微睡 ーツン君に飼われた僕ー
枯枝 葉
第一章 洒涙雨 1 三月の桜雨
A、のの君
二〇一六年三月三十一日。
僕――
一九五五年生まれの僕は、戦後十年の世界に生を受けた。幼い頃の道はまだ舗装されきっておらず、雨が降れば水たまりができた。もっと古い記憶を辿れば、馬を引いて歩く大人や、リヤカーを鳴らしながら行商する人の姿が残っている。母の話に至ってはさらに驚かされる。今では駅前に必ず並ぶタクシーも、かつては存在せず、その代わりに人を乗せるリヤカーが客待ちをしていたというのだから。
退職を間近に控えたある日、ふと胸に浮かんだ言葉がある。
――「老兵は死なず、ただ消え去るのみ※2」。
マッカーサー元帥が退任演説で述べた言葉だ。昭和の頃、折に触れて報道に取り上げられ、僕の世代の耳にはよく馴染んでいる。あの言葉が、再雇用か引退かで揺れていた僕の背中を押してくれた。役割を終えたのなら、潔く退く。それでいい、と。そうして僕は第二の人生へと足を踏み出したのだ。
ところで、「のの君」とは誰かと思われるだろう。これは、妻――キョウちゃんが呼ぶ僕の愛称である。結婚する前からそう呼ばれ続け、もう三十一年になる。子どもはいないが、「のの君」と「キョウちゃん」の二人だけで日々を紡いできた。
桜雨が、咲き誇る花を早くも散らしはじめる季節。果たして、この先どんな第二幕が待っているのだろうか。正直なところ、自分自身の人生ながら、どこか他人事のようにも感じている。
のの君って? その説明が要りますよね。これは、僕の愛称で……と言うか、妻の
桜雨が、儚い桜の花弁を早くも散らそうとしているこの頃なのです。これから、どんな第ニの人生が始まるのでしょうね? 我ながら人ごとのように感じる今日この頃です……。
B、ノラ
俺たちは人間から「猫」と呼ばれている。だがな、俺たちのあいだで「猫族」なんて言葉は使わねえ。俺たちは「にゃん族」。それが正しい呼び名さ。覚えておいてくれよ。
名前? ……まあ、ノラとでも呼んでくれ。物心ついたときから、俺はずっと独りきりだったからな。
食べ物は何かって?
そりゃあ……色々だ。トカゲにカエル、ネズミにヘビ。人間の出すゴミも漁るしな。でもな、俺様の大好物は緑のバッタだ。なかでもショウリョウバッタは最高級品だ。人間の世界で言えば……伊勢海老みたいなもんだな。ああ、思い出しただけで涎が出ちまうぜ。
住処はどこかって?
川辺の藪だったり、人間が寄りつかない空き家だったり……気ままに渡り歩いてる。
年齢だと? うるせいやつだな〜。
六歳だ。何? 「まだ若い」だと? 笑わせるなよ。人間に換算すれば四十。脂ののった働き盛りだぜ。
俺たち野良には、定年なんてものはない。安定とか安泰なんて言葉も、無縁だ。あるのは生き抜くこと、ただそれだけ。
……っと、腹時計が鳴りやがった。そろそろ狩りに出る時間だ。
またな。
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