闘でしたから。」

本当は、母親の怠慢で本当に食べ物が無い経験をしていたのですが、この時代にいくらなんでも非現実的かと思いましたから、俊一郎はごまかしました。

園子、この話は娘から聞いていましたから、理解できました。

「そうね。飢えを知ったら食べられるだけで丸儲けね。まあ、余りゆっくりしてもいられへんから、近くの店に入りましょ。」

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