青いアラベスク
増田朋美
青いアラベスク
その日も、本来であれば秋が顔を出してくる時期だと言うのに、何故か、非常に暑くて、テレビでは、40度近くまで上がったとか、そういう事を言っている日々であった。それでは、おかしなことが平気で起きてしまっても不思議はないなあと思われてしまう、気候であった。
そんな中、今日も高瀬富子は、いつものように板金工として、溶接工場で働いていた。仕事はまるでだめで、何をやっても他の板金工に笑われる始末。そんな彼女の生きがいは、自宅にある電子ピアノで、下手くそだけどピアノを弾くことであった。つまらないものであるけれど、弾くのは彼女の唯一の楽しみであった。
ある時。
「高瀬さん。ちょっとお話があるの。」
工場長から、不意に富子は呼ばれた。工場長の言う通りに応接室へ行くと、一人の青年が、応接室にいた。
「あの、す、す、すみませ、ん。」
と彼は不明瞭な発音で言った。
「なんですか?」
富子が聞くと、
「こ、こ、こち、ら、に、と、いこ、と、いう、女性、は、いらっ、」
なにを言っているのかよくわからなかったけど、工場長は、こう説明した。
「実はね、こんなコンクールがあって。うちの会社からもひとり出すことになったのよ。まあうちは、板金会社だし、音楽に詳しいものは高瀬さんだけだから、あなたにやってほしいと思ってね。それで高瀬さん、この、有森五郎さんと一緒に、コンクールへ出てもらえないかしら。」
「そんなこと。」
と、富子は言ったのであるが、
「なに、も、こわ、が、る、ひつ、よ、うは、ありま、せ、ん。ただ、の、し、ろ、うと、の、こんくる、ですの、で。」
と、五郎さんはそう説明する。それが、何も怖がる必要はありません、ただの素人のコンクールだと言っているとわかるのに、富子は数分かかった。
「ほら、五郎さんもそう言ってるじゃないの。だったら、うちの会社のメンツを上げるためにも出場してよ。うちの会社はただ板金工をやっていればいいかっていうものじゃないって、周りの人にわかってもらえるじゃないの。」
「しかし、工場長、私はピアノがとても下手で、周りに通用するものではありませんよ。」
富子はそういうのであるが、
「い、いいのです。こんくる、の、み、なさん、は、みんな、へた、ですから。」
と五郎さんは言った。工場長はそれに応じて、
「そうよねえ、だって、素人のコンクールっていうんじゃそんなに、演奏技術も必要としないでしょう?」
と、言っている。工場長、なんであなたはそんなふうに、重度の言語障害のある五郎さんと会話できるのですかと、富子は言いたくなってしまったが、それは言わないでおいた。
「そういうことだから、コンクールへ出てちょうだい。募集要項はこっちよ。」
そう言って、工場長は、富子に募集要項を渡した。
「しっかし、なんであたしなのかしら。」
応接室から出た富子は思わず言ってしまう。
「なんであたしが、ピアノのコンクールなんかでなければ行けないのかな。だって、いくら素人っていっても、みんなすごい人ばっかりでしょう?」
「だい、じょ、う、ぶです。みな、さ、ん、たのし、む、た、めに、さん、かして、ます。」
五郎さんは、そう富子に言った。
「ええ?何を言ってるの?わかんないわ。あなたって、本当に発音悪いのね。」
富子は思わずそう言うと、五郎さんは耳は聞こえてしまうらしく、
「ごめ、なさい。」
と言った。それさえも富子は、通訳してもらえないかなと思ったが、
「も、し、おの、ぞみ、なら、い、ち、ど、だれ、か、に、きてもらた、ら、いがですか?」
と、五郎さんは言った。
「はあ、何を言ってるかわかんないけど。あなたの真剣な顔つきをしているから、一生懸命なにか言いたいんだなと言うことはわかるわよ。あなた、文字は書ける?それが不自由じゃなければ、これにちょっと言いたいところを書いて、それで伝えてよ。」
富子はそう言って、メモ用紙を彼に渡した。すると五郎さんは、富士山エコトピア近くにある製鉄所という福祉施設の名前を書き、続いて、磯野水穂さんと書いた。
「な。何よ、この人がどうしたの?」
富子が思わず言うと、五郎さんは、そのメモ用紙に、
「ピアノレッスン。」
と書き込んだ。つまり、この人がピアノレッスンしてくれるという意味だろう。自分の下手な演奏を、聞いてくれるはずがないと思った富子であったが、五郎さんの顔は真剣そのもので、富子に対して生半可な感情で言っているわけではないことがすぐわかった。なので富子は、一度だけ言ってみることにした。
「わかったわよ。じゃあ、勧めてくれた通り、そこへ行ってみるから。」
五郎さんの顔がぱっと輝く。
それから数日後、富子はドビュッシーのアラベスクの楽譜を持って、その製鉄所という福祉施設へ車を走らせた。富士山エコトピアはおもったよりもかなり遠い、山の中にあった。なんで製鉄所という名前がついたのかと富子は思った。指定した住所にカーナビを頼りに行ってみると、その製鉄所という施設は、製鉄所よりも、日本風の旅館という感じの建物であった。
製鉄所の玄関にはインターフォンが設置されていなかった。なんでないんだろうと思いながら富子は、玄関の引き戸に手をかける。
「ごめんください。有森五郎さんの紹介で参りました。高瀬富子です。」
建物の中で音がして、
「おう、待ってたぜ。早く上がれや。」
と、一人の車椅子の男性が現れた。
「あらましは五郎さんに聞いた。なんでも、コンクールに出るので、ぶつけ本番では不安だから、一回見てやってくれという話だろうが。」
「こちらに、磯野水穂さんという方はいらっしゃいますか?」
富子は急いでそう聞いた。
「いるよ。だから早く上がれよ。ご覧の通り段差もないからすぐ上がれると思うよ。」
と、彼に言われて、富子はすぐに上がり框のない玄関で靴を脱ぎ、木の床である製鉄所の中へ入った。なんだか昔ながらの作りになっていて、富子にしてみれば見たことのない建物にこされたみたいだった。
「僕は影山杉三で杉ちゃんって呼んでね。商売は和裁屋。まあ、着物を縫う職人だ。よろしくね。」
廊下を移動しながら彼は行った。着物を縫う職人。まあ昔は確かにいたんだろうけど、富子は、もうそんなもの当の昔に終わってしまっているような気がする。
「ホイ、来ましたよ。ちょっと起きて、こいつの演奏を聞いてやってくれ。」
杉ちゃんは、襖を開けた。襖を開けると、せんべい布団の上に、どっかの外国の俳優さんみたいな大変きれいな男性が座っていて、富子は思わず
「あ、あの!」
と言ってしまったくらいだ。
「こいつが、お前さんが探している磯野水穂さんね。じゃあ、ちょっと緊張してしまうと思うけど、そこにあるピアノで、お前さんの課題曲を弾いてみてくれ。」
杉ちゃんにそう言われて、水穂さんは、
「よろしくお願いします。」
と丁寧に座礼した。
「はい。わかりました。あたしも下手ですけれども。」
と、富子はしどろもどろに言いながら、ピアノの前に座った。ピアノはグロトリアンとロゴが書かれていた。富子にしてみれば、グランドピアノなど弾いたことがない。本当に弾けるのかなと思いながら、富子は楽譜を置き、アラベスク一番を弾いたのであった。
「そうですね。」
水穂さんは弾き終わってそういった。
「ちょっと、伴奏が大きすぎると言うか、音量のバランスを考えましょう。もう少し左手を静かに弾いてみてください。」
富子はそのとおりにした。
「はい、それで、右手をもう少し滑らかにやってみてくれますか?この曲は、ゴツゴツした演奏ではありません。右手はできるだけ穏やかに、そして滑らかに弾きます。」
水穂さんは、静かに言った。決して怒ることはなかった。富子にしてみればピアノの先生なんて、いつも威張っていて、なんだかカッコつけている人ばかりだと思っていたので、これは意外だった。
「中間部のイ長調の部分は、今までの滑らかな部分と少し違って、ちょっと力強く弾きます。その違いをだすというか、メリハリをつけることも、必要なんです。」
水穂さんに言われて富子はそのとおりにした。水穂さんに、もっと滑らかとか力強くとか、そういう事を繰り返し言われ続けていると、
「こんにちは。水穂いるか?」
いきなりでかい声で誰かが言った。
「何だ今レッスンしてるのに?」
杉ちゃんがそう言うと、声の主はどんどん部屋に入ってきてしまった。富子がアラベスク一番を弾き終えると、声の主はブラボーと言って拍手をした。
「なんですか。広上さん。変なところで入ってこないでくださいよ。」
水穂さんがそう言うと、
「いや、上手なので、思わず拍手してしまった。」
と、広上麟太郎はぶっきらぼうに言った。
「えーと、お名前はなんていうの?」
「高瀬富子です。」
富子が思わずそう言うと、
「そうか!俺は広上麟太郎だ。今アマチュア・オーケストラの指揮をしているんだ。高瀬富子さんと言ったね。音大でも出てるのかい?」
麟太郎はそう自己紹介した。
「いえ出てません。私はただの板金工です。」
と、富子が言うと、
「そういうことなら、俺も運営に関わっている、音楽サークルの演奏会に出てもらえないだろうか?君の演奏はとてもいい演奏だったよ。なんだか、板金工のままでいるのはもったいないよ。他になにか知っている曲はあるのかな?」
麟太郎は、変な話を言い始めた。水穂さんが、
「広上さんまたそういう事を言う。」
とたしなめたが、麟太郎は平気だった。
「知っている曲はあまりありません。ピアノだって子供の時習わされて、すぐ辞めてしまいましたし。楽譜は読めるけれど、そんなに対した演奏はできるわけじゃないので。」
富子はそういうのであるが、
「それならアラベスクと他になにか弾けばいいよ。一人15分以内で出てほしいそうだから。大丈夫だ、君の演奏は、なかなか良かったから、きっとうまいと言ってくれる人がかならず出る。」
と、麟太郎は言うのだった。
「なにかできそうな曲はないか?ベートーベンのソナタとか、あるいはそうだねえ、ラヴェルのソナチネとか。」
「どれも私には難しそうです。」
富子はそう言って断ろうとしたが、
「いや、こんなきれいな演奏をするやつは、ちゃんと舞台でそれを知らせるべきだと思うんだ。俺達のサークルも、なかなかこういう正統派というのかな、きちんとした楽曲を弾きたがるやつはいないので、貴重な存在だよ。」
と、麟太郎は言う。水穂さんが、クラシックを弾きたがる人はいないのですか?と聞くと、麟太郎は、最近のピアノサークルでは、変なポピュラー・ソングばかり弾くやつばかりだと言った。
「まあ、何をするにも経験だと思うから、それで出てみなあ?きっとなにか良いことがあるかもしれないよ。」
杉ちゃんがそういうので、富子は出てみることにした。コンクールの他に、広上さんの運営している音楽サークルに出ることになったのである。
音楽サークルの当日。富子は、広上麟太郎に言われた通り、富士市の文化センターに向かった。そこの練習室という部屋で行われるというのだ。練習室と言っても、個人で練習するのにはべらぼうに広く、それよりアマチュアオーケストラとかが練習するのに適していた。ピアノはヤマハのグランドピアノがちゃんとあった。
富子がこわごわ部屋に入ると、麟太郎が、にこやかに向かえてくれた。麟太郎は、新人会員と言って彼女をサークルのメンバーに紹介し、今日はドビュッシーのアラベスク第一番を弾くと言った。メンバーたちは、バイオリニストはフルーティストなど様々な楽器のものがいたが、全員がおしゃれな格好をして、いかにも豊かな生活をしているんだろうなと思われる人ばかりだった。
「じゃあ、まず初めに、アラベスク一番を弾いてみてくれ。」
と、麟太郎に言われて、富子はピアノの前に座った。富子が持ってきた楽譜は、全音の楽譜だった。それでも彼女は一生懸命弾いた。水穂さんが指導してくれたことを思い出して、できるだけ左手を静かに、そして右手を滑らかに弾いた。
弾き終わるとメンバーさんたちは拍手をした。
でも、メンバーさんたちの顔は冷たかった。
「全音を使ってるの?」
フルーティストが聞いた。富子がハイと答えると、
「恥ずかしいことだ。」
と、バイオリニストが言った。
「はずかしい。」
先程のフルーティストも言う。
「でも、他の出版社があることなんて私知りませんでしたから。」
と、富子が言うと、
「そんなことも知らないなんて。身の程知らずもいい加減にして。」
と、フルーティストが言った。
「それに、本気でピアノを弾きたいと思うんだったら、全音では物足りなくなって、他の出版社に変えるもんだけどなあ?例えば、デュランとか、リゴルディとか。」
と、別のピアノの楽譜を持った男性が言った。富子はますます理由がわからなくなってしまう。デュランも、リゴルディも、聞いたことがない。
「それ、なんですか?」
恐る恐る聞くと、みんなそんなことも知らないのかという顔をした。親切な顔をした年配の男性が、
「ピアノをやるには、そういう外版という外国の出版社を使うのが当たり前なんだけどねえ。」
と言った。
「そんなことできません。そんな高額なもの買えるわけないじゃありませんか?」
と富子が言うと、
「はあ、デュランを買えないんじゃ、演奏の技術も身につかないし、全音のままでずっとやっているわけにはいかなくなると思うんだけどねえ。せめて、全音ではなくて音楽の友社とか、そういうさ、高度な技術を教えてくれる楽譜、それを購入すべきなんだよ。」
年配の男性はそう教えてくれて、富子に持っている楽譜の表紙を見せた。確かに同じアラベスクと書いてある楽譜なのだが、カタカナではなくてアルファベットで書いてある。
「ちょっとようちゃん。この彼女にお手本聞かせてあげてちょうだいよ。」
バイオリニストの女性がそう言うので、ようちゃんと言われた年配の男性は、はいよと言って、ピアノの前に座り、アラベスク一番を弾き始めた。麟太郎が思わず、彼女と大して変わらないじゃないかといった。確かにそのとおりなのだ。客観的に見ることができれば、富子はようちゃんと言われている男性と同じくらい演奏技術を持っていた。だけど、ようちゃんという男性は、デュラン社の楽譜を持っていて、それでしっかり学習していることもあり、なんだか圧倒的にうまいように聞こえてしまった。ようちゃんが弾き終わると、富子以外のピアノサークルのメンバーたちは、みんな面白がって拍手する。
「まあ初めてなんだし、良いじゃないの。彼女にも、演奏を楽しんでもらえたら良いさ。」
ようちゃんと呼ばれた男性は、そう言ってピアノから降りていったが、
「あなた、このサークル引っ掻き回しにここへ来たの?」
と、フルーティストは言った。
「全音ごときで、しっかりアラベスクが弾けるからっていい気になってんじゃないわよ。他の人は、ちゃんとした楽譜で、きちんと学習しているのに、それをしないであんないい演奏ができるとはずるいわ。」
と、バイオリニストも言う。
「そんなことありません。ただ知らなかっただけです。」
と、富子は言うが、
「でも、デュランもリゴルディも知らないで、あんないい演奏ができると思う?絶対どっかでズルをしてるわよ。そうとしか思えないわ。そうよねえ。」
と、フルーティストがそういったため、他のメンバーも口々にそうだそうだといった。富子は、その人達に反発できる手段がなくて、ただそれを聞いているしかできなかった。麟太郎が、もう、彼女を攻めるのはよせといったが、メンバーたちは、富子を、楽譜を持っていない不審者と決めつけ、全音の悪いところを平気で発言した。その後で、メンバーさんたちが、フルートやバイオリンを演奏したのであるが、たとえ富子のほうが音楽的感性は上であったとしても、富子は自分の演奏が下手であるような気がした。こういうときは、権力に頼って悪を懲らしめてもらうしかない。例えば、最年長の人物が、それを抑えるとか、グループのまとめ役がやめろと一喝するとか。でも、ようちゃんと呼ばれる男性も、麟太郎も、彼女たちを止めることはできないらしい。何も言わなかった。
とりあえず、メンバー全員の演奏を聞いて、富子は家に帰ることにした。麟太郎とようちゃんと呼ばれていた年配の男性が、彼女を最寄りのバス停まで送ってくれた。二人は、あの女性たちの言っていることはただのホラ話なので、気にしないでほしいといったが、富子はひどく疲れていて、二人の話を聞く余裕はなかった。
その次の日。富子は、いつも通り板金工場に出勤した。
「あれ、富子さんどうしたの?ピアノのコンクールで、お休みもらったんじゃなかったんですか?」
と、別の板金工がそういったのであるが、
「ううん、私は、やっぱり、ここで働いていたほうが一番いいって思ったのよ。ああいう世界に飛び込んでしまうのは、身分が高い人ではないとできないのよ。」
と、富子は言って、板金の仕事に取り掛かった。音楽とはほとんど関係のない板金工だけど、この仕事があって良かったと彼女は初めて思った。その時彼女は初めて、板金工の仕事が楽しいと思ったのである。
富子が、コンクールへの出場を辞退してから数日後、一通の手紙が彼女のもとへ届いた。今どき電子メールで何でも済ませてしまえる世の中なのに、こんなきれいな字で丁寧に書くとはなんだろうと思ってしまうほど、きれいな字だった。
「謹啓、先日は、大変失礼な事をしてしまいまして申し訳ありません。」
富子は声に出して読んだ。
「あらましは、広上さんから聞きました。確かに、デュラン社の楽譜を用意させなかったのことは、僕が間違っていました。実は僕も大学時代に、同じことで同級生からバカにされたことがあったのです。それを感じさせない演奏をしてほしいと願いましたが、伝わっておらず申し訳ありません。ただ、あなたは、ピアノができないとわかっても、逃げることができる身分であることを忘れないでください。青い山犬は、もとに戻れませんが、青いアラベスクを捨てて、もとの身分に戻ることはできるのです。それを幸せだと思って、いつまでもお元気で暮らしてください。」
青いアラベスク 増田朋美 @masubuchi4996
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