第二十話 目録の影
朝の白い光が、常夜紫煙堂のガラス戸で薄い層になって滑った。
瓶の列はその層に合わせて静かに区切られ、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
カウンターには昨夜からの封筒と、角を揃えた目録の写しが四束。
扉の内側には、ごく薄い香りの“橋”が置かれている。
嗅げば分からないが、触れた指が覚える程度の厚さだ。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が鳴り、天田芽衣子が入ってきた。
制服はきちんとアイロンが通っていて、胸ポケットのペンは二本とも芯が新しく、踵のゴムは削れていない。
「おはよう、天田」
「協会の杉谷さんから」
「『返却台帳の原本は今日の午後、監査部で差し替え予定』だそうです」
「差し替え前に“閲覧の窓”が十五分だけ開くと」
「差し替えの“前”」
「そこに『在った事実』が残る」
「はい」
「それと、弦月サービスの朝一搬出が一本」
「行き先は鳳章インテリア湾岸倉庫」
「『香盤表箱(返却)×二』」
「脚高“四”」
「『箱を箱へ戻す 手』が、動く日だ」
紫郎は小瓶の蓋を少し緩め、綿棒で“橋”の補修を 一つだけ足した。
甘い影は空気に乗らず、木口だけが記憶する。
「北条は湾岸の外周、島倉は弦月のヤード」
「杉谷は台帳の“窓”」
「――俺達は協会から弦月までの“間”に立つ」
「了解です」
天田はノートの角を指で整え、短く息を整えた。
紙の端には既に『K-12/31』『回線不通時灰処理』『札変更』の文字が並び、小さな記号がいくつも置かれている。
名は書かない。
手だけ置く。
ーーー
市文化連絡協会の管理棟は、午前の光を白く跳ね返す四角い建物だ。
廊下の匂いは紙と金属と古い樹脂。
管理室のガラス越しに、朱の印が増えて行く台帳の列が見える。
「夜村さん」
眼鏡を押さえながら、杉谷が小走りで来た。
目の下の赤は薄くなっているが、声は低い。
「十五分、窓が開きます」
「『差し替え』の前」
「――監査部の人間が来るまでの間だけ」
「借りる」
「責任は、私が持ちます」
「責任は紙に残る」
「俺が“覚える”」
杉谷は短く頷き、管理室の窓口から台帳の束を 二つ抱え出した。
紙は重く、角はすり減り、朱の印は新しいものほど濃い。
開く。
指で角を押さえ、めくる。
『香盤表箱(返却)』『搬出:弦月』『行先:鳳章湾岸』『印:S・K・M』。
サイン欄の“縁”に、左の手で書く癖が薄く出ている。
『S』は筆圧が浅く、横滑りの跡。
『K』は入りが左に寄る。
『M』は“谷”の真ん中だけ濃い。
「“S・K・M”。『誰』ではなく『手』だ」
「はい」
天田がページの隅を押さえ、印の形だけをメモに写す。
名は書かない。
形だけ。
角度、圧、左の入れ。
「……“返却”の次の行に、『保管室⇒弦月(仮置)』」
「台帳の文字が微妙に違います」
「違う“ペン”」
「――時間がずれている」
「戻す手が、二本ある」
「『名札で扉を開ける手』と、『木で運ぶ手』だ」
窓口の奥で、監査部の腕章が動いた。
朱の印の箱が運び込まれ、差し替えの準備が始まる。
杉谷が顎で合図をして、台帳をすばやく戻した。
「ここまでです」
「十分だ」
「――ありがとう、杉谷」
「いえ」
「お気をつけて」
杉谷は眼鏡の位置を直し、窓口の向こうへ戻って行った。
紙の匂いが薄く残る。
残る匂いは、誰のものでもない“事実”だ。
ーーー
弦月サービスのヤードは、港の風で薄く揺れていた。
簡易倉庫のシャッターは半分ほど上がり、フォークリフトの音が低く回る。
堅木の箱が二つ、紐で括られて台車に載っている。
ラベルは『返却箱』。
脚高“四”。
蝶番は片側だけ左寄せ。
取手の裏には、二センチの空間。
「島倉」
「おう」
業者ベストに紛れた島倉が、台車のハンドルを押さえている。
帽子の影から片目だけ覗かせ、口の端を少し上げた。
「脚、四」
「――片方、脚の底に新しいフェルトが一枚だけ増えてる」
「“座り”を変えた」
「“浮かせ”やすくなる」
紫郎は手袋越しに取手裏の空間をそっと撫で、“橋”が反応するかを確かめた。
指先にだけ、わずかな影。
昨夜の店と同じ薄さ。
箱は“こちら側の匂い”にまだ触れていない。
「搬出、十時半」
島倉が顎で示す。
ヤードの端に、黒いバン。
赤白のステッカー。
ドライバーは携帯を耳に当て、視線をヘルメットの影に沈めている。
背は中背。
踵の返しは左。
指の腹が金具に触れる高さは一定。
『習慣の手』の動きだ。
「北条」
「湾岸の入り口で待つ」
「カメラは上から二、横から一」
「角度は拾える」
「頼む」
紫郎は箱の板材を鼻先に寄せ、軽く息を吸った。
堅木の甘さに、微かに乾いた葉の影。
紙ではなく木に染みた痕跡。
港で混ぜた“葉”の匂いが、箱の内側に移っている。
「“木で運ぶ 手”がこの箱を使って、紙の上の『産地』を動かした」
「はい」
「今日は『箱を箱に戻す』」
「――その“途中”を押さえる」
「追わない」
「“置く”」
「そうだ」
十時半。
台車がバンに積み込まれ、扉が閉まる。
エンジン音が低く立ち上がる。
島倉は別の台車を押して反対側へ動き、偶然を作る。
紫郎と天田は距離を取り、角を曲がってから足を速めた。
ーーー
湾岸倉庫は広く、空気は金属と塩の匂いで満ちている。
鳳章インテリアのロゴが描かれたシャッターの前に、黒いバンが止まり、ドライバーが降りた。
ヘルメットの影。
踵の返しは左。
扉の前の白線を避ける。
『袖』を知っている足だ。
「搬入口で『受け』が一人」
北条の声が無線に落ちる。
受けの男は茶色の作業着、軍手の上に薄い手袋。
角を押さえる癖。
女ではない。
だが癖は似ている。
『角で押さえ、取手に触れない』。
――朝比奈に教わったか、同じ指示書か。
バンから箱が降り、台車に移される。
搬入口の段差で一度止まり、“浮かせる”操作を丁寧にやる。
二センチの空間に指。
薄底の呼吸は短い。
中身は重くない。
黒い封筒が入っていても重さは出ない。
「……“浮かせ”で時間を作る」
「『一分』じゃない」
「“三十秒”」
「――ここでは短い」
受けの男が箱を押し、倉庫の奥へ消える。
天田は視線で追い、扉の上のカメラの角度と“死角”を頭に入れた。
北条は外周に回り、シャッター横の小窓の隙を一瞬だけ拾う。
紫郎は喫煙所へ目をやった。
喫煙所の灰皿には、吸い殻が四つ。
二つは一般的な紙巻のフィルター。
一本は両切り。
一本は、フィルターに極小の黒い点が並ぶ“活性炭粒タイプ”。
その切り口に、淡い薄茶の帯。
油性の艶。
鼻先に寄せると、微かなメントールの影があるが、香料の質が“国内の均質”と違う。
寒冷地用の強さだ。
正規輸入では珍しいタイプ。
「この灰皿、昨日の夜から掃除してない」
「どうして分かるんですか」
「灰の縁が乾き切っている」
「午前に一回、掃く手ならここもやる」
「――わざと残したか、手が回らないか」
紫郎は両切りの灰に目を落とした。
紙の質がやや粗く、燃えた跡が鋭い。
葉は濃く、香りは乾きが速い。
港の風の乾き。
『北回り』の紙に似る。
活性炭のフィルターは、切り口の粒が一つ欠け、そこだけ薄く茶が濃い。
指で触れずに、目だけで覚える。
「“K-12/31”の手は、葉と紙と火の『乾き』を“同じ列”に並べる」
「はい」
「煙は嘘を吐かない」
言葉は小さく、灰皿の縁で止まった。
天田は短く頷き、喫煙所の床に落ちた小さな銀粉の反射を目で拾う。
封筒の口に塗られていた“反射粉”と粒径が似ている。
指で触れず、光の角度だけで覚える。
倉庫の奥で、小さなベルが一度鳴った。
受け渡しの合図だろう。
紫郎と天田は目で合図を交わし、搬入口の影の縁に身を寄せた。
倉庫の中は棚が迷路になっており、所々に“影の空き”がある。
「天田、左から回り込め」
「俺は喫煙所の“後ろ”に付く」
「了解」
足音を殺し、影から影へ移る。
受けの男が戻って来た。
手は空。
踵の返しは急ぎ、視線は床。
次の“受け”の準備だ。
背後から別の作業員が現れ、台車を押す。
台車の上には、同じ『返却箱』が二つ――いや、片方の脚のフェルトが一枚新しい。
ヤードから来た“片方”だ。
受けの男は台車の前で一度止まり、箱の脚を軽く“揺すった”。
座りの確認。
新しいフェルトがある方は揺れが小さい。
もう片方はわずかに揺れる。
その差を記憶に入れ、男は“揺れる方”の箱の蝶番の隙に左の指を入れた。
「浮かす」
囁くように、天田が言った。
浮いた。
二センチの空間。
指。
黒い封筒。
差し替え。
戻し。
座らせる。
三十秒。
受けの男は台車を押して奥へ消える。
『交換』が終わった箱の方が、古いフェルトの“座り”でわずかに揺れる。
「……今の差し替え、“札”は?」
「札は変えない」
「“中身”だけだ」
「じゃあ、札を変えるのは“外”」
「外、あるいは『監査部』の机の上」
喫煙所で、別の作業員がライターに火を入れた。
火は小さく、指が少し震える。
口に咥えたのは活性炭粒タイプ。
炎に近づけ過ぎず、ゆっくり吸う癖。
吸った後の灰の縁が少し崩れ、灰皿の縁でとまる。
灰皿の金属が鈍く鳴る。
「紫郎さん」
「なんだ」
「“灰皿の位置”、少し動きました」
「動かしたのは『新しい人』だ」
「いつもの位置を知らない」
「つまり、今の“受け”とは別人」
「手の“列”が増える」
北条の短い声。
「搬入口外、黒バン、三分停止」
「運転手、電話」
「『K』という音が拾えた」
天田の視線が一瞬鋭くなる。
名に飛ばない。
『K』は『K』のまま。
置く。
倉庫の奥で、またベルが鳴った。
今度は二回。
受けの男が素早く戻り、今度は“新しいフェルト”の箱を軽く揺すってから、奥へ運んだ。
古いフェルトの箱は“待つ”。
待つ間に、別の作業員が近づき、札の紙を軽くめくる。
札は『返却箱』のまま。
紙の角に、朱の点が一つ。
監査部の朱と同じ色だが、インクの乾きが違う。
「“札”、ここで変える 事も出来る」
「でも変えない」
「――『変える場所』は別にある」
「『紙で帳尻を合わせる 手』の机」
「天田」
「はい」
「“戻し”返す」
「中身だけ」
天田は頷き、影の縁を滑る。
箱の取手には触れず、蝶番の“抜け”の位置で薄底を“呼吸させず”に滑らせる。
封筒の口は開けない。
中の紙だけを滑らせ、事前に用意した同じ重さの空白紙を入れる。
戻す。
座らせる。
音は出ない。
箱は“返却箱”の顔を続ける。
「完了」
「よし」
「――外に“置く”」
紫郎は喫煙所の灰皿をほんの少しだけ古い位置に戻し、活性炭フィルターの吸い殻を灰の中に半分だけ埋めた。
『いつもの手』なら気づかない程度の戻し。
『新しい手』なら、違和感が出る。
搬入口の影で、受けの男が一瞬だけ立ち止まった。
箱の脚を揺すり、座りを確かめ、台車のハンドルを強く握り直す。
指の第二関節の白さが増える。
苛立ちの“拍”。
だが声は出ない。
彼は奥へ消え、ベルが一度鳴った。
「外へ」
「はい」
倉庫の外に出る。
空は薄く明るく、風は金属の匂いを運ぶ。
黒いバンは動かない。
運転手はまだ電話。
『K』の音はもう拾えない。
北条が肩をすくめる。
島倉が道の向こうで安全靴の紐を結び直すふりをして、こちらを一瞬だけ見た。
「弦月の方、台車が一本“すっぽ抜け”たらしい」
「搬出の行が一本、白紙のまま進行」
「『回線不通』の“灰処理”に繋げる為の白紙だ」
「白紙は灰にならない」
「――紙は残る」
「紙は残る」
「匂いも残る」
紫郎は指先を鼻先に近づけ、倉庫の中で触れた封筒の紙の目と、喫煙所に残った活性炭の香りの“ズレ”を心で並べた。
紙の目は横。
活性炭の香りは“北の乾き”。
『K-12/31』の“手”は、場所を選ばない。
札はどこででも変えられる。
だが、煙は嘘を吐かない。
ーーー
午後遅く、協会の監査部。
杉谷がガラスの向こうで腕章の男とやり取りをし、差し替えられた台帳の新しい朱が机上に並ぶ。
朱は濃く、紙は白い。
だが、その前の紙は、杉谷の目の中に残っている。
「『返却⇒保管』の行が一本、順番が入れ替わってます」
天田が小さく言った。
新しい台帳は綺麗すぎた。
朱が過剰。
字が均一。
『現場の手』の乱れが消えている。
消し方が“均一”だ。
「『均一』は、机の上の匂いだ」
「はい」
扉が開き、眠たげな目と緩いネクタイが入ってきた。
佐伯だ。
白線は踏まない。
粉は踏まない。
いつも通りの足だ。
「ご苦労」
「――差し替えは終わったか」
「終わりました、課長」
「焦るなよ」
「紙は逃げない」
「人は逃げるが」
「気をつけます」
佐伯は軽く笑い、机の上の新しい台帳に目を落とした。
指先で紙の角を整え、朱の濃さを一度だけ眺め、それから天田の胸ポケットの膨らみを目で測った。
目はすぐ戻る。
言葉は一つだけ。
「夜村さん」
「なんだ」
「取手、左寄せの箱は、揺すりが少ない」
「……そうだな」
佐伯は頷き、踵を返した。
扉の外で一度だけ振り向く。
「焦るな」
それだけ言って、去って行った。
足音は静かで、空気には何も残らない。
残らない 事が、紙に残る。
ーーー
夕方、常夜紫煙堂。
看板の紫は少し濃く、ガラス戸の内側で長く伸びている。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤は皿を閉じ、針は零。
鏡は曇らない。
「まとめよう」
「はい」
天田はノートを開き、今日の“在った事実”だけを箇条書きに置く。
――協会台帳、差し替え前に『S・K・M』の印。
左の入れ。
ヤードの箱、脚高“四”、片方に新しいフェルト一枚。
湾岸倉庫、受けの男の“浮かせ”。
封筒の差し替え。
“戻し返し”成功。
喫煙所の灰皿、活性炭粒タイプと両切り。
メントールの香りの質。
港の乾き。
台帳の新しい朱の“均一”。
――名は置かない。
手だけ置く。
「『K-12/31』の“手”は、札を変える場所と、中身を入れ替える場所を分ける」
「はい」
「『灰にする』の前に、『目録に戻す』」
「今日は『戻る前』を捉えた」
「小さな勝ちです」
「ああ」
「小さいが、確かな勝ちだ」
ポストに薄い音。
天田が封筒を拾い上げる。
白い紙。
封は無い。
『座りの悪い箱は、明日から使わない。――K』。
文字は短く、胡桃油の影。
布を巻く“左”の癖。
読んだ瞬間、天田は紙の端を指で押さえ、笑いを 一つだけこぼした。
「“座り”に気づいた」
「『こちらが見ている』を、向こうが見た」
「どうします」
「座りの良い箱を、座り悪くする」
「え」
「フェルトの厚みは、『音』を変える」
「――“浮かせ”の音が変わる」
「倉庫で?」
「いや、店で」
「“こちら側”に箱を呼ぶ」
「呼べますか」
「紙は呼べないが、匂いは呼べる」
紫郎は小瓶の口を静かに開け、蜂蜜の影のような薄い甘さを、店の中央にごく薄く置いた。
香りは空気に乗らず、木口にだけ触れる。
『手』が触れた 時にだけ、わずかな“違い”が指先に残る。
「明日、弦月から『座りの良い箱』が一本、“用事”で寄る」
「“用事”」
「――『返却札の訂正』とか」
「名札は扉を開ける為の言葉だ」
「分かりました」
天田は封筒を証拠袋に入れ、机の端に置いた。
紙の目は横。
港の乾きはここには無い。
あるのは、店の木の乾きと、瓶の唇の高さ。
「紫郎さん」
「なんだ」
「……怖さはまだあります」
「でも、今日の灰皿と箱の“座り”、あれは“在った事実”だと、胸の中で言えます」
「――煙は、嘘を吐かない」
「はい」
言葉は小さく、木と金属と硝子の間に沈んだ。
外で商店街の影が伸び、看板の紫が夜に溶けていく。
扉の札を“準備中”に反し、二人は静かな歩幅で、それぞれの段取りを心に並べた。
『座り』は明日、こちら側で揺らす。
焦らず、しかし急いで――時間を“置く”側の段取りは、また 一つ先へ進む。
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