第五話 砂の拍は灰を運ぶ

 雨は夕方にいったんやみ、夜に入ってまた降り出した。


 濡れた舗道は深く沈み、街灯の光を吸ってはゆっくり返す。


 ガードレールに沿って並ぶ夜露は、車の通過に合わせてかすかに震え、常夜紫煙堂の紫の看板だけが、水気のうえで鈍く灯っていた。




 ガラス戸の向こう、店の空気は乾いている。


 湿度計は五十六%。


 黄銅の秤は皿を閉じ、針は零のまま眠ったように動かない。


 カウンターには薄い陶器皿が三枚、昨夜の倉庫で確保した小物が静かに並ぶ。


 百円口紅のキャップ、活性炭フィルターの空箱、両切り用の巻紙の切れ端。


 切れ端の縁には極小の微孔が二列、等間隔よりわずかに広い歩幅で続いている。




 夜村紫郎は、まず音を整える。


 瓶の唇に指を沿わせ、硝子の囁きが一定の高さで揃うかを確かめる。


 波形が揃ったところで、刻み葉をひとつまみ。


 乾いた繊維が指腹に跳ね返り、軽い音を置いていった。




「紫郎さん」




 鈴が鳴り、天田芽衣子が入ってくる。


 制服の肩に雨粒が二つ、髪の先はまだ冷たい。


 頬に走る緊張は、昨夜からの拍をそのまま引き継いでいる。




「村垣の取調べ、暫定の供述がまとまりました」




「聞こう」




「依頼は“弦月サービス”の担当者から。メッセンジャーで『女に見えるように十銘柄を混ぜて吸って捨てろ』。口紅は百円でいい、塩は灰の広がり防止のため、とのことです」




「丁子は」




「屋台の小箱を“雰囲気作り”に使え、と」




 紫郎は頷き、巻紙の切れ端を虫眼鏡で覗いた。


 微孔は二列。


 だが片側の列だけに、ごく薄い“欠け”が周期的に現れる。


 打ち抜き刃がわずかに歪んだ時に出る癖だ。




「この微孔の癖は、市販の無漂白スリムじゃない。業務用のロットだ」




「つまり、倉庫でまとめて仕入れている可能性が高い」




「都心リンク運送の流通に乗せているか、あるいは下請け“弦月”の倉庫で……」




「課長から連絡がありました」




 天田が携帯を少し持ち上げる。




「『まあまあ、焦るな。若いのは急ぐからな』と」




「あの人は部下想いなのか、間が抜けてるのかよく分からん御仁だな」




「ですね」




 天田は少し微笑みながら答えた。




 紫郎は陶器皿の縁を指で軽く叩いた。


 陶器の心臓が一度だけ打ち、音はすぐ木目に吸い込まれる。


 皿の上で口紅の粉がきわめて微かにずれた。


 室内の風向きが変わったのだ。




「天田。被害者側の“共通の場所”は見えたか」




「川端の職場には目立つ因子がないのですが……“配送ルート上の喫煙所”のログが一つ」




「喫煙所」




「都心リンク運送の第三倉庫脇。一般開放はしていないはずですが、近隣作業員の出入りがあったようです」




「灰は足で広がる。砂利は靴を覚える」




「明日、行きます」




「分かった」




 紫郎は棚から一本の瓶を取り、ラベル隅の数字を確かめた。


 No.18、焙煎強め、試作三一。


 瓶口を開けた瞬間、雨の匂いの上に乾いた蜂蜜のような香りがふっと乗り、店の空気が短く揺れる。




「持っていく。匂いは、声だ」




「了解です」




 天田が頷いた時、ガラス戸の外を黒い影が一度だけ横切り、すぐに消えた。


 雨の揺らぎに紛れた影は、目の端にだけ跡を残す。


 跡は、あとで意味を持つ。




―――




 翌日の午後。


 第三倉庫の敷地は薄い雲に光を均され、白っぽく見えた。


 事務所棟は色の褪せたクリーム色。


 背の低い植栽の間を、靴の音が規則正しく通り過ぎる。


 喫煙所は倉庫の壁に沿って張り出した簡易屋根の下。


 灰皿は金属の筒で、足元には丸い砂利が敷かれている。




 管理人は帽子の庇を深く下げ、胸ポケットの鍵束を指で弄んでいた。


 束の中に一本だけ、昨日磨いたばかりのように角が光る鍵が混じる。




「関係者以外は立入禁止なんですがねえ」




「警察です」




 天田が手帳を示し、穏やかに頭を下げる。




「昨夜の出入り状況を教えてください」




「夜は――ああ、黒いワゴンが一台。二時間ほどで出ていったかな」




「喫煙所の清掃は」




「朝いちで」




 “清掃”と言う口の端に、面倒くささの影がさっと走る。


 紫郎は喫煙所の縁にしゃがみ込み、砂利の表面を指腹で撫でた。


 丸い粒は靴底に入りやすく、灰は粒と粒の間に沈みやすい。


 指にかすかに乗った粉を鼻先へ寄せ、目を閉じる。




「……塩だ」




「塩?」




「粒が小さく角が丸い。夜のうちに踏まれている」




 砂利の谷を爪の先で掬い、一粒の灰を選って陶器皿に落とす。


 灰は軽く、音を持たない。


 だが形で語る。




「両切りの灰。ねじりの芯が浅い。昨日の倉庫での“練習”の癖と同じだ」




「村垣……?」




「かもしれない。だが、ひとつ違う」




 灰の縁に、ごく微細な黒が混じる。


 煤の黒ではない。


 焦げた樹脂。


 松脂が火でわずかに溶けた時の甘い匂いが、雨上がりの湿りにかすかに溶けている。




「松脂……」




「弦楽器のケース――」




 天田の目が揺れた。


 昨夜、管理人が言った「銀色のケース」が浮かぶ。




「“弦月”の“弦”は、弦楽の弦と読んでもいい」




「偶然でしょうか」




「偶然でも、足場には残る」




 金属筒の影に吸殻が一本、清掃の取りこぼしのように横たわっていた。


 フィルターなし、茶紙。


 巻き終わりのねじりは左。


 紙の微孔は倉庫で拾った切れ端と同じで、二列のうち一列にだけ周期的な欠けがある。




 紫郎は吸殻を摘み、影の中で角度を変える。


 光が薄くなると、紙の繊維のうねりが立ち上がる。


 うねりは湿度の履歴で、間隔は巻いた手の速度だ。




「同じ手だ」




「“弦月”の担当者……?」




「あるいは、担当者の“所”から出た手」




 紫郎が言葉を置いた時、背後でゆっくりした足音。




「まあまあ、焦るな、焦るな」




 気の抜けた声が雨の匂いに落ちる。


 佐伯浩一が喫煙所の端に立っていた。


 上着の肩がわずかに落ち、ネクタイは緩い。


 眠たげな目は、しかし足元の砂利を一瞬だけ正確に避けていた。




「管理人さん、ご協力ありがとう。ここは我々が」




 佐伯は柔らかく言い、砂利の上へ一歩だけ出て止まる。


 踏む前に白い粉の固まりを視線で避けている。


 偶然のようで、偶然にしては丁寧すぎる一歩。




「天田。午後の聞き込みは私が手配した。君は上に報告を」




「ですが、まだ――」




「焦るな。若いのは急ぐ。紫郎君、ご協力感謝する。民間の力は貴重だ」




 言い置いて佐伯は踵を返した。


 砂利の音は出さない。


 音を出さない足は、音を知っている足だ。


 紫郎は見ないふりをして、喫煙所の奥の壁へ目をやる。


 雨避けのトタンの縁に小さな黒い擦り痕。


 金属脚が斜めに擦った跡。


 倉庫と同じ幅。




「ここでも“練習”した」




「じゃあ、あのワゴンは」




「練習道具の運搬にも使った」




 紫郎はNo.18、試作三一の瓶の蓋を外し、空気に匂いをほんの少し混ぜる。


 蜂蜜の薄い甘さが雨の匂いに重なり、喫煙所の空気にもう一層を作った。




「匂いを置く。もし先ほどの“手”が戻ってきたら、匂いが揺れる」




「囮に、ですね」




「声は声を呼ぶ」




 天田が頷いた時、駐車スペースの隅に停められた黒いワゴンの影が、雨の膜の中で微かに揺れた。


 運転席のドアが開き、フードの人物が降りて事務所棟へ消える。


 腕時計は右。


 歩幅は一定。


 灰皿には目もくれず、足元に落ちた白い粒を踏まない角度で進んだ。




「……います」




「追うな」




 紫郎は短く告げ、瓶の蓋を閉めた。


 追わない判断は、時に追うより語る。


 語るのは、時間だ。




 夕刻、署で資料を洗い直すと、被害者の生活圏の地図に細い線が浮かんだ。


 都心リンク運送の第三倉庫、第四倉庫、下請け“弦月サービス”の仮設事務所、そして――五年前に廃業した楽器工房の跡地。


 工房前の路面には今も丸い砂利が敷かれ、雨の日には水が薄く溜まる。




「楽器工房の跡地……」




「川端の作業場から徒歩十五分。彼は木工の経験がある。松脂は常に手の内にあった」




「工房に何かが……?」




 地図に置かれたピンの間隔は拍に似る。


 倉庫、喫煙所、工房、倉庫――一貫した“歩幅”で並んでいる。




 会議室のドアが軋み、佐伯が顔を出した。




「お疲れ。――まあまあ、焦るな。上への報告は私からやっておく。君らは食事をして、夜は控えろ。雨だ。風邪をひく」




 言い置いてすぐに消える。


 天田が小さく息を吐き、北条は黙って地図を見たまま、ピンの一本を指で軽く押した。


 指の腹に紙の硬さが残る。




「紫郎さん。工房、行きますか」




「行く」




―――




 楽器工房の跡地はシャッターが降り、表札だけが残っていた。


 錆びた鎖。


 細い雨が斜めに降り、丸い砂利のうえに小さな波紋をいくつも作る。


 砂利は丸いせいで音が低く、踏むたびに低音が地面へ沈む。




 紫郎はしゃがみ、砂利の谷を探る。


 指腹にのる粉は灰と塩、そして――松脂。


 甘い匂いがごく薄く、まだ残っていた。




「最近も誰かがいた」




 砂利のうえに灰が短い点線になっている。


 点線はシャッター前で途切れ、右へ折れて路地へ続く。


 路地の角には金属脚でつけたような擦り痕が二つ、並んでいた。


 幅は倉庫と同じ。


 スツールの脚だ。




「運び込んで、運び出した」




「何を」




「練習の机と鏡。――それと、声」




 紫郎は路地の奥を見やる。


 雨に煙る先に黒い人影が一つ。


 こちらを見ている。


 顔は読めない。


 だが腕時計は右、左手はポケット、肩の線は細い。


 歩幅は一定。


 影はすぐに消えた。




「追います」




 天田が一歩出た、その時。


 背後で車のドアが閉まる音。


 振り向くと、佐伯が歩いてくる。


 傘は差していない。


 雨粒は肩に留まり、しかし落ちない。




「まあまあ、焦るな。夜の路地は危ない。見張りは交代でやる。――北条」




「はい」




「巡回コースを一本増やせ。工房前は俺の方で見ておく」




 佐伯は笑い、シャッターの縁に目を落とした。


 視線は短いが正確だ。


 シャッター下に小さく残る白い粉――塩――を踏まずに、さりげなく過ぎる。


 偶然に見せるには注意が過ぎる。




「天田。帰って休め」




「ですが」




「焦るな」




 同じ言葉。


 しかし今夜は少しだけ重い。


 天田は歯を食いしばり、視線を紫郎へ送る。


 紫郎は小さく頷いた。


 頷きには「今は退く」の合図が含まれている。




―――




 店に戻ると湿度計は五十七%。


 瓶の唇は朝よりぬくもり、秤の針は零で静かに止まっている。


 紫郎は陶器皿を三枚並べ、工房の砂利から拾った灰と、喫煙所の灰と、倉庫の“練習”の灰を別々に置いた。


 無水エタノールを一滴ずつ垂らし、乾きの速度を比べる。


 乾きは呼吸の速度で、温湿度が同じなら違うのは灰の“内側の湿り”だ。




「……工房の灰が遅い。塩が混ざっていない」




 吸殻のねじり芯をピンセットで軽く開き、中の刻み葉を顕微鏡で視る。


 刻み幅は一定、色は蜂蜜色に近い。


 火の通りは速い。


 No.18のベースに似ているが、香りが違う。


 蜂蜜の奥に焦がした松脂の薄い影。




「天田」




「はい」




「“弦月”は弦の響きだけでなく、葉の匂いも混ぜている。誰かが配合を知っている」




「屋台の丁子の箱は」




「飾りだ。声は別にある」




 紫郎はNo.18の試作三一を少量、皿へ削り出し、工房の灰と並べて指で転がす。


 転がる音の高さが工房の灰とわずかに呼応した。


 呼応は、記憶に触れる時の高さだ。




「――誰かが、うちの配合に“似せた”」




「常夜紫煙堂の名前を、利用した……?」




「レシートの時と同じ。囮だ。ただ囮は同時に、道を示す」




 ガラス戸の外で雨が一段強まり、通りの音が薄くなる。


 紫郎は瓶の蓋を閉じ、皿の縁を軽く叩いた。


 陶器の心臓が一度だけ打ち、音は短く消える。




「明日の朝、工房の路地をもう一度見る。砂利の谷は夜に深くなる。深くなれば声は低くなる。低い声は、よく届く」




「分かりました」




 天田はメモ帳を閉じ、胸に当てる。


 紙の角が制服の布をわずかに押し、形を少し変えた。


 その形は、決意の形に似ている。




 紫郎は灰皿を中央に置いた。


 瓶の列が息を潜め、湿度計の針は五十六へほんの少し戻る。


 秤の針は零のまま止まり、店の空気が静かに沈んだ。




 外では雨が向きを変え、砂利が低く鳴る。


 砂利は靴を覚え、靴は拍を持つ。


 拍は必ず戻ってくる。




 紫郎はほんの少し息を吸い、言葉を置いた。




「煙は嘘を吐かない」




 大きくはない。


 けれど木と瓶と秤が、その長さを知っている。


 言葉は店に沈み、紫の看板の色で止まった。


 十の声が騒がしい夜の中で、その一つだけが確かに静かに反響する。

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