第三話 口紅の粉は時間を語る
日が沈みきる前の街は、紫と橙の境目で息を止めていた。
通りの水たまりは昼のうちにほとんど乾き、薄い皮膜が、少しだけ残る。
吹き込んだ風がその膜を破り、裂け目の縁に夕映えの色が集まっては消えた。
常夜紫煙堂の看板は空の紫を吸い、名の通りの濃さになる。
ガラス戸の向こう、照明は一段落とされ、瓶の列は影の段丘のように重なっている。
カウンターでは黄銅の秤が皿を閉じ、針は零で止まっていた。
そばには細いブラシ、虫眼鏡、無水エタノールの小瓶、薄い陶器皿が三枚。
うち一枚には現場から預かった吸殻が紙片の上に等間隔で並び、紙には鉛筆で短い線と「赤・青・白・茶(両切り)・活性・口紅」と書き込みがある。
紙の端は毛羽立ち、指でなぞるとざらりと音を含む。
夜村は、まず「音」を見る男だった。
灰が崩れる音、湿った紙がほどける音、瓶の唇を撫でた時の乾いた硝子の音。
耳の奥にそれらを置いたまま、視線は一定の速度で吸殻の列を往復する。
細筆に無水エタノールを含ませ、口紅の付いたフィルターの端に一滴落とす。
赤はすぐには広がらず、縁に沿って楕円を作る。
粉体顔料が多く油分が少ない、安価な百円商品の配合。
溶け出した赤を別紙に移して乾きの速さを見る。
七数える間に輪郭が崩れ、十で止まった。
ちなみにこれらの証拠は全て鑑識が調べた後であり、天田の独断ではない。
彼女にそこまでの権限は無く、彼女の上司が夜村に任せるのを許可した為、このような事が許されている。
「来ました!」
ドアベルが鳴り、天田芽衣子が飛び込んだ。
制服の襟に夜の湿りが残り、肩の布がかすかに光る。
頬は外気で冷え、目の奥は日中よりさらに忙しい。
「コンビニの防犯映像が出ました。事件の二時間前、百円ショップで口紅と軍手、それから塩。全部、同じ人が買ってます」
「顔は?」
「帽子とフードで隠れてます。でも、釣り銭を受け取る手が左。小指の付け根に古い火傷みたいな痕」
「左利き……火傷の痕ね」
紫郎はうなずき、両切りの一本に目を移す。
巻き終わりの芯が少し潰れ、紙繊維が逆立っている。
左の親指腹で押し込んだ跡。
現場の床で見た“落ちる高さがいつも同じ”という癖とも合う。
吸殻や火花が落ちる“位置の偏り”は、利き手と持ち方の癖から来る。
例えば、左手で持つ人は自然に左側に灰を払う為、火花や粉が一定の位置に落ちる。
「店の前の路地でも映像が一つ。フードの人物が紙袋を抱えてました。腕時計は右手」
「右手に時計の左利きは珍しくない」
「はい。でも――」
天田はクリアファイルを広げ、薄い音で写真を並べる。
百円ショップのレシート、コンビニの自動ドア越しの影、アパートの踊り場カメラが拾った一瞬の横顔の輪郭。
「顔は不明。肩は細く見えるから女性にも見える。でも歩幅はやや大きい。判断がつきません」
「急がなくていい。時間が教える」
紫郎は無水エタノールの栓を閉め、皿の前で両手を軽くこすった。
皮膚の温度を下げて匂いを乱さない為だ。匂いは言葉より先に嘘を見抜く。
「見よう」
天田が皿の反対側に立つ。
赤い帯、青い帯、白の無地、茶の両切り、活性炭、口紅……色の並びに一定の間隔が見える。
「“本当の声”はもう分かりました?」
「まだ決めない。ただ、嘘は表面から剥がれやすい」
紫郎は口紅の一本を持ち上げる。
灰に触れない角度で空気から支えて取る。
フィルターの根元の赤は唇の丸みを持たない。
布の乾いた縁で擦りつけた時の直線的な筋、角に粉が溜まる。
もし唇ならもっと丸く滲む。
「これは布で付けた赤だ」
「軍手ですか」
「軍手の綿は目が粗い。粉が溝に残るはず」
「鑑識に繊維採取、頼んでおきます」
「頼む」
言葉の直後、ベルが短く鳴り、常連の男が帽子を取って入ってきた。
頬は柔らかく、目尻のしわが笑って定着している。
「こんばんは。……なんだ、にぎやかだね」
「島倉」
「珍しく名前呼んだね。そちらは初めましてかな?」
「警察の者です。すみません、今は捜査中で」
警察手帳を提示し、所属する警察署、階級、氏名などを明示する天田。
「邪魔しないさ。ちょっと相談だけ」
島倉誠一は瓶の列の前で鼻を利かせる。
空気の層を嗅ぎ分ける癖は常連のものだ。
「……丁子の香りが残ってる。西区の屋台でクローブの変わり種を卸す古いルートが動き出してる。去年あたりからだ」
「屋台?」
「昼はたこ焼き、夜は串焼きと煙管の小物。店頭に出ない包みも混ざる。俺は鼻が利く」
「場所は?」
「西区の川沿い高架下。木曜の夜によく出る。今日は木曜」
天田が顔を上げる。偶然に見えても、街はいつも何かの合図で動く。
あとになってからそれが分かる。
「情報ありがとうございます」
「代わりにNo.18“焙煎強め”を少し」
「番号札は」
「三一」
紫郎は一瞬だけ視線を落とす。
紙袋の角に書いた数字、昨夜の松脂の感触――偶然を結ぶのはまだ早い。
だが糸は同じ箱に巻いておく。
「……後で」
「いいとも。俺は長生きだから」
島倉は手を振り、隅の椅子に腰を下ろす。脚が床を擦って細い音が出た。
アパートで見た擦り傷の音に似ているが、同じではない。
紫郎はその差を心の引き出しにしまう。
「見てください」
天田が両切りの一本を指す。
巻き芯に小さな黒い点。
煤ではなく紙内の微細孔が潰れた跡。
巻いた時に紙が湿っていた。
湿りは唾ではなく空気の湿度。
今朝の部屋は確かに湿っていたが、これはもっと生温い湿りの潰れ方。
屋内より狭く閉じた空間――車内の可能性が高い。
「車の中で巻いた?」
「たぶん。狭くて手の高さが一定になる。落ちた灰は靴のゴムに乗る。……明日、駐車場の砂利を見に行く」
「駐車場?」
「アパート裏は丸い砂利だった。丸い粒は靴底の溝に入り、灰と揉まれる。揉まれた灰は砕け方が変わる」
「灰の“声”ですね」
「そう」
紫郎は両切りを戻し、活性炭フィルターの一本を持つ。
根元の着色は浅く吸い込みが弱い。
初心者の吸い方。
しかし最初の一本ではない。
紙縁の焦げが他より深い。
火入れに慣れた後の油断。
犯人は複数の吸い方を体に持っている。
鏡の前で練習した喉の使い分けのように。
「私は署に戻ります。屋台も当たります。先に佐伯さんへ報告を」
天田が携帯を取り出す。
画面の反射が瓶に細い光を描く。
すぐに繋がったらしい。
受話口の向こうの声は湯気のように薄いが、よく通る。
「――焦るな。屋台は面白いが、一人で行くな。北条を付ける。口紅の件はまだ上に上げるな」
通話が切れ、短い沈黙。
天田は息を吐き、指を握って気持ちを切り替える。
「北条さんと行けるなら心強いです」
「人は、歩幅や手つきがそろうと強くなる」
紫郎は口紅の一本に無水エタノールをもう一滴。
赤は広がらず縁だけ濃くなる。
乾いた粉の粒径が大きい。
屋台の明かりなら唇に見えるが、近づけば嘘が割れる。
「紫郎さんも来ますか」
「行く」
即答した。
灯りが一段夜に寄り、瓶の影が深くなる。
湿度計の針は五十七%へ。
夜の湿りは嘘を育てやすいが、同じだけ輪郭も浮かびやすい。
川沿いの高架下では、小さな火が連なり、油の匂いと甘辛いタレの蒸気で空気が重い。
風が梁で砕け、音は足元へ折れて落ちる。
提灯は弱く、影は手の甲の血管のように細い。
串焼きの煙が横切り、丁子の匂いがわずかに揺れた。
「ここだ」
北条隆司が歩を止める。
目は眠っていない。
動きは無駄がなく、急ぎすぎない。
屋台の端に「小物」と手書きされた箱。
中には煙管、巻紙、安いライター、見慣れない包みが混じる。
「こんばんは。少し見せてください」
天田が声をかけると、屋台の中年はしかめ面から営業用の笑顔に変わる。
笑顔の下で目だけが冷たい。
「警察さん? うちは合法の小物だけ」
「この包みはどこから」
「輸入雑貨。香り付きの紙は人気でね」
男は包みに手を伸ばすしぐさをするが触れない。
触れれば手が覚える。
記憶は時に証言になる。
紫郎は半歩下がり、空気に鼻を近づける。
丁子の香りは軽い。
最近開けた箱ではない。
時間が経ち、香りは紙に移り、箱は殻になる。
角の潰れは内側からの圧、輸送ではなく人の鞄の中で生まれた潰れ方。
「ここで左利きの客は?」
北条が短く問う。
男の目が一瞬泳ぐ。
その距離は嘘の長さに似る。
「さあな。夜は忙しい」
「忙しくても、左手で金を受け取る客は覚えているだろう」
北条の声が冷え、提灯の赤に温度差が生まれる。
男は肩をすくめ、視線を外へ逃がす。
「……長い髪の客は来た。肩が細い」
「女性か」
「さあ。フードだった」
天田が一歩出る。
紫郎は袖を軽く引いて足元を示した。
屋台の足場は仮設の板。
板の端に細い擦り傷が二本、並んで走る。
細い金属脚が引きずられた跡。
幅はアパートの床と近い。
板の下の砂利は丸く、粒はアパート裏より小さい。
小さな粒は靴の溝に長くとどまる。
「ここでも同じ“癖”が出てる」
屋台の影で煙が一筋上がる。
誰かが吸っている。
赤帯の包みを握る手は右、火を入れるライターは左。
左利き。
関節に薄い火傷痕。
暗くて目立たないが、掠めた光で白く浮く。
「すみません、少し」
天田が声をかけるより早く、その影は煙を地面に落とし、踏みつけずに歩き出した。
灰は小さく光って消える。
落とし方はアパートと同じ。
灰皿に手が伸びない。
歩幅は一定、腕の振りは少なめ、音の少ない歩き方。
「北条さん」
「追う」
北条は迷わず追い、天田も続く。
紫郎は一度だけ板を蹴り、砂利の音を耳に入れた。
低く、丸い音。
明日、靴底からもこの音が出る。
足音の先で路地は二度曲がり、三度影が切れた。
高架の柱の根元には風の溜まりがあり、煙の薄い殻が漂う。
影はそこへ紛れ、すぐ現れる。
距離は縮まるようでいて離れる。
「曲がった!」
天田の声。
北条が合図を返す。
紫郎は走らない。角を曲がる前に一呼吸、風の向きを先に読む。
押す方向に人は逃げやすい。
風は音を運び、音は灰の落ち場所を決める。
影が途切れ、三人の足音だけが残った時、路地の奥でシャッターがぎしりと鳴った。
風ではない。
内側から押された音。
板金がわずかに膨らんで戻る。
誰かが入ったか、出たか。
「今の、聞いたか」
背後から低い声。
振り返ると佐伯が入口に立っていた。
足取りは緩いが、水たまりを踏まない角度だけ正確。
舗道の縁へ一歩、砕けたガラス片を避ける。
無駄のない、偶然に見せる丁寧さ。
「課長!?来てくださったんですか!?」
「焦るな、焦るな。若いのは急ぐ。時には止まって人生、俯瞰して見なくてはならんぞ……お?」
佐伯は一歩出た先の路面を見る。
踏み潰されず残った灰が白い点線になっている。
点線はシャッター前で途切れ、内側へ続くように見えた。
「ここは倉庫街。鍵は」
「管理会社に当たります」
天田が即答し、電話する。
北条は隙間を覗き、紫郎は白い点線を指でなぞる。
粉は温度を持たず、湿りだけ指に移る。落ちたばかりだ。
鍵が届くまでの十分、風は二度向きを変え、提灯の赤は一度消えてまた灯る。
十本の吸殻が語った“同じ間隔の癖”は、ここでも続いている。
シャッターが上がる重い音。
押し出された空気は古い木箱と油紙の匂い。
中は暗く、床はコンクリ。
片側の壁に古い机とスツールが二脚。
細い金属脚が床に二本の擦り傷を残す。
幅はアパートで見たものと一致。
机上には安い鏡と口紅。
鏡の埃は右から左へ払われ、口紅キャップには粉の赤が固まっている。
机の隅には活性炭フィルターの空箱。箱の側面に薄く丁子の香り。
「ここで練習したな」
紫郎の声に、店で並べた吸殻の列がこの暗がりで「意味」を持つ。
左の親指腹でねじる練習。
布で口紅を移す練習。
灰を床に落とす練習。
仕草がいつも同じ調子で繰り返されている。
「見てください」
天田は鏡の前で埃の筋をなぞり、赤に触れずキャップの縁を見る。
粉は乾き、粒は大きい。
百円ショップの赤。コンビニで映った袋の系列。
「この倉庫の名義は――」
北条が書類を確かめるあいだ、佐伯はシャッターの影で腕を組み、眠たげに息を吐く。
吐く息の温度は一定で、空気の流れに逆らわない。
流れを知っているという事だ。
「焦るな。上には俺が言う。危ない橋は渡るな」
佐伯は一度だけ浅くうなずいた。
その終わり方は、さっき路地で足を止めた位置と同じくらい正確だ。
倉庫を出ると、風が梁で砕け、灰の薄い殻が路上でほどけた。
音はないが、消え方だけが耳に残る。
「回りくどいですね」
天田が苦い笑みを浮かべる。
「女性に見える影」が、ここでわざわざ布に口紅を移し、灰皿を使わない練習をし、十銘柄をばらばらに集めるなんて。
「回りくどい嘘は長く続かない。同じ作業を繰り返すと、その人だけの“間”が出る。それは消えない」
「追えますか」
「追う。灰が落ち続ける限り」
紫郎は指先で空気を撫でた。
撫でた先に、目には見えない線がある。
十のばらばらな音の中に一本だけ通っている筋。
倉庫の机、アパートの床、屋台の板、路地の点線。
それらが一本につながる。
「煙は嘘を吐かない」
声は夜の湿りと同じ速度で沈むが、消えない。
提灯が二度揺れ、川沿いの風がやわらぎ、街のざわめきが一瞬だけ浅くなる。
次の一歩の為に足裏が地面の温度を確かめる。
歩き方は元に戻る。
嘘は歩き方を変えられるが、長くは持たない。煙も同じだ。
常夜紫煙堂への帰り道、空はさらに紫を深める。
瓶の列は今夜も呼吸を続け、秤の針は零に戻る準備をしている。
灰は皿の上で静まり、しかし静けさの中に声を抱えたまま、次の朝へと渡されていく。
店に戻ると室内は少し暖まり、湿度は五十七%を指した。
瓶の唇の温度が朝よりわずかに低く、指先に触れた瞬間の軽さが長い。
葉が空気と馴染んだ証拠。
紫郎は吸殻を再び板の上に並べ、崩れた灰を筆で集め、陶器皿に移す。
灰の粒を虫眼鏡で覗くと、角の丸まり方がそれぞれ違う。
床で潰れたもの、靴底の溝で揉まれたもの、湿気で重たくなったもの。
違いを並べると、同じ癖だけが浮く。
「同じ人だ。銘柄は違っても手つきが一緒」
天田の言葉が頭に残る。
紫郎は秤に皿を乗せ、灰を微量ずつ落とす。
黄銅の針は静かに揺れ、やがて零へ戻る。
揺れ方も同じ間隔だった。
犯人の手が繰り返してきた「高さ」を、秤は黙って復唱している。
机の端に置いた口紅は粉が多く、にじみにくい。
軍手の綿へ移し、その軍手でフィルターに触れれば、今日の一本のような角の立つ筋になる。
安い顔料と粗い繊維。
嘘の為の準備は、道具から安さを漏らす。
紫郎は陶器皿の縁を指で軽く叩いた。
音は短く木に吸われ、残響はない。
短い音は終わりの合図だ。
ガラス戸の外を風が通り、看板の縁に淡い影を置く。
夜はこれから深くなる。
けれど、ここまで集めた断片がつくる一本の線は、もう十分に濃い。
あとは、その線を次の場所まで伸ばすだけだ。
丁子の香りは長く残る。
衣服に移れば一日を超える。
屋台の板で拾った砂利の音、路地に落ちた白い点線、両切りの湿った巻き芯、安い口紅の粉。
どれも小さいが、同じ人の手が触れると同じ調子になって現れる。
紫郎は最後に店内の空気を深く吸い、吐く。
葉の乾いた匂い、黄銅の金属臭、硝子の冷たさ、陶器の鈍い手触り――その全部を胸の奥に並べる。
明日の朝、同じ順番で取り出せるように。
煙は嘘を吐かない。
だから、嘘を吐くのはいつも人間のほうだ。
人は匂いと手の高さと歩幅で嘘をつき、同じ事で嘘を漏らす。
紫郎は灯りを一段だけ落としてから、皿の前に戻った。
火を入れない葉を指で転がす。
乾きが触れ合う微かな擦過音。
湿度と時間が奏でる小さな合唱。
それは言葉の前にあるサインで、長い一日の終わりにだけはまっすぐ聞こえる。
街の紫は濃くなり、通りの膜は完全に剥がれた。
歩幅は元の速度に戻り、人の時間も追いついてくる。
常夜紫煙堂の夜は、静かに続く。
皿の上の灰は黙っているが、黙ったまま、明日の為に語る準備をしていた。
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