EP 6
境界の街と、糞塗れの貴族
その日、アルトは初めてミルクファームの外に出た。ミーニャが押す年季の入った乳母車に乗せられ、ユキナがその横を弾むように歩いている。目的は、市場での食材の買い出しだ。
ガタガタと石畳の上を走る乳母車の振動が、心地よい。
(これが、ムナラスの街か……)
赤子の低い視点から見る世界は、新鮮だった。行き交う人々の足、露店のテーブルの下、そして時折屈んで顔を覗き込んでくる、様々な種族の顔、顔、顔。犬や猫の獣人をはじめ、屈強な熊の獣人、のんびりした牛の獣人。人間の商人や冒険者。活気と混沌が混じり合った、まさに「境界の街」だ。
(すごいな……本当に色んな人たちが、ここで一緒に暮らしてるんだ)
やがて一行は、街で最も賑わう中央市場にたどり着いた。スパイスの香り、焼きたてのパンの匂い、獣人族が売る串焼きの香ばしい煙が入り混じる。その喧騒の只中で、ユキナがはっと息を呑み、小さな声で言った。
「あ! 貴族様だわ……!」
見ると、周囲の市民たちが次々と道を開け、恭しく頭を下げていた。その中心にいたのは、見るからに肥え太り、けばけばしい絹の服を身にまとった一人の男だった。
「何だ!? この汗臭く、埃っぽい所は!? 我慢ならん!」
「デブーン様。領地の民の暮らしぶりをご覧になるのも、貴族の立派な務めにございます」
部下らしき男が宥めるが、デブーンと呼ばれた貴族は、扇子で顔を仰ぎながら不満を隠そうともしない。
「ふんっ! 何故、高貴なる私が、こんな下賤の民を見なければならんのだ……ん?」
その時、デブーンの不機嫌な視線が、ミーニャとアルトたちを捉えた。
「おい! そこの獣人! 何だその生意気な目は!?」
「わ、私でございましょうか? 滅相もございません……!」
ミーニャは慌てて深く頭を下げる。その姿を見て、デブーンは忌々しげに顔を歪めた。
「ああ、貴様は確か……丘の上の【ミルクファーム】の……。孤児院だと? まったくもって金の無駄遣いだ! はぁ、やれやれ……実に嫌な物を見てしまったな!」
見下しきった言葉に、アルトの眉がピクリと動く。
(なんだと……?)
「はぁ……! こんな汚いものを見せられた私の不愉快な気持ちを、どうしてくれるのだ!?」
「ど、どうかご容赦を……!」
ミーニャとユキナは、権力者の理不尽な怒りを前に、恐怖で体を震わせるしかなかった。その姿に、アルトの中の何かが、ぷつりと切れた。
(糞がよぉ……!)
怒りに燃えるアルトの目に、デブーンの頭上をのんびりと飛ぶ一羽の鳥が映った。完璧な位置取りだ。アルトは、赤子の体に許された最大限の集中力で、意識を天に飛ばした。
(お前のような糞野郎は、本物の糞に塗れてやがれ! 【地球便】!!)
スキルは、正確無比に発動した。
デブーンの頭上、寸分の狂いもない座標に、一塊の鳥の糞が“宅配”された、自然の摂理に従って落下した。
――ぴちゃっ。
間の抜けた音と共に、それはデブーンの脂ぎった額と鼻筋に見事な白い軌跡を描いた。
一瞬の静寂。そして。
「な、なんだああああっ!? ふ、糞があああ! 私の顔に糞が付いたぞぉぉぉっ!?」
「デブーン様!? お顔が、お顔が!」
「もう沢山だ! 帰る! 今すぐ屋敷に帰るぞ!!」
デブーンは赤っ恥をかいて、部下と共に市場から逃げるように去っていった。
その無様な後ろ姿に、今まで息を殺していた市民たちから、堪えきれない笑い声とヤジが飛び交う。
「ざまぁねぇぜ!」
「いい気味だわ!」
「デブーン様のあの面、見たかよ!?」
市民たちの喜ぶ声を聞きながら、アルトは乳母車の中で、誰にも気づかれないよう、そっと口角を上げた。
(ああ、まったく……ざまぁみろだ)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます