2 散歩
A、のの君
四月一日、金曜日。
昨日の酒がまだ抜けきらない。窓を開けると、澄んだ空が広がっているのに、風は少し冷たかった。さて……これから僕は、何をしていけばいいのだろう。そんなことをキョウちゃんに相談してみようか――と一瞬思ったが、すでに彼女は出勤済みだった。時計の針は九時を指している。僕はようやく布団から体を起こす。これが、退職後の暮らしというやつか……と、苦笑いがもれる。
よし。まずは、散歩を日課にしよう。
食卓には、ベーコンエッグにトースト、レタスに牛乳。変わらぬ朝食が並んでいた。だが、今日は少しだけ静けさが違っている。いつもなら「遅れるわよ」とせかす声が飛んでくるのに、今朝はない。
皿の脇に、小さな紙切れが置かれていた。
のの君、長い間お疲れさまでした。
今日からは、これまでできなかったことに
その時間を使ってくださいね。
私に頼っちゃダメだよ……笑
――まったく。キョウちゃんには、僕の心の迷いなんて全部見抜かれている。
食後、退職祝いに仲間たちが贈ってくれたグレーのジャージに着替える。ふと目に入ったのは、ハンガーに掛けられた背広とネクタイ。擦り切れた袖口、結び目に残る深い皺。それは長年、僕を守ってくれた鎧でもあり、今の僕の疲れを映す鏡でもあった。
姿見に映ったのは、ジャージ姿の還暦男。六十年の歳月が確かに刻まれている。思わず目を逸らした。
外に出ると、春の陽が眩しく差し込んでいた。壁に手をついて体を伸ばす。足首が小さく鳴る音に、自分の老いを確かめるような、そしてどこか安心するような気持ちになる。
南の橋を渡り、土手を歩き、北の橋を回って戻る――おおよそ二キロ。これを最初の散歩の道と決めた。
土手の桜は、満開に近かった。花の下をゆっくり歩くと、風に乗ってひらひらと花びらが舞う。若い頃はただ「綺麗だ」と眺めるだけだったが、今は違う。散りゆく花に、どこか自分の背中を重ねてしまう。
咲き誇るのは一瞬。その後は、風に
――夕刻。
「ただいま」
「あっ、おかえり。仕事、お疲れ様でした」
「ありがとう。で、今日は何をしてたの?」
「散歩に出たよ。桜がね、とても綺麗で……。でも、眺めるのは、いつぶりだろうな」
「へえ、それは良かったわね。で、写真は撮ったの?」
「あっ……忘れてた」
「やっぱり」
二人の笑い声が部屋に弾んだ。
重なり合う声の響きの中で、僕はふと気づいた。桜が老いを纏いながらも春に咲き誇るように、僕もまた、老いを抱きながら静かに季節を生きているのだと。
B、ノラ
俺たちにゃん族には、散歩なんてものはない。歩くのは生きるためであって、気晴らしじゃねえ。道を一歩踏み出すたびに、死と隣り合わせだ。車に轢かれるか、縄張り争いで爪を立てられるか。人間に追われ、石を投げられることだってある。怪我をしても、病院なんか行けやしない。だから、多くの仲間は早くに命を落とす。……それが、俺たちの現実だ。
それでも、今日の雨には少し足を止めたんだ。
空から落ちる細い雨に混じって、桜の花びらが舞っている。濡れて貼りつき、路地の泥に沈んでいく花片。人間たちは「花時雨」と呼ぶらしい。なるほど、言葉の響きも悪くない。褒めてやるぜ。
だが、俺たちの命は桜ほど気高くはない。散っても誰も惜しまないし、踏み潰されて泥と一緒になるだけだ。……それでも、俺は必死に食らいついて、生き延びる。散るためじゃなく、生き残るためにな。
腹が満ちた今、瞼が重くなる。桜が散るのを横目に、俺は眠りにつく。
――明日も、生き延びられるだろうか。あ〜あ、眠い……。
じゃあな……。
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