第四十五話「消された音、残る秒」
朝の光が天窓から落ちて、常夜紫煙堂のガラス戸の四角がゆっくり移動した。
壁の湿度計は五十六%。
瓶の列は口を結び、黄銅の秤は皿を閉じ、針は零。
カウンターには今日の道具が並ぶ。振動センサー、非接触温度計、ICレコーダー、指向性マイク、封印シール、UVライト、薄い磁石、綿棒、そしてNo.18“31”の小瓶。
「おはよう、天田」
「おはようございます、紫郎さん」
天田芽衣子は制服。胸ポケットのペンは二本、向きがそろっている。
手には今日の計画表と鍵袋の束。
「準備室A-3は“音”対策をしてくる。揺れと温度も押さえる」
「了解。鍵袋は一本ずつ封印、内側に短線とNo.18“31”。触れば匂い、開ければ線が乱れる」
「喫煙所は廊下角。粉は左手前で拾う。順番は粉→吸い殻→写真→時刻」
「RFIDとカメラの時刻は北条さんが同期済み。秒で並べる」
紫郎は小瓶の蓋をほんの少し緩め、綿棒で空気に薄い目印を置いた。
鈴を鳴らし、ふたりはアーケードへ出た。
文化連絡協会・月乃台分室。
紙とインクと金属の匂い。
机の上には『保管室』『資料庫』『準備室A-3』の鍵束。真鍮の金具が光る。
「鍵は今日から封印袋でお願いします。一本ずつ、時刻と氏名」
「了解です」
杉谷が透明袋に鍵を入れ、口を閉じる。
天田は内側にUVの短線、No.18“31”はごく薄く。
「ゲート、秒同期完了。準備室A-3はICカード。喫煙所は角で固定」北条
「助かる」
代理店の青柳が入ってきた。進行ディレクターの札。
「今日も押してる。鍵はまとめて——」
「一本ずつ、袋のままでお願いします」
「はいはい、焦らず丁寧に、な」
青柳は鍵袋を持ち、準備室A-3へ。
扉のガラス越しに作業台、ミニルーター、万力、切削油。棚下に薄い真鍮粉。
天田は換気口の縁にICレコーダー、扉脇に指向性マイク。
扉枠内側と床梁に振動センサー。
非接触温度計はドアのラッチ金具用に手元へ。
「同期。手拍子三回」
壁時計10:20:00。
南条が現れる。左腰の工具ポーチ。テンションレンチと細いピックの柄。軍手は片手だけ。
腕時計は右手首。左利きの作業スタイル。
「ログ、入室10:21:42青柳、10:22:05南条。扉閉」北条
——静かだ。
昨日見た2kHzの線は立たない。
代わりに胸ポケットが震える。振動センサーのアラート。10:22:17、10:22:31、10:22:48。短いがこれはたまたまか?
「揺れはある。音は消してきたな」
ラッチ金具の温度を測る。入室前と比較で+0.6℃。扉板は変化なし。
内部で軽い摩擦があった。
「退室10:23:05青柳、10:23:22南条」北条
「喫煙所」
南条は角の喫煙所で左手にZippoを弾いた。
短い火花が一つ走り、粉が左手前に落ちる。
吸い殻は同銘柄の跡。
フィルターに黒帯、紙には細いリング。
磁石を当てると粉がわずかに寄る。
鼻に来る順番は、覚えている並びどおりだった。
天田は粉→吸い殻→写真→時刻の順にメモに残した。
「青柳は喫煙所に寄らず。通用口へ」北条
事務室。
青柳が鍵袋を二本返す。封印は見た目きれい。
だがUVで口の短線が乱れ、内側の薄い匂いに濃淡差。
開けて触って閉じている。
「鍵そのものも見る。金具の内側に目印あり」
綿棒で内側だけ軽く触れる。準備室A-3へ行った鍵ほど甘さが残る。
差ははっきり。
「順番が出た」
そこへ北条が駆け戻る。
「問題。10:22:12、準備室A-3の入室ログが“俺のカード”」
「無線の録音は」
「10:22台、別フロアで誘導のやり取り、俺の声が入ってる」
「映像は」
「帽子、マスク、手袋。体格を似せてる」
「中では重い作業をしていない。揺れは短い三回、金具は少し温く、音はゼロ。合鍵は“別の場所”だ」
「窓の外、駐車帯が寄れる位置です」
外へ回る。
窓下の駐車帯にゴム跡が二本。基礎の角に真鍮粉が点々。
磁石に反応しない。
ガードレールには肩の高さの擦り傷。
白い軽バンのバンパーが寄りすぎた痕。
「ここで切った。室内はカードで入室の印だけ。音は車内へ封じた」
「カードの出所は」
「ストラップの面に細い筋。人混みでスキミングされた可能性」
「在った事実は三つ。秒で北条は別フロア。窓外に真鍮粉。室内は揺れと微温、音ゼロ。——北条ではない」
「記録して残します」
眠たげな課長の声が近づく。
「どうだ。大人しく回ってるか」
「小さな揺れと温度上昇。窓外に真鍮粉。カード流用の疑いが濃いです」
「焦るな。装備と情報に回せ。現場は在った事実だけ積め」
佐伯は粉を踏まずに去った。
紫郎は視線を一度だけ背に置き、すぐ作業へ戻る。
「杉谷、封印シールの予備と、開封痕の写真。袋ごとに管理」
「了解」
「北条、無線録音とRFIDログを秒で並べる。二つの“同時”を紙にする」
「任せろ」
「島倉、外壁下の粉と駐車帯カメラ」
「了解」
準備室の扉は冷え、二重底の箱は整然。
取手裏二センチの匂いマーカーは、まだ薄く生きている。
鼻に来る順とは別物の香り——燻香の強いラタキアはここには無い。
酸が立つペリクの気配も無い。
今日の現場は“車内のナフサ”と“既知の並び”だけを置いていった。
夕方。常夜紫煙堂。
湿度は五十六%。
カウンターには真鍮粉、フリント粉、吸い殻、封印シールの写真、RFIDログ、無線の文字起こし、振動のグラフ、温度記録、窓外カメラの静止画。
白い軽バンは窓の下に頭から寄せ、左後輪だけ白線を踏む癖。ガードレールの擦り傷は同じ高さ。
「順にいこう。まず振動」
「10:22:17/10:22:31/10:22:48、恐らく風か何か。いずれも短く0.03G前後」
「次、温度」
「ラッチ金具のみ+0.6℃、扉板は変化なし」
「次、粉」
「窓外は真鍮粉で磁石反応なし。喫煙所はフリント粉でわずかに寄る。別物」
「次、ログ」
「RFIDは10:22:12に北条ID。無線録音は同時刻に北条の声が別フロア。秒が重なる。映像は顔隠し」
「最後、車」
「窓下のゴム跡、白い軽バン、左後輪の踏み癖、ガードレールの擦り傷」
「結論。合鍵は“車内”。準備室A-3は入室刻印だけ。音は消したが、揺れ・温度・粉・秒が残った。——北条は別の場所」
「在った事実として、記録済み」
「次の手。車のナンバー、カードの検査、ブランクの仕入れ先。数字“31”はN紙の『K-12/31』と位置が重なる。偶然でも目印にはなる」
スマホが震えた。
北条から『駐車帯カメラで“つくば480 そ・・31”』。
今日の“31”は二度出た。
数字は道しるべにしか使わない。断定はしない。
「喫煙所のまとめも置こう」
ベンチレーションの孔は既出どおり塞がると取り込みが変わる。
活性炭は刺激の一部を吸うが“順番”は動かない。
低出火性のリング紙は火の歩幅を抑える。
Zippoの“あの音”と防風の小窓は、ここでは説明不要だ。
——どれも既出。今日は確認だけで十分だ。
「明日は車を張る。揺れは天気に出る。風と路面が味方すれば、車内作業は隠しきれない」
「鍵袋は封印を二重化、袋自体の連番も付けます」
「RFIDは読取機の配置を再点検。カードの遮蔽カバーも配っておけ」
「了解」
紫郎は灰皿を中央に寄せ、小瓶の蓋をそっと閉じた。
看板の紫は夜に向かって濃くなる。
秒、揺れ、温度、粉。
消えないものだけが線を作る。
「行こうか」
「行きましょう、紫郎さん」
扉が開く。
ふたりの足音は静かで、早すぎず、遅すぎない。
いつもの言葉を最後に置く。
「煙は、嘘を吐かない」
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